「俺と付き合ってくれませんか?」  
 目の前の少年――いや、去年高校生になったばかりだから、微妙に青年?――は、至って真顔だった。  
 真顔と言うよりも、何だろう。必死……も、ちょっと違うか。  
 顔色一つ変えず、真っ直ぐに私を見据えて、そんな事を言うもんだから、私は一瞬、耳がおかしくなったのか、と自分自身を疑った。  
 たっぷり十秒は掛けて、少年と青年の境目に差し掛かった彼・嶋野雪仁君の告げた、言葉の意味を考える。  
 それでも、何故か座りの良い答えが見つからなくて、私はわざと首を傾げて、聞き返す事にした。  
「……はい?」  
「だから、ジンコさん、俺と付き合って下さい」  
 私が待たせていた間も、焦れた様子もなく。むしろ、子どもに言い聞かせるみたいな落ち着いた口調で、雪仁君は、もう一度、同じ内容を――私の名前付きで――口にした。  
 いや、さっき疑問系だった部分が、要望に変わっているのが、変化と言えば変化か。  
「それは」  
「ドコへ、とかじゃなく。性的な意味で」  
 聞き返す前にピシャリ。  
 何とも分かり易い返答で有り難いが、その前に疑問が。  
 まず第一に、私こと宮内仁子――ちなみに、ジンコはあだ名であって、本名はニコという――の何処に魅力があるのか。  
 私は、フリーターとは言え酒も煙草も六年前に解禁となっている、早い話、四捨五入でアラサーになる女だ。悔しいから、去年から下一桁は切り捨てているが。  
 なのに雪仁君は、まだまだ青春真っ盛りの十六、七歳。約十歳の差がある訳で。  
 大人の魅力? それは無い。むしろ、この年になっても分からない私に、誰か教えて下さい、ってぐらいだ。  
 年上のお姉さんに憧れる気持ちは、分からなくもないけれど、私である必要性は皆無に等しいと思われる。  
 そもそも、出会いからして微妙なのだ。  
 
 最初に出会ったのが、私が今のアパートに引っ越しして来た時。  
 引っ越し屋さんに頼むのももったいなくて、友達に借りた車を往復させて、自力で引っ越し作業をしていたら、その場に遭遇したのが学校帰りの雪仁君。  
 私んチは二階の手前。雪仁君チは二階奥の角部屋。  
 私はちょうど、冷蔵庫を部屋に入れるのに四苦八苦していた所で、雪仁君は足止めを喰らい。  
『傾ければ、入るんじゃないんですか?』  
 馬鹿正直に、真っ正面から冷蔵庫を部屋に入れようとしていた私に、左目を眇めてボソリと呟いたのが、最初の会話……と言うか、遣り取り。  
 言われた通り冷蔵庫を傾けると、悪戦苦闘していた私の十五分は、あっさりと無駄になってくれやがり。気まずさにへらりと愛想笑いを浮かべた私を、雪仁君は、愛想も何もない微妙に冷たい眼差しで見つめたあと、無言の会釈だけを残して立ち去った。  
 何とも不愛想だと思いはしたけれど、助けてもらったのは事実なので、お礼も兼ねて引っ越しの挨拶を。  
 そう考えた翌日土曜日の挨拶では、雪仁君のお母さんが、息子とは似ても似つかぬ愛想の良さで応対してくれたのだが。  
 冷蔵庫の件でお礼を言おうとした矢先、これまたちょうど良いタイミングで、雪仁君が奥から――間取り的にトイレだと思う――、眉を寄せた無愛想な表情で現れて。  
『図書館、行ってくる』  
 玄関先に居た私は、その微妙な表情と言うか雰囲気に飲まれ、自然と道を空けてしまい、お母さんと二人、雪仁君を見送ってしまった。  
 
 それが、約半年前の話。  
 以降、何となく微妙に間が悪いと言うか、タイミングが合ってるようで合ってない、そんなすれ違いみたいな……遣り取り? が幾度かあり。  
 普通に考えれば、接点なんてまるでないのに、偶然なのか誰かの采配なのか。一ヶ月前に、これまた微妙な接点が生まれていた。  
 
 私達の住むアパートは、ペットOKで、私がこのアパートを選んだのも、それが理由。  
 一階に住む中村さんなんか、申し訳程度の庭にセントバーナードのジローを飼っていたりする。  
 私の場合は、大型犬は無理だけれど、ジャンガリアンハムスターのさゆりとオカメインコのマル、豆柴のワンタン、と一人と二匹と一羽のそれなりに大所帯。  
 そのワンタンが脱走し逃げ込んだ先が、たまたま雪仁君の家の玄関で。実は隠れ動物好きだけれど、家庭の事情で飼えない雪仁君が、ワンタンを保護し。  
 更に二日後、ワンタンの散歩の時間と雪仁君の帰宅時間が高確率で被る事を知り、雪仁君の気が向いた時は、中村さんチのジローも含めた二人と二匹で散歩をする事が多くなった。  
 元々、中村さんチは老夫婦とジローの二人と一匹暮らしで、最近では雪仁君が、ジローの散歩を代わっていたらしいし。  
 まあ、そんなこんなで、今時珍しく近所付き合いっぽい代物をこなしていたら、今日の、唐突な告白に至ったのだ。  
 
「えーっと……何で?」  
 川沿いの公園には、そこそこ大きなドッグランがある。  
 そこにワンタンを解放して、一服するのが、私のいつもの散歩コース。  
 雪仁君とジローが居る時は、煙草は控えているので、代わりにペットボトルの水を飲んだりする。  
 今日も、持参したペットボトルの蓋を開けようとして――結局、私は手の中で外し掛けた蓋を、もう一度反時計回りに回した。  
「なんか、ほっとけないんすよ。ジンコさん天然だし」  
 天然。成る程。  
 彼には、私が天然に見えているらしい。  
 ちなみに、自覚は無いから、多大な勘違いだろう。友達にも『間が悪い』とは言われたことはあるけど、天然との評価を受けたことは一度もない。  
「それに、たぶん、俺、好きなんでしょうね、ジンコさんの事」  
 たぶん、と来たか。  
 肩を竦める雪仁君。くるくるとしっぽを追いかけて回るワンタンの姿を眺める顔は、微妙に苦い笑み顔だ。  
「あのさ」  
「はい?」  
「たぶん、とか言われても、困ると思うよ。普通は」  
「普通は」  
 体育座りで、ペットボトルすら持て余している私は、雪仁君の言葉も持て余してる。  
 オウム返しに頷いた雪仁君は、照れ隠しみたいな苦い笑み顔で、首をコキリと鳴らした。  
 
「けど『たぶん』なんです。気付いたら、ジンコさんのこと考えてる。今、何してんだろー、とか。バイトからちゃんと帰ってるかなー、とか。朝、ちゃんと起きてるかなー、とか。ワンタンの飯大丈夫かなー、とか」  
 つらつらと淀みなく上げられる言葉に、私は徐々に唇の先を尖らせる。  
 まるでお母さん。いや、男だからお父さん?  
 私の事を気に掛けてくれてるのは分かった。でも、後半になるにつれて、中身は微妙にワンタン(犬)やさゆり(ハムスター)やマル(インコ)の事になって。  
「マルの籠の掃除はー、とか。水浴びさせてやりたいなー、とか」  
「私のことじゃ無いじゃん」  
 仏頂面で無愛想な雪仁君は、隠れ動物好き。それは、よーーーく分かってる。  
 分かっちゃいるけど、どんどん本筋(私のことね)から離れられてくと、流石に面白くない。  
 私の隣で寝そべっていたジローにちょっかいを出して、あがあがとあま噛みされるワンタンを見守りながら、私が呟いた声音は、明らかに不機嫌滲みた低い声。  
 まあ、半分はわざとだったりするんだけど。  
 それを聞き咎めた雪仁君は、はたりと口を閉ざすと、柵にもたれたままずるずるしゃがみ込んだ。  
 少しだけ、首を傾げて私の顔をのぞき込む。顔色を伺うって、こんな風なんだろう。  
 チラリと。ほんの少し、瞬きをする隙間に視線を向けてみると、雪仁君は顎を掴むみたいに口元を覆っている。  
 そして、もごもご。  
「ワンタンみたいだよなー、とか。案外ちっちゃいよなー、とか。触ってみたいなー、とか。そんなことも、思うんですけどね」  
「…………ふーん」  
 もごもご。  
 言いにくそうな割に、視線はやっぱり私に向けられていて。私はと言うと、言われた内容よりも、雪仁君の眼差しの方が痛くて痛くて。  
 唇を尖らせたまま、足下にコロンと転がって来たワンタンを抱き上げた。  
「抱っこする?」  
 そのまま差し出したワンタンは、ピスピスと鼻を鳴らし、しっぽも申し訳程度にゆらりゆらり。そんなワンタンと私を交互に見る雪仁君は、両の眉を押し上げた。  
「嫌ならい」  
「触ります」  
 何だかんだで動物好き。私の言葉を遮って、雪仁君は両腕を伸ばした。  
 
「雪仁君」  
 彼の手が、私の手に触れている。  
 私の手は、ワンタンの少し高い体温と、ちょっとひんやりとした雪仁君の手の温度に挟まれた。人間と犬って、同じほ乳類なのに、案外温度差がある。  
 じゃなくて。  
「雪仁君、手」  
 ぎゅうっと私の手を握る雪仁君の表情からは、何の感情も読みとれない。  
 無愛想な顔。  
 けど、目元がほんの少し、緩んでる。  
「ジンコさん、顔真っ赤」  
「ん……っ」  
 知らんぷりをしようと思ってたのに、指摘されれば嫌でも意識しちゃう訳で。  
 耳がかぁっと熱くなった私に、雪仁君は喉の奥を震わせながら、つうっと手を滑らせてワンタンを抱き上げた。  
「うん、やっぱ似てる」  
 ちっちぇー、とワンタンの前足を握り肉球をぷにぷにしながら、雪仁君は今度こそ目で笑い。その様子に、思いの外ゴツゴツしていた手の感触を、今更ながら思い出す。  
「見た目は草食なのに」  
「雑食でしょ、犬は」  
「まあ、そうだけど」  
 何となく恥ずかしくて、ワンタンの耳の裏を指で掻いてやりながら言うと、雪仁君は少し眉を顰めた。  
 ――ワンタンの話じゃなく、君のことデスヨ。  
「で」  
「うん?」  
「付き合ってくれませんか?」  
 視線を上げる。  
 ワンタンが、かぷりと私の指を噛んだ。  
「うん……ちょっと、考えよう。お互いに」  
「何を」  
「雪仁君、私の年齢知ってる?」  
「三十前」  
 有り難う。確かに三十前だし、知っててくれたのは嬉しいけど、即答されるとちょっぴり傷つく。  
「けど、関係ない」  
 がじがじとワンタンが私の指を噛むので、雪仁君はワンタンを抱き直してくれた。痛くはないし、遊んでるのは分かるから、叱ったりはしないけど。  
「ジンコさんは、可愛いと思うし。ヤりたいと思うし。一緒に居て気楽だし。ガッコの女と全然違うし」  
 一緒だったら、それはそれで問題あるでしょうよ。  
「彼氏が居るなら諦めるけど、俺の気持ちは知ってて欲しい。てか、俺ばっか話してない? 嫌ならそう言ってくれりゃ良いのに」  
 凹むけど。  
 ワンタンをむぎゅっと抱きながら、雪仁君はボソリ。  
 ワンタンを独り占めされた私は、ジローの首筋を撫でることにした。  
「嫌じゃないから、困る」  
「え?」  
「考えたこと、無かったから。雪仁君と付き合う、とか。だから、ちょっと考えよう」  
「お互いに?」  
「お互いに」  
 
 たぶん、私達の恋愛のツボは、ワンタンとジローの体格差ぐらいに違いがあるだろうから。  
 ちょうど良い距離感ってのを見定めないと、私は踏み出せない。十年前なら、夢中で走り出せたかも知れないけど、今はもう、なりふり構わない恋愛に、足を突っ込む勇気はない。年月は人を臆病にする。  
「彼氏は?」  
「居ない。そこは、安心して良いよ」  
「そっか」  
 ふーん、と、雪仁君は頷いた。  
「じゃあ、俺が振り向かせられりゃ良いんだ」  
「……そう、かな」  
 恋愛って、そんな簡単なもんじゃなかったような気がするけど。  
「たぶん」  
「たぶん?」  
「ハジメテだから。こんな風に、誰かのことを想うのは」  
 言って、今度は目だけじゃなく、口元も緩めた。  
 嗚呼、雪仁君も、ちゃんと笑うんだ。  
「……可愛いかも」  
「何?」  
 考えたことがポロッと出る癖は、治した方が良いかも知れない。  
「何でもない。そろそろ帰ろうか」  
 よっこらせ、と立ち上がり、外してあったワンタンのリードを雪仁君に渡す。  
 雪仁君も、ワンタンを地面に下ろすと、手慣れた様子でリードを付ける。  
 私が付けたジローのリードと、雪仁君の付けたワンタンのリードを交換して、帰宅準備完了。  
 さて帰ろう、と歩き出したその時。  
「あ」  
 雪仁君がリードを見ながら、声を上げた。  
「どしたの?」  
「いや……もっぺん、チャンスだったなと」  
「何の」  
「手」  
 苦い笑みで振り返った私の隣に並び立ち、雪仁君は顎で私の手を示す。  
「ま、明日があるから良いんすけど」  
 肩を竦め、ちょっぴり大人びた口調の雪仁君の姿に、さっきの手の感触を思い出し、私はまたもや耳が熱くなった。  
 そんな私の顔をひょいとのぞき込んだ雪仁君は、眉尻を下げた笑み顔で。  
「ジンコさん、赤面症?」  
「雪仁君は、手フェチ?」  
 悔しいから、わざとからかい口調で言うと、一瞬、面食らったような顔になり。  
「やらしー」  
 すかさず意地悪になるのは、年上をからかった報いだ。  
 
「んなこと…。や、確かにヤらしーことも考えるけど……そりゃ、健全な男子だし」  
 ぶつぶつ。  
 言い訳っぽく口にする雪仁君に、私は忍び笑いを漏らす。  
「てか、手フェチがやらしーって、何なんすか?」  
「んー、偏見?」  
「うわ、ジンコさんひでぇ」  
「けど、手は、足よりやらしー気がする。持論だけど」  
「持論ですか」  
「最初に相手に触れるのは手でしょ? 下心があるか無いかは別として」  
「成る程」  
 雪仁君との会話は、案外楽しい。  
 あんまり口数は多くないけど、生来口下手な筈の私が言葉に詰まることがないのは、雪仁君が聞き上手だからだろう。  
 うん、これは今日の新しい発見だ。  
 ちょっとしたことだけど、雪仁君の良い所が分かったのは、素直に嬉しい。  
「じゃあ、手フェチで良いや」  
「良いの?」  
「はい。だからジンコさん、手」  
 ひょい、と雪仁君が、空いた左手を私に差し出した。  
「手フェチの高校生からのお願いです。手、握らせて下さい」  
 にんまりと笑った顔は、少しだけ赤い。  
 太陽はかなり西に傾いているけど、顔が赤い理由にはならない。  
 告白された時と同じぐらい、たっぷり十秒の時間を掛けて、私は差し出された手に、自分の右手を乗せた。雪仁君の手は、少しだけ汗ばんでいる。  
 雪仁君は、一瞬だけぴくりと指を震わせたあと、ほおっと溜め息を吐いて、私の手を握りしめた。  
「緊張してる?」  
「今もしてます」  
 頭半分高い雪仁君を見上げると、雪仁君は困ったように笑った。  
 内心私も緊張してたりするけど、それは敢えて黙っておこう。ずるいかも知れないけど、それが大人ってもんだ。  
「じゃ、帰ろうか」  
「はい」  
 ぎゅうっと握られた手は、色気も何にもないけれど、今はそれだけで充分心が暖まるから。  
 帰ったらたぶん、自分の行動を思い返して、恥ずかしさにのたうち回る気もするけど、こんな気持ちは久しぶりだから、それも取り敢えず享受しよう。  
 微妙な関係が、恋に育つか愛に育つか、それはまだまだ分からないけれど。  
 今はまだ、互いを知るのが第一だから。  
 
 そう思い始めている辺り、雪仁君の告白を前向きに考えていることに私が気付いたのは、それから数時間後のこと。  
 布団の中で雪仁君の手の感触を思い出し、一人赤面した時のことだけれど。  
 それはまた、別の機会に。  
 

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