翌朝、わたしは学校を休むことにした。  
 久遠を一人家においていくことはできないし、警察に渡したのは家の電話番号だけだった  
から、連絡がはいった時に家にいないといけない。  
 それに、もう一度大学に行ってみようと考えていた。  
 なにか、なんでもいいから、父さんがどこに消えたかについて分かることがあるかもしれ  
ないし。  
 まあ久遠に服を買ってあげるついでのようなものだ。  
 流石にぶかぶかのワンピース着させ続けているのはかわいそうだし。  
   
 ――ということを、学校へ行くのに迎えに来た知枝に説明すると、知枝はまるで遊園地で  
ジェットコースターをみつけた子供のような顔をして言った。  
「ついてく!」  
 ある程度予想できた言葉だった。  
知枝の性格は、わたしのそれよりも分かりやすい。  
面白そうなこと、楽しそうなことがあったら飛びつく。わたしみたいに楽しいことの裏に  
なにかあるんじゃないかと勘ぐることはしない。  
それが彼女の美点なのかも知れないが。  
「ついてってあげるよ、一人だと心もとないでしょ、だからさ、ついっててあげる」  
 強引過ぎるきらいもあって、たまに困ってしまう。  
「いやいいよ別に……」  
 果たしてわたしの言葉は知枝に届いたんだろうか?  
 知枝は言いたいことだけ言うと、靴を脱ぎ捨て、リビングへと突撃していた。  
 ドタドタ走っていく足音が止まったかと思うと「キャー」と悲鳴があがった。  
「おおう?」  
「なになに、この子が久遠ちゃん? やーん、なにこれかわいいー。ちっちゃいよー」  
「かっ、かなたぁっ、助け――ふぁっ」  
 背後から聞こえてくる騒音に、わたしは額に手を当て、大きくため息をはいた。  
「まったく」  
 そう言いながらも、自分の口が笑っていることに気付いていた。  
   
   
***  
   
   
「まったく」  
 家を出ると、まずわたしはそういって知枝を睨みつけた。  
「朝ご飯まで食べるなんて、どういう神経してるっていうか太るよ、キミ」  
「気にしない気にしない、栄養は全部おっぱいにいくからー」  
 陽気にいう知枝を絞め殺したくなった。  
 いったいどういう身体の構造してたら、栄養が胸にまわるっていうんだ、普通お腹とかふ  
とももとか二の腕からじゃないのか。  
 知枝になにか言い返そうとしたが。  
「きにしなーい、きにしなーい」  
 久遠が歌うように言った。  
 知枝はにこにこと笑いながら久遠の様子を見つめている。  
「ねー?」  
「ねー」  
 なんというかこの二人、精神年齢が近いのかもしれない。なんとなくそう思った。  
「それで、まずはどこ行くの?」  
 知枝が訊いた。  
「うーん、とね。とりあえず駅前のスーパーに行こうかな、あそこのスーパー二階で服と靴  
売ってるから。とりあえず久遠の着てるものなんとかしないとさ」  
「だねぇ」  
 久遠が今着ているのは、昨日わたしが渡したワンピースにサンダル履き、どちらもぶかぶ  
かだ。  
 そのぶかぶかな靴も楽しむように、ふらふら踊りながら歩いているが。あれは流石に履き  
続けていたら足を痛めてしまう。  
 いつまでうちにいるかは分からないけれど、外出の際のことを考えると、靴と下着くらい  
はなんとかしてあげないといけない。  
「……下着、か」  
 
「ん? どうしたの、彼方」  
 履きなれないサンダルで踊り歩く久遠。  
 着ているワンピースの裾が膝のちょっと下まで隠しているからいいけど、あれがもうちょ  
っと裾が短いか、強風でもふいたら見えてしまうんじゃないかと、どうにもハラハラしてし  
まう。――いや、これがパンツが見えるとかなら構わないんだけど。  
「久遠、真っ直ぐ歩きなさい! 危ないから!」  
「はーい」  
 久遠は元気な声を返してくれたが、踊り続けている。  
「もう、人の話ちゃんと聞きなさいって」  
 見える見えないの問題以前に、あんな歩き方をしてたら転んでしまうかもしれないし、車  
道に飛び出したら大変だ。  
 なんとかして止めさせないと、手を繋いだら少しはおとなしくなるかな。  
 わたしが頭を悩ませてると、知枝がふふっと短い笑いをこぼした。  
「……なによ」  
「べっつにー」  
 知枝は手で口元を隠したが、それでも堪えきれないというように笑みをふきこぼして、自  
白した。  
「だってさ、なんか彼方お母さんみたいで、おかしくて」  
 なにを言うかと思ったらそんなことか。  
「やめてよね。ただでさえうちにはおっきな子供がいるんだから」  
「おじさんのこと?」  
「うん、父さんあの歳で家事全然できないのよ。わたしが家出たらどうするんだか」  
 くたびれたスーツを着た父さんの姿を思い出し、小さくため息を吐いてしまった。  
 子供の頃は結構格好よかったような気がしたんだが、わたしが小学生の頃に母さんが死ん  
で以来、落ちぶれてしまったような気がする。  
 母さんが死んでショックだったのは分かるんだけど、今の父さんは一緒に暮らしている身  
としては、ちょっとかわいそうに見えてしまう。  
 朝大学へ出勤して、夕方帰ってきて、ご飯食べたら寝るまで書斎に篭り切り。  
 わたしが兄さんのように上京したり、そうでなくても結婚とかで家でていくことになった  
らどうする気なんだろうか。  
「そういえば、お父さんまだ帰ってきてないの?」  
 知枝に聞かれ、父さんへの心配でいっぱいになりそうだったのを振り切って、頷いた。  
「これで六日目。まったくあの人はどこふらついてるんだか」  
「……心配?」  
「なに言ってんの。あの人だって大人なのよ、っていうかわたしの親なのよ、子供が心配す  
るようなことだけはしないはず。今回だって、ただ単に連絡忘れてるだけよ」  
 できるだけ、呆れているといった様子で言った。全然心配なんかしていない、いやーねー、  
まったくもうってな感じに。不安がってる顔を知枝に見られたくないし、なにより  
『不安です』って顔してたら、余計不安になってしまう。  
「そっか」  
 華のような笑顔で知枝は頷いた。  
 なんかその笑みが『彼方の心の中なんて、言われなくても分かってます』って言っている  
ようで、ちょっとだけむかついた。  
 けどまあ、知枝に心配されているようじゃあ、わたしはまだまだだ。  
「なに? 心配だって言った方がよかった?」  
「ううん――それより」  
「うん?」  
 知枝は自らの胸元――イラストが伸びきってるTシャツ――を指差して、困った様子で言  
った。  
「彼方の服ってちっちゃいよね」  
「……あ?」  
「これってサイズいくつ? 初めて着たけど、んっ、なんか苦しくない? 彼方のほうは、  
なんかゆったりしてるけど」  
「…………」  
 ……ケンカを、売られている。  
 おそらく、知枝なりにわたしの気分を明るくしようとしてくれているのだろう。  
――それは解かる。  
 しかしだ、なにも貧富の差についておちょくらなくていいだろう。  
胸の貧富の差について。  
 望んで貧乏に産まれるものがいないように、誰が望んでこんな、こんな、こんな――  
 
「きゃッ」  
 わたしが知枝の存在をこの世界から抹消しようかと考えている時だった。  
 短い悲鳴が上がった。  
「久遠?」  
 慌てて視線を前方に向けると、久遠がアスファルトの上にうつ伏せで倒れていた。  
「だから転ぶからやめなさいって――あ」  
「あ」  
 わたしと知枝の声が重なった。  
 一陣の風がふき、ふわりと布がめくれた。  
 わたしも知枝もしばらくそれを見ていた、沈黙を破ったのは知枝だった。  
「……なんで、はいてないの?」  
 知枝に、わたしは額に手をあて「だって」と答えてやった。  
「子供用のなんてなかったし、それに女同士でも使用済みなんていやでしょ」  
「……そうかもしれないけど」  
 久遠は「いてて」と呻き声を上げながらゆっくりと身体を起こすと、座ったままの体勢で  
振り返り。  
「転んじゃった」  
 無邪気な笑顔でそう言った。  
「……いいから、股閉じなさい」  
 ほんと、どんな育ち方したんだか。  
   
   
***  
   
   
「下着、靴下、靴、鞄……服は本当にそのままでいいの?」  
「うんっ」  
「でもさ、そんなぼろいのより」  
「これ、かなたのなんでしょ? だったらわたしこれがいい!」  
 久遠は無邪気に笑ってそう言った。  
 買い物を一通り終えると、大学へ行く前に一旦スーパーの地下にあるファーストフードシ  
ョップで休憩することにした。  
 久遠の服飾類は買った後、トイレで着せてやった。試着室を使いたかったけれど、流石に  
買って直ぐ試着室で着ていくのも、なんだか変な目でみられそうでいやだった。  
 知枝は気にすることないと言ってくれたが。  
 高校生二人に小学生一人の三人が、平日の昼間スーパーでそんな行動とってたら怪しまれ  
る――というか、レジのおばちゃんにも「今日は学校お休みなの?」と訊かれて、一瞬答え  
あぐねたのは失敗だった。  
 でも、そのまま答えてもウソっぽいんだよなあ。  
 迷子を預かっているんですが、その子の親が見付かってないか調べるのと一緒に、わたし  
の父が行方不明になってるんで、てがかりがないか調べに行くんです。  
 ……ウソではないんだけどなあ。  
 でも、預かるにしても高校生、まだ世間的には子供なわたしたちがなんで? ってことに  
なるし。久遠が記憶喪失なのも――。  
 そう、久遠には記憶がない。  
『お家の場所とか、電話番号とか、せめて苗字くらい思い出せないの?』  
 言葉が喋れると分かったあと、わたしは何度か久遠にそう訊いたのだが。  
 久遠は決まって。  
『家? どこにあるんだろう?』  
『電話? あるかなあ……』  
『苗字? わたしはくおんだよかなた。くおんて名前』  
 大体こんな感じのことを答える。  
 これが訊くたび毎回全然違うことを言ったり、毎回全く同じことを言うのならウソだと言  
えるんだけど。  
 久遠にそんな素振りはない。  
「『久遠』て名前しか分からないのがなあ」  
 わたしは言いながら、備え付けのペーパータオルに『久遠』と書くと、その横に困った顔  
の女の子を書いた。  
 久遠はそれを覗き込み。  
「ねえ、かなた。これってなんて書いてるの?」  
 
「ん?」  
 ああ、難しい漢字は分からないか。ていっても、久しいも遠いも難しくはないけどね。  
「くおんて読むの。久遠の名前ってこの字でしょ?」  
「え?」  
 あれ? 違ったかな?  
 顔を上げると、久遠はぽかんと口を開けてわたしを見ていた。  
「違うの?」  
 どんな漢字をあてるのかまで聞いてなかったから、思い込みでそう考えていたが違ったの  
だろうか。  
 確かに九音とか玖恩とか字の当てようは他にもあるし。  
「ねえ、これってどういう意味?」  
 久遠は不意に違うことを言った。  
「へ?」  
「こういう言葉って、組み合わせで意味あるんだよね? これにも意味ってあるの?」  
「あ、うん。これはね、永久とか不滅とかって――言っても分からないか」  
 わたしはうーんと首を捻り、考えた。  
 こうして考えてみると、自分が当然のように使っている言葉を、その言葉を知らない人へ  
伝えるのは難しい。  
 わたしが考えている間、久遠はわたしが書いた字を指でなぞっていた。  
   
――うーんとね、それは――  
   
「ずっと、……ずっとなくならないって意味だよ。って……あれ?」  
 随分昔に、わたしが誰かに同じことを訊いたような気がした。ぽろっと出た言葉は、おそ  
らくその誰かの言葉なんだろうけど。それが誰だったか思い出せなくて、すこしモヤモヤし  
たのだが。  
「なくならないって意味かぁ……久遠」  
 嬉しそうに繰り返す久遠を見ていると、そんなことは些細なことに思えた。  
 と、そこへ。  
「たっだいまー」  
 小さい子用のおもちゃ付きのセットをトレーにのっけて知枝が戻ってきた。  
「あれ? いつの間にかいなくなってると思ったら」  
「へへー」  
 知枝は自らの無駄に大きい胸を指差し。  
「やっぱきついから、服買ってきちゃったよ」  
「……ああ、そう」  
 心底訊かなきゃよかったと思った。  
 わたしは飲みかけだったコーヒーを一気に飲み干すと立ち上がり。  
「休憩は終り! 用事はとっとと済ませましょ」  
「え、でも、今食べ始めるとこだし……」  
「人ン家でご飯食べておきながら、まだ食べるのか、キミは」  
「えへへ、成長期だし」  
 まだ胸が大きくなると言われているようで、あやうく蹴り飛ばしそうになったが、なんと  
か堪えた。  
「大学行って、警察行って、やること一杯あるんだから。分かってる?」  
「ほうら、久遠ちゃーん。フライドポテトだよー、おいしいよー」  
「って、聞けよ!」  
「え! 美味しいの?」  
「久遠も釣られない!」  
   
 結局、食べたことがないっていう久遠にハンバーガーとかフライドポテトとかシェイクと  
か一通り食べさせながら談笑していると、気づいた時には時計の針は十二時を指していた。  
……まったく、もう。  
    
   
***  
   
   
 本当は午前中に大学に行って、お昼は大学の学食で済ませて、それから警察に行くつもり  
だったのに。気付くと大学の最寄の駅で降りた段階で、お昼過ぎてるし。知枝を連れてきた  
のは間違いだったかもしれない。  
 わたしの気持ちを知ってか知らずか、知枝はほわほわとした笑みを浮かべている。  
「そういえば、彼方のお父さんの研究室に行くの始めてかも」  
「わたしもなんだよね」  
「あれ? 昨日行ったんじゃないの?」  
「昨日は門が閉じてて入れなくてさ、それにこの子が倒れてるのみつけちゃったし」  
 知枝は「なるほど」と頷き、わたしたちの間に立つ久遠を見た。  
 先程みたいに一人で歩いていると、また踊りだしそうだったから、手を繋いで歩くことに  
したら、どうやら久遠はそれで満足したようで。にこにこ笑いながら、わたしと知枝の手を  
ブンブン振り回してる。  
 最初久遠に会った時には無口な子だと思ったけど、時間が経つにつれてそうでないと分か  
った。  
 おそらく、最初の頃は怯えていたんだろう。  
 久遠がどういう経緯であそこにいたのかは、わたしには分からないけれど。普通じゃない  
ことくらいは分かる。  
 病院服着た裸足の小さな女の子が、大学校内の森の中で倒れている。  
 推測でしかないが、きっと尋常ではないことがあったんだろう。  
 わたしは、わたしの手を強く握る小さな手を意識した。  
「久遠、お母さん見付かるといいね」  
 そんな言葉が口を突いて出た。  
 なにも考えないでいった言葉だったけど、でも、確かにそうだと思った。  
 久遠の年齢を考えると、わたしみたいな見ず知らずの他人の家にいるより、家族と一緒に  
いたほうがいい。  
 うん、そうだ。絶対そうだ。  
 わたしの家族は、わたしが小さいころに母さんが死んで、それで父さんが家を顧みなくな  
って、その上兄さんも家を出てしまってて……家族での団らんなんて記憶にない。  
 あるのは父兄参観の時とか、家庭訪問の時に寂しいと思った記憶ばかりだ。  
 やっぱり、家族と一緒にいるほうがいいよね。  
 そう思い久遠を見たが、大きな瞳はきょとんと見開かれていた。  
「え? おかあさん?」  
「うん。久遠のお母さん」  
 久遠は不思議そうにわたしを見ていたが、しばらくすると「う、うん」と不思議そうな顔  
のまま頷いた。  
 あれ、なんだろ、変なこと言ったかな。  
 しばらく歩くと大学の事務室についた。  
「あ、すいません」  
 入った所で丁度よく昨日会った事務のおばさんと出くわした。  
 おばさんはわたしを見ると、「あ」と口を開け、指差した。  
「こんにちは。あの、この子のことでなにか分かったこととかって」  
「あ、ちょっとアナタ」  
 わたしの言葉を遮っておばさんは言った。  
「柊教授の娘さんだったわよね?」  
「え、はい、そうです。そうですけど」  
「落ち着いて聞くのよ、いい?」  
 ――嫌な、予感がした。  
 おばさんはとても深刻な顔で、わたしの両肩を掴み。  
「柊教授見つかって、でも今入院してるわ。意識がないみたい」  
「は?」  
   
   
***  
 
 
 夕焼けに染まる病室の中、誰かがすすり泣く声だけが聞こえる  
 その声はわたしによく似ていた。  
 わたしは父さんが寝ているベッドの横に、丸い小さな椅子を置き、ただじっと父さんを見  
つめていた。  
 父さんが発見されたのは、わたしたちがのんきに久遠の衣服を買っていた頃だという。  
 父さんは久遠と同じように、研究室の傍で倒れていたらしい。  
 ボロボロの白衣を着て、まるで戦場にでも行っていたような姿だったと、誰かが教えてく  
れた。  
 色々な人と話したような気がするけど、頭が混乱してて、なんか今にもパンクしちゃいそ  
うだ。  
 先生か看護婦さんの話によると、父さんはどうやら餓死寸前だったようで、目が覚めない  
のはそれが原因じゃないかと話していた。  
 ――餓死?  
 なんでこんな都会で、まともな職についてる人がそんな状態にならなければならないのだ。  
五日も六日も家を空けておいて、それでこんな状態で戻ってくるなんて。  
「…………なんで」  
 父さんはとても安らかな顔で眠っている。  
 その顔はとても幸せそうで、わたしと父さんの二人暮しになってから、こんな穏かな父さ  
んの顔なんて、初めてだ。  
 どんな夢をみているんだろう。  
 母さんとの夢かな?  
 父さん、母さんのことすっごい好きだし。きっと母さんの夢だよね。  
「……なんで」  
 父さんが研究に打ち込むようになったかは分かっている。理解しているつもりだ。  
 母さんが死んでから、父さんは研究に没頭し始めた。  
 いや。  
 母さんが死んだから、父さんは研究に没頭し始めた。  
 好きだったのは分かる、父さんが母さんのこと愛していたのは分かってる。  
 でも母さんは死んだんだよ、父さん。もういないんだ。そのことから逃げるように研究に  
打ち込むのはいいよ、かまわないよ、それが生きがいになったっていうならそれはそれでか  
まわないけど。  
 でも。  
 なんで、生きてるわたしを悲しませるようなことになってるのよ。  
 餓死なんて、ちゃんと家に帰ってきてご飯食べないからダメなんだよ。研究が楽しいかも  
しれないけど、ちゃんとご飯食べないと、死んじゃうよ。  
 死んじゃったら、もうなにもできないんだよ。  
 それとも、死ぬ気だったの――、  
「彼方」  
 背中に、なにかが触れた。  
 それは背中からわたしのことをゆるやかに抱擁して、穏かな声で言った。  
「おじさん死んだわけじゃないんだから泣かないの。ちゃんと帰ってきたじゃない」  
 知枝。  
「……泣いてない」  
「そっか」  
 知枝はわたしの肩の上にあごを乗せてきた。  
「いつ戻ってきたの?」  
 父さんがいる病室に案内されたあと、わたしは医者から父さんの状態に付いて説明を受け、  
次に警察から父さんについていくつか質問された。  
 それが終って、お腹が空いたという二人を食堂に送り出し。病室にはわたしと寝たきりの  
父さんだけだと思っていた。  
 だから、すこし、油断した。  
「ついさっき」  
「……そう」  
 別に、泣いていたところを見られたのが悔しいとは言わない。だって知枝にはこれまで何  
度となく泣いたところを見せてきたんだから、今更だ。  
 母さんが死んだとき、初恋が成就しなかったとき、小学校の卒業式のとき、兄さんが家を  
出ていった時、中学校の卒業式の時――常に知枝が傍にいてくれた。これだけじゃない、わ  
たしが辛い時、悲しい時、知枝はいつも近くにいてくれた。  
 だから、今更弱いところをみられてもどうということはない。  
「久遠は?」  
 
 近くに、あの小さいけど元気な女の子の影がないことに気がついて、そう訊くと。知枝は  
くすっと笑った。  
「学食に連れて行ったらね」  
「うん?」  
「おばちゃんたちに大人気でさ、相手してもらってる」  
「ははっ」  
 わたしは軽く笑うと、袖で目元の涙をぐいっと拭った。  
「あー、くそ。なんで泣いちゃったんだろ」  
「さあ」  
 知枝も笑みを含めた声で応えてくれた。  
 それがなんか嬉しかった。  
「まあいいや」  
 理由なんて分かってる。  
 変に暗いこと考えたのがダメだった。  
 父さんが今どんな考えで生きてるとか、父さんがなんで餓死しそうになったかとか、今わ  
たしが考えてもしょうがないことじゃないか。  
 父さんはまだ生きてるんだし、わたしだって生きてる、父さんが目覚めたら聞けばいい。  
 なんで帰ってこなかったのか。  
 なんでちゃんとご飯を食べてなかったのか。  
 生きてるんだから、向き合える。  
 そう、だからわたしは泣いたんだ。父さんがちゃんと生きていたってことが嬉しくて、だ  
からわたしは泣いたんだ。  
 そうと決め付けたら、頭がすっきりしたような気がする。  
 色々やらないといけないことはあるし、うじうじ心配してる暇はない。さて取り合えず――  
「……ところで」  
「ふみ?」  
 わたしは知枝の手首を掴むと、口元を吊り上げ笑った。  
「なにをしているのかなぁ? キミは」  
「なにって、彼方のおっぱいが少しでも大きくなるよう揉んであげてたんだけど」  
「ほぉう?」  
 言いながら、少しずつ少しずつ手首を掴む手に力を込めていく。  
「――っ!? 彼方、痛いよ?!」  
「そりゃそうよ、痛くしてるんだから」  
 わたしは歯を食いしばったまま笑うという高等技術を披露しながら、知枝の手をねじ切る  
くらいの力でどんどん締めていく。  
「え、ちょ、謝るから。揉みながら、『つくづく小さいなあ、っていうかないよなあ』とか  
思ってたことも謝るから、もうやめてっ」  
「……死なす」  
「ちょおっ」  
 それから十分ほどの乱闘の末、見回りに来た看護婦さんに発見されて、ようやくわたしは  
矛を収めた。  
 知枝を床に押し倒して組み伏してる姿を見られたのは、ほんと、失態だった。  
   
   
***  
   
 
 病院で付き添っていてもできることはないので、わたしと久遠は塾へ行く知枝を駅まで見  
送ると、スーパーマーケットに寄ってから帰ることにした。  
 わたしたち――久遠は今日もうちに泊まることとなった。  
 大学病院とその周辺の病院で、入院患者が抜け出していないか調べてもらったが、そのよ  
うなことはどの病院でも起きておらず。また、警察のほうにも届けがないらしい。  
 それに、  
「久遠、ほんとにどこから来たかも分からないの?」  
「うん、そうだよ。かなた」  
 久遠は自分がどこから来たのか、いやそれ以前に、名前以外のことを答えられないのだか  
ら、それ以上の追求のしようがない。  
 警察や大学の人たちは、久遠のことを記憶喪失だと言っていた。  
 かろうじて自分の名前を憶えているだけで、他は憶えていない。  
 確かに記憶喪失のように思える。  
 でも、わたしは違うんじゃないかと考えていた。  
 久遠は本当に、名前以外のことを知らないんじゃないか、って。  
「ん? どうしたのかなた」  
 久遠の大きな猫のような瞳がわたしを見つめていた。  
 どうやらわたしはいつの間にか立ち止まってしまっていたようだった。  
「あ、ううん。なんでもない」  
 歩き出すと、わたしは再度思考の海に潜ってしまっていた。  
 人と話したい気分じゃなかった。というより、頭の中がごちゃごちゃしていて、それをま  
とめようとしているのか、勝手に頭が回っているような感じ。  
 普段なら考えないようなことばかりを、考えてしまっている。  
 わたしは軽く頭を振ったが、なかなか、まとわりついていて離れてくれない。  
 父さんは、なんで餓死寸前までなにも食べなかったんだろう、いや、食べることができな  
かったんだろう。  
 研究に熱中してたから?  
 それとも誰かに捕まえられてた?  
 誰かって誰?  
 父さんはただの大学教授でしかない、そんな人が監禁される理由ってあるの?  
 わからない。  
「かなた?」  
 わからないといえば、久遠はなんでなにも分からないんだろう。おかしくないか。だって  
最初服の着方も、トイレの仕方も分かってなかった。記憶喪失になったらそんなことまで忘  
れちゃうものなの?  
 それともウソをついているだけ?  
 家出してて、帰りたくないから、だからなにも分からないって――いや、だとしたらおか  
しいか。たとえ同姓でも、おしっこ漏らすとこ見られたいわけがない。それも演技だとした  
ら、久遠はどうしてそうまで家出し続けようとしてる?  
 帰りたくないにしても、そう、久遠の両親とか保護者が気付いてないわけない。警察に届  
けだしてるはず。  
 それがないってことは、久遠には捜索届けを出してくれる人がいないってことか。  
 それってどういうことなんだろう。  
 いないのか、捜索届け出してないだけか。出してないって、そんなことってあるの。自分  
の子供がいなくなって、探そうともしないとかないよね。  
 嫌な考えばかり頭によぎる。  
「かなたっ」  
「……え?」  
 久遠の声で現実に引き戻された。  
「どうしたの、かなた。さっきからおかしいよ、ずっと黙っちゃってて」  
「あ、うん。ごめん」  
 こんな小さい子に心配かけるとは、わたしは最低だ。  
 なんとか笑おうとしたが、どうも苦笑いにしかならなかった。  
「ちょっと考えごとしてた」  
「かんがえごと?」  
 わたしは頷くと、公園があるのを見つけ、そこで休むことを提案した。  
   
 久遠が滑り台の坂を登ろうと必死になっているのを見ながら、わたしは缶コーヒー片手に  
一息ついた。  
「……うぇ、まず」  
 いつも飲んでるやつがなかったから、適当に買った缶コーヒーは、どうも泥水のような味  
しかしなかった。  
 こういうのでもホットだと意外と飲めるんだけど、アイスだと飲むだけでも苦行に近い。  
 しかし、どうしたものだろう。  
 考えることが多すぎる。  
 頭が働きすぎてる。  
 父さんのこと、久遠のこと、おおまかに分けるとたった二つのことなのに。その悩みの重  
量は凄まじく大きかった。  
 クソまずい缶コーヒーを笑顔で嚥下するほうが楽だ。  
 とりあえず、父さんのことは父さんが目覚めてからでいいかな。ていうか、父さんが目覚  
めないとわたしにはなにも分からないし。  
 父さんが起きたら色々言おう。  
 餓死するまで研究するなとか、ちゃんと家と連絡取れるようにしておきなさいとか、たま  
には家族サービスしなさいとか。  
 まあ、色々だ。  
 父さんが目覚めるには一日二日、もしかしたらそれ以上の期間が必要かも知れないと病院  
の先生が言っていた。なんでも、死にそうだった身体を休めるためには、それだけの時間の  
休養が必要で、身体のほうでセーフティが作動して眠ったままだとかなんとか。  
 それまで父さんのことは置いておこう。  
 当面の問題は、  
「久遠、か」  
 久遠はどこから来たんだろう。  
 どこに帰したらいいんだろう。  
 久遠の引き取り手が見つからなかったら、施設に入れられるんだろうか、それとも里親で  
も見つけるんだろうか。  
 里親――うちで久遠のこと引き取ったらダメなのかな。  
「あー、かなたなんか飲んでるー。一人だけずるーい」  
 滑り出いを登りきった久遠がわたしを指差してそういった。  
「ごめん、喉渇いたからさ。久遠もなんか飲む?」  
「いいの」  
「いいよー」  
 わたしがそういうと、久遠は尻尾がはえてたらぶんぶん振っていそうなくらい嬉しそうに  
走ってきた。  
 懐から財布を出すと、そこから一二〇円取り。  
「自販機の買い方分かる?」  
「じはんき?」  
 久遠は首を横に傾げた。  
 これは分からないのか。久遠が分かることと分からないことの境界線が、地味に分かりに  
くい。  
「じゃあ、教えてあげる。ついてきて」  
「はーい」  
 公園内にある自販機の前で買い方を教えると、久遠は直ぐに理解して買えるようにはなっ  
たが。一番下の列以外は背が足りなくて買えそうになかった。  
「かなた、届かないよ」  
「あー、はいはい。抱っこしてあげる」  
 わたしでも抱き上げれるくらい軽い久遠。  
 なんか昔こんなことあったな、あの時はわたしが抱き上げられる側だったけど。  
 そういえば兄さんに連絡入れるの忘れてた。まあ、後でいいかな。  
「ねえかなた、どれがおいしいと思う?」  
「決まってなかったのか……」  
   
   
――続く  
 

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