「うわっ! あなた、元拳闘士のラルフさんじゃありませんか!?」  
「…人違いだな」  
酒場の喧騒の中で場違いに響き渡る声。その場の全員がその方向を見る。  
そこには、若い娘がテーブルに両手をついて叫ぶ姿と、不機嫌そうにジョッキを煽っている男の姿があ 
る。  
男の声は、娘のそれとは対照的に低く静かだった。  
「そんなハズはありませんよ! 私の目に狂いはありません!  
若くして拳闘界にてチャンプの座を手に収めようとしながらも、タイトルマッチでの八百長疑惑が持ち 
上がり、その後拳闘会を追放されてしまったというラルフさん、あなたを探していたんですよ!」  
男に否定されても尚、食い下がる娘。その目はうっとりと遠くを見つめている。  
「本人が人違い、と言っているんだ。それじゃあな」  
「あ、ま、待ってくださいよ!」  
一方の男はジョッキの中身を飲み干してから、如何にもどうでもいいという風に答え席を立った。  
娘は慌てて、その後を追いかけた。  
 
「ま、待ってください、ラルフさん」  
「だから違うと言っているだろう? 大体、何であんたはその男を追いかけているんだ?」  
店から出た男を追いかけ、横並びに話しかける娘。  
男は娘の顔も見ずに、正面を向いたまま独り言のようにつぶやいた。  
「そうですね…。ずっと、探していたんです」  
娘はまたも遠くを見つめた目になり、ひとことだけ答えた。  
「……まあいい、せっかくのいい気分も覚めちまった。一件付き合うか? もちろんあんたの奢りだが」  
「はい! もちろんです!」  
男は根負けしたように肩をすくめて娘に言った。それを聞いた娘は小躍りしながら男に腕を絡ませてい 
た――  
 
「ごゆっくりどうぞ…」  
給仕の娘が無愛想にジョッキを置き、去っていく。今、二人の姿は一軒の酒場にあった。  
酒場、とは言っても先程とは雰囲気のまったく違って薄暗く、しかも全席が個室だ。  
男女が二人で入った場合、どういう状況になるかが想像できるような店構え。  
「ま、ここなら人に聞かれないで会話ができるからな。…もっとも、俺がその気になれば、あんたは逃 
げれないだろうが、な」  
「大丈夫です、信用してますから」  
店の雰囲気を説明するかのように、意味ありげに笑みを浮かべる男と、対照的ににっこり笑う娘。  
男は完全に呆れかえり、大袈裟にお手上げのポーズを取りながらジョッキを煽った。  
 
「あんたの御推察どおり、俺はラルフだ。…とうにその名前は捨てたがな。  
さて、何から話せばいい、かな。ああ、最初からがいいな。あの日、すべてが変わり始めた日、からな」  
何杯目かのジョッキを飲み終えたとき、男――ラルフはゆっくりと天井を見上げ、語りだした――  
 
 
 
「クビ…って、どういうことですか!? いったい!?」  
「どうもこうもない。おまえが八百長に関与したおかげでこちらまで、白い目で見られるんだ。  
その損害額を請求しないだけでもありがたく思え。分かったならとっとと消えな」  
「ま…待ってくださ」  
バタンッ  
俺は必死に親方に問う。だが、親方から帰ってくるのは冷たい返事だけ。  
尚も食い下がろうとする俺に戻ってきた次の返事は、扉の閉まる音だった。  
 
「畜生……。俺がいったい何をしたっていうんだ…」  
安酒を煽りながら俺は酒場でひとりごちた。八百長なんてまったく身に覚えがない。  
だが、いくら冤罪だと訴えても、誰一人信じてやくれなかった。…何で、何で俺が…!  
 
「よう、荒れてるね、兄さん。ここ、いいかい?」  
「……消えろ。俺は今、虫の居所が悪いんだ」  
「そう言うなって。八百長疑惑で格闘界を出されたラルフさんだろ?  
なんなら、次の闘いの場所を案内してやろう、と思っているだけだぜ。…あ、ねえちゃん、ビールふた 
つ」  
突然、目の前に男が座りながら、馴れ馴れしく話しかけてくる。  
俺は脅しの言葉を口にするが、男は意に介するでもなくヘラヘラ笑いながら言葉を続け、指をパチンと 
鳴らして振り返り様に給仕の娘に注文を出した。…次の闘いの場所、だと?  
 
 
 
「ど…どんな場所だったんですか?」  
「……まあ、ひとことで言えば、最悪な場所、だな。………人間の醜い部分が寄り集まったような、な」  
一息ついて一気にジョッキの中身を飲み干す男に、娘が問いかけてくる。  
男は追加の飲み物を注文しながら話を続けた――  
 
 
 
男に連れられてやってきた先は、一軒の酒場の地下に広がる格闘場だった。  
だが、今まで俺が闘っていた格闘場とは規模が違う。格段に小さい、のだ。  
その代わり、来客の素性が俺でも簡単に見て取れた。……客の全員が全員、仮面等で顔を隠している。  
やれやれ…金持ちの道楽…か。俺は思わず頭を振りながら考えていた。  
 
「ここが新しい闘いの場、さ。これから始まるところだ。ゆっくりと見ていな」  
席のひとつに腰掛け、男が言う。二人掛けの贅を凝らした造りの椅子で同じく豪華なテーブルを挟み、 
向かい合わせに並んでいる。一組が3〜4人で、それが何組か並んでいる。数は多くない。  
俺は男に言われるがままにゆっくりと腰を下ろして闘いを眺めようと思い――開いた口が塞がらなかっ 
た。  
一人は俺より頭3つは大きい大男。もう一人は逆に、俺の肩口までもないような小男だった。  
だが、開いた口が塞がらなかった理由はそこではない。男たちの傍らに一人ずつ女性がついていた。  
それ自体、別に驚くことでもない。俺が闘っていた場所でも、司会進行は女がやっていたから。  
じゃあ何故驚いたのかって? 簡単さ。そこにいた女性は人間じゃなかったから、さ。  
 
「お、おい! 何だよあの――  
 
カーン  
 
――女たちは、と言おうとして、俺の言葉はゴングの音にかき消された。  
同時に客席から響き渡る声、闘う男たちの雄叫び。だが俺は、まるでどこか遠い世界の出来事のように 
感じていた。  
 
勝負は意外と小男が善戦し、長引いた。だが、大男に捕まって壁目掛けて投げ飛ばされ、身構える前に、 
大男に体当たりを受け、ぐちゃりと嫌な音を立てたとき、闘いは終わった。  
 
全身から血を流してピクピクと痙攣している小男と、両手を振り上げ観客に拍手に応える大男。  
だが、これからの光景はいつ思い出しても胸がむかついてくる。  
小男の傍らについていた女性が闘技場に再び姿を現した。と、大男はその女性を押し倒し、犯し始めた。  
女性が必死に抵抗する中、観客の興奮は最高潮に達していた。  
 
「どうだった? 新しい仕事場の雰囲気は?」  
「ひとことで言えば最悪だ。さっさと帰らせてもらいたいね」  
上物の葡萄酒をグラスに注ぎながら、男は俺に話しかける。俺は闘技場に向かって唾を吐きかけ、立ち 
上がって言った。  
そんな俺を見て、男は肩をすくめ、意味ありげに笑いながら言葉を続ける。  
「そう簡単に帰ってもらう訳にはいかないね。この席の清算がまだだ。  
それに、こんな秘密を知ってしまって簡単に出られると思うのかい?」  
男は指をパチンと鳴らしながら言う。俺が振り向くと屈強な男たちが席の入り口に立ちはだかっていた。  
…逃げ出すことも可能だったかもしれない。  
だが、ここの素性が分からないまま飛び出すのは得策ではないと判断した俺は、再び椅子に座りなおし 
た。  
「で、ルールは一体何なんだ?」  
「へえ、やる気が出てきたのかい。…ま、簡単なルールさ。  
一対一で闘い、最後まで立っていた方が勝者。手段は問わない、ってことさね」  
俺の問いに皮肉そうな笑みを浮かべ答える男。  
「…さっき聞き損ねたんだが、男たちの傍にいた、あの女たちは一体何なんだ? どう見ても人間では 
ないぞ?」  
「ああ、あれはな。この闘技場の闘士たち一人一人に与えられるパートナーみたいなもんだ。  
で、ついている闘士が負けるとさっきみたいに勝者の自由にされるのさ。  
もちろん、パートナーを抱きたいときに抱いても構わないさ。もっとも、俺は化け物なんざ抱きたいと 
は思わないけどな。  
あん? 化け物の正体? そんなの知らねえよ。  
ま、世界は広いし色々な人間がいるからな。どこかから攫ってきたのを飼育してんでないの?」  
俺は男の態度に殺意を覚えながらも、どうにか堪えて更に質問を出した。  
淡々と答えながら最後にクックッと笑い出す。  
 
「…さて、お喋りはこれくらいにして、案内といこうか。何、俺はここまでだ。これからはそいつにつ 
いていきな」  
男がワイングラスを傾けながら顎をしゃくる。そこには、いつの間に現れたのか、女が立っていた。  
「その前に最後の質問だ。この席の清算は、何回くらい闘えば終わるんだ?」  
「何、心配するな。持ち金を自分に賭けることもできるんだ。それを繰り返せばすぐに払えるさ。それ 
じゃあな」  
ひょうひょうとした表情で答え、手を振る男。俺は返事ひとつせずに席をあとにした――  
 
 
ギギギ…ガチャン  
 
「私があなたのパートナーで、ロッコと申します。これからよろしくお願いいたします」  
「ああ。俺はラルフ、だ」  
ロッコと名乗ったその女は、扉を閉めると振り返り様に恭しく頭を下げる。  
…俺は名乗り返したが、その後の言葉が出なかった。彼女は…一応は人間に見えた。前から見ると。  
だが、体の後ろ半分は緑色の鱗に覆われ、耳はヒレ状で大きく、尻尾が生えている。  
さらに、膝から下はすべてが鱗で足先には鋭い爪まで生えていた。  
……まさに子供の頃、お伽話で聞いた半魚人を連想させた。だが、ここまで人間に近い姿だとは、な。  
「あ、あの…どうか、なされましたか?」  
「いや、別になんでもない」  
何も喋らない俺を不審に思ったのか、ロッコが問い掛けてくる。俺は慌てて返事を返した。  
これからしばらくは傍にいるんだ、怒らすのは得ではない。そう思って。  
「…そうですか。では、こちらがあなたのお部屋になります。どうぞ」  
カギを開け、部屋に案内するロッコ。俺は思わず息を呑んでいた。窓が無いのが気にかかるが、決して 
狭くはない。  
むしろ広いとまでいえるだろう。そのうえで、ベッドと椅子とテーブルまで置かれていた。  
もちろん、客席に比べれば質は落ちる。が、しかし、もしかしたら拳闘士時代よりもいい暮らしなのか 
もしれない。  
 
「食事は一日に一度、こちらに運び込まれます。闘いは三日に一度のペースで行なわれますが、実際に 
闘うことになるかどうかはその日にならなければ分かりません。  
また、先程の扉の向こう側には行けませんが、それ以外の場所であれば出入りは自由です。  
ですが、闘技場以外での闘士の喧嘩は御法度ですのでお気をつけください。  
それでは私はここにいますので、何かありましたらいつでもどうぞお呼びくださいませ」  
俺が部屋を見てぼうっとしている横で長々と説明をしたかと思うと、ロッコは俺の部屋の中にある扉の 
中に入ろうとする。  
ちらりと中を見ると、体を伸ばせそうもない位に小さな空間に、粗末な寝藁が置いてあるだけだった。  
「ちょ、ちょっと待てよ」  
「は、はい? どうかしましたか?」  
思わず、俺はロッコの手を取っていた。怪訝そうに振り返るロッコ。  
「あの…さ。俺、ここまで広い部屋で暮らしたことってないから、何だか落ち着かなくて、さ。  
できれば…こっちで一緒に暮らしてくれないか……と思うんだが…ダメか?」  
「……………よろしいのですか?」  
「ああ、構うことはないさ。ロッコが迷惑なら、無理にとは言わないが、な」  
「あ、ありがとうございます! 喜んでそうさせていただきます!」  
俺の申し出にペコリと頭をさげて礼を言うロッコ。  
そんな彼女を見ながら、ゆっくりと椅子に腰掛けたかと思うと、たちまち疲れと酒の力で夢の世界に足 
を踏み入れていた。  
 
「ラルフさま…ラルフさま……。朝ですよ、起きてください」  
「ん……。ふ、ふあ〜あ…。……あ、そうか…」  
揺り起こされて目を覚ます。一瞬、自分の置かれている状況を忘れていたが、ロッコの姿を見て現実を 
思い出さされた。  
やはり、夢では無かったか……。俺は首を振ってコキコキと鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がった。  
朝、と言われても、窓が無いので正直言って時間の感覚が無い。  
だが、空腹具合からいってそれなりに時間は経っているのだろう。そう考えながら大きく伸びをした。  
「こちらがお食事です。…どうぞ、お召し上がりください」  
テーブルに食事を運んでくれるロッコ。……一人分、か?  
「私の食事は別ですから……」  
「ま、待てよ。どうせなら、一緒に食べたほうが楽しいんだから、こっちに来てくれよ」  
そうつぶやきながら、部屋に戻ろうとするロッコを引き止める。  
「で…でも……」  
「気を遣うことはないさ。俺たちはパートナーなんだろう?」  
「…………は、はい…」  
逡巡するロッコを説得しながら頭の中で考えた。  
…何で俺は、説得してるんだろうか? いつもなら最初に戸惑っている時点で『だったら勝手にしろ』 
と放り出すのに…。  
多分、慣れない環境だから、できるだけ一人でいたくないからだ。そう、思うことにした。 
理由なんて、他にはない、はずだ。  
 
「な、何だそりゃ?」  
ロッコが運んできた食事を見て、思わず声を出していた。  
テーブルには俺の食事であるロールパンが2個、壺に入ったミルク、鶏の腿肉に卵が2個乗っていたが、 
彼女が手にしているのは、何やら得体の知れない肉が粉々になったものが小さい皿に少しだけと、ほん 
の少しのサラダらしきもの、だった。 
しかもちゃんと火が通ってないようで、ところどころ赤くなっていた。  
いくらなんでも…この差は……。と、いうか、ロッコはもともとこういうのを食べているのか?  
「だ、だから……ラルフさまが食事ができない、と思いまして………」  
うつむくロッコ。だが俺は、ロッコの肩を掴んで聞いた。  
「なあロッコ。お前たちって、いつもこういうのを好んで食べているのか?」  
「え…ええ…?」  
「質問が悪かったな。ここに来る前からそういうのを食べて生活していたのか、という意味だ」  
「あ……あの、その……」  
戸惑うロッコ。その目からは、うっすらと涙が浮かんでいる。それを見た俺は、質問の答えはノーだっ 
た、と判断した。  
「ロッコ……あのさ、俺の食事、半分食べてくれないか?」  
「は…?」  
俺の申し出に目を丸くする。ガラにもなく恥ずかしくなり、一気にまくしたてた。  
「いや…俺さ、朝ってあまり食欲が無いんだ。だから、せいぜいこの半分くらいでいいんだよ。  
でも、残すのが勿体無いだろ? それだったら、捨てるよりもロッコが食べてくれれば嬉しいかなって 
……お、おい」  
 
カラーン  
 
ロッコの手から食器が落ちる音。同時に彼女は俺にしがみつき、俺の胸で嗚咽を漏らす。  
俺は言葉が途中で止まり、思わずそっとロッコを抱きしめ返し、頭を軽く撫でていた―――  
 
 
 
「へえ〜。ホント優しいんですね、ラルフさんって」  
「よせやい。……そんなガラじゃねえよ」  
娘の言葉に、ラルフは苦笑いしながら何杯目かのビールを飲み干しながら考えた。  
 
そう、あのときは、俺よりも不遇なロッコを慰めることで、本当は自分自身を慰めていた、んだろうな。  
幸福ってのはいったい何なんだ? より不幸な相手を見ると自分が幸せに、より幸せな相手を見ると自 
分が不幸に見える。  
所詮、絶対的な幸福なんてものはあり得ない、んだろうな。  
フッ…、らしくないな。こんな感傷的になるなんて。ま、あの時を思い出したから――だろうが、な。  
 
「それにしても……あんたは酒が飲めないのか? さっきから全然減っちゃいないんだが」  
「の、飲めますよ! 失礼ですね! …ごく…ごく……ぶ…ぶはあっ」  
ラルフの言葉に触発され、娘がビールを一気に飲もうとする。だが、やはり無理があったようで吐き出 
していた。  
そんな姿を見て苦笑いしたまま、ラルフは追加の注文を頼み、さらに話を続ける―――  
 
 
「ごちそうさま……でした」  
食事を終え、挨拶をするロッコ。その目からは涙がこぼれている。余程普段からまともなものを食べて 
ないんだな…。  
「ありがとう…ございました。でも…でも、大丈夫なのですか?  
お食事…足りなくないですか? それに、昨日も言いましたが、一日一食なのですよ?」  
「さっきも言ったろ? 大丈夫さ」  
心配そうに俺を見つめ返すロッコに返事をする。本当は正直言って少しキツイ。  
だが、今さらそんなことは言えない。今日一日、横になってじっとしてれば大丈夫だろう……。  
そう思った俺はベッドに横になった。すると、  
 
コンコン  
 
「あ……はい」  
ノック音が聞こえ、ロッコが返事をしながら開けに行く。そこには片目が潰れ、杖を突いた老人の姿が 
あった。  
「ど…どうしたんですか? ゴン爺さん」  
ゴン爺さん、と呼ばれた老人はツカツカと部屋に入ってくる。……いったい何だと言うんだ?  
 
「今夜、新顔のデビュー戦がある。仕度をしておくんだな」  
何? デビュー戦!? 思わずロッコを見つめる俺。そう、確かに彼女は闘いは3日に一度と言ってい 
た。  
「そ、それってどういうことなのですか? 昨日闘いがあったばかりなのに、また今日なんて」  
ロッコも驚いてゴン爺さんに詰め寄っている。…どうやら、彼女も知らなかったようだな。  
「ふむ……。ラルフが期待の新人だから、ということなのだろう。詳しいことはワシにも分からんて」  
かぶりを振りながら淡々と説明するゴン爺さん。俺とロッコは顔を見合わせていた。  
と、ゴン爺さんはテーブルの上にドサンと袋を置く。袋の中には、さっき食べたロールパンが5個、入 
っていた。  
「試合前の食事だ。しっかりと食べておけ。ま、最初はこんな程度の待遇だが、勝てば勝つほどいい暮 
らしができる。  
それまでの辛抱だ。焦ることはないぞ」  
…は? 試合前の食事? そんなの聞いてないんだけど…。  
「え…? 食事って…一日一回じゃなかったのでしたっけ?」  
「おいおい…。人の話を聞いていなかったのかい、ロッコ?  
試合がある日は、いつものとは別に、食事が与えられると言っておいただろうに…」  
素で知らなかったようで、ロッコは再びゴン爺さんに尋ねる。…そうだったのか。でも、おかげで空腹 
からは助けられたかも。  
「だがラルフ、勘違いするでないぞ。主催者どもは、別に気を遣っている訳ではない。  
これが最後の食事、という皮肉めいた意味合いもあるのだからな」  
俺がほっとしている顔を見て、厳しい顔でゴン爺さんが言う。……確かに、それはあるだろうな。  
「いいか、ここはお前さんがタイトルを争っていた拳闘とは違う。ルール無用の闘いだ。 
決して油断するでないぞ」  
ゴン爺さんが、杖でつんつんと俺の肩を突つきながら話しかけてきた。  
「は…はい」  
「うん…いい目だ。決してその目を曇らせぬようにな」  
俺の返事に、ゴン爺さんは満足そうに頷き部屋をあとにした。  
 
「あ……す、すみません。今日、闘いがあるなんて…」  
「気にするな。別にロッコのせいじゃない。…ここに来る時点で闘うのは覚悟していたし、どうせなら 
早く慣れたほうがいい」  
ゴン爺さんが去ると共に、うなだれながらつぶやくロッコに返事をする。  
気負いでもなく、見栄でもなく、自分の偽らざる気持ちだった。かえって何日も闘いが無いほうが気が 
抜けてしまう。  
そう思いながら俺はゆっくりと立ち上がり、柔軟体操を始めた。  
 
 
「ルールは一対一、そして目に見える武器以外の使用は禁止。これだけです。  
相手が降参するか、失神もしくは戦闘不能になったと判断がなされたときに決着がつき、判定や時間制 
限はありません。  
……そして、勝者の権限として、敗者のパートナーを…その…好きにすることが…できます」  
控え室にて闘いの説明をするロッコ。最後の説明は声を詰まらせ、顔を赤らめている。  
それはそうか。俺が負けると対戦相手にそういう目に遭わされるのは彼女だし、な。  
「あ、あの……ラルフさま…」  
説明を終え、視線を落として途切れがちに俺に呼びかけてくる。俺は動きを止め、ロッコを見つめた。  
「その…えっと……何て言っていいのかわかりませんが…。頑張ってください…そして、気をつけて… 
ください」  
しばらくの沈黙ののち、顔はうつむいたまま、両手で俺の右手を握り締めながらつぶやく。  
「分かった、ありがとう。……それより頼みがあるんだが、俺のことは『ラルフさま』でなく、『ラル 
フ』って呼んで欲しいな」  
「え? あ…あの、その…は、はい…分かりました……。では、参りましょうか……ラルフ」  
顔を真っ赤に染めたロッコが俺の手をひく。さあ、いよいよか…。  
 
 
「お待たせしました! それでは今宵の対戦を発表します! まずは御存知、ランデル選手!」  
道化師の呼び声と同時に、会場から割れんばかりの拍手が起こる。  
そこに、俺の対戦相手とおぼしき男が現れる。背後にはやはりロッコと同じ姿の女性がいた。  
「対しますは、拳闘界からの殴りこみ、今日がデビュー戦のラルフ選手!」  
道化師はとんぼを切りながら、俺を呼び出す。観衆の拍手の中、俺は無言でゆっくりと拳を天に掲げた。 
別に観衆に答えようってわけじゃなかった。拳闘士時代の習性だったからだ。  
「お互い用意はいいかな? ………それじゃ、始めるよ!」  
 
カーン  
 
道化師が、妙に浮かれた口調で叫んだと同時にゴングが鳴った。俺は普通に身構え、ランデルを見据え 
る。  
一方のランデルはピョンピョン飛び跳ねながら、少しずつ距離を詰めてくる。  
「はっ!」  
一瞬跳ねるのを止めたかと思うと、掛け声をあげながらミドルキックを繰り出してきた。  
動きはさほど素早いとは言えず、難なくかわしていた。かと思った次の瞬間には吹き飛ばされていた。  
どうやら、最初のミドルキックは囮だったようで、反対の足から繰り出したソバットが命中したようだ 
った。  
俺は効いてるフリをし、膝をよろよろさせながら立ち上がる。  
いや、実際効いてはいるのだが、よろめくほどではない。ランデルはそんな俺を見て不用意に飛び込ん 
できた。  
 
バキッ  
 
次に地面に仰向けに倒れていたのはランデルだった。  
向こうが飛び込んできた瞬間、カウンターで顎に拳をお見舞いしたんだ。多分効いてる、はず…。  
だが、ランデルは起き上がってきた。  
「うおおおっっっ!」  
拳を天に突き上げ、ひときわ大きな叫び声をあげる。観客からは大歓声が沸き起こっていた。  
再びランデルが俺に襲い掛かってきた。だが、最初の一撃ほどの鋭さはない。  
それでも俺はランデルの気迫に押され、後ずさっていた。いったい何が、彼をここまでにしているのか 
…?  
 
タン  
 
飛びすさった弾みで、背中が壁に当たる。と同時に背中に鈍い痛み。  
どうやら壁のレンガが一ヶ所、ズレて角が飛び出していたようで、それが背中に刺さったらしい。  
だが、そんなことを気にする余裕も無く、ランデルが右腕を大きく振りかぶって殴りかかってきた。  
俺は軽く身をかがめ、左腕でランデルの右腕を払いつつ、右拳を突き上げランデルの顎に再び見舞う。  
ゴキンという鈍い音がしたかと思うと、ランデルはゆっくりと崩れ落ち、動かなくなった。  
 
「勝者、ラルフ選手!」  
ランデルが立ち上がれないのを確認した道化師が、俺の右腕を持ち上げ、叫ぶ。  
再び観客からの大声援と拍手が沸き起こる。俺は久々に闘いの高揚感を味わい、震えていた。  
同時に、ランデルのパートナーの女性が闘技場に現れ、観客からは下卑た笑いと拍手が響き渡る。  
その笑いを耳にしたとき、俺は高揚感が一気に醒め、ランデルを抱え上げ、闘技場をあとにした。  
俺の耳に、期待が肩透かしに終わった観客の罵声が飛び込んでいた―――  
 
 
「ふうん。何で、そんなことをしたんですか?」  
「……………そうだな。強いて言うならば、拳闘士時代の習性かな?  
拳闘士時代の相手とは、確かに闘うべき相手ではあるが憎むべき仇ではない、闘いの場でなければお互 
いを高めあえる、尊敬できる存在だと思っていたから。だからいつまでもランデルをあの場に晒したく 
ないと思っていたのかも、な」  
薄めた葡萄酒を口に運びながら、娘が問いかける。  
ラルフもまた、娘に合わせて葡萄酒を煽りながら答える。まだ物足りないラルフはもちろん薄めてなど 
いないが。  
 
「でもですね、闘いが終われば相手のパートナーを好きにできたんでしょ?  
何故そうしなかったんですか? まさか、相手が人間じゃないから毛嫌いしたとか?」  
「……そりゃあないな。別に相手がどうこう、というよりも、あんな場所で女を抱く神経は俺には無い。  
それに、女なら誰でもいい、というほど飢えてるわけでもなかったからな」  
 
…そう、誰でもいい、というわけじゃないから、な……―――  
 
 
「で、大丈夫なのか?」  
「ああ、幸いにして骨や神経までダメージはきていない。せいぜい10日も安静にしていれば、元通り 
になるだろうよ。  
…それより、お人好しだなお前さんは。闘技場では殺るか殺られるか、の世界なのだぞ……」  
ランデルを控え室に連れてきた俺は、ロッコが呼んできたゴン爺さんに容態を見てもらった。  
俺はゴン爺さんに問いかけるが、逆にゴン爺さんにたしなめられ延々と説教を受ける羽目になった。  
「…とはいえ、そこがお前さんのいいところ、なのかもしれないな。うんうん、期待しているぞ。  
さて、とりあえずの治療は終わった。あとはランデルの目が覚めるまで、そうしておくがいいだろ」  
俺が肩を落としていると、最後にゴン爺さんが肩をぽんぽんと叩きながら嬉しそうにつぶやき、去って 
いった。  
「ランデル!? ランデルは!?」  
ゴン爺さんと入れ替わりに、血相を変えたランデルのパートナーが飛び込んできた。  
ロッコがランデルの容態を説明すると、顔をほころばせながらランデルの手を取った。その目には涙が 
光っている。  
二人の邪魔をしてはまずいと思った俺は、ロッコと一緒に部屋に戻ることにした。  
「あ…待って……」  
そのとき、彼女が俺たちを呼び返す。振り向くと、彼女は微笑みを浮かべ、「ありがとう…」と礼を言 
ってきた。  
俺は手を振りながら、自分の部屋に向かった。  
 
「ふう…」  
「ラルフ…おつかれさま……。あなたも、怪我をしているでしょう? 治療しなくちゃ…」  
溜め息をつきながら俺は椅子に腰掛ける。するとロッコが隣に座り、優しく肩を抱いてきた。  
「ああ、そうだったっけか。ま、言われて思い出す程度なら、大した傷じゃないさ」  
「ダ、ダメです! 傷口を汚くしたままですと、病気の原因にもなりかねません!」  
俺が腕を軽く動かして返事をすると、ロッコは顔色を変えて俺をたしなめる。  
「分かった。頼むよ、ロッコ」  
ああ、怒った顔も可愛いな…そんな場違いな感想を抱きながら、俺はロッコに返事をしていた―――  
 
 
「は〜あ。そんなイイ雰囲気だったのに、手は出さなかったんですか〜?」  
「まあ、な」  
じとりとした目で娘はラルフを見上げる。すでに上半身はテーブルに預け、半分ろれつが回っていない。  
そんな娘を見てそろそろ限界かな? と思ったラルフは娘のジョッキを取り上げ、一気に飲み干す。  
「ああ〜! な、何するんですかあ! 私の葡萄酒ですよお!」  
「そろそろお前さんは限界にきている。酒はそのくらいにしておけ」  
娘が口を尖らせて抗議するが、ラルフは落ち着いた口調で娘をたしなめる。  
「そ、そんなことないですよお。まだまだ大丈夫です! それより……ホントに手を出さなかったんで 
すかあ?」  
「ああ、本当だ。あのときは、な……」  
指先をラルフにビシッと突きつけ…たつもりのようだが、酔いのせいか全然違う方向を指差している。  
ラルフはあきれながら肩をすくめ、もう一度答えながらジョッキを傾けた―――  
 
 
「よう、相変わらず張り切ってるな」  
ランデルがトレーニング中の俺に声を掛ける。――ここのデビュー戦で対戦してから、早くも数ヶ月が 
経っていた。  
だいぶここの生活にも慣れ、彼とはよきライバルとしてお互いを認め合っている。  
特に、拳でしか闘う術を知らなかった俺は、彼の足技はとても参考になっていた。  
「別に張り切ってはいないさ。ただ、何もしないとすぐに自分が鈍っていきそうで、な」  
「は〜あ。まったく、ラルフらしいというか何というか…」  
しばらく俺とランデルは他愛も無い雑談を繰り広げていたが、急にランデルが真面目な顔で切り出して 
きた。  
「ところで……。聞いたことがあるか? ここのパートナーの女性は処女しかいない、ってことを」  
「……は? 何を言ってる? 闘いのあとで、敗者のパートナーはほとんど抱かれてるだろ?  
それに、自分のパートナーに手を出すのも自由なんだから、そうとは言い切れないだろう」  
俺は吐き捨てるように答えた。いつになっても、あの慣わしは馴染むことができない。  
もちろん俺自身は一度も抱いたことはない。人前で、しかもその気がない相手を抱く、なんて気はさら 
さら無いからな。  
また、ロッコのことも抱いたことはない。抱きたくない、ではなく、抱けない、のだ。  
彼女は、俺が今までにあった女性の中で最もいい女だ。理想の相手ともいえる。  
さらに同じ部屋で長いこと暮らしているんだ。抱きたいという衝動は当然、ある。  
だが、今までの上手くいってた関係が壊れるかも、ロッコが俺を軽蔑するかも、そう思うと怖くて何も 
出来なかった。  
何せ同じ部屋に暮らしてはいるが、今でもベッドと長椅子に別々に眠っているくらいだから。  
 
「ああそれよ。俺が知る限りでは、抱かれたあとのパートナーの姿を見たヤツはいない。  
闘技場で抱かれたパートナーはもちろんのこと、自分のパートナーを抱いても、そのパートナーが代わ 
るって話だ。  
しかも、必ず新顔が現れるんだとさ。……それが嬉しくて毎晩パートナーを抱いてるヤツもいるらしい 
がな」  
ランデルの声で現実に戻ってくる。今までとはトーンを落とし、最後のひとことはまさに吐き捨てるよ 
うに、だ。  
彼もここの慣わしは嫌いな性質らしい。だからこそ、あの時のデビュー戦では、  
自分のパートナーにそんな目に遭わせたくない、という思いがあったから、気を失うまで俺に向かって 
きたらしい。  
「それだけじゃない。格闘家として新しくここにデビューするヤツもいるだろう?  
彼らにあてがわれるパートナーもやはり新顔で、昔誰かのパートナーを経験してたってのはいない。  
ここの特徴から考えても妙だと思わないか?」  
……確かにな。出来るだけ一般人には公開させたくない場なら、限りある人数で回すのが最良の方法だ。  
介在する人が増えれば増えるほど、情報が漏れる危険性は高くなる。だが、パートナーは次々と新顔が 
現れる?  
そういえばロッコも俺のデビュー戦のとき、ここのルールを半分理解してなかったよな…。  
主催者はいったい何を考えているんだ? まさか、ここの観客たちが破瓜を見るのが趣味、というわけ 
でもあるまいに…。  
「じゃあ、姿を消すパートナーはどうなるというんだ、いったい? ……まさか」  
俺はランデルに問いかけるでもなく、自分に言い聞かせるでもなく、口を開いていた。  
つぶやいたことにより、さっきまで自分が考えていたことと推理が結びつき、突然ひとつのシナリオが 
頭に浮かんだ。  
情報をできるだけ漏らさない、二度と姿を見せない。だとすると、考えられるのは……。  
「そこまではさすがに分からん。だが、ありえない話ではない。  
だが、それ以上に彼女たちは何者なのか、がよく分からないんだがな」  
ランデルは俺の言葉に答える。どうやら、俺の言葉を問いかけだと理解したらしい。  
その一方で、ランデルの後半の言葉が俺の心に焼きついた。  
 
――そういえば、ロッコたちは何者なんだ? 今まで、それを考えたことが無いわけではない。  
だが、あまり深くは考えなかった。問いかけもしなかった。有能なパートナー、それだけで十分だった。  
しかし、ランデルの言葉がまるで何かの魔法だったかのように、ロッコの正体を無性に知りたくなって 
いた。  
「お疲れ様、ラルフ。レモン水、持ってきたよ」  
「わあっ!?」  
突然背後からロッコの声。言葉どおり、手にはタオルとコップを持っている。その目は驚きによって、 
ぱっちりと見開いていた。  
「どうしたんですか? そろそろトレーニングが終わりかな、と思って持ってきたんですけれど…?」  
「あ、ああ。なんでもないよ。どうもありがと」  
小首を傾げて俺を見つめるロッコ。俺は不意を付かれた驚きと、今考えていたことを悟られないように、  
平静を装いながらロッコの手からコップを受け取り、中身を一気に飲み干した。  
「ははっ。本当にロッコは気が利くね。羨ましいよ」  
「まあ。そんなこと言ったらニーサに怒られるわよ」  
肩をすくめながらランデルがロッコに語りかけ、ロッコが返事をする。ニーサとは、ランデルのパート 
ナーの名だ。  
俺はロッコから受け取ったタオルで汗を拭きながら、二人のやりとりをぼうっと眺めていた。  
「……っと。お二人の邪魔をしてても仕方ないな。俺はこれで退散するよ。じゃあな」  
「ああ、またな」  
「ええ、それじゃあまた」  
ランデルは右手を挙げ、敬礼のような仕草で俺たちに挨拶して去っていく。俺たちも返事をして、自分 
の部屋に戻った。  
 
「なあ、ロッコ…」  
「??? さっきからどうしたの、ラルフ?」  
俺がロッコに話しかけ、途中で言葉に詰まり、ロッコが疑問を口にする。それをさっきから何回繰り返 
したことだろうか。  
言葉自体は簡単だ。「キミは何者だ?」――このひとことを言おうとして何故こんなに感情が蠢くのか。  
だが、最初から結論は出ている。――今の関係が壊れてしまう――それが怖いからだ。  
そして、さっきの言葉は、それを実現させかねない威力を秘めているかもしれないのだ。  
どうして俺が、そんな言葉を口にすることができようか。ふうと溜め息をつき、ベッドに腰を下ろす。  
そのまま俺が頭を抱えてうつむきだすと、ロッコが俺の肩に手を回し、そっと抱きしめながら耳元でさ 
さやいてきた。  
「ラルフ……。…ランデルと何があったの?」  
このひとことで俺は固まった。何で…何で分かる?  
「そりゃあ、私はラルフのパートナーですもの。様子がおかしかったのは、見れば分かりますよ」  
顔を上げ呆然と見つめる俺を、ロッコは優しく微笑みかえしてきた。やっぱり…やっぱり最高の女性だ 
……。  
「…んっ………?」  
気がつくと、目の前にロッコの心底驚いたという、見開いた目がある。  
そう、俺は自分でも無意識のうちに、ロッコのくちびるを奪っていたんだ。  
「あ…い…いや、その……」  
くちびるを離した俺は、ぱっとロッコから離れ、思わずくちごもる。何を言っていいか分からなかった 
からだ。  
何で…何でいきなりキスしてるんだ? その理由は、自分でも分からなかった。だからしどろもどろに 
なっていた。  
「ラルフ………」  
ロッコが俺の肩を抱き、優しく語りかけ――たかと思うと再びロッコの顔が目の前にあった。  
今度は、ロッコが俺のくちびるを奪ってきていた。俺は思わずロッコを強く抱きしめ、そのままゆっく 
りと押し倒していた。  
くちびるを離し、ロッコを見下ろす。彼女は顔を真っ赤に染めたまま、優しい目でじっと俺を見つめて 
いる。  
俺がそのまま本能に身を任せかけたそのとき、ランデルの言葉が脳裏をよぎった。  
 
――自分のパートナーを抱いても、そのパートナーが代わるって話だ。しかも、必ず新顔が現れるんだ 
とさ。  
……それが嬉しくて毎晩パートナーを抱いてるヤツもいるらしいがな――  
 
違う…俺はそんなのは嬉しくない。抱きたいんじゃない、ロッコにずっとそばにいて欲しいんだ。  
そう心の中で、ランデルの言葉に答え続けた。  
 
「…ラルフ?」  
ロッコの声がして、はっと現実に戻る。目の前には変わらず、ロッコの優しい微笑み……。  
この…この状態で俺が言えることは……!  
「……ロッコ…お願いだ…。これからは、一緒に寝てくれないか?」  
「え…? ええ…もちろん」  
俺はロッコを強く抱きしめながら、耳元でささやいた。ロッコはコクンと頷き、両手を俺に回してくる。  
その態度に安心した俺は、ロッコに再びくちづけをしながら、目を閉じた。  
普段ならベッドに横になれば、すぐに眠りの精霊が訪れ、夢の世界へと直行だった。  
だが今日は、ロッコの高まる心臓の鼓動と温もりを感じ、眠りの精霊はなかなか訪れることはなかった 
―――  
 
 
「くか〜くか〜」  
いつの間に寝入ったのか、娘は完全に熟睡している。ラルフは肩をすくめ、そっと彼女に毛布を掛ける。  
「やれやれ……。何も考えずに頼みやがって…」  
ラルフは溜め息をつきながら、独り言を漏らす。目の前には、葡萄酒が入った壺があと3本残っている。  
しかも、中身はほとんど手付かずだ。どうやら、酔いつぶれた娘が頼んでいたらしい。  
「まったく…残すのも勿体無い。もう少し、居続けるとするか」  
再び腰を下ろし、独り言をつぶやきながら壺の中身をジョッキに注ぐ。  
注ぎながら、ラルフの心は再び過去に戻っていた。もうすでに、その話を聞く相手はいないにも関わら 
ず。  
「フン…勝手なものだ。人に語れと言いつつ、自分から聞かなくなるとは、な」  
事実は違う。娘はラルフに過去を語れとは言っていない。それにラルフは気がついていない。  
いや、気がついていて、それでも娘のせいにして”あの日”を思い出そうとしているのかもしれない。  
何故なら、ラルフの心は”あの日”で止まっているのだから―――  
 
 
「おい! 大丈夫なのか!?」  
俺はランデルの部屋に駆け込むと同時に叫んでいた。  
ランデルが大怪我をした、と彼のパートナーであるニーサから聞いたからだ。  
「あ、ああ。全然大丈夫さ。すぐにでも動けるくらいだからな。…まったく、ニーサのやつ、大袈裟に 
…」  
「こらこら無理するな。肋骨が3本ほど折れているのだぞ」  
右腕を振り回しながら強がるランデル。それを包帯を巻きながら、ゴン爺さんがたしなめる。  
「…まったく…。そろそろ骨を折ると治るのに時間が掛かるトシなのだから、少しは体をいたわる様に 
せんか」  
「へいへい。そうさせてもらうよ。……ありがとな、ゴン爺さん」  
治療を終え、立ち上がりながら説教をするゴン爺さんに、ペコリと頭を下げるランデル。  
それにしても…いったい何があったって言うんだよ…。  
 
バタン  
 
扉が閉まり、ゴン爺さんが去っていったのを確認すると、ランデルは人差し指をくいくいと動かし、俺 
を招いている。  
その表情にただならぬ気配を感じた俺は、ゆっくりとランデルのそばに近寄った。  
ランデルは聞き耳を立てる俺の耳にそっと口を近づけ…  
「わっ!!」  
いきなり大声を出した。  
「な、何しやがる!」  
耳を押さえながら、ランデルに抗議する俺。  
「けっけ。何でもねえよ。まったく、どいつもこいつも心配性なんだからよ。とりあえず眠いから寝る 
わ」  
「ああ、勝手にしろや。……お前一人ならともかく、少しはニーサのことを考えて行動しろよな」  
手をひらひらさせて、「あっちへ行け」の仕草をしながらベッドに横になるランデル。そのとき、一瞬 
だが彼の目線が動いた。  
俺は気がつかないフリをして、悪態をつきながらランデルの部屋をあとにする。  
何気なく懐に手をやると、何か入っている感触がある。俺は何もなかったかのように振る舞い、急いで 
自分の部屋に戻った。  
 
「あ、ラルフ! ランデルは大丈夫だったの?」  
「ああ、大丈夫らしいぜ。…しばらく試合が無ければ、な」  
部屋に戻るや否や、ロッコが俺に詰め寄る。俺はゆっくりと椅子に腰をおろしながら答える。  
その言葉にほっとした様子のロッコは、食事を受け取りに部屋を去っていく。  
俺は部屋の隅にある紙とペンを取り出し、絵を描き始めた。  
何枚か書き上げたのち、懐から一面に文字が書かれている、絵を描いていたものと同じ紙を取り出した。  
我ながら、まどろっこしいやつ…。俺は苦笑いしながら文面を眺め、思わず固まっていた。  
それは、驚くべき内容だった――  
 
 
――姿を消したパートナーがどうなるかを調べてみようと、控え室の奥の扉の中に入ってみた。  
鍵開けは、ここに来る前の商売柄、造作も無かったから。その先は真っ暗な廊下で、先が分からない。  
罠に気をつけ、どれくらい歩いたか知れないが、女の子のすすり泣く声が聞こえてきた。  
声の正体を近づいて確かめようとしたとき、巡回していた男に見つかってしまった。  
警笛を鳴らした男だけは殴り飛ばして失神させたが、すぐに人が駆けつける気配を感じ、急いで引き返 
した。  
だが戻る途中、罠に引っ掛かり、負傷してしまったのだった――  
 
 
バカ野郎…。無茶しやがって……俺は心の中で叫んでいた。何で…何で手伝ってくれのひとことが言え 
ない…。  
俺は、手紙を落書きした絵もろとも火の中に投じた。と、同時にロッコが食事を抱えて戻ってきた。  
「あれ? 何してるんですか?」  
「いや…なんでもないさ。ちょっと絵を描いてたんだけど…どうにも上手くいかなくて、ね」  
ロッコの質問に俺は肩をすくめながら答える。  
実際に絵の出来は、かつて絵描きを目指していた身としては、納得できなかった。  
「へえ〜。ラルフって絵の才能があるんだ。意外ですね。…へえ〜。結構上手いですね」  
「ちょ、ちょっと待て! まだあったのかよ!?」  
床に落ちている紙を拾い上げながらロッコが言う。そこには、テーブルの上の果物の絵が描いてある。  
俺は慌てふためいて、その紙を取り上げようとする。ロッコは絵を後ろに回して、俺の手の届かないよ 
うにする。  
「そんな、勿体ないですよ。どこかに飾っておきましょうか?」  
「た、頼むからやめてくれよ…。今度、ちゃんと描くからさ」  
悪戯っ子の目で部屋を見渡しながらつぶやくロッコに、頭を下げて頼み込む。…急いでたから、本当に 
失敗してたし。  
「そうなんですか。ま、ラルフがそこまで言うのなら止めときましょう。でも、これくださいね。  
…………ところで、今度は果物ではなく、…私を描いてもらっても、いいですか?」  
「あ、ああ。構わないよ」  
ロッコは絵を懐にしまいながら俺に言う。最後のひとことは頬を真っ赤に染めて。  
俺はその仕草にドキリとし、声を詰まらせながらもどうにか返事をした。  
ふう…。どうにか誤魔化せたかな…? ロッコはカンが鋭いから、下手に隠しても簡単にバレてしまう。  
だから逆に素直に白状した。もちろん、本当は何でこそこそしていたか、を隠して。  
嘘とは、一部に真実を混ぜると真実味を増す。これが真理だ。それにしても…手紙の内容は、危険すぎ 
る。  
これを知っている、もしくは知っているかもと疑われるだけでどんな目に遭うか。想像したくなかった。  
だがその想像が現実になりそうで、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じていた――  
 
 
ラルフは二本目の葡萄酒の壺を空にしながら思った。  
それにしても、”今度”という約束はしないほうがいいな。ついにロッコを描くことは出来なかったの 
だから、と――  
 
 
「ちょ、ちょっと待てよ! そんなの無茶に決まっているだろう!?」  
「仕方ないだろう。わしだってそう思うが、主催者がそう決めているのだからな」  
翌日、ランデルの部屋で二つの声が交錯した。片方は俺の叫び声。もう片方は冷静なゴン爺さんの声。  
今日は闘いのある日。だが、よりによってランデルに指名がくるとは……。  
しかも対戦相手はジャン。――俺がここに初めて来た日、唯一観客として観た試合の勝者。  
ことごとく対戦相手を死に至らしめているジャンを、俺はどうしても好きになれなかった――  
対戦すること自体は仕方ない。だが、今のランデルでは分が悪すぎる。  
「なあ、ランデルは怪我をしているんだ。まともに闘えるはずがない。主催者はそれを知らないのか?」  
「…いや。わしは一応、係の連中には伝えたぞ。だが、勘違いをしてはならん。  
お前さんを含め、格闘士は雇われだ。主催者が闘えと言えば、それに従うしかないのだ。悲しいことだ 
がな……」  
俺の抗議にゴン爺さんは遠い目をして答える。…そうか、ゴン爺さんもかつてここで格闘士として闘っ 
ていたのだっけか。  
だが、それにしても、だ…。  
「じゃ、じゃあさ。俺がランデルの代わりに出る、というのはどうだ? 観客にとっては闘いには違い 
ないだろ?」  
「うむ…だがすでに賭けは始まっている。そこで格闘士が変更になれば、観客に八百長の疑念を抱かせ 
るだけだ。  
主催者がそんなリスクを背負うと思うか?」  
再度、俺はゴン爺さんに詰め寄るが、軽くあしらわれる。…考えてみればそれも当然のこと、だ。  
 
「お…おいおい。当人を置いて勝手に話を進めるなよ」  
「そうですよ。まるでランデルが負けるみたいな言い方で…」  
俺とゴン爺さんのやり取りに、ランデルとニーサが呆れたように会話に割って入ってくる。  
「そうそう。まったく、ひでえヤツだなお前は。それに、ゴン爺さんにそんなこと言ったって仕方ない 
だろ?」  
拳を握り締めて軽く俺の胸を突きながら、ランデルは言葉を続けた。  
俺には強がっているようにしか見えないのだが…。  
そう考えているうちに、ひとつの疑惑が浮かびあがった。何だかタイミングが良すぎる。  
まさか、昨日の侵入者の正体がばれて、ランデルを闘いの場に引きずり出そうとしているのか?  
だとすると…。  
「おい、何遠くを見ている? そろそろ試合に集中したいんだが?」  
ランデルの声を聞いて我に返る。  
「ランデル…お前」  
「構わないさ。怪我をしたのも俺の不注意だ。何、包帯でがっしりと固定しておけば大丈夫。  
大船に乗ったつもりで試合を見てればいいさ」  
「そう…か。分かった、気をつけてな」  
口を開きかける俺を制して笑いかけるランデル。その顔はどこかしら強がっているようにも見える。  
俺はそれ以上何も言えず、ゴン爺さんと一緒に部屋を出た。それが、二人を見る最後の姿だったとも知 
らずに――  
 
 
ガチャン  
 
「は!? 何? 何ですか!?」  
「す、すまん。少し興奮していた…」  
ラルフがジョッキを叩きつける音に反応して、ビクンと飛び上がる娘。ラルフは素直に詫びの言葉を述 
べた。  
いつものことだった。あの時の出来事を思い出すたびに、感情の抑えが効かなくなる。  
ランデルとジョンの試合を、ラルフが直接見ることは出来なかった。その試合に限って係の連中に止め 
られたからだ。  
試合の顛末は、直接観戦していたゴン爺さんから聞いた。  
 
ジョンは執拗にランデルの脇腹を攻め続けた。  
得意の足技も使えずに、とうとう地に膝をついたランデルを、ジャンは容赦なく弄り続けた。  
すでに動けなくなっているにも関わらず、試合が止められることはなかった。  
それをいいことに、ジャンは意識が朦朧としているランデルを壁に叩きつけ、得意の体当たりを見舞わ 
せた。  
ビクビクと痙攣しているランデルを係の連中が運んでいく中、泣き叫ぶニーサをジャンが犯し続けてい 
た――  
 
 
「――そして二人は二度と、あの部屋に戻ってくることはなかったのさ」  
「…………そ…そうらったんれすか…」  
歯軋りしながら吐き捨てるラルフを見て、娘は顔を落としながらそう答えた。答えるしかなかった。  
だが、酔いのせいで今ひとつ呂律が回っていない。  
「まあ、お前さんには関係ないことだ。あまり気にするな」  
平静を装いながらラルフは淡々と言った。それでも娘は一瞬、ピクリと反応したが、うつむいたままだ。  
ラルフは溜め息をつきながら給仕娘に果汁を頼み、壺の中身をジョッキに空ける。  
中身の入っている壺は残りひとつとなった――― 
 

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