「どうしたんですか八百屋さん」
「あ、倉橋の旦那。聞いて下さいよ、またですよレモン泥棒」
「あらあ、一週間前もだそうですね」
「そうよこれで二回目だ。今回も朝の仕入れの際に、箱ごとピャーっと持って行きやがった。全く、何てったってレモンなんだよ?」
「犯人は見ましたか?」
「いいや、目を離した隙に。で、慌てて通りに出てみても、姿形もありゃしねぇ」
「大変ですね……あ、すいません。スモモ一箱と、デラウェア二房下さい」
「”強奪! レモン泥棒”か。今度の文通ネタにしてみるか」
そう言って、買って来たばかりのスモモを齧りながら、手紙を認める。
彼の名は、倉橋百朗。若くして親から引き継いだマンションの大家・管理人をやっている。
百朗はすらすらと文を書き綴ると、それを簡単に見直す。
「……よし。じゃあ行くか」
文通相手は恩師の先生で、年若く落ち着いた雰囲気のある女性。
大人の恋とはどんなものかしら? 考えた結果、文通という古風なやり取りが定着した。
種を捨てると、百朗は再び家を出た。
郵便ポストは家から少し歩いた、文具屋の前にある。
そこまで足を伸ばすのに、必ず通るのが草が生えっ放しの空き地。
「ん?」
百朗はふと、空き地の中から変な匂いが漂ってくるのを感じた。
「……レモンの香りだ」
目の前が空き地でなければ風流なのだが、百朗は興味が湧いた。
外から少し背伸びをして覗き込む。古惚けた小さな屋敷があるのだが、人が住んでいるようには見えない。
「?」
するとがさりと音がして、草むらから少女が出て来た。
百朗はその姿を見て、口の中に唾が溢れるのを感じた。
レモンを手に持っている。それも皮のまま、齧りあとがある。
「…丸齧りか」
「私の黄色い心を奪った、あなたはそう、レモン泥棒。酸っぱいのをお構いなしに齧って行ったの♪」
少女は簡単にメロディに乗せながら歌い、笑った。
「まるでみみずくず…あの、君は?」
「ねー、レモン食べる? いっぱいあるよ?」
そう言って、ずいと近付く少女。目の前に差し出されたレモンが、強く香る。
「レモンはいらないけど…それ君の?」
「私の。そうだ、ねーお家貸して?」
たじろぐ百朗に対し、少女は尚も接近する。とても人懐っこいようだ。
「何で?」
「クッキーを焼くの。レモンの香りのするクッキー。フランケンシュタインもきっと喜ぶわ」
話が飛躍し過ぎて、百朗の理解が全く追いつかない。
「君の名前は?」
「津曲菘。競艇場の”つ”に舞曲の”きょく”、”すずな”は草冠に松竹梅の松」
丁寧な説明に恐れ入る百朗。
「津曲って、確かウチのマンションの……」
聞き覚えがあった。入居者に津曲安芸子、という子連れの女性がいた。
人のことに深入りはするべきでないが、百朗には印象に残っている。
彼女は、以前演技派女優として一世を風靡した、ちょっとした有名人なのである。
結婚後引退、そして一年半後、離婚したという噂が流れてそれっきり――が、こんな所で。
女優時代のキリッとした美しさは残るも、やつれて口数少ない。しかし、連れ子には厳しそうな印象を受けていた。
何かあったのでは――と思わざるを得ない百朗だった。
「自分のお家に帰らないの?」
「ここが私のお家」
「(これって、占有じゃないか……)」
いくら手入れが為されず放置された空き家と言っても、このままではいけない。
「ねーねー、クッキー焼こうよクッキー。おじさんにもあげるから」
「おじさんは酷いな」
このまま連れ帰るのはさすがにまずいと、百朗は一応、母親に連絡をすることにした。
「とりあえず、待っていてね。用事を済ませてくるから」
手紙をポストに放り込んだ後、電話ボックスに入る。
そして住所を調べて、そこにかける。
るるるるるる――がちゃ。
「……もしもし、どちら様でしょうか?」
「ジルコニア管理人の倉橋です。津曲安芸子さん、でしょうか?」
「はい」
「お宅のお子さんがですね、近くの空き家で遊ばれているようで」
すると、声のトーンが一変する。
「本当ですか! ああ、どうもありがとうございます。昨日から姿が見えなかったもので」
「…失礼ですが、警察に通報はされなかったのですか?」
がちゃり。つー、つー、つー。
「(何だか、感じ悪いな)」
仕方なく受話器を置き、空き地に戻った。
そして百朗の目の前に予期せぬ光景が広がる。
菘が段ボール箱を敷地に並べ、バリケードのようなものを作っている。
「どうしたの?」
どれもスーパーが無料で配っているようなものだが、その中に見慣れた名前の入った箱がある。
レモン――間違いなく、八百屋から盗んできた物だった。
「ねえ、レモン…本当に、君のなの?」
「違うの?」
「はぐらかさないで。勝手に持って行っちゃダメじゃないか」
そう言うと、不満気に頬を膨らます菘。
菘はいきなり百朗の手を掴み、バリケードの中へと引き込んだ。
「ちょっと、何?」
無言で草むらの中、手を引いて進む菘。百朗も振り放す訳にいかず、仕方なくその後を付いて行く。
すぐに小さな玄関へと辿り着いた。表札は藤鳴――となっている。
「待ってて。まだ篭城戦の準備中」
そう言って、再び草むらの中に入って行く菘。一人その場に残された百朗。
唸り声。何だろうと思いながらも、特定出来ない。
「困ったな…」
少しして、また菘が戻って来た。
「おかーさんが来た! 中に入って。捕まっちゃう捕まっちゃう」
「遊びに付き合うのは御免だよ。それに、何ごっこなのこれ」
「いーから早く」
がらっ、ぴしゃんっ。
「ふうーっ!」
「い、犬?」
「大人しくしててね、フランケンシュタイン」
黒犬だった。右目が潰れていて、残るもう一方の眼光は鋭い。
菘には懐いているようだが、迫力があった。少なくとも名前負けはしていない、と百朗は感じる。
六畳程度の部屋。それがこの屋敷の全容である。
「(離れか何かだったのかな?)」
布団が敷いてある。周囲の時間が止まったような状況の割に、これだけは妙に小奇麗だった。
「これじゃ俺が疑われるだけだよ…」
「こういう時は、色仕掛けで切り抜けるんだって。さー、寝よ?」
空いた口が塞がらない百朗。
「で、お布団に入った後どうすれば良いかはよく分かんないから、後はよろしくね。見つかっちゃったら私が上手く誤魔化すけど」
正午も過ぎからとんでもない出来事に出くわしてしまった百朗だった。
「菘っ!」
戸が開いて、安芸子が中に入って来た。
「うあうっ!」
黒犬が、噛み付きこそしないものの、目の前に立ち塞がる。
その後で、ただ座ったままの百朗と、菘。
「よしなさい。……すいません、こんな状態です」
百朗なりの誤魔化し方を考えた結果、とりあえずこうなった。
「菘、一体どういうことなの!?」
「おかーさん……」
顔を見ると意気消沈したのか、菘はすっかり大人しくなった。
百朗は黒犬と共に外に出て、二人を待つことにした。
「……」
黒犬も空気を読んでか、大人しい。百朗の隣で、ぺたんと座った。
「…ウチんとこじゃ、お前は飼えないよなあ」
「ばう」
切なくなった百朗は、黒犬の頭を撫でた。
「くぅーん」
簾に風鈴の鳴る窓際。ノースリーブのゆったりとした格好で、女性は便箋の束を見た。
「あら、また倉橋くんからだわ」
女性は口元を緩ませる。そして封を切り、中の手紙を手に取って開く。
「えーと、”月川先生、先日のレモン泥棒の件、解決しました”」
そして、数枚に渡る文章を女性はゆっくりと読んで行く。
時折笑ったり、驚いたり。そして、最後の挨拶まで、じっくりと目を通し終えた。
「……ふう」
満足気な表情で、女性は机に手紙を置く。そして、自分の手紙と便箋を取り出すのだった。
「こんにちは」
マンションの掃除をしている百朗は、その声に振り向く。と、そこには安芸子が立っていた。
「あ、こんにちは」
「先日はどうも…菘がご迷惑を」
「いいえ。俺はそれよりも、何故あなたが……」
表情を暗くする安芸子。百朗は肩を竦める。
「とりあえず、犬は知り合いに引き取ってもらうことにしました。カフェ・ハイドの店長、吉田です。店に行けば、いつでも会える――と」
「ありがとうございます。…あの子、多感な時期で何を考えているかよく分からなくて…犬のことも」
ベンチに二人で座り、話を続ける。
「たった一人の家族だから、なるべく私の目の届く所に、って。それでお友だちとも遊ばせず、寂しかったんだと思います」
「あなたも、失礼ですが…気を病んでいる風に見えました」
安芸子は頷く。
「夫と別れて、それで荒んで……菘が犬を欲しがったのも、多分そんなことからだと」
「でもこれからは、上手くやっていける――何かあったら、俺も出来る限り力になります」
無言のまま、安芸子は頭を下げた。
「管理人さーん」
「あ、菘ちゃん。元気そうだね。もう、あんなことはしちゃダメだよ」
「分かってる。…これね、私がいつも読んでるおかーさんの台本」
「へえ……結構色々あるね。どれが好きなの?」
「これ」
「……家出少女が、一人で生きて行こうとする話、か。何となく、分かる」
「本当?」
「うん。そうだ、今度三人で、フランケンシュタインに会いに行こうか?」
「うんっ!」
おわり