甲斐が目覚めると、そこには白い天井があった。
「え・・・?どこ・・?な・・・・痛っ!!」
ガンガン鳴る頭を抱え込んで白いベッドの上でうずくまる。
頭の後ろにさわると奇妙なでっぱりがある。なにこれ、え、たんこぶ?
でかくない?
「おはようございます」
退屈そうに丸イスに座り、空の花瓶の横に頬杖をつきながらこちらを眺めている秘書と目が合う。
いつも日本人形並みの無表情で澄ましている大鷹の秘書だ。
社内での実は高性能ロボットなんじゃないか疑惑bQとして知られている。bPは大鷹である。
「あ・・すいません、えっと・・病院・・?ですよねここは・・」
痛い、頭がすごく痛い。ズッキズキする。
「・・僕、なんでここにいるんでしょうね・・?」
「・・・何も覚えてらっしゃらないんですか?」
「いや、とりあえず頭が痛いことだけはわかるんですが・・・・」
ふう、と秘書はひとつため息をこぼした。
「あなたは会議室で倒れてました。資料は散らばり、周りの机が倒され、いくつか損壊されていました。
あなたの倒れかかっていた壁には少量の血痕が残されていました。
ついでにドアも蝶番部分の一部破損で満足な開閉が出来なくなっています。
あなたを発見したのは騒音を聞ききつけた社員の方です」
「ええ・・?なんですかそれ・・」
どこのモンスターが俺を襲撃したんだよ・・。
「・・・・・・・・・・・・・」
秘書がじっと俺のことを見詰めている。
「え?なにか?」
たんたんと、忌々しそうに秘書が口を開いた。
「・・・補足すれば、その10分前にうちの大鷹専務が企画課の雨海雪を半ば無理やり引きずるようにして会社を出たという社員の多くの目撃談があります。
実際、専務はまだ今日分の重要な案件が残されているというのに帰ってきません。
あなたと一緒に会議室に残っていたという雨海雪もどこにもいません。
私は出来ればあなたとこの二つの事件に因果関係がないことをだめもとで神に祈っている状態です」
「大、鷹・・・?」
とゆきちゃん?
急に脳内に不快な声が流れた。
『信頼なんてするもんじゃないな』
「あっ‥‥!!!」
一気に脳内をフラッシュバックする
「思い出されましたか?」
「あんの、馬っ鹿っあ―!!
誤解ですよ誤解!!あんのくそったれ!人の話も聞かずに、なにが「言ってみろ!!何が違う!!」だ!
こちとら脳震盪でなんもいえるわけないだろ馬鹿野郎!!俺はお前みたいに鉄金属で出来てるわけじゃないんだよっ!!」
「落ち着いてください、意味がわかりません」
「―つまり、勝手に専務が誤解し、急に専務に殴られ、そのまま雨海雪を引き摺っていったということですね」
最後の記憶はありませんがね、と甲斐は付け足した。
―最悪。
これはもうただの傷害及び誘拐事件じゃないの。
あー肩もすっげえズキズキするわ、と目の前の男は肩を回そうとする。
男が眠っている間に撮ったレントゲンを秘書は先に見ていた。
実は頭よりも左肩の骨にヒビが入っている。
「―それで?」
「はい?」
「雨海雪はなぜあなたの胸で泣いていたの?」
男が肩をさすりながらまばたきする。
「・・それは社長が―」
「―社長がでてくるわけね。・・やっぱり」
「やっぱり?」
と、ハッとした様にベッドから足を下ろした。
「忘れてた!!あの馬鹿とめないといけないんだ!!連絡しないと!電話っ!」
「携帯も自宅電話も一切通じませんよ。どうやら自宅にはいらっしゃるようですが」
「え?なんでわかるんですか」
「自宅電話は呼び出しがありません。回線ごと引き抜かれてますね」
≪回線ごと引き抜かれている≫
その異常さを感じさせる言葉に、秘書はため息をつき、男はいっそう青ざめた。
「・・・じゃあ自宅に行きます!!車を・・!」
「でも、今この状態であなたが行くのは・・」
「車の中でお話しますから!すいませんが連れてってください!」
肩が回らないんで、と男はつけたした。
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『―脱ぎなさい』
大鷹はベッドから長い足を投げ出したまま微動だにしない。
彼女はじっとうつろな目で自分の足元の影を見詰めた後、なにもいわずに白いブラウスに小さな手を伸ばした。
ひとつひとつボタンを外していく指はぎこちなく震えている。
その緩慢な動作に、大鷹が止めることへの期待を淡くも含まれているのはわかるはずの大鷹は沈黙を貫き通していた。
最後のひとつをはずし終えると、丁寧に畳んで椅子の背にかける。
同様にスカートもすべり落とすと、
ピンク色のレースの下着の上下が現れる。
小柄ながら豊満な胸と薄い腹。
薄暗いルームライトに照らされて白い肌が浮かび上がった。
大鷹は冷たい顔色ひとつ変えてはいない。
「来なさい」
口まわりの神経しか動かさずにそれを呟くと、細くふっくらとした足がそちらへとひとつひとつ歩を進める。
隙間なく体に走らされる眼鏡奥からの視線に白い足は、一足ごとに止まりそうになった。
大鷹の視線は雪の体を検分しているようだった。
雪が大鷹のすぐ目の前に辿り着く。
手を伸ばせばすぐにとどく距離。
「ここに」
座れ。
雪の温かな太ももの体温が大鷹の膝の上に横すわりになる。
少しの不安定さを感じて雪の手が大鷹のシャツの胸と肩を掴んだ。
「くちづけろ」
少しの沈黙の後、雪の息がゆっくりと大鷹の肌に近づく。
大鷹の眼鏡の端が薄く白く、くもった。
厚さのない、冷たい唇の薄い隙間に小さな唇がようやく重ねられていった。
雪の舌が唇の端に少し触れる。
掴まった肩と胸からのこまかな振動がシャツを通して伝わる。
唇が離れる。―震えている。
「三砂さん、私―」
「脱がせなさい」
涙が上気した赤い頬を伝って、大鷹のシャツに染みをつくった。
「別れて欲しいんだろう?」
そう煽ると、馬鹿正直に指がYシャツのボタンを辿る。
筋肉のついた腕があらわになったところで、ベッドのスプリングが弾ける。
大鷹の薄いレンズが落ちて床の上で跳ねる。
その腕は力を持って雪を再びベッドに捕えていた。
直に壊れそうに潤んだ瞳が自分を真下から眺めている。
これのまっすぐな心は、こんなことを言い出す自分のことを軽蔑しているだうか。
大鷹の目はひどく無表情だった。
「おれが怖いか?」
男の体は雪をベッドに捕らえたまま、片手だけが単独で動き出した。
サイドテーブルの引き出しが静かに探られる。
「おれに抱かれるのがそれほど嫌か」
耳元で囁くと探り当てたそれを口に含んだ。
また雫が一筋シーツに零れていく。もったいない。
こめかみを唇で追って舐める。
なつかしい塩の味がした。
「君はなにも知らなかったんだ、俺のことを」
雪の唇が、ほとんど形だけで『ちがう』と動く。
言葉などもういらない。
もう理由などどうでもいい。
聞いても意味などない。
開かれた唇をそのまま貪る。
含んだカプセルを無理やり飲み下させる。
喉を通る振動を確認して舌を離した。
自分の本性も知らずに胸の中に飛び込んできた小さなうさぎ。
罠にかかるなんて思いもせず。
飛び込んできたのはお前。
逃げ出すことを許さないのは俺。
―いつ切っていたのだろう。
口の中の自分の血の味に今やっと気付いた。
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『―君はなにも知らなかったんだ、俺のことを』
唇はすぐに侵食される。
何の防波堤もはれない私の口内奥深くまで舌が侵入する。
歯茎を割られ、口内を舐め取られると濃い血の味と同時になにか異物が入ってきて、私は舌をちぢ込ませる。
血の味ごとからめとられて飲み下させられた。
酸素不足で意識が朦朧としてもうなすがままになる。
舌が唾をひいて離れた。
(―何も知らなかった? 私は )
背に回された手が下着をはずす。
動きは性急で荒いにもかかわらず、執拗だ。
押し殺したような息が首元に絡んだ。
時間を塗りつぶしていくような執拗な愛撫。
「まっ、て‥‥」
なにか言わなければならないことがあるはずなのに、うまく言葉が紡げない。
あたまがぼんやりするのに、身体の奥から不可思議な熱が湧き上がる。
(信じていなかったのは―だれ?)
背筋に差し込まれた腕、浮かされた胸を辿る舌がひどく熱い。
「だめ‥わたし―」
胸をなぶる舌にどんどん弄られていく。
背中に差し込まれていた手が滑るように薄い腹を下っていく。
「―君はもうなにも考えなくていい」
耳音で囁かれる低音。
下着に差し込まれる腕を掴もうとしてもなぜか力が入らない。
ぴちゃ、という淫猥な音が下から響く。
「あっ・・・まって、だめっ・・・」
体が熱い。のぼせてしまう。
頭が真っ白に霧をはっていく。
なにも考えられないのに、何故だろう、彼の体が熱い。
唇に覆われる、侵食される。
からめとられるように覆われた唇、舌が熱い。
彼のひたいが私の汗だくのおでこにぶつかる。
思考にならない私の思考に、熱を持った何かがつながっていく。
どんどん落ちていく底にユラユラト溜まる水たまりがある。
私のおぼろげな手がそこに波紋を創り、ゆっくりとひたっていく。
触れた瞬間におぼろげにわかる。
溶けそうな奥底にある、心という名の記憶。
『わたしがずっと大鷹さんのそばにいますから
一生どこにもいったりしませんから
あなたを一人になんて絶対にさせないから―』
「―やだあっ・・っ!」
脳裏に浮かぶ映像、感じたのは太ももを執拗に辿っていく舌。
意識が急浮上して生々しく伝わる快感。
「そうやって、もっと混濁していた方が」
吐き出される狂気めいた吐息の音。
「都合がいいし、君も楽だったのにな・・」
そういうと一気に足を掴み上げられる。
「・・・や、あっ」
奥底にたどり着く舌が的確にクリトリスを弄る。
そして私の体内のほうにまで差し込まれる。
粘液が絡み取られて、どんどん自分の身体が塗り替えられていく。
「・・っ待って」
言うべき言葉がどんどん零れ落ちていく。
「まって・・わたし、言わなくちゃ、いけないの」
「君はもうなにも考えなくていい―」
下腹部から舌が離されると、首筋をざらりと嘗められた。
耳元で、そう呟かれる。
同時に熱い長い指が奥に入っていく。
喉もとまで湧き上がった声は、そうやって蒸発させられていく。
壊れている、すべて。
肌を這う指の圧力が、熱すぎる温度が、吐き出される息の湿度が、
全部全部、壊れそうな質感をはらんでいて。
さんざん内部をかき回された指がゆるゆると抜かれていく喪失感のあとに、
自分の太ももの裏に大きな手の感触が伝った。
これで、すべてが終わるなら、それでいいのかもしれない。
押し上げられて、
どくん、と心臓が鼓動した。
入ってこようとする存在が、いつもより、熱い。
わずかな違和感―
「だめっ・・・やだ―」
「飲ませたのは避妊薬だ、―ヘマはしない」
怯えの声はそうやってつぶされた。
「あぁ‥‥ぁっ― ‥・っ‥!」
ベッドのスプリング音とともに漏れでる言葉は全て意味をなさないものばかりになる。
強く押し込まれた鉛のような熱に、また抑えられない声が押し出される。
さんざん揺らされた体をひっくり返らされて後ろから追い上げられる熱から、いくらシーツを握り締めても逃げられない。
どこにも逃げる場所などないというのに、私の手をこのベッドに縛るように押し付ける執拗な強い腕。
私を貫く体がゆっくりと止まる。
嵐に呑み込まれそうだった瞳を開けると、私をじっと見下ろす切れ長な目があった。
「最後―か」
ぐっと、体を寄せられる。汗だらけの体がぶつかりあう。
「君、は、言ったな―」
時折途切れる熱い息が耳元を掠める。
「ずっと俺のそばに、いる、と
絶対、
一生どこにもいったりはしないと―」
熱い、熱い、熱い。
「信じるべきじゃなかった。俺も―」
そして、小さく哂う声がした。
「―君もだ」
「女は興奮状態に追い込まれると妊娠しやすくなるらしい、知ってたか?」
耳元に注がれる男の声がささやくような低音で、体中を蝕む熱い汗の間をひやりとなにかが伝う。
「避妊薬だと言われて媚薬まで飲まされる
―君は本当に騙されやすいな」
囁きとともに、手が痛いほどに握り締められた。
ベッドに縫い付けられた手が重みでベッドに沈む。
「やっ―待って―」
「―逃がさない『絶対』に」
ギシッ
「やっやだ、待っ・・あっ・・やっあ―・・・・・・やだあああ!」
激しく揺さぶる律動は、白濁と共に投げ出されて、
その瞬間、強く引きつけられた硬いからだの感触を覚えながら、雪は意識を手放した。
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霧雨が小さなサッシからもれて自分に打ち付けていた。
真冬の二月、寒い雨の日だった。
おぼろげな母の輪郭をその霧雨の中に映し出しながら俺は縮こまっていた。
母はいつ帰ってくるのだろう。
用事はどれくらいたったら終わるだろうか。
指が凍りそうになるのをコートの生地を握り締めながら耐えていた。
足が疲れ、入り込んだ雨と湿気に濡れた床に座り込む。
壁に飾られた十字架に水蒸気が溜まって、落ちた水滴が自分の耳を濡らした。
屋根にも壁にも、同じように十字が打ち付けられていた。
ここはどこなのだろう。
混濁した意識の中でぼんやりとそんなことを考えた。
眠ってはいけないと思った。
母親が僕に気付かず通り過ぎてしまうかもしれない。
それにそんなことをしたら自分は二度と目覚めなくなる気がした。
ここに来たとき、ぼんやりとした闇がどんどん深くなっていくのを恐怖の中で感じていた。
もう闇にも寒さに対してもなにも感じなくなっていた頃だった。
体全体が鈍痛に包まれている。
息をするのが、痛い。
闇がどんどん薄らいでいく。
ここがどこかもわからなかった。
でも少しづつ空に漏れ出したが光がまったく見知らぬ街を描き出していった。
雨はやんでいた。
寄りかかっていた木製のドアから、なにかコツコツという音が響いていた。
意識まで届かないその音をただ耳が捉えていた。
その足音が少しづつ大きくなる。
ああそうだ、これは足音。
キィイッという古い音がする。
これはきっと僕のすぐ隣からしている。
だめだよ、そんなのもう、いくらお母さんだからって、遅すぎるよ。
一夜は寒くて、僕はもう、死にそうになったんだよ。
『―ぉかぁさん』
でも僕、信じてたんだ。
どれだけ寒くても、痛くても、怖くても、死んじゃいそうでも。いつも、ちゃんと。だから僕のこともっと
「どうしたの、キミ?
こんなところでなにやってるの?」
もっと、愛してほしい―
明けたはずの闇色の布が僕の目の前にひらりと舞った。
やんだはずの雨が僕の頬をつたった。
ああそうか、お母さん、僕に死んでほしかったのかな。
僕は笑った。
そして泣いた。
信じた。愛した。
どれだけ傷つけられたって
愛されたい、って、願ってしまった。
―ぜんぶぜんぶ、 無駄、だった。
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無音の水がひとつ、落ちる。
音のない寝室の中で、ベッドに腰掛けた大鷹は薄暗いルームライトに横顔を照らされていた。
髪から落ちる水滴が、またひとつシーツへと落ちた。
その水滴を、自分の身体を包んでいるバスローブでも、首から提げたタオルでもくい止めようともしないまま
その薄いレンズ越しの視線は、意識を失ったその体、赤みが残る目尻をただじっと眺めていた。
白いシーツからのぞく真っ白な肌に浮かぶいくつもの痕。
浅い呼吸を繰り返すからだに、触れるでもなく、ただそれを追っていく視線。
冷静になった頭は、それでもどうしたらこの兎を逃さずにいられるかしか考えてはいない。
「俺みたいな男に、あんなことを言うから――こんな目にあう」
『わたしがずっと大鷹さんのそばにいますから
一生どこにもいったりしませんから
あなたを独りになんて絶対にさせないから―』
「馬鹿な兎だ」
信じるつもりなどなかった。
なんにも。
雨の中で死にかけたあの日から、
教会でいくら神に祈らされたとしても、心の中では、なにも。
信じてなど、いなかったのに―。
『―もう愛してないの』
『逃がさない―『絶対』に』
いつのまに。
「――馬鹿な」
鷹だ。
すこし蒼ざめた真っ白な頬に、指を伸ばす。
ピン―ポン
あとほんの少し、届きそうな指はチャイムの音で遮られた。
インターホンの荒い画面では、さっき殴り倒したはずの男が頭をさすりながらこちら睨んでいた。