あいまいな記憶。
わたしが小学校に入る前のことだ。
記憶からは風化しかかっていて、残っているのは木っ端のような断片に過ぎないのだろう
が。
――時折、思い出す。
幼いわたしは母さんと一緒に近所の公園で遊んでいた。
あの頃のわたしは、母さんが病気を患っていることなどまったく知らなかった。
母さんがいつも日傘をさしているのはオシャレで。母さんが少し早足で歩くだけで休憩を
入れるのは、母さんがもうおばさんだからで。 母さんが三日に一回は寝込んでしまうのは、
ごはんをいっぱい食べないせいだと思っていた。
いや、思い込まされていた。
そういう意味では、うちの家族はうそつきのプロだといえた。
実際、母さんが入院するまで、わたしは母さんの病気のことを知らなかったのだから。
『おかあさん、おそーい!』
そういって、のんびりと歩く母さんを何度急かせたことか。
だけど、母さんはうそをついて誤魔化すことができない身体になるまで、わたしの前で苦
しそうな顔をみせたことはなかった。
『はいはい、今行くから』
子供の足で歩いて五分、走らなくても直ぐに着くのに、わたしはいつも走って公園へ向か
う。一刻一秒でも早く公園に行きたい、一分一秒でもいいから長く遊んでいたい。ただそれ
しか頭になかったんだと思う。
友達のお母さんたちは、子供の遊び場に顔を出すことはなかった。
母さんがわたしの後についてきていたのは、少しでも長くわたしとの思い出を作りたかっ
たからじゃないだろうか。
といっても、母さんは遊んでいるわたしのことを見ていただけだが。
身体のこともあるけど、子供の中に大人が一人混ざってたら変だし、わたしたちも遊びづ
らかっただろうし。
それでも、友達が来るのを待っている間だけ、母さんは遊んでくれた。
ブランコ押してくれたり、キャッチボールしたり。でも身体の弱い母さん相手に、手加減
してやるのは、子供のわたしには退屈だったような覚えがある。
春には花の冠の作り方を教えてもらったり、秋にはどんぐりでコマを作ってもらったりも
した。
その時のことをたまに思い出す。
母さんとの記憶。
想い出。
今ではもやがかかってしまったかのようにあやふやな記憶。
母さんが死んだのは、それから数年も経っていない。わたしが小学校に入って直ぐのことだ。
入学式を終えた頃には、母さんは病気で外に出歩くことすらできない身体になってしまっ
ていた。
小学校に入る少し前の記憶だけが、憶えている数少ない母さんとの記憶。
だからなのかもしれない、その時のことをよく思いだすのは。
『ねえ、おかあさん』
『なあに?』
たんぽぽで指輪を作る母さんの手先を見ながら、わたしは母さんに話しかけていた。
『ゆみちゃんには妹がいるのに、なんでわたしにはいないの』
『え?』
『ねえ、なんでー』
『んー? 彼方ちゃんは妹欲しいの?』
『うんっ』
あの頃のわたしに会えたら、思い切り蹴っ飛ばしてやりたい。それはもうサッカーボール
でも蹴飛ばすかのように。
母さんの身体を考えたら、子供が産めないことなんて分かるのに。……いや、あの頃のわ
たしにはそんなこと分からなかったんだけどさ。
そんなわたしに母さんは怒るでもなく、悲しい顔を見せるわけでもなく、微笑んで答えて
くれた。
『今すぐは無理かなぁ』
『そうなの?』
『うん。でも、名前くらい、先に考えておいてもいいかもしれないわね。彼方ちゃんは妹が
できたら、どんな名前がいいかな?』
「――久遠」
ぱたぱたと足音を鳴らしながら、わたしは一人の少女を探していた。
その少女は、先程まで魅入られたかのようにテレビをみていたのだが。わたしが夕飯の調
理を終えリビングに戻ると、いなくなっていたのだ。
どこへ行ってしまったんだろう?
わたしは二階建ての一軒家の中を探すのは億劫だと思いながらも、エプロンをソファの上
に脱ぎ捨て。再度、彼女の名前を呼んだ。
「久遠ー、どこー?」
二階に二部屋、一階にバスルームとキッチンそれにトイレ込みで六部屋、計八部屋の小さ
な一軒家でも、わずかな隙間にでも潜り込めてしまえる少女を探し出すのは、骨が折れそう
だ。
彼女が興味を持ちそうな場所はどこだろうと考えてみようとしたが。
わたしには、彼女が興味を持ちそうな場所の心当たりなどない。
強いてあげるのなら、先程まで食入るように視ていたテレビだが。夕方の報道番組を映す
ブラウン管の前には、少女の座っている姿はない。
ならば、と考え。直ぐに考えることをやめた。
考えるくらいならその時間を使って探したほうがマシってものだ。
とりあえず、一部屋一部屋潰していくことにした。
この家には今、わたしと彼女しかいないのだから、物音がしたらイコール久遠ということ
だし。
ただ一つだけ問題があるとすれば。
久遠を探し出すまでの時間で、折角作った夕飯が冷めしまわないかということ。それだけ
が気がかりだった。
久しぶりに誰かと食べる夕飯だからと、気合を入れすぎた。――といっても、冷蔵庫にあっ
たもので作った程度だけど。
久遠の口に合えばいいけど。
そんなことを考えながら、リビング、仏間、父さんの書斎を見終え。
いないだろうなあと思いながらトイレとバスルームを覗いたが、小さなシルエットはどこ
にもなかった。
キッチンは先程までわたしがいたから、彼女が来ていれば気づくだろう。
となると後は二階か。
階段の電気は点けられておらず真っ暗。
久遠が昇った後に消したとも考えることはできたけれど、そのようなことに気が回りそう
なタイプだとは思えなかった。
「いやいや」
まだ会って半日も経っていないのに、そう判断するのは早計っていうものだろう。
そう、わたしが久遠と出会ってからまだ半日も経過していない。
彼女と出会ったのは今日の夕方。
わたしが彼女について知っているのは、「久遠」という名前のみ。
「不思議な子なのよね……」
多分わたしの思い込みなのかもしれないけれど、彼女は知らないことが多すぎるように感
じた。
久遠を家に招いてから、彼女がテレビに魅入られるまでの間。まるで他の星から来た宇宙
人に地球の文化を教えているかのようだった。
汚れた服を脱がせてあげ、着せてあげなければならなかったし。どういう生活をしてきた
のか、トイレでする習慣がなかったようで、仕方を教えてあげる必要もあった。
「――あ」
そこまで考えて、嫌な考えにぶちあたった。
「いや、まさか、ね……はははは」
渇いた笑いを上げたあと、わたしはダッシュで階段を駆け登った。
考えたくはなかったが、もしわたしの部屋で、先程のようにおしっこを漏らしていたらと
思うと、走らずにはいられなかった。
「久遠っ!」
わたしは自室の扉を勢いよく開け踏み込むと、室内を見渡して彼女の姿を求めた。
だがわたしの心配を他所に、彼女の姿はここにもなかった。
「……ふむん」
ベッドの上に脱ぎっぱなしだった高校の制服を、壁にひっかかってるハンガーにかけると、
脱いだままの靴下をポケットに突っ込んで部屋を後にした。
探していないのは、兄の部屋くらいなのだが。
踏み込むのには少しばかり勇気がいった。
いや、別に兄のプライバシーがどうこういう気はない。
もう三年も前に出て行ったまま、帰ってこなくなってしまった人の部屋だ。そういう点で
は気にすることもないのではあるが。
去年の大掃除の時に掃除してやって以来、立ちいったことさえなかったから、虫とかわい
てたらと思うと、二の足を踏んでしまう。
けれど、兄さんの部屋はそれこそ時がとまったように、変わっていなかった。
変化があるとすれば、本棚や机にうっすらと埃が積もっていることくらいだろうか。今年
の大掃除の時にでも掃除してやろう。
しかし、ここにもいないとなると、いよいよ困った。
探せる場所は全て探したが、――いや、もしかしたら出て行ってしまったという可能性も
あるか。
だとしたら大変だ。
慌てて玄関へ向かったが、玄関の鍵はしっかりと内側からチェーンで閉じられたまま、思
わずほっと胸を撫で下ろしていた。
警察に、久遠の親が現れるまで、預かっていると言ったからというのもあったが。またど
こかへと、ふらふら行ってしまってやしないかと思っただけに、安堵は大きかった。
ならば、どこへ行ったのだろう?
もう探していない場所はないはずだ。
「まあ、見落としたってこともあるかもしれないしね」
それにすれ違ったという可能性もある。
一軒家としては狭い家とはいえ、そこそこの広さはあるのだ。
ポストに刺さっていた新聞を掴み、居間へ戻ろうとして、わたしは異変に気付いた。異音
とでもいうべきだろうか?
その音は台所のほうから聞こえてきた。
テレビの音量がすぼめられていたから聞こえたが、本当にかすかなその小さな音は、何か
を咀嚼するような音だった。
「まさか……」
わたしは頭の中央に居座った嫌な予感を払拭しようとしながらも、ゆっくりと台所のほう
へと足を進めた。
そこには――
「……う?」
予想通りと言うべきか、久遠がいた。
久遠は先程盛り付けたばかりのサラダボウルを抱え、手づかみでその中身を食べていた。
ドレッシングをかけた状態でなかっただけ、マシだったかもしれない。それでも久遠の周囲
には食べかすが散らばり、貸したワンピースも汚れていた。
「……はぁ」
小さくため息を漏らすと、久遠に言った。
「まったく、キミっていう子はどういう育てられ方してるのかな」
久遠はわたしの言葉なんて理解できないというように首を傾げると、再び食べ始めてしま
った。
よっぽどサラダが美味しいらしい。
これが手の込んだ料理だったなら、夢中で食べてくれるのも嬉しいけれど。ただ千切った
りしただけのサラダだから、久遠の食欲に呆れてしまうばかりだ。
「ほら、あっち行って一緒に食べよ。ね?」
わたしは久遠の腕を掴み、立ち上がらせると。彼女の腕を引いて居間まで連れていった。
久遠はその間も黙々とレタスを手づかみで食べ続けていた。
これから久遠に手づかみでないご飯の食べ方を教えなければならないかと思うと、少しだ
けうんざりした。
わたしが久遠と出会ったのは、ほんの五時間ほど前のことだった。
***
「――かーなーたー。ねえ、彼方ってば」
「ん?」
わたしはいじっていた携帯電話をぱちんと閉じると、正面の席に座る友人へ目をやった。
「なに?」
「早く食べないと、お昼休み終わっちゃうよ」
そういう友人――神楽知恵へ頷き返し、携帯電話をブレザーのポケットにしまった。
「え? ああ、うん」
昼休み、わたしは珍しく学食にいた。珍しく――というのは、普段は弁当を持参してきて
いて、学食を使ったことがなかったから。高校に入学して一年半、来るのも初めてかもしれ
ない。
次いつ利用するかわからないからと、美味しそうなのをあれこれと取っていったら、計九
五〇円とかいう、なにやら豪華なランチになっていた。
というより、学食っていうのは定食屋みたいなものだと思っていたから。色々とおかずを
選んで付け合せられることを知って少し驚いた。
四七〇円のネギトロ丼に八〇円のザーサイ、一二〇円のプリン、一五〇円のフルーツポン
チ、それに一三〇円の小さなケーキは知枝が、
「って、なんで人のもの当然のように食べてるのよ。キミは」
「ふぇ?」
知枝はフォークでチョコケーキを小さく切って口に運びながら。
「なんでって……おいしそうだったから」
「ふうん」
「食後のデザート」
「へぇ」
至極当然のように応える知枝。
面の皮が厚いのか、それともただ単に天然なだけなのか。おそらくは後者なのだろうが、
いわゆる所のお嬢さまな神楽知枝の思考回路は、たまにわたしではついていけないことがあ
る。
「それに、彼方一人じゃ食べきれないかと思って」
「まあ、それは確かに」
昼休み終了まであと十五分、食べきれる自信はない。
けれど、
「一言断ってから取るとかしたら?」
それくらいの礼は友達の間にもあっていいはずだ。
だが知枝はあっけらかんと微笑んだ。その小動物のような笑みは同姓のわたしが見ても、
保護欲がそそられてしまう。
「まあまあ、わたしと彼方の仲じゃない」
だそうだ。
こういうことを当然のように言えてしまう友人の性格が多少羨ましい。
「なら食べるの手伝って。残したら作ってくれた人に悪いしさ」
「はーい」
知枝は楽しそうに応えた。
「ありがとね」
食べすぎで太っても知らないよ――という言葉は飲み込んでおいた。
「さっきからチラチラ、チラチラ」
「うん?」
昼休みが終って、地学教室へ向かう途中知枝に指摘された。
「三○秒置きに携帯電話出しては仕舞って、そんなに気になるの?」
「え? ああ、うん」
そんなペースで見ていただろうか?
いや、確かにそれくらいの頻度で見ていたような気はする。
それに今も、ブレザーのポケットに入れている携帯を取り出そうとしていた。わたしは手
をポケットから出すと、後ろ手に組んだ。先程から熱心に話していた知枝に悪いし、頻繁に
弄ってたせいで大事な時に電源が切れたら困る。
そういや知枝なんの話してたっけ?
「まさか彼氏ができたとか!」
――と、知枝がわたしの前に回りこんでそんなこといった。
「は?」
「とか!」
らんらんと輝く目には、向けられても応えようがない期待が宝箱のように込められていた。
太陽のような熱量を発するそれを直視できず、知枝の肩を掴むと、くるりと反対を向かせた。
わたしは苦笑を浮かべ。
「ないない」
「ならなんでー? まさかわたしからのラブメールを待ってるとか! それなら書いてあげ
るよ!」
「ないない」
振り返ろうとする知枝の背中を押してやりながら、少しだけ声をすぼめて言った。
「父さんとね、連絡がとれないのよ」
「へ?」
「五日前から帰ってきてないのよ、うちの父さん。携帯電話の電波は届かないし、研究室の
電話は通じないし、大学の事務室に連絡頼んでもなんか返事曖昧だったし」
「え? なにそれ、どういうこと?」
聞き返されて、少しだけ苛立った。
そんなこと分かるんだったら、こんな気にしてない。
「連絡が取れないのよ」
「五日前から?」
「うん」答えてから、頭を振った。「ああ、ううん。五日前の段階だと連絡はとれてた。連
絡がつかなくなったのは、二日――いや、三日前から」
言うと、知枝は足を止めた。
細い手でわたしの手に手を重ねて、先程までとは違う落ち着いた声で言った。
「まったく連絡がつかないの?」
「うん。いつもなら外に泊まる時は一日一回は連絡くれたのに」
「そっか。警察には?」
「……警察」
そうか、失踪したと考えるのなら。まず警察に連絡しないといけないのか。でも、
「まだしてないし、できればしないで終らせたい」
大事にするのがいやだとか、警察に関わりたくないとかじゃなく。警察に連絡してしまう
と、二度と父さんが帰って来なくなってしまうような気がしたのだ。
ただ流石に明後日になっても帰ってこなければ、警察に連絡を入れようとは考えていた。
いなくなってから丁度一週間だし。
知枝はそんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、そっかと呟き小さく頷いてくれた。
「大学には」知枝はこほんと小さく咳をした。「大学の研究室には行ったの?」
「ううん、まだ。今日行こうかなって」
わたしの父さん、柊正吾は大学の研究室に勤めている。
陰秘学っていうなんだかよく分からない分野の研究をしている。
陰秘学とは直感により、存在するものと先験的に想定する超自然的な存在や法則なるもの
をとらえようとする技術や、精神的営みの結果得られた知識体系。その中でも、とりわけ衆
目の目からは隠されてきたもののこと指しているらしい。
正直、ちんぷんかんだったわたしに、父さんは分かりやすく言ってくれた。
『オカルトの研究だよ』
オカルト――魔法とか錬金術とか宗教とか、よく分からないあやふやなものについて父さ
んは研究しているらしい。
らしいというのは、わたしは父さんの研究について興味が薄いからだ。
それというもの、小学生の頃に母さんが死んで以後。家での家事全般を受け持ってきたわ
たしとしては、そんな絵空事よりも、明日どこのスーパーで特売があるかのほうが重要だっ
たからだ。
だから、父さんがどんな研究をしているのかよく分かってない。
それでも一つ言えるのは、父さんが『空を飛べる』などと言い出す人ではないこと。
オカルトといっても、胡散臭いものではなく、考古学や民族学、宗教学の兼ね合いのよう
な地に足のついた学問らしい。
「なるほど」
知枝は小さくうんうんと首を縦に振った。
「それで今日は携帯気にしっぱなしだったわけか」
「そそ」
知枝は少し考えた様子を見せた後。
「じゃあ、わたしもついてくよ。一人じゃ不安でしょ」
予想していた答だった。
だからこそ、わたしは微笑みを浮かべ知枝の頭に手を置いた。
わたしの固い癖っ毛と違って、知枝の髪はふっくらとしていてやわらかい。
「キミは塾あるでしょ。なら、そっち行かないと」
「でも」
上目遣いに見つめてくる知枝。その小動物的愛らしさに、なんでこの子彼氏いないんだろ
うと真面目に悩みそうになりながらも、わたしは態度を崩さなかった。
「だーめ。別に、人知未踏の秘境に乗り込むわけじゃないんだからさ、一人でだいじょうぶ
だって」
「……でも」
「心配してくれるのはありがたいよ、でもそれでキミが怒られたら、わたしがつらいよ。わ
たしに嫌な思いさせたいの?」
まるで子供をあやしてるようだ。
一ヶ月しか歳の離れていない幼馴染なのに、妹のように思えてしまう。
わたしは後ろから知枝に抱きつくと。
「あんまりわがまま言うと、ちゅーするぜ」
冗談めかしてそういうと、知枝はくすっと笑った。
「うん、じゃあ、塾行ってくる。でも、なにかあってもなくても、連絡ちょうだいね」
「分かってるって」
放課後。
わたしはいつもなら、知枝が塾に行くまでの時間をいっしょに潰すため、近所の本屋に寄
ったりするのだが。今日は駅前で知枝と別れて、地下鉄に乗った。
父さんが勤めている大学は、家から地下鉄で駅三つ分離れているところにある。
大学を一人で訪れるのはこれが初めてかもしれない。
だって、用事もないのに親の仕事場にちょくちょく出向く理由なんてないし。
そういえば兄さんは、大学に入学する前から、よく父さんの研究室に遊びに行ってたっけ。
兄さん、今頃東京でなにやってるんだろ。
大学は駅から五分ほど歩いた場所にあった。着いた時には空が既に紫色に染まっていた、
あと一時間もせず真っ暗になりそうだ。
まず事務室に行って、父さんの研究室の場所を聞いた。
どうやら隅の方にあるらしい。
並木道に沿っていけば着くと言われたが、途中何度も曲がりくねってる道を見て、真っ直
ぐに林を突っ切る道を選択した。
門をくぐってから二〇分ほどで、父さんの研究室がある建物の前に着いた。
その景観は、わたしが考えていたものとは少し違っていた。
研究室というからには病院みたいな場所を想像していたのだが、そうは見えなかった。
やはりここには来たことがない、そう記憶が告げていた。
雑木林の中にひっそりと建つ、二階建ての建造物。
「なんか……」
言葉が口からついてでた。
二の句が出てこない、飲み込んでしまわないと不安に押し潰されそうな外観だった。
窓という窓に暗色のカーテンがかけられていて、内部が見えないようになっているし。一
階の窓にはそれに加えて、まるで台風でも来るかのように板が打ち付けられている。
外壁は所々崩れ落ち、コンクリートが露出していて、まるで廃墟のようだ。
それに加え、その建造物を囲う柵と門の存在に、不穏な印象を覚える。
鉄柵は上部が棘のような乗り越えにくい形になっていたし。なにより、鉄錆の浮いたその
見た目に、どうも不快なものを感じずにはいられなかった。
いや、そんなのはただの印象論だ。
怖いと思うから怖い、嫌だと思うから嫌になる。暗い夜道を歩いていた時、兄さんがそう
言っていた。実際、そうだと思う。
だって、確かに外観はぼろいかもしれないけれど。ここで父さんが働いているんだ。
鉄錆の浮いた門に手をかけ、ゆっくりと押したが、門は開かなかった。
「え?」
引くのかと思い、今度は思い切りよくひっぱったが、しかし――
「えええ」
鍵でもかかっているのか門は一向に開かない。
しかし、年代ものに見えるこの門に鍵のようなものは見当たらない。
どういうことなんだろう?
押しても引いても開かない、錆のせいだろうか、だとしてもなんとかはいる方法を見つけ
ないと。
乗り越えようかと思ったが、門にも上部に鈍い金属色の棘が生えていて、足が滑ってそれ
が刺さるようなことがあったら……そう考えると、少し背筋が凍った。
乗り越えるのは他に方法が見つからなかった時ということにし、周囲を散策することに決
めた。
太陽は既に落ちてしまっていた。
薄暗い林の中、落ち葉を踏みしめながら歩くのはぞっとしなかったが。確保しやすいよう
にか、手入れの問題にか、木々の間に一定の感覚があったおかげで、なにも視えないという
ことはなかった。
それにしても、柵はきちんと並んでいて通り抜けられそうなところはなかった。
一度、少しだけ間隔が広い場所があって、そこを通ろうかとも考えたが。わたしは凹凸が
ないこともない自らの体を見て、潜り抜け作戦を実行に移す気にはなれなかった。
だって、もし潜り抜けられず、お尻の辺りでひっかかって動けなくなったらと思うと。そ
んな状態で発見されたら、恥ずかしくて町歩けなくなるし。
……こういう時、ひっかかる理由が『胸』とかだったら、少しはマシかもしれないが。わ
たしは自分の胸を見て、わずかに落胆した。
これが知枝なら、まさしく胸でひっかかったーってできるんだろうな。とか、そんなこと
を考えながら歩いていると、建物の周囲を一周してしまいそうだった。
結果から言えば、入れそうな場所はどこにもなかった。いや強引に突破すればどこからで
も入れそうではあるが、柵を乗り越えるか、潜るか、撤去するかのどれかを選ばなければな
らなくなる。
乗り越えるのは運動音痴のわたしには無理っぽいし。
潜るのは失敗した場合のリスクが高い。
撤去するのは、……どうやって? 方法がない。鉄柵をえいやっと壊せるような怪力も道
具もないのだ。
もう一回事務室に行って鍵を開けてもらうよう頼もうか、そう考えている時だった
――わたしが彼女に出会ったのは。
ぐるりと一周回って門の前に戻ってくると、そこに一人の子供が倒れていた。
「へ?」
わたしは歩く足を少しだけ遅め、ゆっくりと近づいて行った。倒れている人間に駆け寄れ
るほど、トラブルへの対処能力はない。
人が倒れている。
その姿がとても怖かった。
人が倒れてるなんて尋常じゃない。十中八九怪我してるか病気かどちらかだ、どちらかで
なければ起き上がるはず。だから歩調を遅くした、そばに行くまでに立ち上がってくれるこ
とを願って。
しかし、その子は一向に立ち上がる素振りすらみせず、ひくりとも動かない。
よく見ればその子が着ている服は、病院なんかで検査する時に着るような薄手の服を着て
いるだけで、靴も履いていなかった。
なんなんだろうこの子。
大学病院から抜け出して来たのかな?
でも、病院からここまで結構な距離があるし、その間こんな目立つ格好で歩いてたら誰か
気付くんじゃないか。
周囲を見回した。
他に声をかけてくれそうな人。他にこの問題に一緒にあたってくれる人。どちらでもいい
からいないかと首を巡らせたが、しかし、誰もいなかった。
声をかけないと、声をかけたほうがいいよね。音が鳴りそうなほど強く唾を飲み込み、距
離を詰めていく。
いきなり起き上がって「わあっ!」ってされたら、心臓止まって死ぬ気がする。それくら
い心臓がどくんどくんと早鐘を打っていた。――いや、そんなことされる理由なんてないけ
ど。
わたしはとりあえず声をかけてみることにして、軽く息を吸った。
「……おーい」
反応はない。声が小さかったかなと、もう一度呼びかけた。
「おーい、キミキミ。ちょっとー」
へっぴり腰でおずおずと呼びかける姿は、どうも間が抜けてたけどしょうがない。
一向に起き上がってくれる様子がないまま、とうとう手が届く距離まで来てしまった。
身体を揺さぶったらまずいのかな? 外傷はないようだけれど、あんまり動かすのはダメ
なのかな? でも、呼びかけたくらいじゃダメなんだから、肩叩くくらいしても大丈夫だよ
ね?
そう思ってわたしはその子へ手を伸ばし、触れようとした瞬間――逆にその手を掴まれて
いた。
一瞬で頭が真っ白になった。
「――――っ!? ぎゃああああああああああああああああああああああ!!」
……気が付くと、地面にへたりこんでいた。
いつのまに手を伸ばしていたんだろう、気付かなかった。
でも、これではっきりした。この子はちゃんと動ける、ここに突っ伏して倒れていたのは
きっと、そう、悪ふざけかなにかだ。
わたしはそんなことを考えながら、空いているもう片方の手で胸を押さえ、話しかけた。
その段階になってはじめて、倒れていた子が女の子なのかなと考えた。いやまあ、さっきま
ではびびっていて、そんな心の余裕がなかっただけなのではあるが。
それに女の子だと思った理由も、髪が長いからってだけだけど。
「ねえねえ、こんなとこで寝っ転がってたら風邪ひいちゃうし。もう遅いんだから帰らない
と、周りの人心配しちゃうよ」
家族が心配、と言わなかった。着ている服と場所的に考えて、この子は大学病院に入院し
ている子なんだろうって思ったから。
そう話しかけると、ようやく少女はわたしの声に反応してくれた。
地面にくっついたままだった顔を離し、まるで小鹿が立ち上がるかのような様子で上体を
起こして、わたしのほうを見た。
大きな目だなとかそんなことを思った。
少女の瞳はまるで猫のようで、それこそ本当に縦長の瞳孔をしていた。
「ほら、送って行ってあげるからさ。ね?」
少女はわたしの言葉に大きな瞳を見開いたまま、かくんと首を振った。
「よし、じゃあ行こう行こう」
言いながらも、わたしは彼女をどこに送ったらいいんだろうなあと頭を巡らせていた。
――それが、わたしと久遠の出会いだった。
***
その後、わたしは大学の事務室に行って、大学内で迷子がいないか確認してもらったがい
ないと答えられ。
応対してくれた事務のおばさんに頼んで、警察にも確認してもらったが、迷子の届けは出
されていないといわれた。
それでも、近くの交番から制服姿の警官が二人ほど来てくれて。大学の事務室で、少女の
顔写真を撮ったり、発見した時の状況を聞かれたりした。
「身元が分かるような所持品はなし、と。……言葉を喋れないというのは困ったな」
頭をボールペンでポリポリ掻きながら、この大学に通っていてもおかしくない風貌の警官
が言った。
そう、少女は言葉が分からないようだった。
まず喋りかけてもぼんやりしているばかりで、なにか言葉を返すこともなく。筆談ならい
けるかと紙とペンを渡しても、渡された格好のまま不思議そうにしているだけ。
その姿は、まるでなにかがすっぽりと抜け落ちてしまっているかのようだった。
わたしはてっきり少女を警官たちが引き取っていくものだと思っていたのだし、警官たち
もそのつもりだったようだが、少女本人が予想外のリアクションを取った。
「――うん、こんなところかな。じゃあ、その子は私たちのほうで保護するから、キミは家
に帰ってもいいよ」
「あ、はい。――あの、できたらでいいんですけど。この子の親が見付かったら教えてもら
えませんか」
「ああ、うん。親御さんも保護してくれた人に礼の一つでも言いたいだろうしね。それは確
約しておく」
「お願いします」
わたしは小さく頭を下げ、少女に別れを告げようとしたが。不意に引っ張られる感じがし
て振り返ると、少女がわたしの服の端を掴んでこちらを見上げていた。
「ん? どうしたの?」
少女は無言のまま、しかし真っ直ぐにわたしを見つめる。
「えっと、お姉さんは帰るから、あとはこの人たちについていくんだよー」
そう言っても少女は一向に手を離してくれそうになかった。
それから三〇分ほどもかけて、少女を引き剥がそうと説得を試みたのが、少女はわたしか
ら離れようとしてくれなかった。
そして最後には警察が折れてしまった。
「キミが迷惑でないのであれば――」
そんな前置きで言われたら断りようがない。
そういった経緯で、わたしは少女を預かることになった。とりあえず一晩、そういうつも
りで。
父さんを探しに行ったはずなのに、連れ帰ってきたのは、どこの誰とも知れぬ少女。――
ああ、そういえば。なんであの時、父さんのこと警察に話さなかったんだろ。自分の抜けた
性格が嫌になる。
警官はいざという時の連絡先を渡して帰っていってしまった。
二人きりにされて、わたしはとりあえず少女の泥だらけの服をなんとかすることにした。
「ちょっと待っててね。ああそうだ、テレビ見てて待ってて」
そういってテレビをつけて、ソファに座らせるとわたしは自分の部屋に走った。
少女の体格は、丁度小学生の頃のわたしと同じくらい。でも妹がいるならまだしも、小学
校の頃の服なんて取っておいてないから。適当に小さめな服を見繕うことにした。
「よしっ」
スカートとTシャツを掴んで部屋に戻ろうとして、立ち止まった。
スカートは、だめだ。
……というか、パンツとかスカートとか上下別なものにしたら致命的にダメな部分がある、
丈は大丈夫でも腰周りが違う、ぶかぶかになるよね。ならワンピースがいいかな?
箪笥の中を漁ること数分、ようやく彼女が着てもおかしい感じのしないワンピースがみつ
かった。
しかし、こんなに服なかったっけか。もうちょっとあったような気がするんだけど。
まあ、Tシャツ着せてワンピース! っていうような事態にならなくてよかった。
というよりも、下着の替えが一番問題か。
明日帰るのならそのままでもいいけど、明日以降もいるのなら替えの下着買ってあげない
となあ。
――ん?
「いや、それはないか」
明日以降もいる状況は、彼女の親や保護者が出てこなかった場合だけ。その上で彼女を施
設に預けず、うちで引き取るということだ。
そんなことができるとは思わなかったし、なによりそれは最悪のパターンっていうものだ
ろう。だって、親が見付からないってことだし。そんな悪いことは考えなくてもいいや。
わたしが服を掴んでリビングに戻ると、彼女はソファから降りてブラウン管テレビの前に
ぺたんと座り、その猫のような瞳をらんらんと輝かせていた。
そんなに面白いのかな?
見ると、テレビでは子供向けのアニメをやっているようだった。
「お洋服持ってきたから着替えようねー」
呼びかけても彼女は反応せず。
わたしは名前を呼ぼうとして、彼女の名前を知らないことを思い出した。
「名前知らないって、結構不便ね」
「……くおん」
「なんて呼んだらいいん……え?」
「くおん。わたしのなまえ」
驚いて、開いた口が塞がらなかった。
「喋れたんだ」
そう訊くと、彼女は振り返ってこう答えたのであった。
「うん。喋れるようになった」
――続く