朝7時半。
いつもより、20分は早く家を出た。
「沙弥佳」
「うん?」
「今日からしばらく学校への送り迎えは、俺がする。いいな」
「え? な、なんで?」
そりゃぁ驚くだろうな。
今までなら、駅で別れた後に学校に行っていたのだ。
それがいきなり、学校まで送り迎えされるとなれば当然の反応と言えた。
「まぁ……例のストーカー対策、だな」
すでに向こうに、一歩先を譲ってしまっているが、下手なことを言って不安を煽る必要はない。
「ストーカー対策……ですか」
綾子ちゃんが、不安ありげに表情を曇らせた。
「ああ。俺と駅で別れた後、何があるとも限らないからな」
「……分かった。お兄ちゃんがそういうなら従うよ」
いつものこいつなら、お兄ちゃんと一緒だ〜なんて言いそうなものだが、
さすがに今回ばかりは、手放しに喜ぶことはなかった。
「二人とも、そんな暗い顔すんなよ。折角の美人がもったいないぜ」
二人を元気づけようと、おどけながら普段なら歯が浮きそうなことを口にした。
しかし真に受けたのか、二人とも顔が赤く染まり、揃って俯いてしまった。
だからな妹よ……綾子ちゃんならともかく、お前はそこでツッコミをだな……。
しかしながら、こんな状況でも相変わらず沙弥佳は、俺の腕にしっかりとしがみついていた。
綾子ちゃんは、最初こそ驚きはしたものの、話しに聞いてた通りなんですね、と笑った。
駅を通り過ぎ、2年前まで歩いていた道を歩く。
「この道歩くんも久しぶりだな」
「こうやって二人でここ歩いてたんだよね……」
沙弥佳が感慨深げに呟いた。
「お二人はいつもそうやって登校してらしたんですよね」
「ああ、本当に毎日な。初めのうちはクラスの男子からからかわれてな、大変だった」
俺はその頃のことを思い出し、笑った。
「お兄ちゃん、すごく嫌がってたんだよね〜」
「お前な、何他人事みたいに……」
俺達兄妹の会話を聞きながら、綾子ちゃんは口に手をやってクスクスと笑う。
全く、一つ一つの動作が一々お嬢様という雰囲気を醸し出していた。
「お前ももうちょい、その辺見習おうな」
「え? 見習うって?」
「なんでもない」
俺はしがみつかれていない方の肩をすくめた。
「でも……羨ましいなぁ、さやちゃんは」
「羨ましい?」
「私一人っ子だから、そんな風にお兄ちゃんやお姉ちゃんと一緒に歩いて見たかったんです」
「ああ、なるほどな。でも、こいつはちょっと欝陶しいけどな」
「なっ……! ちょっと何それ!! こんな可愛い妹が一緒に歩いてあげてるって言うのに!!」
頼んだ覚えなどないのだが……。
「ま、まぁ男にも一人になりたい時ってのがあってだな……」
「うふふ。本当に仲良いなぁ」
その時、綾子ちゃんの見せた笑顔に、俺は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
二人を学校に送り届け、一人駅へと引き返す。
校門の前まで沙弥佳は、俺と腕組み続けた。
しかも、その反対には綾子ちゃんというお嬢様もいたとなれば、
俺は中学生達や校門にいた教師達の注目の的になった。
だが、あれは2年前までの日常そのものだった。
来年からあれがまた繰り返されるのかと思うと、俺はまたため息が出た。
ホームでいつもよりも、遅い電車を待つ。
次の電車が、なんとかギリギリで間に合う最後の電車だ。
しかもラッシュは過ぎているので、いつもに比べ、人もまばらだ。
プルルルルルル―――
『間もなく○×行き普通電車が参ります。白線の内側までお下がりください』
アナウンスがあった直後、電車がホームに入って来た。
人が降りていき、電車に乗り込もうとしたその時、またも例の視線を感じた俺は、
電車に乗り込まず、またも後ろを振り向いた。
しかも、前二回よりも強い視線―――。
いる。
ストーカー野郎がこの近くにいるのだ。
プルルルルルルルルル―――
到着する時よりも長い発車音が鳴り続く。
プシュー
電車の扉が閉じ、電車は行ってしまった。
今までなら、俺が周囲を気にしたらすぐに感じなくなった視線は、
今回は未だに途切れることがなかった。
(どこだ? どこにいる?)
この絡み付いてくるような視線を、送ってきやがる奴はどこだ!
ふと、反対のホームに目を移した。
大きなガラス張りの壁で、光の反射具合によっては、鏡のようにも見える。
俺のいるホーム側には、駅を出たすぐ横に歩道橋がある。
その歩道橋に、いつもならあるはずのない影が出来ていた。
俺はその影を注視した。
その影は、俺に見られていると気付いたのか、ふっと移動しガラス鏡の中から消えた。
あいつだ!
そいつは、黒いウィンドブレーカーとそれに据え付けられたフードをし、
下も黒のズボンという出で立ちだった。
俺は、階段を三段四段飛ばしで、駆け降りていく。
改札をジャンプで飛び越え、駅を出て歩道橋へと走っていく。
後ろで駅員と思われる人物の声が聞こえるが、今は構っていられない。
説教なら後でたっぷりと聞いてやる!
歩道橋の階段を全速力で駆け登り、最上段に着く。
そこから数歩歩き、俺のいたホームの反対側のホーム上に設置された、ガラス張りの壁を見る。
(ここから奴は……俺をあのガラス越しに見ていた)
ガラスを見ながら、奴と同じ行動をとってみた。
(ここで俺を見、そして後ろに引くように動いた……)
当然後ろには、今しがた自分が上ってきた歩道橋の階段。
駅のホームからここまで、20秒と経ってない。
(俺の見間違い……か? それともその時間の間に走り去った……?)
もしそうなら、これだけ見晴らしがよく開けたロータリーで、見落とすはずがない。
(それか、他にも逃げ道が?)
俺は上ってきた階段を、数段下りて手摺りから身を乗り出し、下を覗いてみた。
眼下に、人一人入れるかどうかという隙間があった。
その隙間から、どうも線路のすぐ脇を数十メートルほど、隙間道が延びていた。
(ここだ)
下まで数メートルの高さがある。
死にはしないだろうが、気をつけなければ足を挫くかもしれない。
階段の下には、先程の駅員と思われる人物が、こちらに向かってきていた。
(迷っている暇はない!)
俺は、手摺りに足をかけジャンプした。
耳に、誰かが叫んだような声が響いた。
飛び下りた場所は、歩道橋の階段横にできた、四方わずか2メートル足らずの小さなスペースだった。
飛び下りた衝撃で、足が痺れたが今はそんなことを気にしている暇はない。
俺は、隙間道を身を横にしながら、進んでいく。
どれほど進んだか、背中にあった壁が途切れ、開けた場所に出た。
俺はそのまま、真っすぐ進んでいったものの、そこは橋になっており、上に上れそうにない。
けれど俺の視界の脇を、何かがうごめいていた。
それは奴であり、線路を横断し、なんとか上に登れそうな場所を見つけたのだろう、
四苦八苦しながらも必死に上へ登っていたのだ。
(逃がすか!)
線路を横切ろうとした時、あまりの興奮に俺は、列車が近づいて来ていたことに気付かなかった。
ガタンガタンガタンガタ…ン…タタン…タン……
「……さ、さすがに死ぬかと思った」
俺は危うく死にかけた。
列車に轢かれ、人間としての原型を留めないような死に方等、したくない。
列車が去った後、線路の向こうを見れば、奴が上に登りきり、ご大層にもこっちを見下していた。
いや、さっきのもたついた登り方も、演技だったのかもしれない。
奴は、俺が死ななかったのが悔しかったのか、自身の前にあるガードレールを蹴り、そこから立ち去っていった。
俺はのろのろと上へのぼり、奴がいないか辺りを見渡したが、見つけることはできなかった。
それに例の視線も感じとることはなかった。
(周りの人間にまで、手を出すような危険な野郎だとは思ってはいたが、
まさかここまでするとはな……)
俺は、怒りで握りこぶしを作った。
恐らくは、さっき電車にに轢かれそうになった時に、制服が破れたのだろう、
制服が破け、怪我をしていることに気付いた。
俺は、今日はこのまま学校をサボりたい気分になった。
ピリリリリリ―――
サボろうかと決めた時、携帯が鳴り、画面に見知った名が映し出されていた。
斑鳩からだ。
「もしもし?」
『よぉ、おはよーさん。今日はどうしたん? もしかしてサボり?
九鬼がサボりなんて、こりゃ明日は雨だな』
最近、どこかで聞いたような台詞を吐きながら、斑鳩が電話をかけてきた。
「そういうお前こそ、珍しく文明の機器なんて使っているじゃないか」
そう、斑鳩は携帯は当たり前、デジタルなんてつく物は、まともに使えないのだ。
所謂、機械音痴……いや、機械そのものは使えるから、デジタル音痴といったところか。
しかし、相変わらず目ざといくらいのタイミングだな……。
『小町ちゃんがお前のこと、心配してたぜ』
小町ちゃんと言うのは、うちのクラスの担任で、ナイスバディなお姉さんだ。
やけにフェロモンたっぷりで、お姉様なんて慕っている女子もいる。
あまり興味はないが、いい目の保養にはなってくれている。
ちなみに、この斑鳩の憧れの女性らしい。
「そうか。そいつは光栄だな」
『お前、絶対にそんな風に思ってないだろ。……まぁいいか。で、どうすんの学校』
「いやー、どうしようか迷ってる」
『もしサボるんなら、俺も付き合うぜ?』
「んー……どうしようかな」
俺はその時、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
手にコツンと、硬いものが当たった。
「っと、コイツの存在をすっかり忘れてたぜ」
『あん? なんだって?』
「いや、こっちの話だ。ところで斑鳩。今日、青山のやつ来てるか?」
『青山ぁ? 来てないけど、あの根暗がどうかしたん?』
「まぁ、ちょいと野暮用がな」
『お前もさぁ、あんなんと付き合うのやめろよ? いてもいなくてもどうでもいいけど、
なんつーか、変なことに首突っ込んでそうだしさ』
斑鳩、お前その勘を活かした職に就いたら、間違いなく成功するぞ。
斑鳩の言ったことは、当たらずも遠からずだ。
青山というのは、うちのクラスにいるちょいとヤバイ趣味をもったやつで、
先の隠しカメラの設置場所等、俺に教議してくれたやつだ。
その時は、危ない奴だと半ば右から左に聞いていたが、なんだかんだで、その知識が役立った。
「そうか……すまんが、やっぱ今日はサボることにすんわ」
『お? じゃぁ俺もサボることにするわ。ナンパにでも行かね?』
「いいのか? サボったら小町ちゃんに嫌われるぞ。それに、別に遊ぼうと思ってるわけじゃない」
ナンパもそりゃぁしてみたいとは思う。
だが、ストーカー野郎に殺されかけたのだ、今はそれどころではない。
『う……そ、それは…』
「というわけで、小町ちゃんには今日は休むと伝えておいてくれ」
『そんなの自分で言えよー』
……無理だから頼んでるってのに。
「良く考えな? 小町ちゃんと話せる機会を与えたいと思って言ったんだぜ、俺は」
『おお! そういうことだったのか! さすがは心の友だ!』
これで大丈夫だろう。
斑鳩が変なところで馬鹿で助かった。
電話を切って、次は俺から電話をかけた。
プルルルル、プルルルル、プルルルル―――
斑鳩との電話の後、俺は青山に電話しているが、やつは一向に電話に出る気配がない。
「ちっ。まだ寝ているのか?」
俺は携帯をしまい、青山の家に行くために、一つ先の駅まで歩くことにした。
とてもじゃないが、今すぐそこの駅に行こうものなら、説教で時間をとられてしまう。
それに、ストーカー野郎を追いかけるためだなんて、言ったってどうせ信じはしないだろう。
目的地である青山の家まで、電車でおよそ40分。
そこから、歩きで15分ほど。
だが、今回は更に一駅歩かなければならない。
一年の時に、一度だけ行ったことがあるだけだが、なんとかなるだろう。
全く……ストーカー野郎のおかげで、とんだ出費と時間を使いそうだ。
一駅歩いて、駅の隣にあるコンビニで、消毒液と傷薬と包帯を買う。
俺をみる店員の目が、明らかに怪しんでいたのは、この際無視だ。
この時間なら、普通電車であれば、座ることができるだろうし、怪我の手当もできる。
俺は切符を買い、ホームに出て椅子に座った。
やっとこさ一息つけそうだ。
携帯で時間をみると、10時になろうというところだった。
一時限目の休み時間も終わり、二時限目になろうといったところか。
電車を待つ間、俺は再度、青山に電話した。
プルルルル、プルルルル、プルルルル、プッ
(今度は繋がったか?)
『………もしもし?』
「青山か? 九鬼だけど、今いいか?」
『………何?』
相変わらず、ボソボソ喋って良く聞き取れない。
「ああ、実はなちょいと面白い物を手に入れたんだ」
『………』
「でな、そいつを今からお前のとこに持っていきたいんだ」
『どんなやつ?』
いつも間を置いて、聞き取りにくい喋り方をするこいつの声が、
いくらか聞き取りやすく、間をおかずに直ぐさま返答した。
「ああ、カメラだ。小型カメラ。良くは分からないが、多分高性能だと思う」
『隠しカメラ?』
(こいつ、自分の興味のある時だけは、食いつきがいいな)
俺は思わず苦笑してしまった。
「良く分からないから電話してるのさ。お前にこいつを見せて、意見を聞きたいんだ」
『わかったよ』
「今家だよな? 学校に来てないんだし」
『家だよ。とにかく待ってる』
「ああ。それじゃぁ1時間後くらいに行くぜ」
それだけ言うと、どちらからとも知れず電話を切った。
電話を切ったと同時に、電車がホームに入ってきた。
青山邸につき、出迎えてくれたのは、意外にも青山の姉だった。
確か、以前にここに来た時も、青山の姉貴が出迎えてくれたはずだ。
その時は休みの日だったからなんとも思わなかったが、今日は平日だ。
もしかしたら、大学生なのかもしれない。
そんな青山の姉に、青山の部屋に案内された。
俺を先導する形で階段を上っていく青山の姉貴は、まるで男を誘うな足取りで、階段を上がっていく。
沙弥佳や綾子ちゃんとは、また違ったタイプの美人だと俺は思った。
ショートパンツを履き、少し焼けた健康そうな生足は、否応なく俺の本能を刺激した。
「しんちゃん、 お友達来たよ?」
「入って」
どうぞ、と手でジェスチャーされ、部屋に入る。
「よぉ、悪いな、突然きちまって」
「……別にいいよ。それより……」
「ああ、これなんだが……」
ポケットからカメラを取り出した。
手に取り、青山はいつになく真剣な表情で、それを調べている。
「何かわかりそうか?」
「見ただけじゃなんとも……でも今まで見たことがないタイプだよ」
「初めて見るタイプってことか」
「うん、そうなるね」
「そうか……」
「でもそれだけに、色々調べがいがありそうだけど」
「今から調べられるか?」
「やってみるよ」
そう言うと青山は、デジタルカメラでそのカメラを撮り始めた。
「何してるんだ?」
「……見ての通り、デジカメでカメラを撮ってるんだけど?」
「そんなのは見れば分かるさ。それでどうしようってんだ?」
「うん、僕には分からないから、これを知ってるかもしれない友達に聞いてみるんだ」
「そのためにわざわざ、デジカメで……」
みなまで言わず、俺は口をつぐんだ。
青山の友達と言えば、ネットでの友達に決まっているのだ。
良く類は友を呼ぶとは言ったものだが、それはネットの世界にも当て嵌まるようだ。
いや、ネットの世界だから、なのかもしれない。
「しんちゃん入るね?」
その時、青山の姉貴が飲み物と菓子を持って、部屋に入って来た。
お盆をテーブルに置き、青山の姉貴は青山に向きかえる。
すると、たった今の今まで仕事人の顔をしていた青山は、途端に表情が曇った。
「何してるの? しんちゃん」
「……べ、別になんだっていいだろ……」
いつも何を考えているのか分からない、無表情な青山が、
明らかに困惑と、恐怖感を滲ませた顔をして見せた。
「もう。またお姉ちゃんに隠し事? いつも隠し事はダメって言ってるでしょ?」
青山の姉貴は青山とは対称的に、明らかに場違いな笑顔をして見せた。
「た、ただデジカメでカメラを撮ってるだけだよ……」
おずおずと答える青山に、姉貴はずいっと身をのりだす。
その様子はまるで、支配者が奴隷にするそれと同じだった。
「……そう、ならいいけど。分かってると思うけど、もう二度あんなのカメラに撮っちゃダメよ?」
「……あ、ぅ………う、うん……わ、分かってるよ………」
俺はこの姉弟に、ただならぬ雰囲気を感じた。
なんと言っていいのか分からないが、とても普通の姉と弟の関係には見えなかったからだ。
何か……ただならぬ何か……まるで……まるで一線を越えてしまっているような……?
そこで俺は思考をストップさせた。
馬鹿な。そんな漫画や小説みたいなことがそうそうあるはずもない。
俺はかぶりを振った。
「……ね、ねぇ……もういいだろ……友達が来てるんだ……」
いつものボソボソした喋り方。
青山がこんな喋り方なのは、もしかしたら姉貴が原因かもしれない。
「……そうね。まぁ、しかたないわね」
「………」
姉貴は俺の方を向き、ごめんなさい、ごゆっくり、と言い、部屋を出て行った。
「……く、九鬼くん」
「なんだ……?」
「……あ、その、……ご、ごめん……」
俺はただ肩をすくめ、
「気にしてないさ。お前も結構大変みたいだな」
と笑ってみせた。