冷たい石の床の上に布が散らばっている。  
 修道女見習いの、法衣だったものだ。  
 持ち主を変えて着古された故の黄ばんだ白、空色をくすませたような薄い青、強引に断ち切られて端から繊維を伸ばして、不規則にちらばったそれらの中心に―――ぼくの真下に、少女がいた。  
 ほぼ全裸といってよかった。身に纏っていた法衣はあちこちちぎられむしられ、辛うじて衣服としての面影を留めているのは腕に引っかかった袖ぐりだけだ。  
 申し訳程度に膨らんだ胸も、漸く直線から丸みを帯び始めた腰も、何もかもが外気に曝され、辱められている。  
 ただ立っていれば臑まで覆う長いスカートだけが、眼下の酷く扇情的な光景に一滴水を差すがごとく、ほっそりした脚部にまとわりついていた  
 華奢な体が前後する度、ずたずたになった布切れが床を撫で、乾いた音を立てる  
 
 ぼくに組み敷かれた少女はしゃくりあげながら、弱々しく言葉を紡いでいる。  
 少女を組み敷いたぼくは、掠れて声にならないそれを、唇の動きだけで読み取る。  
 
 どうして、と彼女は何度も繰り返していた。  
 
 
*****  
 
 
 ぼくの父は、随分前に戦争に行って死んだ。少なくとも戸籍の上では死んだということになっている。  
 骨も遺品も、髪の毛一本すら戻らず、ただ祖国の降伏と同時に戦死の通知が届いただけだから、本当のところはよく分からない。  
 死んだ時間も、場所もぼくらは何一つ知らされていない。  
 一つ確かなのは、終戦さえ知らずに熱帯の僻地をさまよっているだろう生存者を捜し出すために、人を派遣するだけの余力が、当時の祖国にはなかったということだ。  
 
 三行弱の無愛想な書面が、残されたぼくたちに与えた打撃は計り知れなかった。  
 終戦という一縷の望みに縋っていた母は、知らせを受け取った瞬間に生きる気力の全てを失った。その日から彼女はみるみる衰弱していき、一年と持たずに死んだ。  
 守り手を欠いたぼくらの生活は悲惨を極めた。生きるためなら何でもやった。物乞い、かっぱらい、畑荒らし、大人たちに見つかって立てなくなるまで殴られることも何回かあった。  
 劣悪な環境下で、まだ小さかった弟たち妹たちは、流行り病にやられて呆気なく短い生を終えていった。  
 木の根を噛み、泥水を啜りながら、何度も考えた。  
 神様はどうして、こんなにも辛く、ぼくたちにあたるのだろう。  
 どうして、大きな街に暮らす子供が、当たり前に与えられる温もりの一かけらだって、ぼくたちには与えて下さらないのだろう。  
 それでもぼくらは祈り続けていた。特に信心深かったわけではない。縋れるものがそれしかなかったからだ。  
 
 生き残って占領軍に保護されたのは、一番上のぼくと、五つを数えたばかりの弟だけだった。  
 その弟の行方も、今ではわからない。孤児として各施設に送られる際に、年齢や収容できる人数の関係でそれぞれ別の場所に引き取られて、それきりだ。  
 どんなに調べても、周囲の大人たちに尋ねても、消息は知れなかった。  
 
 弟と離れてひと月たつころにはもう、ぼくは神に対して何かを期待するほど無邪気ではなくなっていた。  
 恵みを受けるどころか、奪われたためししかないことに気がついたからだ。  
 しかしぼくは諦観はしていたが、むきになって”天にまします父”を否定したわけでもなかった。  
 ―――人は神に縋りついて期待して、それが叶えられないから、神を恨み、嘆く。そんなことをするくらいなら、いっそ神など初めからいないと考えた方が楽だ。  
 つまりは消極的な考え方をとっただけだったし、この考え自体も他者に語ることはなかった。  
 人に打ち明ける機会がなかったのは、ぼくがそういう雰囲気の交際を求めなかったこと以上に、置かれた環境に原因があった。  
 
 皮肉なことに、ぼくが引き取られた先は修道院だった。  
 
 神の前の平等を説く場所であるはずなのに、修道院の中でも身分や出自による差別が横行していた。  
 むしろ街中よりひどいほどであった。孤児たちは勿論、面倒を見るシスターでさえ、そういった子供には汚物を見るような視線を注いでいた。  
 閉鎖的な空間と厳格な規律から来る鬱憤が、歪んだ形で噴出していたのかもしれない。   
 
 
「おい、立てよ、あばずれ」  
 
 その日も一人の子供が中庭で孤児たちに取り囲まれていた。  
 あばずれと呼ばれたのは、十歳足らず、修道院のうちでもかなり年少の女の子だ。  
 立ち上がろうとした彼女をあるいは蹴り、あるいは石を投げつけているのは、ぼくと同い年程度―――彼女より二つ三つは年上の子供たちだった。  
 長い黒髪を地につけて頭を抱え、うずくまっている彼女からはしゃくり上げる声が上がっている。  
 それでも、彼らはまるで容赦をしなかった。  
 
 ぼくは輪に加わるでも、同胞の蛮行を止めるでもなく、庭の隅で本を開いて、この残酷な見世物を遠目に見据えていた。  
 生まれた町でも、ここでもこんな光景は見慣れていて、止めても無駄なことをよく知っていたからだ。  
 どこにいっても不当な暴力はなくならない。やり玉にあげられ、虐げられるのはいつだって罪のない弱者だった。  
 
「きったねーな! こんなにずるずる髪の毛伸ばして、シラミがわくんじゃないか?」  
 
 少年の一人が這いつくばった少女の髪を掴んで引き上げる。泣きはらした顔を左右に振って抵抗する彼女を見て、彼はにやにやと笑った。  
 
「邪魔だから切っちまうか」  
「!!……いやぁ!」  
「わっ!なんだこいつ…!」  
 
 それまで弱弱しい抵抗しかしていなかった少女が、髪を切られると察するや、必死で暴れ始めた。  
 手足をばたつかせ、立ち上がって、少年たちから逃れようともがく。  
 が、すぐさま数人がかりで組伏せられて、身動きを封じられた。  
 
「いや!!やめて、やだっ!!やだぁ!!」  
「うっせえ!だまってろ、浮浪者のガキが!!」   
 
 髪を切り落とされながら少女はしばらく泣き叫んでいたが、腹を数度殴られてからはもう声を上げる気力も失ったらしく、ただ項垂れていた。  
 
 
 
 ぐうの音も出なくなった様に満足した少年たちが立ち去ってから、彼女は長いことその場に座り込んでいた。  
 礼拝の時間になって辺りに人気がなくなってもなお、そうしていた。  
 
 本を閉じて礼拝堂に向かいかけたぼくは、通りすがりに彼女に話しかけてみた。  
 
「お祈り、いかないの?叱られるよ?」  
 
 答える余裕もないらしく、沈黙だけが返ってくる。  
 ぼくは膝をついて、怯えた目でこちらの様子をうかがっている少女と目線を合わせた。  
 
「どうして、そんなに泣くのさ?―――髪を切られただけで済んだんだから、今日はあんまり痛くなかっただろ?」  
「……かみ……大事にしてたの……おかあさんが……こんなに綺麗な髪だから、将来きっと美人になるって…ほめてくれて――――ふぇ……」  
 
 死んだか、生き別れたかした母親のことを思い出したらしい。少女は切り落とされた髪を握りしめて泣きじゃくった。  
 乱雑に切られた彼女の黒髪は、せいぜい肩までの長さになっていた。啜り泣きに合わせて揺れるそれは確かに艶やかで、この境遇に似合わずかなり美しいものだった。  
 言葉通り大切に手入れしていたのだろう。そういえばぼくの母親も手入れに腐心していた。男にはよくわからないが、髪は女にとっては特別なものなのかもしれない。  
 
「うぅっ……く……どうしよう……こんなに切られて……変に、なっちゃったよぉ……」  
「…別に変じゃないさ」  
 
 泣き続ける少女にいたたまれなくなったぼくは、小さな頭を軽く撫でた。  
 殴られると思ったのか身を竦ませた彼女は、髪の上に乗せられただけの手を心底不思議そうに見上げ、それからまじまじとぼくの顔を見た。  
 くりくりした翠の瞳が、大きく見開かれている。  
 
「変じゃない?」  
「うん。こっちの方が、かわいいと思うよ」  
 
 素直な感想だった。  
 ぼくがそう言った途端、彼女はぱっと表情を明るくした。  
 
「本当?本当にこっちのほうがいい?」  
「うん」  
「そっか……そっか! ありがとう!」  
 
 先ほどまでの意気消沈ぶりがうそのような軽い身のこなしで、彼女は立ちあがった。  
 服をはたいて、土ぼこりと髪の束を落とし、それからぼくに向かってにっこり笑って見せた。  
 踊るような仕草、生き生きとした表情―――恐らくこれが本来の彼女の姿なのだろう。漠然とそう考えた。  
 
「怪我は平気かい? えっと…名前は―――」  
「わたし、ローラ。歌うたいのローラ。あなたは?」  
「クラウス……特に歌は歌わないな」  
 
 名乗りながら、ぼくはごく自然に微笑んでいる自分に気がついた。  
 母が死んでから作り笑い以外で笑ったのは、これが初めてだった。  
 
 
 
 
 
                                (続)  
 
 

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