* * *
会社を休んだ。
もう秋だというのに今日は残暑がきつくて、そのためか体がだるい。
汗でじんわりと貼り付いてくるパジャマが気持ちが悪くて仕方無い。着替えるのもだるい。喉渇いた。
お腹減った。でも食べたくない。
気持ち悪い。吐きそう。
水を飲んで誤魔化そうと流しに立つと同時に玄関のドアに気配を感じる。
古い安アパートは壁一枚隔ててすぐ通路だからすぐ解る。なんかの集金か勧誘だろうか。もう夕方
だから帰宅する事の多いこの時間帯にはよくぶつかるのだ。
こんななりだし誰だか知らないが悪いけど無視しよう。そう思ってドアを叩く客人を息を殺してやり
過ごした。
何度か叩いた後、反応が無いのに失望したのか密かにため息が聞こえた。が、後ずさるような靴音に
諦めて去るものとほっとして気を抜いた瞬間。
「……えっ!?」
目の前の景色がぐらりと揺れた。
慌てて流しに掴まるが膝に力が入らなくてそのまま床に崩れる。手にしていたコップが砕けて大きな
音を立てて散った。
あーあ、百均だけど気に入ってたのになぁ。
やばい。いるのバレちゃった!?
ドアの前の訪問者はさっきよりも凄い音でばんばん叩いてる。
片づけなきゃ、とかまずいよ、とか色んなことが頭にうかぶのに、流しの扉にもたれた体はなかなか
いうことを聞かなくて思うように動いてくれない。
焦ってるのかガチャガチャとこれまた凄い音でノブが回されて――そして開いた。
あれっ?鍵、閉め忘れてたんだ。まあ取られるものは無いけど。
誰かが飛び込んで来たと同時に力が尽きてあたしの体は床に崩れた。
ああ、なんだか懐かしい声がする。大きな靴が目に入った。
地べたについた頬の下に暖かい手が入り込んで体が宙に浮いた気がした。
――そこで目の前が暗くなった。
ああ、辛いなぁ。苦しいな。ちょっと甘く考えていた。でもなんとかなる、すぐ。そう、すぐに楽になる。
この生活さえ終われば――終わらせなければならない。だからすぐに楽になる。
「……んね」
むかむかする喉のつかえもあと少しの我慢だ。
「ごめんね……」
こうやって謝るしか出来ない。情けない。でも仕方がない。
瞑った目からじわじわと滲み出る雫が頬を伝う。なんだろう、胸がくうっとなる。
自分でがしがしと瞼を擦ると冷たい何かがそれを掴んだ。
「……ぃ」
誰?
「ぁ……ぉ……ぃ?」
呼んでる?あたしを?
冷たくて気持ちいいごついこの感触は手だ。頬をぴしゃぴしゃと撫でるように叩いておでこに載る。
夢ならこのまま寝かせて欲しいのに。
「葵?……葵っ!?」
「……兄……?」
でも天井を背に必死の形相で横たわるあたしを覗き込む彼の姿を認めて、どうもそういうわけにも
いかないらしいと束の間の逃避を諦めた。
「兄ちゃん……?」
どうして?あれからすぐに帰ったんじゃ無かったの。何でここにいるの。
「こっちに移動願いを出して移って来た。色々あってやっと終わったよ。……何もかも」
飲めと勧められてスポーツドリンクの缶を差し出された。「冷蔵庫なんも無いじゃないか。ちゃんと飯食ってるのか?」
近くの自販機にわざわざ走ってくれたのだろう。体を起こしてそれを受け取ると触れた手もほんのり
冷たく濡れていた。さっきの感触はこのせいか。
「なんか食うか?起きられたら飯行こう」
「いい。食欲なくて……」
「良くないだろう!医者は?」
「……行った。大丈夫。病気じゃない。大した事ないからへーき」
「へーきって……お前なぁ」
流しの上に割れたコップがビニールに入って置かれてあった。それを片付けてあたしを布団まで運んで
くれたりもしたらしい。
側に脱いだ上着と鞄が置かれてあった。
ワイシャツ姿のままネクタイを軽く緩めてあぐらをかいている。きっと会社が終わってそのままうちへ
来たのだ。
しかし、何故。
「何でここ知ってるの?」
「ん?伯母さんに聞いた」
やっぱり。口止めしておけば良かった。勝手な事を……。
「そう嫌な顔をするな。仕方ないだろう、連絡取れなかったんだから。……お前は勝手に出てっちゃうし、
電話もメールも無視したろ!?まあ、俺もゴタゴタしてそれ以上の事が出来なかったために、今頃に
なっちまったけどな。ごめんよ」
謝る事なんかないのに。
あれから着拒して連絡をシャットアウトしたのはあたしだ。逢う間もなく別れてしまえばもうその
ままおしまいになると考えた。
従兄妹という繋がりがあったとしても、離婚後父が死んだ事でそれももう保たないはずだ。だから
自然に流れて途切れて忘れて終わり。元の生活に戻ればあたしとの事も忘れてしまうだろうと。
そしてあたしも忘れてしまえるだろうと。
なのにどうして今頃になって。
「葵」
一息ついたあたしから受け取った缶を脇に置くと膝を正して向き直った。
「察しはついてると思うけど、俺は今独りだ」
何となくそれは解った。元々それらしい前振り話はあったわけだし。
「そう……なんだ」
結局だめだったんだ。でも何で今それをあたしに言うの?とは聞けなかった。どのみちそれを訊いた
ところであたしには関係ないと変な気を遣われるだけだろうという事は目に見えている。
「そこで、というわけじゃないんだが」
部屋を見回してまた視線をあたしに戻す。
「とりあえず今はまたウィークリーに住んでる。この前とは別だけど、ちゃんと部屋が見つかるまで
はとりあえずと思ってな。……葵」
「はい」
「休みになったら探しに行こう。それで俺と一緒に暮らさないか?」
頭の中が一瞬真っ白になった。
一緒に暮らす?あたしと?
「前より痩せてるんじゃないか?きちんと食べてないんだろう?こんな状態じゃ1人になんかしておけるか!
だから一緒に住もう。仕事だってもっと楽なやつ探して、な?」
「……嫌だ」
「葵!」
「嫌だって言ったの。そんな心配いらないよ」
本当なら、こんな風に言って貰えて喜ぶか有り難がるのが普通なんだろうけれど。
「……兄ちゃんじゃないって言ったよね?だからあたしももう妹じゃないんだよ。だからそういうの
いらない」
あたし達がそうなったのはそういうのを棄てるため。
「言ったけどそれは」
「心配してくれるのは本当に嬉しい。だけど」
甘えちゃいけない。
「そういう優しさはいらない」
同情は嫌だって言った。縋るのはもっと嫌。
だから貴方を忘れたのに。――筈なのに。
「葵俺は」
「帰って。お願い……来ないでいいから、もう。あたしの事は気にしないで!」
立ち上がろうと膝をたてかけて目眩を起こした。そのままぐらりとして彼の反対側にひっくり返って
倒れた。
「葵!!」
慌ててあたしを抱き起こそうとして側にあったバッグを引っ掛け、ぶちまけられた中身を何気に見た
彼は顔色を変えた。
「確かに病気ではないな」
手のひらサイズの感熱紙を眺めながらがしがしと頭をかきむしり、はあと息を吐いた。
「……大丈夫」
「何がだ」
もう決意は固めていたから平気だ。このまま秘密に葬ってしまうつもりでいた。
「だから、大丈夫だから。心配しないで。迷惑は掛けません」
「何だと?」
「忘れて」
見なかった事にして。
黙ってそれを眺めながら彼は俯いていた。
しばらくの間あたしも口を噤んでそんな彼を見つめていた。
「駄目だ」
暫くしてようやく口を開いた彼の声は恐ろしく低く冷たかった。
「何が?あたし1人でちゃんとしょ……」
「言うな!!」
体がビクッとして竦んだ。
「それ以上言うな。……馬鹿な事考えるんじゃない!」
初めてそんな声を聞いた。そんな顔も見た。だから驚いた。
「……だって」
無理だもの。そう思ったもの。だからそれしかないと思った。当たり前なんだと諦めた。
「やっぱりすぐにでも俺んとこに来い。なるべく早く部屋探すから。一緒に住もう。な?」
「……だめだよ」
「何で?そんな事言ってる場合じゃ」
「だからだめ!嫌なの!!同情なんかいらない。そんな風に優しくしないでって……っ」
言ったでしょう。辛いの。頼ってはいけないのに頼って甘えて縋りたくなる。きれいな昔の幻想に
引きずられて抜けられなくなる。だからそう決めたのに――。
それだけでは終わることを許されなかった。
「同情なんかするか馬鹿!!」
怯んであとずさりかけたあたしの肩を掴まれて逃げられない。
「親が……産まれてくる子供の心配して何が悪い?」
「兄ち」
「よせ。それは。……葵お前、お母さんになるんだろう?」
肩ごと掴まれてシワのいったペラペラの紙にプリントされた小さな豆粒のような影を、彼は広げ直して
食い入るように眺めた。
「……ならないよ」
「葵」
「ならない。産まない。産めない……」
「どうして?」
「だって」
「言っておくがお前だけの問題じゃない。半分は俺の責任だ」
「だから同情とか責任とかも」
「だから!同情じゃないし、責任だって……父親なら持って当たり前の事だろうが。だよな?違うか、ん?」
何と言い返せば良いかわからなくて黙って目を逸らした。
「いいか?半分は言わば俺の権利だ。だからそんな思い詰めるな。な?」
思ってもみなかった言葉や展開に頭が混乱する。
権利って。責任はわかるけど。
「だってあたし自信ない。自分がそうなれずに生きてきたのに誰かを幸せになんて出来ないもの」
何故生まれてきたのだろうと、両親を――運命を呪った。命があるから仕方なく生きてきた。
「嘘だ」
「だから」
「じゃあ何で“ごめんね”なんて言うんだ?……産みたいんだろう本当は」
ああ、さっきの。独り言のつもりの呟きは彼には筒抜けだったわけか。
「産んでくれよ。俺だってお父さんになりたいよ」
「そんな……だめだよ。だって離婚したばかりだよ?前の奥さんが知ったらいい気しないよ。それに
会社でも立場があるでしょう?第一……おばちゃんがいい顔しないと思う。心配かけちゃだめだよ」
そう言うと彼は押し黙ってしまった。
ただでさえ息子の離婚転勤で心を痛めてるだろうに……うちの親はともかくとしても、だ。
寝取ったわけでは無いけども、世話になった人を裏切るようで辛い。
それに、初めての孫がこんな授かり方では気の毒だと思えてしまう。
いきなり立ち上がると写真をあたしに返して携帯を取り出した。
「もしもし……俺。悪いね急に。ちょっといいかな?」
どこかへ掛け始めたので静かに膝を抱えたまま、ぼうっと手元の写真を眺めながら『明日は出勤しな
ければ』と考えていた。
部屋の隅で小声で背を丸めながら時折「すまない」とか「ありがとう」という彼の誰かとのやり取り
を聞こえないふりをして終わるのを待った。
「じゃ、元気で。君も……お幸せに」
電話を終えた彼は、あたしの前に座ると真顔で手を取った。
「今何ヶ月?」
「は?」
「だから……ああ、そうかこっちがいいか。予定日は?」
「来年の5が……」
「5月か。ギリギリだったな」
ギリギリって?その前につい言っちゃったけどあたしは……。
「男はともかく女はすぐ再婚出来ないって知ってるよな?……今の電話、前の妻なんだ」
「え……」
別れた奥さん。もう他人になったとはいえ、元夫の側に別の女――それもこんな状態だと知ったら。
やはりいい気はしないのではないだろうか。
「そんな顔するな。お前は昔から周りを気にしすぎる。我慢して傷ついて、全部辛い事背負いこんで。
今だって俺に何も言わずに1人で勝手に決めて、うちの親や……元妻の事ばかり考えてるだろう?」
「そ、そんな……だってそりゃそうだよ。あたしなんかのために」
自分の不運や苦労はともかく、それが誰かに少しでも及ぶのは申し訳ないと思ってしまう。あたし自身は
それに慣れているぶん、自分が黙っていればことが済むというのならと黙ってやり過ごすのが当たり
前になっていた。
「そんなだからだよ。だから1人にしときたくない、出来ない。こんな時なのに自分の事後回しにして……。
優しすぎるよ。お前は俺の事優しいって言うけどお前のほうが優しいひとだよ。そして強い」
違うよ。多分あたしは優しいというよりただ諦めがいいだけだ。強いのは傷つく事に慣れているから。
だから誰かを不幸にしてまで自分が幸せになろうなんて思えない。苦しむのは自分だけで沢山だ。
「さっきの話に戻るけど、離婚後半年。半年待ってお前が受け入れてくれたら、一緒に住もうと思ってた。
だけど予定が狂った。悠長な事言ってられなくなったからな。……向こうにも他に好きな人がいたんだ。
再婚についてははっきりしないが、それでもその期間だけは俺の勝手なけじめとして、抜け駆けは
しないと約束してたんだ」
「あたしの事……」
「うん、話した。あの後あっちで話し合って、その時に向こうのも打ち明けられた。正直互いにショック
じゃないと言えば嘘になるけど、恨みごとは言わなかった。今もさすがに驚いてはいたけど了承して
くれた」
ぎゅうとあたしの両手を包んで強く握る。
「こんな奴が何を言うかと思うだろうけど、葵。俺は……責任だとか後ろめたさでこんな事してるわけじゃ
ないんだ。お前の事も抱いたから好きになったんじゃない。気持ちが先に立ったからそうなったんだ。
俺は……お前にずっと一緒に居て欲しい」
一瞬、息が止まった。
「お前を守りたい。大事にしたい。その気持ちに変わりはないけど、妹としてだけ想う気持ちが当たり前
のものから無理やり言い聞かせるものに変わってた」
あたしが兄ちゃんに永年に渡って引きずってきた気持ちを今にして味わったという事か。
「あの服。買った時は可愛い妹に軽い気持ちで贈ったつもりだったのに、着て見せてくれた時、純粋に
嬉しかった気持ちの他に、お前が言ってた通りの下心も本当はあったんだ。だから……それだけは……
それを剥ぎ取るような振る舞いはすまいと思ってた。お前にとっては兄ちゃんとしてずっとこれからは
甘えて、頼って欲しかった。そんな人間でありたかったから」
部屋の隅に掛けたあの夏服を眺めながら、どれほどこの人が自分を想ってくれていたのか、いや
――いるのかという初めて自分を心から欲してくれたひとの暖かさに胸が詰まった。
「お前は自分が幸せじゃないから誰かを幸せに出来ないと言った。でも俺は今幸せな気持ちじゃないと思う?」
片手であたしの手を握りながら、白黒のかすれた生命の証しを目を細めて眺める。
「順番めちゃくちゃだけど、俺は実はお前が思うより情けない奴だろうけど、頑張ってお前達を幸せにする。
これまではそうなって欲しいと思ってたけど、おれがそうしたいと思う。気に病んでる親の事も、
何だかんだ言われるかもしれないが、お前を手に入れるためならいくらだってどっちの親にも頭下げるよ」
法的に良しとされていても多分あたし達は諸手をあげて賛成というわけにはいかないだろう。諦めの
気持ちはあるにせよ、歓迎されずに生まれてくるのはやはり不幸な事だ。
「だからもうこの手を二度と離したくなんかない。――葵」
「はい」
何気なくお腹に目をやって俯いた。
「俺がお前を幸せにしたい。それでお前がそう思ってくれるよう頑張る。大事にする。だから、産んで」
声が出ない。
「そしたら俺も幸せになれるから。だから何でも1人で抱えるな。今まで人より頑張って来た分休め。
甘えて頼れ」
鼻がツンとして視界がぼやけた。
「俺を幸せに出来るんだよお前は。だから一緒に生きて。俺と子供を幸せにして。俺は腹の中身含めて
葵が欲しい。他に何もいらない位」
「兄ちゃ……」
「それはよせ」
泣き暮らしてすっかり涸れたと思った涙は底を知らずどんどん溢れてくる。
「兄ちゃんじゃないからって言っただろう?」
笑って両頬を包んでそのまましょっぱいキスをする。
「……まさき?」
「何?」
思い切って声に出してみれば、あの夜の嘘偽りない気持ちを思い出す。
「……終わりだと思った。あたしの夢なんかきっと一生掛かっても叶いっこないと思って諦めてた」
「そっかー」
え?それだけ?
顔に出たのだろう。腕を伸ばすと覗き込んでくすと笑った。
「覚えてるよ。確か4つ位の時かなぁ?お前俺の嫁になるって言ったんだぞ。しかも風呂ん中……」
「わあっ!いい、もういいっ!!」
些細な子供の戯言を覚えていてくれた事は嬉しくて、でもそれを実際に思い出すと顔から火が出る
程恥ずかしい。
「その願い、今更だけど叶えさせて」
「に……将希」
「あ、良い顔だ。そういうので幸せになれる男なんだよ、俺は」
笑うのに慣れてないあたしは自然に弛んだ頬が嬉し恥ずかしく、戸惑って背けようとした顔を向けられ
またキスされ手を握られる。
懐かしく暖かなその感触を味わいながら呟いた。
「このまま死んでもいい……」
そう本気で思った。あの夜も、そして今も。
「ばか!生きて幸せになれ」
神様がゆるしてくれるなら、ひとつだけ心の隅に仕舞い込まれた夢をもう一度引っ張り出して見てみたい。
そして今度はそれを懐かしく振り返り、生きる糧となればいいと思う。
それができればきっと、あたしは――あたし達は幸せになれるのかもしれない。
――将希28歳、葵20歳の秋:完――