懐かしい十字架の下の雨が自分を濡らして  
少年がうずくまる。  
自分の足元に少しづつ溜まっていく水が、凍りそうなほど。  
馬鹿な子供。  
そんな所早く立ち去ればいい。  
冷え切った氷のような膝の上に、急に暖かな感触を覚えて。  
膝に埋めた顔を上げれば、そこには小さな濡れうさぎ。  
円らな赤い瞳が自分を見上げていて、  
そう、だから自分はそれを抱きしめて―  
 
『わたし  
一生  
―ぜったい  
・・させないから―』  
 
あたた かい―  
 
断続的な映像と音声は、リアルな熱を伴って薄れ、大鷹は浅い夢から目を覚ました。  
腕の中に小柄で温かな身体がまだ眠りの中でうずまっていた。  
兎のように自分の胸に顔をうずめている髪がベットに流れている。  
温かな身体をより引き寄せて、胸あたりまである透き通った黒髪に指を通した。  
パジャマ姿の彼女の肩がはみ出ているのを見て、布団をそっと引きあげる。  
無愛想そうな男の視線がじっとその女の半ば隠れた顔を見詰める。  
『絶対―か・・』  
そうつぶやいた男は口元をゆるめると彼女に回す腕に力をこめた。  
 
しばらくすると女は目をさましたようで胸の中でもがきはじめる。  
がっしりと背の高い男に強く抱きしめられれば息苦しさに目を覚ます。  
彼女を起こすときの、それが男の癖で。  
腕をゆるめた男の口元に、やわらかな笑みが浮かぼうとしていたそのとき。  
 
「―おはよう」  
 
その女、雨海雪はよわよわしく掠れた声が挨拶だけを告げると、男の胸に手をついて離れるように身をおこした。  
腕の中の温もりが急に消える。  
そのまま目をこすりながらベッドを抜ける彼女を目で追いながら、男は眉をひそめた。  
出て行く影を観察するように目で追い終わると浅い息を口から零す。  
ベッドサイドチェストに置かれた薄い眼鏡をかけると、重い身を起こした。  
 
3LDKの高層マンションのシステムキッチン  
朝から眺める婚約者のエプロン姿がいつもより少し細い。  
「どうした?」  
後ろから声をかけると肩が一瞬揺れた気がした。  
「ここ一週間ばかり元気がないな」  
まだまだ甘えたところのある婚約者、雪は、普段はよく大鷹に引っ付きまわっているのだが。  
今はただ勢いよい蛇口の水がサラダに使うにんじんを洗っている。  
「そうかな?  
あ、でも、今うちの会社結構慌しいでしょ?うちの課も結構忙しくて。  
だからちょっと疲れてるのかも」  
その声音は普段とほとんど変わらない、明るいものだったので男はすこし胸をなでおろした。  
「確かに、俺も毎日午前様だ。すまないな」  
ううん、と言った声は明るかったが、目元を見るとわずかにはれぼったい。  
男は心のうちで今夜は定時で帰ることを決定事項にした。  
 
今朝は時間がないので寝室に引き返しドレッサーをあける。  
スーツを選び出しベッドの上に放った。  
 
男の名前は大鷹見砂(おおたか みさご)という。  
漆黒よりは少し灰色がかった髪は生まれつきで、  
猛禽類を思わせるような目つきも生まれつきだ。  
シルバー縁の薄い眼鏡がその目つきの悪さを少し和らげるが、逆に与える印象は冷たさが増す。  
その表情が和らぐ瞬間を見ることが出来る人間は、彼女を含めてほんの一握りしかいない。  
 
男がどこか他の所へ思考をとばしながらシャツに袖を通していると携帯が鳴った。  
『着信 甲斐』  
シンプルな表示を確かめると黒く薄い携帯を開く。  
「―なんだ」  
「悪いね、新婚さんの熱い朝を邪魔したかな?」  
少々軽薄だがよく透る声が受話器から響く。  
「そう思うならかけてこないことだな  
―まあいい、俺もちょうど用があった」  
男は目を伏せて貴重な笑みを浮かべた。  
 
この男、甲斐 柴(かい しば)は、大鷹の大学時代からの友人であり同じ会社の企画課の課長だ。  
会社では顔を合わせることはほとんど無いが、大鷹の部下にあたる。  
性格は真反対だが体格も顔の良さも頭脳も大鷹とそうひけをとらない。  
軟派な性分にも限らず、堅物な男にとってほぼ唯一と言っていい信頼に足る男だった。  
 
「はいはいご馳走様。  
あと半年もたったら大鷹も既婚者かあ  
いいねえ  
俺も早く若い嫁さんみつけて―」  
「用件をいえ」  
 
「・・・・この間、せっかくお宅まで訪ねてったのにお前仕事とか言ってすっぽかしただろ?  
あの時、そっちに時計忘れたみたいなんだけど、ない?」  
「わかった、探しておく。―それよりも」  
男がキッチンに目線をやりながら声を落とした。  
「雪が最近ずいぶん疲れているようだが、何か変わった様子はないか?  
―お前がこき使いすぎてるんじゃないだろうな」  
甲斐は雪の直属の上司でもある。  
「なんだまた職権乱用か」  
甲斐がにやりと口端を上げる様子が目に浮かぶようだ。  
「うるさい」  
減らず口を聞き流しながらシャツに着替える。  
鏡をのぞくと背の高い、ほどよく鍛えられた体に漆黒のスーツがよく馴染んでいる。  
細いフレームの眼鏡をかければ少し近寄りがたい印象が覗くが悪くはない。  
理想の旦那像に近いはずだと一人ごちてうむ、と満足する。  
落ちた前髪を指でかきわける。  
『別にー?会社ではいつも通り明るいと思ったけどな。  
そうだ、この前の誕生日にあげた夜の媚薬?雪ちゃんにもう試した?だから疲れ―』  
迷わず携帯を切るとベッドに投げ捨てた。  
 
焼きたてのトーストと色鮮やかなサラダ、具沢山スープに目玉焼きとベーコン。  
 
もくもくと一口一口かみ締める男に反して、雪の皿の上の食物は一向に減っていなかった。  
ひそかに観察していた男が目線をあげて問う。  
「食欲ないのか?」  
「ううん・・・」  
男が今日二度目の眉ひそめをした。  
やはりなにか他に原因があるのかもしれない。  
そのかぼそい声に、今夜は残業をすべてほっぽらかして早めに帰宅し話を聞こうと頭で決めた。  
ここ最近どんどん大鷹に仕事を運んでくる秘書のせいで彼女に触れることも話すことも出来なかった。  
問題は、ゆっくりと時間のとれる夜にとっておこう。  
とりあえず今はこの朝食を二人で味わうことが最良だ。  
有意義な解決進路を頭の中で組み立てた男は、話題を変えた。  
「そうだ。この間挨拶の件で親父がやっと時間が空いたようでね。  
今度君にも正式に実家に挨拶に来て欲しい。  
 「式」と婚姻届は六月あたりはどうかと思っているんだが―  
なるべく早くやったほうがいいだろう?」  
「・・・・・・・」  
年の割りにベビーフェイスな顔が深刻そうに自分の皿の上の目玉焼きを見詰めている。  
いったいまたなにをそんなに一生懸命に思いつめているのやら。  
マリッジブルーか?  
ひとつため息をつき、彼女に声をかけた。  
 
「それ、取ってくれるか」  
 
男の長い腕を伸ばせば充分届くテーブルの上の調味料をわざわざ頼んだの彼女の手を掴んで注意をむけさせようとしたからだ。  
彼女がうわの空のような顔で脇にある小さな入れ物をとり、静かに自分に差し出した。  
左手の細い指と、小さな木彫りの円筒形が宙を泳ぐ。  
もう少しで彼女の細い指先に届く。  
その瞬間に男の手が止まった。  
男の目が彼女の左手に注がれていた。  
テーブルの向こう側からの無感情な声が大鷹の脳内に響いた。  
 
「私と別れてくれませんか」  
 
女の左手の薬指に、あるはずのものがなかった  
白いテーブルカバーの上に小さな音が響く。  
落下し、ぐるりと円を描いた円筒形は、やがて砂時計のように小さな穴から白い砂粒をこぼしだした。   
 
「女が急に別れを切り出すとしたら理由はなんだ?」  
 
お茶をだす秘書の手が一瞬止まった。  
しかしすぐに薄い笑みを色鮮やかに塗られた唇に浮かべて、湯のみを置く。  
「急にどうしてそのようなお話を?なにか、トラブルでも?」  
大鷹が鼻で笑うふりをした。  
「友人に相談されてね」  
「そうですか、専務のご様子がここ1週間ほどおかしいのはそれが原因なのかと思ってしまいました。」  
「・・・・・・・」  
大鷹の形いい眉間に皺が寄った。  
 
間を裂くように社長室の内線がなった。  
「はい、専務室ですが」  
秘書がでると、ものの一分もかからぬうちに電話が切れた。  
「失礼しました。午後六時の会議のまえに、お父上・・・大鷹社長から、社長室へお訪ねなさるようにとのことです」  
男がうんざりとした様子で額に手をあてた。  
「またあの話か」  
最近この不景気にびびっているのか、しきりにある大財閥のお嬢様との結婚話を進めてくる。  
雨海雪のことはとっくに婚約者として一方的にだが、紹介しているというのに。  
大分しつこかったのだが、親父の話を聞き流し続け説得を重ねた結果、諦めたのか自分が折れないと判断したのか  
先月とうとう好きにしろ、という少々投げやりな了承をもらった。  
今回はまだあきらめずに再度だめもとの泣き落としでもするつもりだろうか。  
・・・今の精神状態では怒鳴りつけてしまいそうだ。  
「専務の優秀さは社長もおわかりのはずです。  
そのためにわざわざ教会で育てられていたあなたを捜し当てられて、引き取られたのでしょう?  
後継者として必要な話だと思われてるんですわ」  
「下らん、政略結婚など時代錯誤だ」  
興味のまったく感じられないため息を吐いた。  
この男が入社する以前からいたこの秘書はもともと社長付けで、自分たち父子の複雑ないきさつまで知っている。  
男が専務に収まると同時に降りてきた秘書は優秀であると同時に  
すべて見透かされているような眼差しに落ち着かない瞬間がある。  
 
さきほどのご質問ですが、と秘書は口を開いた。  
「・・理由は、人によって変わるとは思います、なので」  
秘書はガラス張りの壁からオフィス街を見下ろすその男の後姿を見やった。  
一言一言注意深く区切るように言ってみる。  
「『例えば』、  
@彼の仕事が忙しすぎてあまり一緒にいれない、とか  
Aそのくせ、密かに束縛されて窮屈でたまらない、とか  
B彼の愛が重すぎることに気付いて怖くなった、など」  
「・・例が偏っていないか」  
不機嫌そうに呟いた上司の言葉を秘書は聞こえないふりをしてさらっと続けた。  
「C彼が他の女と浮気・・・・・―ああ、これはありえないでしょうね。」  
ふう、と秘書はため息をついた。  
「しかし一般的に多いのは、やはり『他に好きな男が出来た』、なんて所ではないでしょうか?」  
重厚そうなチェアーを半回転させて男はデスクに片肘をついた。  
「それはない」  
男がすっぱりと断言した。  
「あら、なぜです?」  
 
部下に彼女の周りを調べさせているからだ。  
 
とはさすがにいえなかった。  
もちろん部下とは甲斐のことだ。  
普段から随時彼女の様子を教えるようにいっているし、万が一寄ってくる男がいたら叩きのめせと言ってある。  
彼女の行動範囲と言ったらほぼ会社と家くらいなものだ。  
甲斐はそんな様子はまったくないと言っていた。  
 
―― そして、なによりも 自分は―・・・・  
 
大鷹は眉間を掴み、瞳を閉じた。  
 
「・・・客観的に見てありえないと判断した」  
 
秘書はあやしげに微笑むとなぜか、でしょうね、とうなずいた。  
 
「まあ、まずはご本人に聞いてみるのが一番でしょう。  
専・・・・・・・・・お知り合い、の恋人はなんと言ってらっしゃるのですか?」  
 
男の目の色が音をたてるように暗くなった。  
秘書の受身の沈黙が専務室の静けさを造り出す。  
重い鉛を口にするように男はつぶやいた。  
 
「もう愛が消えた、と。」  
 
「―ではそうなのでは」  
 
「そんなわけは無い!!」  
拳が乾いた音を立ててデスクに落下した。  
手付かずの湯のみの中身が机の振動であふれ零れた。  
放って置かれた書類のはしが濡れる。  
いつも冷静な男らしかぬ行動だ。  
宙を睨む大鷹の瞳の色をみて秘書は珍しく少し同情し、後悔した。  
顔色もあまりよくない。  
この男はここ一週間弱ちゃんと眠れているのだろうか。  
六日前、炙られた真昼の吸血鬼のような顔色で会社に現れた男。  
4、5年前までは無機質に狂いなく働く時計か精密機械のようだった男の横顔を思い出して秘書は唇の端をあげた。  
あの頃の男なら政略結婚もせいぜい企業価値のあるものとして利用していたに違いない。  
 
「そうお思いになるのでしたら、よくよくご冷静に、お話し合うのがよいでしょう。  
原因や理由は、思わぬ『見落とし』に潜んでいて、意外なところから出てきたりするものです。  
答えはその当人が見落としてるだけかもしれません。  
ささいな糸の交錯も、放っておけば絡まっていくものです」  
 
いつも言葉に含みを持たせたる癖のある秘書を思わず睨んだ。  
「何か知ってるんじゃないだろうな」  
「まさか」  
秘書は心持ち優しく微笑んでみせた。  
 
男は霞む脳内から霧を払うために頭を軽く振った。  
磨かれた廊下の床を男の革靴が順当に踏みしめていく。  
彼女の所属する企画部に行くと、彼女は甲斐と会議に参加しており、それももう終わっているころだと言う。  
雪との付き合いは未だ伏せてあったので関係を探るようにされる。専務がただの一般女性社員の行方を尋ねているのだから無理もない。  
制服がないせいで若干カジュアルな格好の傾向がある女性社員達に場所だけ聞くときびすを返しその会議室に向かった。  
 
 
人のいない会議室の廊下に靴音が響き渡る。  
男には理解できなかった。  
話し合いと呼べるかどうかはわからない。  
辛抱強く理由を尋ねても、雪はなにも言おうとはしない。  
そしてやっと聞き出した答えは―  
『もう、愛してないの―』  
 
ここ2、3日ほど会社に泊まりこんで、ほとんど家には帰っていない。  
下らない、自分が生産性のないものとして一番忌み嫌っていた逃避に陥っている。  
『―思わぬ見落としに潜んでいて・・』  
その言葉が脳内にフラッシュバックする。  
解明できない不愉快さと不安が汗となり大鷹の背中を伝った。  
 
会議室のドアは半分近く開いていた。  
もうすでに彼女とすれ違ってしまったのだろうかとその戸から薄暗い中を鷹のような目で覗きみた。  
二人の男女がまだそこに立っているのをみつけて、大鷹はほっとして安堵のため息のために息を吸った。  
そして次にはその息を吐き出すことができなくなった。  
 
雪と甲斐が抱きあっていた。  
薄明かりの中で、雪が甲斐のシャツの胸に顔をうずめていた。  
雪のなにか助けを請うようなか細い泣き声がそこから漏れでている。  
仕立てのいい男のシャツがすこしづつ涙で濡れていく。  
甲斐はそんな風に流れ落ちていく涙をじっと見下ろしているようだった。  
男の角張った指がゆっくりと雪の身体に触れ、その体を抱きしめる_  
 
扉はちぎれんばかりの暴音を立てて開け放たれた  
 
「―なるほどな、思わぬ見落としだ」  
 
雪の手から握り締めていた書類がばらばらと床に落下する。  
振り向いた甲斐の目は見開かれて、ドアから漏れる光を鈍く反射していた。  
その角ばった長い指先は未だその小さな肩を掴んだまま。  
大鷹の口元に嘲りの薄い笑みが浮かんだ。  
 
「―大鷹?」  
大鷹が呼応するように口はしの笑みを浮かべると、指は、遅れた反射的作用を持って離れていった。  
雪から距離をとろうと。  
―もう遅いんだよグズが。  
振り向いた雪の瞳から、涙の残り一筋がこぼれた。  
真っ赤にはれた目、染まった頬、慌てたように雪が袖で涙を拭った。  
 
「報告がこないわけだな?」  
 
男の低音が静かな会議室に響いた。  
 
「え・・・」  
その氷点下の声音に幾分か驚きを含んだ声で雪が瞳を大鷹にやる。  
 
「他の男とデキてたんならさっさとそう言えばよかったんじゃないのか?」  
 
雪の円い目はただ大鷹を見詰め、発しようとする震える声の残骸が喉から薄くこぼれるだけだった。  
その様子を眺めて男は目を細めた。  
 
「大鷹、違う― 」  
甲斐は二人の間を行きかう空間に押し入るように、焦りまじりの声をあげた。  
 
「―違う?」  
 
腕を組み立っているのも億劫そうに戸口に寄りかかっていた大鷹が甲斐に目線をやった。  
なにかしらに寄りかかりながら、腕を組むのは、大鷹がなにかしらに密かな不満を抱いたときによくやる癖だった。  
そう、それは普段ならとてもたわいの無いただの癖。  
ただし、その組まれた腕が、触れれば驚くほどの冷たさを持っていなければ、そして、  
瞳の色に少しでも温度というものをみつけだすことができていれば、の話だが。  
 
獲物を横取りしようとやってくるハイエナを睨む肉食獣のような目だ、と甲斐は脳裏の奥で思った。  
――睨まれれば、もう一歩も動けない。  
 
大鷹はハッと短いため息を吐き出すと気だるそうに身を起こし毛足の短い絨毯を踏みしめ、緩慢に、足音もさせずに近づく。  
   
「なにが 違う?」  
 
長い腕が、ネクタイの結ばれていない甲斐の首元へと伸びていく。  
白い襟付近のシャツの生地が乱暴に掴まれて、  
抵抗する間もなく甲斐のかかとが浮く。  
足がもつれそうになりながら凶暴な力で後方へと押され、いくつもの障害物が甲高い音をたて足元に転がる。  
少しも速度が衰えないまま、甲斐は背後に壁の気配を感じた。  
『・・・・っ!!!!」  
そこで甲斐の意識はほとんど途切れた。  
 
すべての勢いを抱き込み甲斐は会議室の木壁に叩き付けられた。  
ぞっとするような音が部屋に響き渡った。  
『――やっ!!』  
背後で雪の甲高い悲鳴があがる。  
コンクリート壁だったなら、甲斐の頭蓋骨は砕けていたかもしれない。  
足元には引きずられた際にぶつかったアルミ製の小机が転がっている。  
 
「言ってみろ何が違うっ!!!」  
 
甲斐は脳震盪状態なのか首周りを強く抑えられているせいなのか、  
短い息を吐き出すばかりでなにも答えられなかった。  
 
「―信頼なんてするものじゃないな」  
 
収まらない様子で大鷹はもう一度甲斐の肩を音を立てて壁に叩きつけると、手を放す。  
後ろで雪がなにか言っているようなきがしたがもう聞こえない。  
意識が朦朧としている甲斐の身体ははずるずると壁伝いにすべって座り込んだ。  
つまらなそうに暗い目でひとにらみ見下ろすと大鷹が振り返る。  
 
雪は大鷹達を見詰めながら手を胸の前で固く握り締め震えていた。  
 
「行くぞ」  
 
感情のない声で掴もうとした女の腕が倒れている男の方へと駆け出す。  
混濁した頭がすりぬけようとした手首を掴んだ。  
 
「待って! 甲斐さんが―!!」  
「いいかげんにしろ ―これでも感情を抑えてるのがわからないのか?」  
 
静かにくぐもる声でそう見下ろすと、潤んだ黒い瞳が見開かれていた。  
その顔を眺めているとすぐに何かが決壊しそうになるのを感じて、振り返らずに、その手を半分ひきずるように会社を出る。  
ロビー付近を通ると社員たちが皆足を止めていたがもうどうでもいい。  
ビルをでるとそのままタクシーを捕まえた。  
 
今、自分が運転して事故を起こさない自信がない。  
 
男が玄関の鍵を開ける冷たい音が響いた。  
そのまま暗い寝室に無理やり連れて行かれると雪はベッドに放り投げられた。  
呼吸が肺から押し出される。  
重厚なスプリングが低音できしむ。  
掴んだまま二度と離されないのではないかと思うほどきつく手首に結ばれていた指の熱はベッドへと放たれた瞬間にあっさりと消えた。  
 
タクシーの中に閉じ込められている間もずっとその熱と強さを手首に味わい続けていた。  
男は窓の外をずっと流れていく闇を無表情に見詰めたまま、ただ手だけは離そうとしなかった。  
大鷹は一度も雪の顔を振り返らず、また一言も口を交わさなかった。  
 
大鷹は寝室の蛍光灯をつけようとしなかった。  
その代わり数箇所ある小さなルームライトを全てつけて回る。  
動作は早急というよりはむしろ冷然と見えた。  
なにかの準備をするような一つ一つの行動がとても「普通」でそれが逆に不安感をあおった。  
大鷹は暖房器具のスイッチを『low』にひねる。  
すべての『準備』を終わらせると、  
薄暗い中、ベッドの上にただ座り込んだままの存在を振り返った。  
じっと数秒、雪の顔を見詰めると自分のスーツに手をかける。  
上着をその場に緩やかに脱ぎ落とす。ネクタイに手を掛けて緩め始める。  
雪はただそれを暗いあなぐらまで追い詰められ、捕食される小動物のように震えながらみていた。  
 
嘲るように笑う顔、衝動的な暴力に呑まれる姿、怒りに震える声、  
そして自分にむけられる氷のように、沸騰する―青白い炎のような視線さえ、雪は知らなかった。  
 
大鷹がワイシャツのボタンの上のいくつかを外すとネクタイを抜き取りながらベッドに近づいてくる。  
解いたネクタイを今度はすべり落とさずに持ってくるとベッドヘッドに放る。  
それを放るのと、雪の体の上に覆いかぶさったのはほとんど同時だった。  
 
緩慢な動作で歩いてきたかと思えば、感情的な力と速度で、雪が思わず前に突っぱねた手をベッドに押し付ける。  
壊れた玩具のような動きだった。  
それは甲斐を壁に叩きつけたときと同じ反射のような動きだった。  
 
男と女の一瞬の荒い息が寝室の沈黙の底に沈んでいった。  
 
「‥どうしてあんなことするの」  
雪が、詰まる喉から震える声を絞り出すように言った。  
「君はどこまで柴に許した」  
その言葉がまったく聞こえないように大鷹が遮る。  
脅えきった兎の、赤みがかった瞳。  
口はしに虚偽の笑みを浮かべると、大鷹には似合わない無粋な言葉が口から滑り落ちる。  
「君は騙されやすいとは思っていたがそれほどまでとはな。  
なんといってあいつにそそのかされた?  
熱心な愛の言葉でも囁かれたのか?  
それとも一気に押し倒されたか?でもな、それがあいつの‥」  
「何にもないわ!!!」  
きつく瞼を閉じ、耐えかねた雪が甲高いソプラノでヒステリックに叫んだ。  
小さな体からこらえるような嗚咽が漏れる。  
「甲斐、さんと‥何かあったと思ってるの  
本気で‥あの人をそんな人だと思ってるの?」  
ベッドに縫い付けられた手がギシリと音を立てた。  
男からは狂気じみた笑みが消えていた。  
「私が―信じ、られないの?」  
男の鷹のような目がただじっと真上から女の瞳の奥をみつめる。  
「―信じる?」  
空調のまるで冷気を吐き出しているかのような低い音がわずかに室内に響いている。  
男の低音がそれに重なって地を這っていく。  
「―今更なにを信じればいい?」  
二人の潜めた息遣いだけが室内をみたしている。  
雪の開け放たれた大きな瞳からひとつ、ふたつ、涙がシーツへとこぼれていく。  
「君は言った、俺と別れたいと。もう愛していないと。 なぜだ ―君は、俺に 」  
何かをいいかけた男の口が軽く開かれたまま停止する。  
雪の涙がまた一筋シーツを濡らした。  
大鷹の瞳は漆黒のガラス細工のようだ。黄色みがかった輪がそれを覆っていた。  
ガラスはすでに粉々だ。  
男の本性はもう暴かれてしまった―もう何も戻りはしない。  
 
ベッドがきしむ音を立て、大鷹が手を放し起き上がる。  
雪はシーツに縫いとめられた状態のまましばらく固まっていたが、やがて静かに起き上がる。  
座っている大鷹の重みが、ベッドの淵を沈ましていた。  
雪の方から男の表情はうかがい知れなかった。  
雪はシーツの波からそっとぬけだすと、震える足が閉じられた扉へと動いた。  
か細い手が、冷たいドアノブへとかかる。  
 
「抱かせろ」  
 
沈むような低音がベッドの上の薄暗い空間から放たれた。  
「―最後だ。抱かせなさい。  
そうしたら別れてやる」  
振り向いてみても、大鷹の顔は逆光になっていて、どんな感情も読み取ることはできなかった。  
「―なに言って‥」  
 
「『愛していない』男に抱かれるのはもう嫌か?  
最後だ―君は俺と別れたいんだろう?」  
 
赤みがかった瞳が、大鷹の淀んだ影を映しだしていた。  
こんな時でさえもこの大きな瞳は真っ直ぐで透明で、穢れをしらないように見えた。  
「‥甲斐さんは―」  
「―安心しなさい。仕事に私情は持ち込まない主義だ」  
それでも、と大鷹は一呼吸を置いて付け足した。  
「君がそれ以上あいつの名を口にしたら、―わからなくなる。」  
またひとつ、女の知らない男の本性。  
 
「脱ぎなさい」  
 
夜の艶を含む固い声が、ベッドサイドに響いた。  
 
 

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