ふと気が付くと、僕は空へと伸びる長い螺旋階段の途中に立っていました。
階段は気の遠くなるような長さと高さで、頂上がぼやけていてはっきりと見えません。
また、下も同じように途中で見えなくなっており、今いる場所がどれほどの高さなのかも、見当がつきません。
僕は何故、こんな場所にいるのでしょうか。
暫く考えましたが分かりません。ただ、僕は何だか、上らなくてはいけない気がしました。
僕は一段、また一段と足を踏み出します。体は軽く、自然に上へ上へと押し上げられるようです。
階段の幅は人が二人並んで歩けるほどしかなく、手すりなんて物もなく、踏み外せば下に真ッ逆さまに落ちてしまうことでしょう。
しかし、不思議と落ちる気は全くしませんでした。それどころかこの光景、どこかで見たようなことがあります。
ですが、頭が上手く回りません。思い出せません。ただ敷かれたレールを走る列車のように、僕は階段を上り続けます。
「星がきれいだね」
懐かしい声に振り返ると、背後に小学生くらいの女の子が立っていました。
「星?」
するとどうでしょうか。まるで霧の中のような周囲に、きらきらと光るものが見えてきたではありませんか。
それは確かに星。五芒の形をした、絵本やアニメで見るような。
「これが星だっけ?」
気持ちをそのまま、僕は口に出しました。雨漏りの雫を額に受けたような違和感を受けたからです。
「そうだよ。お盆のキャンプ、楽しかったな」
目の前にひらひらと、まるで落ち葉のように何かが落ちてきました。
星でした。クレヨンで枠は黒、中は黄色がやや雑に塗られた、まるで夏休みの絵日記に描かれるような、お星さま。
それが画用紙から切り取られて来たかのようでした。周囲の星と同様、僅かに光っています。
「お盆のキャンプ?」
女の子の顔を見ようとしましたが、ぼやけてよく分かりません。ただ、何か懐かしいのです。
「うん! えへへ、じゃあ先に行くよっ」
女の子は僕の隣を抜けて、駆け上がって行ってしまいました。
また暫く上ると、今度は紺の制服を着た女子高生が、階段に座っていました。
二つに分かれたお下げが、またどこか懐かしく感じます。そう、確かに見覚えがあるのです。
たださっきの女の子と同様、顔がぼやけていて、誰なのかがはっきりしません。
「待ちくたびれちゃった」
そう言って、女子高生は憂うように溜息をつきました。
「待ちくたびれた?」
意味が分からない僕は、尋ねてみました。
「そう。彼ね、中学校に入る前に引っ越しちゃったんだ。あの日私は、勇気を出して告白した。ずっと待っているから、って」
誰かを待っているのでしょうか。この階段を上ってくるであろう、その人を。
「彼は四年後に戻って来た。けど、私のことなんて覚えていなかった。会った時、何て言ったら良いのか、分からなかった」
辺りはいつの間にか暗くなり、雨が降っていました。優しくも物悲しい、五月雨のような雨です。
雨が、女子高生の顔を濡らします。まるで泣いているかのように、頬の辺りを滴り落ちて行くのが分かります。
ですが、不思議なことにその顔がはっきりしないのです。
「でも、好きだから。ずっとずっと、私は」
そう言うと、雨に溶けるようにして、女子高生は消えてしまいました。
やがて、頂上らしき開けた場所が見えてきました。
「ねぇ、待ってったら」
後から女性が現れました。まるで僕を追いかけて、上って来たかのようです。
そしてやはり懐かしく、やはり顔がぼやけています。
「え?」
僕は振り返り、息を切らしている女性に尋ねました。
「本当に、行くの?」
行く? 僕に言っているのでしょうか。
「僕が、何処に?」
何を訊こうとしているのかが分かりません。僕はただ、あそこに行こうと思っているだけなのに。
しかし、あそこは何処なのか僕も分かっていないのです。どうしてそんな所に行こうとしているのでしょうか。
考えようとしても、やっぱり上手くいきません。多分理由なんて、ないのだと思います。
「私を置いて、また一人で、そうやって、ずっと、馬鹿っ!」
女性はそう言うと、膝をついて項垂れてしまいました。訳が分かりません。
またその訳を、必死に考えたいとも思えないのです。何故か早く、あの場所へ行きたくてなりません。
僕は女性をそのままに、階段をまた一段ずつ、上り出します。
長かった螺旋階段が漸く一段落つき、足場らしきものが目の前に広がります。
よく見れば、まだ階段は続いていました。ただ僕が下りるべきはここだと感じたのです。
少し歩くと、大きな扉がありました。
見るとそれは木のような質感で、中央に鳥のような彫刻が施されてあります。
と、突然そのくちばしの部分が動きました。そして人が通れるほどの大きさに開いたのです。
まるで僕を待ち構えるかのようです。
いざ進もうとすると、今度は予期せぬ大きな揺れが襲ってきました。
ふと、さっきの女性が心配になった僕は階段まで戻り、下を覗き込みます。
誰もいません。それどころか階段が崩れ落ちていきます。僕のいる足場まで不安定になってきました。
僕は急いで扉の方に戻ります。見れば、くちばしがゆっくりと閉じようとしているではありませんか。
どうして自分はその先に行こうとしているのか、考えるより先に足が動きます。
が、すぐの距離なのに体が進みません。まるで、夢でも見ているかのように、自由が利かないのです。
足元は沈み始め、くちばしはもはや人の通れる大きさではなくなってしまいました。
瓦礫と共に下へ、ゆっくりと落ちていきます。
「?」
ここはどこでしょう。
僕は誰なのでしょう。
暗い場所に僕はいます。
ぼんやりと映る黒い線に白い色。
息が、苦しい。そして、胸が張り裂けるように痛い。
顔に、瑞々しい何かを感じます。これは、涙?
どうして、こんなに、空しいのでしょうか。
どうして、こんなに、切ないのでしょうか。
目から涙が、止まりません。僕は、一体? 分かりません。分からない。
体を動かすことも、声を出すことも、何も出来ません。出来ることは僅かに開いた目から、涙を溢すだけ。
誰もいません。目の前に誰もいないのです。それが何故か、凄く哀しい。
夢か幻か、今の今まで見ていた光景が、懐かしく羨ましい。
ここは空虚でただただ、何もありません。泣きたくなるほど、何も。
いつの間にか眠っていたようです。
眠っていたということは、僕はずっと横になっていたのでしょう。
頭は割とすっきりしました。そして差し込んでくる光が、いくらか不安な気持ちを和らげてくれます。
僕は時間をかけて、現状の把握を始めることにしました。
口元にあるのは、酸素吸入器でしょうか。ここは、病院なのかもしれません。
体を、動かしたい。それなのに腕が、重い。
動いて。
動け。
「!」
ぱたっ、と少しだけ持ち上がり、また柔らかな下へ落ちます。
やっぱり僕はベッドに寝ているようです。そして、手に感じる僅かながらの違和感。
体の奥に、染み透ってくる何か。
知っています。これは、点滴。
僕が発した僅かな音に呼応するかのように、物音が聞こえました。
「ゆ、き?」
微かな声。女性のそれでした。
「ゆき!」
視界に入り、じっと覗き込んでくる女性。
目が合うと、女性はその顔をくしゃくしゃにして喜びました。
この瞬間は、形容し難いほどに嬉しかった。人がいて、僕の存在に気づいてくれたということで、どれだけ救われるかが分かりました。
そして僕は、すぐに思い出しました。
幼馴染の、三橋野叶のこと。目の前で大粒の涙を溢している彼女こそ、あの顔のぼやけた女性でした。
今ははっきりと、顔が映ります。心につかえていたものが取り払われたようで、嬉しくて僕も涙が出ました。
僕は、僕のことを忘れないでくれていた叶を、忘れてしまっていました。
子どもの頃、盆に一緒に行ったキャンプ。満天の星空を二人で見たこと。
小学校卒業前に引っ越すことになり、告白されたこと。
ずっと待っていると言われて、僕も忘れないと答えたこと。
ですが、四年後に再会した時には何もかも抜け落ちていて、僕は彼女を置きっ放しにしてしまったのです。
それなのに彼女は、ずっと付いて来ていました。気持ちを隠して、ただずっと、僕を近くで待ってくれていました。
僕が事故に遭って意識不明になった時、彼女は居ても立ってもいられずに、ずっと通いつめて看病をしてくれていました。
思い出さないままなら、そのままでも良いと。もし意識が戻ったとしても、すぐに僕の元から再び隠れようと。
生死の淵を彷徨っている中で、走馬灯のように出てきた思い出。あの階段で見たのは、三人とも彼女でした。
僅かに残っていた記憶が、そして彼女の思いがあの夢を見せたような気がします。
そして、それが僕を呼び覚ましてくれたのかもしれません。
今度は、僕が応える番です。
「お帰りなさい、ゆき」
「ただいま、叶。そしてもう、絶対に忘れない」