1ヶ月はすぐ過ぎる。
あの後何事も無ければ、時間があればきっとあたし達は何度も会っていたかもしれない。
メールも電話もわかっていたのに返さなかった。
未だリアルに疼く泣きたくなる程の胸の痛みが過去になってしまう事だけを、ただただ望んでやり過ごした。
部屋の隅に掛けた夏服はもうすぐ着る事はなくなり、次々季節が巡っていけばやがて古臭いものと
してどこかへしまい込まれてゆくのだろう。そうして忘れ去られる。
今の自分の中のどうしようもないやり場のない気持ちも、いつかそうして風化してゆくのだろう。
ただそれを願うばかりだ。
あたし達はただの男と女ではない。従兄妹という切符がある限り、必ずどこかで繋がっていられるのだ。
そのレールから外れる事は決してしてない。
一度しか袖を通さずにいた流行りの夏服を見る度にそれを思い出す日が来るのだろうか。
あたしの中でひとつだけ、ただひとつだけの優しい想い出。
誰かに幸せにして貰う事など夢だと思った。自分自身で掴むものだと思っていた。
だけどそれは望めば望む程どうしようもなく遠のいてあたしを打ちのめしていく。
あたしは幸せに生きる事を諦めた。
だからそれを棄てるために――
もう一度夢を見てみようと思う。
「もう会ってはくれないと思ったよ」
多分これが最後の休日になるだろうと思われる日、あたしはやっと兄ちゃんに連絡を入れた。
「結局あっちに戻る事になりそうだよ」
大まかな荷物はあらかた送り返してしまったらしい。部屋に残っているのは今週分の着替えと僅かな
身の回りの物の入った鞄と寝具だけだった。
「ここに居てもお前を傷つけただけに過ぎなかった。どこに居ても誰のためにもなれないと解ったよ」
本当に居なくなるのだ。
「……あれから妻とも何回か話したけど、離れてみてよく解ったよ。俺達は冷めてしまったわけじゃ
ない。けど、互いに自分達でなきゃ駄目かって言えばそういうわけでもないらしい。だったらいっそ
……独りに戻っても同じだと思う」
「……そう」
「ものわかり良過ぎるのも駄目なんだと。彼女の好きにして欲しくてよかれと思った事が、逆に自分
は必要ない人間なんだと思われたらしい」
そんなものなのか。知らない人間から見たら贅沢な不満に聞こえてくる。だけど愛や優しさの形は
人それぞれなのだ。まして夫婦の仲なぞあたしに解るわけもない。
「押し付けがましい優しさも、その逆も、結局俺はどちらも相手の求めるものを与える事が出来なかった。
必要として貰いたい気持ちが強かった。それは……葵の言うとおり、思い上がった自己満足だった」
あたしのせい?
この人は今、自分の存在意義を失いかけているのかもしれない。
必要とされない事の苦しみは、あたしが一番解っていた筈だったのに。
「ごめんな。情けない兄ちゃんでさ。すっかり幻滅させたな」
「そんな」
「いいんだ。それだけ葵は大人になったんだよ。もうあの頃のちびで危なっかしい子供なんかじゃない」
あたしをまだ子供だと言ったついこの間までの貴方はどこへ行ったのか。
謝らないで欲しかった。
傷ついたのはのはあたしじゃない。あたしが貴方を傷つけてしまったのだ。
幸せになることを諦めてしまったあたしは、色んな事に期待する事を止めてしまった。そのために
自分だけでなく、人に優しくする余裕さえ失ってしまったのだ。
酷いのはあたしの方だ。なぜ大切な筈の人間にさえ、それだけの事が解らなかっのだろう。
「兄ちゃん……」
「なに?」
やっぱり全部棄ててしまおう。
縋りつく事の無いように。
きちんと前を見るために。
決して振り返る事の無いように。
「あたし達はもう会わない方がいいのかもしれない」
貴方があたしを忘れてしまうように。あたしも想い出ばかりに囚われないために。
「あたしを……抱いて」
そして忘れて。
それまで力無く笑うだけだった顔が一瞬にして強張った。
「……は?」
「だから、抱いて」
「何を……」
まさかあたしがそんな事を言うはずがないとでもいうように目を見開いていた。
「ふざけるんじゃないよ」
「ふざけてなんかないよ」
膝の上で握り締めた手を、さらに力を込めて握る。エアコンは効いているのに、へんな汗が背中をつうと走る。
「……駄目だよ」
「なんで?」
「お前は妹だ。俺にとって、誰よりも……大切な妹だ。だから」
「大丈夫だよ。従兄妹同士って結婚もできるんだから」
だからそれ位許される。
「葵……」
「もうやめようよ。あたし達嫌でも一生縁はあるんだよ?その度に互いに腫れ物に触るみたいに過ごさ
なきゃならない。大事に想いたいからこそ言いたい事の半分も言えない気がする。そんなのはもう
嫌。辛い……」
これから先も、貴方があたしを踏み込めない優しさで守ろうとするなら、それ位ならいっそ。
「だからやめよう。傷つけるのも傷つくのも、ずっと恐れたまま生きて行くのは嫌なの」
事ある毎に罪悪感を感じなくてもいいように。
すっぱり切れてしまったとしても、それで良かったのだと振り返らずに済むように。
何よりも、あたしが貴方にしがみつかなくても良いように。
「……駄目だよ。絶対にいけない」
「あたしじゃ不満?」
「そんなんじゃない!」
突然語尾がキツくなった。言った後自分でもそれに驚いたのか、兄ちゃんは口をつぐんだ。
「……そんなんじゃない」
「だったら」
何故。
「駄目なものは駄目だ。……俺は、葵お前だけは……なにがあっても抱かない。抱く気はない。何が
あっても、だ」
あたしは女じゃないと言いたいのか?違うというのなら、あたしもそう見られるに値するという事
ではないのか。
「嫌なの?……あたしが嫌い?」
「違う。そうじゃない。そんなんじゃないんだ。お前を嫌いだなんて思った事なんて一度だってありは
しない。大事な女の子だと思ってるよ。今でも。……あの頃と変わらず」
何でだろう。大切にされていて、それはとても嬉しい事の筈なのに、何故かとても悲しい事のような
気がして涙が零れた。
ふと、兄ちゃんの肩が震えているのに気がついた。
同じように泣いていた。俯いて、鼻を啜る音がした。
「……大丈夫?」
他に何と言えば良いのかよくわからなくて、少々まぬけに思える声の掛け方をしてしまったかもしれない。
「大丈夫なもんか。辛い思いいっぱいして、それでも頑張って生きてきたお前に、本当に大事にしなきゃ
いけなかった筈のお前にこんな事言わせてるんだぞ?情けないよ。俺は、自分が情けなくてたまら
ないよ……」
悲しいのではなく寂しいのかもしれない。
やはりあたしは妹から抜け出す事が出来ないのだろうか。
「兄ちゃん。あたしはもう兄ちゃんの知ってる葵じゃないんだよ」
本当ならずっと胸にしまっておけば良い事だった。少なくとも兄ちゃんの前ではそれを知らんぷり
しておいた方が平和で楽だっただろう。
「何が」
「あたしはもうとっくに綺麗じゃない。年齢だけじゃなくて、女なの。兄ちゃんの知ってるあの頃の
ままじゃないの」
宙をさ迷うように目を泳がせて、それからゆっくりあたしを見る。無表情だった顔は徐々に驚愕した
それに変わる。
「ね?だからあたしはもう子供なんかじゃないんだってば」
「葵お前は……」
だからもうあたしを許して。
ただの女としてあたしを見て。罪悪感なんて要らないんだから。
「知ってる?兄ちゃん。男が女に服買う時ってね、脱がせる時の事想像してるんだってね」
最後の駄目押し。
二度目に袖を通した服を示しながら出来るだけ明るく振る舞った。
兄ちゃんの目はまるで知らない女の子を見るような目つきになった。
うん。それでいい、それでいいの。
――ただの男になって。
想い出からあたしを解放して下さい。
「……借りるね」
その辺にひっかけてあったタオルを手に取ると、さっさとシャワーしに向かった。
その間物音一つ、灯りを点ける気配すら無かった。
バスタオル一枚の姿で風呂から出て行った時には、薄暗くなりかけた部屋の真ん中でずっと同じく
俯き座ったままの格好をしている兄ちゃんの姿があるだけだった。
ふと顔を上げてあたしの顔を見る。
「……葵?」
「なに?」
「葵だ」
再会してからすっぴんのあたしを見るのは初めてだったからだろうか。
「俺の葵だ」
にっこりと安心したようにふにゃっと崩れた顔をして笑った。ツられてあたしもつい笑ってしまった。
「あたしじゃなかったら誰なのよぅ?」
「えー?だって何だかどこかのお嬢さんみたいになっちゃってたからさ」
「……」
さっきとはうって変わって軽口を叩くと立ち上がってこっちへ向かってきた。
あたしの前に立つと、まだ雫の伝う頬に指を添えた。
「本当にいいんだな?」
こくんと頷く。今更ながらドキドキしてきた。
ぷに、と2本の指でほっぺを摘まれる。
「痛」
「……行ってくる」
わざと摘まれたほっぺを膨らませて抵抗すると笑いながら指を離し、風呂場に消えた。
「永かったなぁ……ここまで」
シャワーの音を聞きながらころんと布団に横になる。
男の匂いのする枕。
昔はあんまり好きではなかったいわゆる“男臭さ”を愛おしく感じて、少しだけ泣きたくなった。
「大丈夫だよね。あたしは、大丈夫」
目を閉じて呟きながら過去を振り返り、時の重さを計る。
想い出というものは時間が経てば経つほど美化されて、それに囚われているあたしのような人間は、
そこから前に進めなくなってしまう。
だからそれを棄てるのだ。
――シャワーの音が止んだ。