海の花女学園が異世界に転移してより二日目。転移時に発生した衝撃波が全てを吹き飛ばした跡に異界の化け物共が侵入し、生徒と接触し始めていた。
その数は少なく、ほとんどは生徒たちによって撃退されたが、一部の生徒が犯され、攫われ、あるいは恐慌を来たして逃げ出して、学園はパニックに陥っていた。
混乱がある程度収拾した後、生徒たちは学生寮に集められ、自治会による点呼が行われていた。失踪者の確認、紛れ込んでいた部外者の把握に追われ、
自治会のメンバーは三日目の朝になっても休む暇もなく働いていた。
二年生の自治会員である葛城涼子もせわしなく歩き回っていたが、一人の生徒を見つけると、仕事を中断して話しかけた。黒髪のショートカットの地味な少女だ。
「木村さん?木村さん!」
「あ、葛城先輩」
話しかけられた生徒も、相手を確認すると駆け寄ってきた。名前は木村紀子。学内有数の有名人のルームメイトだった。
「ねえ木村さん、周防さんはいるかしら」
「実は…そのことなんですけど」
涼子の顔が絶望的に歪んだ。
「……いなくなったのね?」
「はい。荷物一式なくなってました。どうやら化け物騒ぎの直前に出て行ったみたいで……。気付くのが遅れました。
たぶん、先生方が混乱してるうちに抜け出して周りを調べに行ったんだと思うんですが」
涼子は頭をかきむしった。清楚な優等生風の彼女には似合わぬ仕草だが、目の前の紀子は気にした様子もない。どうやらこちらが素であるらしい。
「まったくあの子は!いつもいつも人の気も知らないでフラフラフラフラと……。それで、何かメッセージは?」
「『たぶん3日以内には戻る』だそうです。食料もそんなにたくさんは持ってないと思いますから、本当だと思いますよ」
「……あっきれた。バカは死ななきゃ直らないって本当なのかしら」
言って、一瞬顔をしかめた。軽く首を振ると、気を取り直したように喋り始める。
「じゃあ木村さん、周防さんから何か連絡があったら知らせてちょうだい。携帯電話も繋がらないようだし、連絡手段なんてあるのか分からないけれど」
「分かりました。帰ってきたら縛り上げておきますから、真っ先にお説教してあげてくださいね?」
にこ、と笑った紀子に釣られて涼子も苦笑した。
「お願いするわ。……私は仕事に戻るわね。点呼が済むまで部屋から出ないように。食事については後で連絡があるわ。それじゃあね」
「はい。先輩も、あまり根を詰めないでくださいね」
またも苦笑いして、涼子は立ち去った。
部屋に戻った紀子は、制服のポケットからあるものを取り出した。それは、なんと小型のトランシーバーだった。
ルームメイトで先輩の周防春奈から持たされている「秘蔵アイテム」の一つである。普段は役立たずのこの装置が本当に役立つときが来ようとは思いもよらなかった。
紀子が春奈の不在に気付いたとき部屋は荒れ放題で、急いで出かけたらしいことが分かった。だから、そのうちこれを使って連絡してくるだろうと思っていたのである。
学生寮の喧騒が一段落したころ、唐突にトランシーバーの呼び出し音が鳴った。
ベッドに寝転がっていた紀子はがばっと跳ね起き、大急ぎでトランシーバーを手に取った。
「もしもし、春奈さん?」
「ハーイ紀子。元気?」
能天気そのものの声に緊張がすとんと抜け落ちた。さすがに疲れを隠せない口調で詰問する。
「今どこにいるんですか。葛城先輩、すごく心配してましたよ」
「あー、やっぱり?いやー、毎度毎度悪いねえ」
反省のかけらも感じさせない声で応じる。信じがたいことに、スピーカーからはバイクの排気音が聞こえた。
全寮制のこの学園で、わざわざ校則を犯して単車を保有する酔狂な生徒はこの春奈くらいのものである。それを本人以外で唯一知っている紀子は、
当然この少女の非常識ぶりもよく知っている。だから、大体次に春奈が何を言い出すか、大体予想は付いているのだ。
「今、学園から東にしばらく行ったところ。森を見付けたよ。こんな荒地からジャングルが見えるってのも妙な気分だねえ」
「春奈さん。調べに行くとか言わないで下さいよ」
「やだね紀子ちゃんてば。ここまで来て行かないわけないじゃないさ」
「……春奈さん。昨日、学園に化け物が来たんです」
さすがにスピーカーの向こうから緊張した気配が伝わってきた。
畳み掛けるように紀子は言う。
「うちの生徒が何人も連れて行かれました。噂では、女の子を犯す化け物もいるらしいです。危険ですよ。」
「……そんなやつらは見なかった。連れて行かれたってことは行き違ったみたいだね。遠回りしてあちこち見てたからかな」
「止めて下さい春奈さん。調べに行くならこっちの準備が整ってから、数を揃えて行きましょう」
「冗談。それまで連れてかれた子が保つと思う?探して連れ帰ってくるわよ」
「……逆効果でしたか」
深い溜息を吐く。日頃春奈を相手にしていると、人より諦観が身に付いてしまうのだ。
紀子は、目撃された化け物の情報を、自分なりに判断した信憑性とともに春奈に伝えた。
「悪いね心配かけて。涼子ちゃんには黙っといてくれる?余計な気遣わせたくないから」
「だったらとっとと帰ってきてください」
ふん、と聞こえよがしに膨れてみせる。久々に本気で怒っているようだ。
「ごめんねー紀子、絶対3日以内に帰ってくるからさ」
「絶対ですよ。……それと、水道の循環系独立させるの、できたみたいです。今まで地下に流れてたみたいですね」
「ホラ言った通りだったでしょー!佐藤さんあとでビール一本オゴりだね」
「ちゃんと帰れたらの話ですけどね」
言って、口ごもった。状況は未だ不透明。帰り方どころか、ここがどこかすらさっぱり分からないのだ。
「……帰ってこなかったら呪ってやりますから」
「それってなんか逆じゃない?まあいいや。紀子の声聞いたら元気出たよ。電池もったいないから切るね。
あたしの机の引き出しに色々と道具が入れてあるからなんか来たら使いなさい。じゃ」
「あっ、ちょっと春奈さんっ」
またしても唐突に、通信は切れた。
「さぁーってとぉー……」
バイクを降りた春奈はジャケットにジーパン、ブーツという服装だ。使いもしないものを意味もなく持っている悪癖も役立つことはあるらしい。
背中のナップザックとあちこちに着けたポシェットの中には、昨日の内に用意しておいた「秘密兵器」が入っている。
春奈の目の前には広大な熱帯雨林が広がっていた。もっとも、この異世界の森を分類するのにその言葉が正しいのかは分からないが。
「水場と食料が目的だったんだけどなあ……」
紀子の情報には、巨大な狒々の目撃談があった。他にも目の前の森林にいそうなモンスターの情報はある。ここに被害者がいることは、
充分にありうると思えた。逆に言えば、そういう化け物と遭遇する可能性も、である。
「とりあえず、行ってみますか」
森は深く、暗かった。