俺と彼女が出会ったのは、今から一年以上前のことだ。
俺の家は両親が共働きで、父親は滅多に家に帰らない漁船の船長。母親は看護師。
両親も俺も動物好きで、昔から犬やら猫やらを飼いたかったのだが、まともに世話が出来るとも限らないので、仕方なく、ペットショップのウィンドウを覗くことで、俺は自分を満足させていた。
ちなみに、密かな野望の一つは、犬を家族単位で飼うことだったりする。
一年と七ヶ月前、高校生になったばかりの俺は、新しい通学路の途中に見つけた、ペットショップを覗いていた。
覗くと言っても、無駄に店内に入る勇気も無く、店の外からぐでーっと寝そべる犬猫の様子に、目を細めていたのだが。
「良かったら、中で見ていかない?」
店の奥から顔を出して、声を掛けてくれたのが、ジンコさんだった。
「いや……別に」
「気にしないで。あっちのサークルに子犬も放してるし」
「いや……」
ひょいと店内を覗いた彼女の視線の先には、ころころと転がるラブラドールの子どもが一匹。
触りたい。
本音を言えば、めちゃくちゃ触りたいし、抱き上げたいし、手とか顔とか舐められたいし、がじがじ噛まれてみたい。
けど、客にもなれない俺は、口ごもったまま。
そんな俺の姿に、彼女は少しだけ首を傾げたけれど、直ぐに眉を下げて笑った。
「じゃあ、気が向いたらで良いから」
無理強いはしない、と言外に告げて、店内に戻って行く。俺は暫く彼女の後ろ姿を見送ったあと、ウィンドウ越しに寝そべるミニチュアダックスに別れを告げて、帰路についた。
ジンコさんは覚えていないだろうけど、それが俺と彼女の初めての出会い。
それからも何度か、俺は店の外からジンコさんの姿を見かけたけれど、最初の時のように声を掛けられるどころか、彼女は俺に気付きもしなかった。
そうして、二学期になったある日。
いつものように店の前を通りかかった俺は、ウィンドウの犬猫達を眺めつつ、ジンコさんの姿を探したけれど。
「……今日は居ないのか」
見慣れた彼女の姿は何処にも無い。それから何日か通っても、それ以降まったく姿を見なくなり。「ああ、辞めたんだな」と気付いたのは、更に一週間が経過してから。
別に彼女が目的だった訳じゃないけれど、何となく寂しかったのは本当で。
だから、今年の春、いつものように帰宅した俺は、見覚えのある後ろ姿を見つけた時、思わず我が目を疑った。
体の半分はありそうな冷蔵庫を抱え、悪戦苦闘する彼女は、苛々とした様子。
俺はと言うと、大きなドッグフードの袋を抱える姿を思い出し、少しだけ微笑ましくもあったりして。
「傾ければ、良いんじゃないんですか?」
苦笑混じりに告げた俺に、ジンコさんは肩越しに俺を振り返った。
俺は毎日のように彼女を見ていたから、直ぐに誰なのか気付いたけれど、彼女はそうじゃなかったようで、突然声を掛けられて驚いていたみたいだった。それでも、俺の言葉に素直に従い、冷蔵庫を傾けて玄関を潜る。
あっさりと部屋に飲み込まれた冷蔵庫に、俺は思わず吹き出しそうになったけれど、ここで笑うのも失礼だ、と、必死でポーカーフェイスを取り繕う。
そんな俺をどう思ったのかは分からないが、ジンコさんは、玄関口に冷蔵庫を下ろすと、へにゃりと緩んだ笑みを俺に向けた。
その顔が、まるで安心しきった子犬みたいで、またもや頬が緩みそうになった俺は、慌てて軽い会釈だけを残し、ジンコさんの部屋の前を通り過ぎた。
その日は何だか浮かれていた、と後になって母さんに言われたけれど、言われてみれば、そうかも知れない。
もう会えないかも知れないと思っていた相手との意外な再会。吊り橋効果にも似た感情だけど、嬉しかったのは本当だから。
その翌日、ジンコさんが俺の家を訪れた時も、内心緊張していたりしたのだが、何となく悟られるのが嫌だったのと、これからも会える安心感で、俺はまともに彼女の顔を見ることが出来なかった。
そして。
気付けば、ジンコさんのことばかり考えている、俺が居た。
最初は、豆柴を飼っているからだ、と思っていた。実際、ジンコさんちのワンタンが逃げ込んで来た時は、ジンコさんに返したくなかったぐらいだし。
返してからも、ワンタン会いたさに、学校から早足で帰って来るようになった程。 でも、そうじゃなかった。
いつからかは分からない。もしかすると、去年彼女がペットショップを辞めた時から。この四月になってからは、間違いなく三日に一度は。
俺の頭の中には、ジンコさんのことを考えるためのスペースが、出来ていた。
時折、一階の中村さんちのジローの散歩を代わっていた俺は、ワンタン騒動があってから、なるべく毎日、散歩を代わるように帰宅時間を早めた。
そうすれば、大好きな犬と気になる彼女、両方と一緒に居られると考えたからだ。
俺の考え通り、ジローだけじゃなくワンタンも、いつしか俺に懐きはじめ。
必然的にジンコさんと接する時間が増えたからか、彼女のことも色々と分かった。
今は駅前のペットショップに勤めていること。
ワンタンは、そこで売れ残っていた子だったこと。
ジャンガリアンハムスターのさゆりと、オカメインコのマルは、今のアパートに来てから飼い始めたこと。
動物を飼うために、今のアパートに引っ越して来たこと。
実家では、柴犬とボストンテリア、亀二匹を飼っていること。
知れば知るほど、俺の頭の中のジンコさんスペースはでかくなった。
もっと知りたい。触れたい。
俺だって健康な男だから、下心のない『触れ合い』じゃ物足りないと思うのに、そう時間は掛からなかった。
170センチの俺より、頭半分小さなジンコさんは、豆柴のワンタンによく似ている。
暢気に笑った顔や、ちょこまかとした動作とか。それだけじゃなく、案外小さな肩幅とか、綺麗に整えられた爪とか。
触りたい。
そう想った瞬間、俺の口から出た言葉は「付き合ってくれませんか?」と、妙な現実味を帯びた言葉だった。
ジンコさんは、嫌な顔はしなかったけれど、特別何か意識した様子もなく。
どさくさ紛れに手に触れた時は、顔を真っ赤にしていたけど、それだけで。
かなり強引に手を繋いでもらって帰ったけれど、アパートが近くなると、ワンタンが走り出してしまったから、その日はそれだけ。
翌日も、一緒に散歩をしたけれど、変わった様子もなかった。
年下の俺の言葉なんて、彼女にとっては、非日常の入り口にもならなかったらしい。
そう考えた瞬間、俺は酷く残念だった。
「雪仁君って、変わった名前だよね」
日曜の朝。
ジローの調子が悪く、中村のおじさんが病院に連れて行くと言うから、今日の散歩はワンタンだけ。
俺が付き合う必要は無かったけれど、おじさんに言われ部屋に戻る途中でジンコさんに会った俺は、ジンコさんの荷物を持つ形で、彼女とワンタンの散歩に同行した。
「そうですか?」
「ユキヒト、だったら…幸せな人とか。最初は、そう思ったよ」
「ああ、そうかも知れませんね」
いつもの散歩道。
ドッグランには、他にも何人かの飼い主と犬が居る。
流石にリードは離せないから、俺とジンコさんは、川沿いの公園を大きく回るコースを選んでいた。
「ジンコさんも、変わってますよね」
「よく言われる。ニコって呼び方も、漢字も、子どもの頃はよくからかわれたな」
「スマイルマーク、ですか?」
「そう。にこちゃんマーク」
黄色い笑顔を思い浮かべる俺に、ジンコさんは頷く。
たぶん、同じ物を思い浮かべているんだろうけど。
「あ」
「どうかしました?」
「今、軽くジェネレーションギャップ。今時、にこちゃんマークはないよねぇ」
そう言って苦笑する。
いたずらを見つかった子犬みたいな顔だ。こう言う顔は、やっぱりワンタンに似てる。
「そうですか?」
「そうだよ。雪仁君、この歌知ってる?」
ふんふんと鼻歌を歌うジンコさん。
不明瞭だけど、聞き覚えのある歌は、俺が産まれる前のもの。
「知ってますけど……」
「リアルタイム?」
「残念ながら」
「あちゃー」
肩を竦めた俺に、ジンコさんはますます苦い顔つきになる。
告白した時もだけど、どうやらジンコさんは、俺との年の差を気にしているらしい。
確かに十歳ぐらい差はあるけど。気にしたって仕方ない、と、俺は開き直ってる。
俺の知らないジンコさんが十年あるなら、それ以上にジンコさんのことを知れば良い。そうだろう?
「凹むなぁ。雪仁君、若いよ」
「仕方ないじゃないですか。でも、俺は良かったですよ」
唇を尖らせたジンコさんは、そのまま俺を見上げた。
「今だからジンコさんに会えたんすから。俺がジンコさんと同い年だったら、会えなかったかも知れない。だから、良かったです」
十一月の朝なのに、今日はやけに暖かい。
心地よい陽気につられてのんびりとした口調で言う俺に、ジンコさんは口を閉ざした。
「……何すか」
あ、ちょっと頬が赤い。
「雪仁君って……たまに、すっごく恥ずかしいこと言うよね」
「そうですか?」
俺にとっては当たり前のこと。でも、ジンコさんにとっては、そうじゃなかったらしい。
よくよく考えれば、確かに恥ずかしいことを言っている。でも、ここで俺が照れてしまったら、ジンコさんのことだから、また何か仕返しがあるに違いない。
以前にも、俺は手フェチだと、勝手に決めつけられてしまったから。
「そうだよ。あー、もう。その涼しい顔がムカつく」
「名前っぽいでしょ? 雪、だし」
「ほんとだね!」
悔しそうなジンコさんは、やっぱり唇を尖らせて、ワンタンに視線を移した。
うん、可愛い。何か得した気分だ。
「でも、雪だけじゃないですよ、俺」
足下にじゃれつくワンタンに、俺も視線を落とす。
くるんと丸まった尻尾は、左右にぽてぽてと揺れている。
「ジンコさんと同じ文字。ちょっと、得した気分。この名前で良かった」
チラリ。横目でジンコさんを盗み見る。
ジンコさんも、ちょうど俺を横目で見ていて、ばっちり視線が合った。
「……だから」
「はい?」
「恥ずかしいから言わないの、そういうこと」
今度は頬を膨らませる。
普通なら、大した意味のない会話だけど、こんなことを言う辺り、少しは脈があると思って良いんだろうか?
自惚れるには、少しばかり材料が足りない気もするけれど。
「ジンコさんが、手を繋いでくれるなら」
調子に乗ってる。
自覚はあるけど、こんなことでも無けりゃ、俺はこんな風にスマートに手を差し伸べることも出来ない。
ひらひらと差し出した俺の手を見て、ジンコさんは眉をしかめた。
「年上をからかわない」
ピシャリと言われ、俺の手は寂しく宙を掻く。
残念。
「ちぇっ」
「そう言うのは、年上がすることでしょうが」
「からかうのも?」
「そう」
「手を繋ぐのも?」
「そう」
強く頷くジンコさんは、俺の手を握ろうともしない。
さっきまで照れてたくせに。
こういう所を見せられると、やっぱり俺の方が年下なんだと痛感する。
少し悔しい。
「けど」
しょんぼりした俺を見て、ジンコさんは笑った。
「男性がエスコートしてくれるのは、素直に嬉しい」
はい、と差し出される手。
ジンコさんは、自分が優位に立ったことが嬉しいのか、にこにこと笑っている。
これが犬なら、間違いなく尻尾は左右にパタパタ揺れてる筈だ。
「……ジンコさん、ずるい」
「大人だから。ほら、あと五秒」
手をひらひらさせてカウントダウンする大人なんて、居ないと思う。
ジンコさんの行動は大人げないけど、その手を握れないのは、俺としてはもっと悔しい。
あと二秒。
俺は差し出された手を取ると、少しだけ仕返しの意味も込めて、指を絡めた恋人繋ぎでジンコさんの手を握った。
「家まで放しませんよ」
「暑くない?」
「家に帰るまでがエスコートです」
「遠足だよ、それ」
繋いだ手を見下ろすジンコさんは照れくさそうだ。
「でも残念」
「うん?」
「寒かったら、このままポケットに入れたい勢いです」
出来るなら、ジンコさんごと。
そう思ったけど、口にする前に、ジンコさんの顔が赤くなったから、取り敢えず口にチャック。
下手なことを言えば、手を離される可能性もある。
「構いませんか?」
その代わり、前もって了解を取っておこうと、俺は顔をのぞき込む。
ジンコさんは隠し事が出来ない人だ。
少し困ったような赤い顔で、俺の方をちらちら。
年上なのに。大人なのに。この反応はやっぱりずるい。
「……雪が降るぐらい寒かったら」
「ジンコさんと一緒なら、散歩でも買い物でも」
出来れば、二人っきりでデートとか。
ボソリと呟いた俺の言葉に、ジンコさんは三度唇を尖らせた。
手に触れるだけで今は満足だけど。
もう少し距離を縮めたい想いがあるのも確か。
雪が降る頃には、ますますその想いが強くなってる可能性もあるんだけど、それはまあ、今は言わない方が良いかも知れないな。
まだ暫くは、微妙な関係が続くだろうけど、十年の差を埋めるんだから、それぐらいは覚悟しないと。
いつまでも続くのは、俺としては願い下げだけど。