「永かったなぁ……ここまで」  
 シャワーの音を聞きながらころんと布団に横になる。  
 男の匂いの枕。  
 いわゆるこの男臭さが嫌でたまらなかった頃は、こんな事一生無いと思ってた。  
 低く薄暗い天井を見上げながら想うのは、過ぎてきた痛みの数とこれからの甘い疼きへの期待。  
 そして、新たなる苦しみへの僅かなる恐怖と予感。  
 
「大丈夫だよね。あたしは、大丈夫」  
 目を閉じて呟きながら過去を振り返り、時の重さを計る。  
 ――シャワーの音が止んだ。  
   
 
 
* * *  
 
「どうした?」  
「あ、兄ちゃん」  
 家の手前にある公園の入り口で、あたしは膝を抱えてしゃがんでいた。  
「入れないのか?」  
 黙って頷く。そんなあたしを見て溜め息をつくと、  
「よし、来い」  
と頭をぐりぐりと撫でてにっこりと笑う。  
 長い時間しゃがんで痺れた足のせいでうまく立ち上がれないあたしは、彼の差し出す腕の力によって  
地面に転がる事態を免れる。それはいつもの事だった。  
 そう、いつもの。  
「……おじさん、留守?」  
「多分お客さん」  
「そうか」  
 手を引いて貰って歩きながら、あたしの目線は履き潰して破れかけたズックに落ちる。  
 鍵の掛かった玄関のドアの郵便受けから中を覗くと、父の大きなサンダルと並んで派手なハイヒールがあった。  
 綺麗な靴、いいなぁ。  
 そんな事を考えながら歩いて自分ちの前を通り過ぎる。  
 角を曲がればすぐ兄ちゃんちが見えた。  
 うちより幾分か新しくて小綺麗なアパートの階段を昇ると、鍵を開けて  
「入ったら鍵また掛けてな」  
と言って奥に消える。  
 あたしは言われた通りにしてから流しで手を洗い、兄ちゃんの後に続く。  
 ランドセルから宿題のプリントを出してこたつの上に並べていると、奥の部屋で着替えた兄ちゃんが  
台所からジュースとみかんを持ってきてくれる。  
「食べな」  
「うん」  
 そんな日常の流れが最早当たり前になっていた。  
 
 近所の家々の換気扇から夕餉の香りが漂い始め暗くなった頃、兄ちゃんに連れられてアパートへと帰る。  
「おばさん帰ってるな」  
「うん」  
 玄関横の台所の小窓に灯りが点っている事を確認すると、やっと我が家に入れるのだ。  
「じゃあな」  
「……うん」  
 ドアに手を掛けながらそっと振り返り見上げた顔は、いつもどこか不安げに思えた。そしてそれは  
あたし自身の感情を映したものだったのかもしれないと後々まで心の隅に引っかかる。  
 目が合った途端に不自然な位ニーッと唇を引き延ばして笑うのだ。そして大きなごつい手であたしの  
頭をわしわしと撫で回す。  
「何かあったらまた戻れ。母……おばちゃんにも言っとくから。な?」  
「う……ん」  
 兄ちゃんの母は父の姉でつまりあたしの叔母さんだ。先程のアパートに母子二人で住んでいる。  
兄ちゃんの父親は死んだのか離婚したのかはわざわざ聞いた覚えはなく、実は未だによくわからない。  
 
 そっとノブを回すと鍵は開いていた。  
 ほっと一息ついて振り返ると兄ちゃんは察した顔で頷くと帰って行った。  
 
「ただいま……」  
 これまたくたびれた靴の横に自分の靴を並べて脱ぐと、流しに立っている母の姿を確認する。  
「……なに、また将(まさ)ちゃんとこ?」  
 黙り込むあたしに浴びせられるのはいつも『おかえり』の前にある溜め息混じりの苦々しい言葉だった。  
 あたしの事を蔑ろにしてると責められる、と普段から母はあたしが兄ちゃんちに居つくのを快く思って  
いないのだった。  
「なんでまっすぐ帰って来ないのあんたは!だからあの人が……」  
 その一言で父が居ないのだと言うことがわかる。  
 母がわざわざあたしにそんな愚痴をこぼすのは父が居ない時だから。  
 大方酒でも飲みに行ったのかもしれない。仕事もろくにせず、しょっちゅう飲み屋の女と遊んでいたのは  
子供のあたしでも察しがついていた。  
 あたしが家にいればいくら何でも女を連れ込むような真似はしないだろう――母はそう思っていたのだ。  
 
 だがそれは全く無駄な思い込みであった。  
 実のところあたしは週に何度かは学校から帰っても家に入る事が出来ないのも珍しくは無かったし、  
だからと言ってそれをいちいち母に言うことも出来なかった。  
 それを知ってか知らずか兄ちゃんも叔母さんにその事を告げずにいたのだろう、母にその事は伝わっては  
いなかった。(多分あたしが父の虫の居所が悪い時に避難してくる位に思っていたのだろう)  
 だから母のあたしに対する苛立ちは見当違いのもので、全くの無駄でしかなかったのだが。  
「ほら、早くご飯食べて。……お母さん疲れてるんだから世話かけないでよ!」  
 ご飯に一品だけのおかずの質素な食事が並ぶ食卓で、パート疲れの母の顔色を窺いながら口に運ぶ  
食べ物の味は、未だによく思い出す事が出来ない。  
 
 
 
 ――ガシャン!!  
 
 言い争う声と激しい物音に目が覚めたのはその夜も更けてからだった。  
「しらばっくれんのもいい加減にしなさいよ!」  
「知らねえつってんだろ」  
「……さんがわざわざ教えてくれたのよ!?『今日も葵ちゃん、将希(まさき)君ちに入れて貰ってたわよ』って。  
 『可哀想じゃないの』なんて……。何やってんのよあんたは!何であたしがあんな事言われなくちゃなんないのよ!!  
 あたしが昼間一生懸命働いてるのは一体誰の……」  
「るせえっ!!」  
 父の怒鳴り声の後に母の悲鳴が上がった。同時にがたん、とこたつの動く音がして、どすんと何かが  
倒れたのが解った。  
 びくびくしながら襖の隙間から覗いた光景は、今でも忘れる事が出来ない。  
 頬を抑えた母と勢いでズレたこたつの天板に流れる零れたビール。  
 そのそばでグシャグシャに濡れてひん曲がった回覧板を見て、お節介な階下のおばちゃんが母に昼間の  
あたしの動向を告げたのだろうと思った。  
「俺はいつでも別れてやってもいいんだ。――面倒くせぇ。出ていきたきゃ出てけ。やれんならな?」  
 しゃがみ込んで倒れた母の顎をくいと上げニヤニヤ見下ろしながら笑っている。そんな父を唇を噛み  
見上げようと顔を上げた母とその瞬間目が合った。  
 
「何見てんの……?」  
 憎々しげに睨まれて体が竦み上がった。  
「何だ?お前も何か文句があんのか。……言ってみろ。あ?言えよ、こら」  
 目が据わっていた。  
 日頃は口数が少なくだんまりしている。物静かと言えば聞こえが良いが、あたしの顔を見ても――というより  
見ないようにしていると言った方が早いか――要は無関心なのだ。どうでもいい存在だったのだ、あたしは。  
 そんな父があたしに関心を抱くのはこういう時だけだ。と言っても酔ってるときは大概タチが悪い。  
 ちょっとした事が逆鱗に触れて、それがあたしを傷付ける。まるで言い掛かりじゃないのかと思うような事でも。  
 中腰の体を起こしかけているのを見て衝動的に襖を開けて玄関の方へと走った。  
 
 
 それからどれくらい時間が経ったのだろうか。  
 兄ちゃんと叔母に連れられて家に戻ったあたしが見たものは、泣き崩れて周囲の同情を誘う母親と  
それを囲む数人の野次馬。  
 その側で近所の誰かが通報したのだろう、お巡りさんの前でだらしなくクダを巻いてうなだれる父親。  
『あんな人連れて行ってくれたらいいのに』  
と、今よりももっと深く根強かった民事不介入という言葉を知らなかった子供心にもそう思ったものだった。  
 あたし自身にも親子間の情愛という感覚は上手く備わっていなかったに違いない。  
 だけども、  
「お前が本当の妹だったら、ずっと一緒にいてやれるのになぁ」  
そう言ってかじかんだ手をぎゅっぎゅと握って白く息を吐く、兄ちゃんの願いはあたしのものでもあった。  
「俺がもう少し大人なら、葵の事守ってやれるのに……」  
 父親とは違う、少しだけ男の匂いのし始めただぶだぶのパーカーと、素足に余るスポーツメーカーの  
ロゴの光るサンダルに包まれながら、それがどれほど小さな胸を膨らませるに至る夢であったのかを  
ずっと後々になって思い知る。  
 
 
 
 ――将希15歳、葵7歳の冬――  
 
 

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