俺は今何故、叫んでいるのか分からない。  
だが叫ばなければどうしようもできなかったような気がした。  
振り下ろされたナイフは相変わらずスローモーションで、俺の目前に迫る。  
相手はスローモーションなのに、こちらの動きはやたらと滑らかで、右手で奴の左手の手首を掴んだ。  
「!?」  
奴は、一瞬だけ驚いたようで動きが止まったものの、直ぐさま右足で蹴り飛ばしてきた。  
「ぐっ!?」  
俺の腹に思いきり奴の爪先がめり込み、廊下に背中から飛ばされてしまう。  
「がっ……」  
盛大に倒れたため、受け身もとることができずに、背中を打ち付けてしまう。  
「かはっ……はっ、はっ……」  
呼吸がうまくできない。  
なおも奴は倒れた俺に向かってくる。  
 
その時、青山が何事かと顔を出した。  
「馬鹿……早く逃げ」  
全て紡ぐ前に、精一杯の抵抗として倒れたまま蹴りを放つ。  
いとも簡単に防がれてしまうが、今は少しでも逃げるための時間稼ぎが必要だ。  
「ぁ……九鬼くん……これは一体?」  
下からドタドタと織田と徳川も駆け上がってくる。  
「どうした!?」  
さすがの奴もこれだけの人間がいるとは思わなかったのだろう、俺から注意がそれる。  
(今だ!)  
起き上がって、力の限り体当たりする。  
もちろん、左手に持っているナイフは使わせない。  
体当たりしたまま、ドアのふちにこの野郎の背中をぶち当てる。  
「ぐ……!?」  
奴が低く呻き声をあげた。  
この頃には、俺の頭は妙に落ち着いていて、周りの一挙一動が手にとるように感じられる。  
「九鬼君!」  
誰かが叫ぶ。  
その一瞬、俺の脳裏に織田が移動中に語っていたことが浮かんだ。  
『九というのは、すごく強いとか、最上といった意味が含まれていることがある。』  
(そうだ、やらなくてはやられるんだ! 戸惑うな! 一度ならずとも今も殺されかけたんだ!)  
自分の中のもう一人の自分が叫んでいる。  
右手でナイフを持った左手首を掴んだまま、左手を思いきり握りしめ、渾身の力で奴の脇腹に叩き込んだ。  
「うぐっ」  
奴は再び呻き声をあげるが、お構いなしに再度脇腹に拳を叩き込む。  
しかし、奴も黙ってはいなかった。  
がら空きになっている俺の胴体に、膝蹴りを食らわした。  
「げっ!?」  
こちらの体勢が悪かったのだろう、奴の膝は、俺の鳩尾に入ったのだ。  
瞬間、息が止まる。  
(まずい……今のは、まずい)  
 
俺は、ズルリとその場に膝をついてしまった。  
このまま、こいつに殺されてしまうのか?  
こんなところで俺の人生は、終わってしまうのか……。  
くそっ……終ってたまるか……こんなところで終ってたまるかっ!  
 
どれほどの時間が経ったかは分からない。  
おそらくはほんの何秒かであろうが、奴は何もしてこない。  
なぜだと顔をあげると、奴は俺を見下ろしておらず、三人の方へと向いていた。  
視線をおえば、三人は警棒のようなものを手に持っていた。  
いつぞやに青山が、俺に渡してくれた物だ。  
しかし、三人はこの全身黒ずくめのこいつに対し、明らかに怯えている様子だった。  
(喰らえっ!)  
俺は、今度は右の拳で奴の臑を殴る。  
「がぁっ!?」  
さすがの奴にも、この不意打ちはかなりのものだったらしい。  
ただ、それでもナイフは手から落とすことはなかった。  
立ち上がりざまに、奴の股間に頭突きを食らわした。  
普段なら、そんな攻撃はしたいとも思わないが、今はそんなことを言っている場合ではない。  
「これで少しの間は時間が……ぐあっ!?」  
三人に逃げようと言おうとした瞬間、俺の右腕になんとも言えない、熱い痛みが走った。  
 
見れば、奴がそのナイフで右腕を切り付けたのだ。  
ナイフは相当鋭いのか、少し間をおいてプツプツと赤い液体が流れ始めた。  
「ぅぐっ……あぁ……」  
……なんと言う痛みだ。  
今まで味わったことのない痛みだった。  
もちろん、怪我なんてのはこの十数年しか生きていない人生の中でも、数え切れないほどしてきた。  
しかし、この痛みは今までのものと比べ、形容しがたい痛みだった。  
今までの事故による怪我と違い、これは人為的なものだ。  
ただそれだけの差なのに、こんなにも違いがあるのか。  
この様子を見ていた青山達は、もはや完全に竦み上がって逃げることすらできないでいた。  
腕からは、とめどなく血の雫が滴り落ちて、廊下に小さな池を作っていった。  
 
「………殺す」  
低く、くぐもった声でたった一言、呟くように。  
「なん、だと………?」  
俺は少しだけ驚いた。  
まさかこの野郎が、喋るなんざ思いもしなかったからだ。  
「……邪魔するなら………邪魔する奴らは全員殺す!!」  
俺は先程よりも足がすくんでしまった。  
それほど奴の言い放った言葉には、強烈な怨嗟が込められていた。  
だが、奴は俺に攻撃を加える事なく、唐突に苦しみだした。  
 
「ぐぅっ……あぐ……うぐあぁっ……」  
苦しみだした奴は一歩二歩と後退し、頭を押さえながら片膝をついた。  
「な、なんだってんだ……」  
「ぐ、ぐぉおおおっ……」  
突然の自体に、俺も他の三人も呆気に取られていたが、奴は立ち上がり、俺に向かって走り込んできた。  
「ぐぅぅ、どけぇっ!」  
不覚にも体当たりを食らわされ、そのまま廊下に突き飛ばされてしまった。  
しかし、奴はそんな俺など見向きもせずに、階段まで行き、勢いそのままに階段を駆け降りていった。  
そして、ガチャガチャとドアの開ける音が聞こえ、外に出て行ったことが伺える。  
三人もあまりの勢いで走り込んできた奴に、恐怖の色をみせていたが一階に降りていった奴を見送ると、  
へなへなと、下半身から力が抜けてしまったようだった。  
徳川にいたっては、呼吸することすら忘れていたようで、床に腰付けてからというもの、  
呼吸困難の患者のような、荒い呼吸を何度も繰り返していた。  
「あ……い、今のがもしかして……?」  
織田が、やっとのことで喋る。  
「ええ……この家に入った時感じた違和感は、きっとあいつがいたからでしょうね」  
俺がそう返したものの、織田はそれ以上のことは言わなかった。  
いや、言いたくとも、まだ混乱した頭では言うことがままならないのだ。  
先程、俺が奴と出会った瞬間も同じようなものだったのだ、それも仕方ないと言えた。  
 
「とにかく今は……くっ」  
必死だったためか、最初に痛みを感じて以来、あまり感じていなかった腕の痛みが、  
安心して緊張の糸が切れてしまったところに、急激な熱さを訴えだしたのだ。  
当たり前だが、まだ血は流れていて、ドクドクと熱い血の脈動を感じた。  
それを見た青山が、駆け寄ってきた。  
「く、九鬼くん、大丈夫?」  
普通に生活していれば、お目にかかることもない出血量に、半ば青ざめた顔をしている。  
「ああ、大丈夫だ……と思いたいがな。とにかく今は止血しないと……」  
「そ、そうだね。何か血を拭いたりできそうなもの……」  
ついさっきまでへたれ込んでいた織田が、俺のところまで歩み寄り、自身のTシャツを脱いで、腕に巻いていく。  
「これだけの騒ぎがあったんだ、近所の人が警察を呼んだかもしれない。すまんが今はこいつで我慢してくれ」  
確かに、今ここでは応急手当ての道具もなさそうだ。  
「すみません。お借りします」  
「何、気にしなくていいよ」  
織田は、少しバツの悪そうな表情で、鼻の頭をかく。  
武器を携帯しながらも、何もできなかった自分を責めているのかもしれない。  
「とりあえず、これでよし。……だけどここを出る前に、一度この部屋を調べてみないと」  
織田の言葉に、俺は頷いた。  
「ですね。奴がこの部屋に何かしら用があったからのはずだし……」  
俺達は、急いで部屋の中を調べる。  
そう、何故奴がここにいたのかは、謎だ。  
だが、ここに何かしらの用事があって、きていたのは間違いないはずなのだ。  
……そのおかげで俺はまたしても殺されかけたのだが。  
 
全員で手分けして6坪ほでの部屋を調べていく。  
この部屋には、比較的多く物が置いてあり、二つも三つも机や椅子、クローゼット等がある。  
ここに置いてあるいくつかは、俺や青山が調べた部屋に置いてあったものかもしれない。  
「うーん、特にここにも何かあるわけじゃなさそうだな」  
「ですねぇ……さっきの人が持ち去ったのかもしれませんし」  
織田に徳川が相槌をうつ。  
「あれ? ねぇ九鬼くん、それ何?」  
青山が俺の足元を指さし、尋ねてきた。  
見ると、そこには小瓶が転がっていた。  
「何か粉のような物が入っているな。いや、量から考えると入っていた、か」  
俺は瓶を拾い上げ、そっと匂いを嗅いでみた。  
「……特に匂いは感じないな。味は……」  
「やめた方がいい」  
俺の行動を見ていた織田が制止する。  
「無臭でも、無味な毒物だってある。それに、劇薬の大半は無味なものの方が多いんだ」  
そこまで言われると、さすがに口にするのは躊躇った。  
「徳川さん、こいつを調べられないですか?」  
織田が、徳川に問いかける。  
「うん、やってみよう。ごめん、借りるよ」  
小瓶を徳川に手渡し、お願いしますと頭をたれた。  
 
その時、俺が調べようとしていたアンティークと思われるテーブルから、一枚の紙が音も無く床に落ちた。  
「……これは?」  
その紙を拾い上げ、それに印刷された文字を読む。  
「取引先一覧……?」  
そこには、おそらく蒲生が生前に仕事上必要であったろう、取引先企業の名がずらりと並んでいた。  
青山達も寄って来て、紙を覗く。  
「ふーむ。何かヒントに……なるかもね。見てみなよ、この名前」  
織田がある企業名を指差した横に、確かにどこかで聞いた覚えのある名前があった。  
今井克利(いまい かつとし)。  
最近、どこかで聞いたことがあったはずだったが、思い出せない。  
俺が記憶の引き出しを漁っている時、青山が何かに気付いたようだった。  
「あれ? 確かこの名前って……」  
「気付いたみたいだね。そう、この名は首を掻き切られて殺された人物だ」  
言われてやっと思い出すことができた。  
つい昨日言われたことだったのに、忘れていたとは……。  
「やはりあいつがこの人物を殺したんだろうか……」  
「どうだろう? 早計に決め付けるのは早いけど、可能性は高いかもね。まぁ、とりあえずここを出よう。  
まだ10分も経っていないけど、そろそろ時間的に限界だと思うから」  
織田に促されて、俺達は早々と蒲生宅……いや、元蒲生宅を出た。  
 
織田はああは言っていたが、俺は今井という人物や他の関係者を亡き者にしたのは、  
間違いなく奴だとなぜかこの時、強く思った。  
物的証拠ではないが、奴がナイフで攻撃してきたのはその何よりの証拠ではないのか?  
わざわざ、もう一年も前に死んでしまった蒲生の家に来ていたのもそうだ。  
不思議と傷の痛みによって、俺の頭はクリアになっていく。  
証拠なんてものは何もなく、ただ何かあるかもしれないと言う理由だけで訪れた蒲生の家に、  
奴が現れた(正確には、最初からいたのだが)のも奴が蒲生や今井と何らかの関係があったから、  
そうではないのか?  
奴は、この二人の人物と不可解な死を遂げた人達とも何かしら関係がある人物であることは間違いないはずだ。  
とにかく、この紙に名のある人物達を徹底的に調べねばならないのは、もはや避けては通れない。  
そしてこれらの人物達と交差する人間こそ、奴なのだと直感で理解した。  
 
帰りの車の中で俺は、傷の手当てをしながら先程から同じことばかり考えていた。  
しかし、どうしてもそれらが上手いこと、一つにまとまらない。  
背後の事実関係を解き明かすまでは、この靄に包まれている今回の事件は、全体を見ることは出来ない。  
俺はため息を一つつき、今は焦っても仕方ないと自分に言い聞かせた。  
あれほど出ていた腕からの出血は、今は止まってなんとか小康状態といったところだ。  
俺は、沙弥佳や家族へなんて言い訳するべきか、頭を悩ませながらため息をついた。  
 
 
 
「ただいま」  
「おかえりっお兄ちゃん!」  
沙弥佳は、相変わらず俺が一人で出かけ、帰ってきた時には犬みたいに飛んでくる。  
沙弥佳が犬になったところを想像してしまい、頭をふった。  
「俺にそんな趣味はないぞ」  
「え? 何が?」  
沙弥佳が胸にうずめていた顔をあげる。  
「いや、なんでもない」  
俺は苦笑しながら、リビングへと歩きだした。  
「おかえりなさい。九鬼さん」  
俺が帰ってくる今の今まで沙弥佳とささやかなティータイムであったようで、  
ティーカップをテーブルに置いて、綾子ちゃんが挨拶をしてきた。  
「ああ、ただいま。見たとこティータイムだったみたいだな。俺にもいいか?」  
「はい。準備しますから、ちょっと待っていて下さいね」  
「あ、私も手伝うよー」  
リビングに置いてある、ガラス戸から新しいティーカップと受け皿を出し、新たにお茶受けも取り出していく。  
この二人は何をやっていても絵になるな。  
そう、まるでとても仲の良い姉妹のようにも見える。  
姉のような綾子ちゃんに、妹のような沙弥佳。  
そんな二人を見ていると、とてもほほえましい気分になってくる。  
「なぁに、お兄ちゃん。私たちそんなにおかしい?」  
俺は、気持ちがすぐ表情となって出てくるタイプらしい。  
 
「いや、なんでもないさ。それよりも今日の茶はなんだ? 普段飲んでるのとは違うな」  
指摘されたのが恥ずかしくて、話をそらしてしまった。  
「あのね、今日のはトルコティーだよ。それも少し値の張るお茶っ葉らしいの」  
「らしい? 誰かから貰ったのか?」  
「そうなんです。以前父がトルコに行った時、わざわざ買ってきてくれたんですよ」  
「それでちょうど前のお茶っ葉が切れたから今回使ってみようってことになったの。それに結構美味しいよ」  
「そうか。トルコティーは初めてだからな、ちょいと楽しみだ」  
どうも俺と沙弥佳が、初めて綾子ちゃんの家に行った時に、こいつを持ってきたらしい。  
 
「ふぅ……なるほど、こいつは確かに美味いな」  
「うふふっでしょう?」  
「喜んで頂けてなによりです」  
二人は自分達の気に入ったものが、俺も気に入ったことにご満悦といった顔をしている。  
ここで一息ついて、沙弥佳が聞いてくる。  
「ところでお兄ちゃん。その服どうしたの?」  
「え? あ、ああ、この服はちょっと気に入ったんで買ったんだ。それに安かったしな」  
半分嘘、半分本当だ。  
いつもならこんな派手な色使いの服は買わないが、仕方ない。  
最近の高速のサービスエリアでは、ちょっとした買い物ができたり、ちょっとした観光スポットになっていたりと、  
目まぐるしく様変わりしてきている。  
この服もそういったサービスエリアで買ったものだ。  
色使いは派手だが、なるべく俺に似合ったものを見繕ってきたつもりではあるが。  
朝と着ているものがが違えば、誰だって気になるものだが、特に怪しまれはしないはずだ。  
それに、今日は友達と街に繰り出して遊んでくるという理由をつけて出ていった。  
そういう意味でも良いカムフラージュになったはずだ。  
まさか、前の服が切られてもう着ることができないとは言えない。  
「ふーん。ちょっといつもの服とは違うけど、悪くないと思うよ」  
「そ、そうか……俺もいつもの服とは違うからどうかと思っちゃいたんだが」  
ギリギリ合格ラインのようだった。  
沙弥佳は、俺の着る服一つとってもあれやこれやとうるさいので、ホッとした。  
だが、沙弥佳は何が気に入らないのか、少し不機嫌そうな態度で続けた。  
「それで、朝着て行った服はどうしたの?」  
「ああ、帰りに友達のとこに寄ってな、そいつのとこに忘れてきちまった。気付いた時にはもう家の前だ」  
こいつは変なところでやたらと鋭いので、何かあった時はいつもこうして言い訳を考えなければならない。  
それに季節はすでに、長袖を必要としている時期なので怪我を隠せるのは助かった。  
しかし、沙弥佳はどこか不機嫌なままであった。  
とはいえ、俺としてもいつまでも沙弥佳のご機嫌取りに付き合うつもりはない。  
「ところで今日の晩飯はなんなんだ?」  
「今日は、おば様の希望もあってビーフストロガノフですよ」  
「お、中々豪勢だな。綾子ちゃんが作るのか?」  
「はい。とはいっても、さやちゃんと共同作業ですけど」  
「そうか。ビーフストロガノフは好物だからな、楽しみにしてるぜ」  
「はい、楽しみにしていて下さいね」  
こうして綾子ちゃんと、何気ない会話をしていると、ふと昨日の朝のことが思い出されてきた。  
何気なく沙弥佳の方を見れば、頭をたれているおかげで前髪が顔を隠し、表情を読み取ることができなかった。  
ただ、その両手は力いっぱいに握られ、小刻みに震えていた。  
 
 

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