目を覚ました
ここは俺の知っている、今では見慣れた自室とは違う。
どこだろう?・・・いや、どこだったろう?
つまるところ、俺はこの部屋を知っている。
・・・そうだった。思い出した。思い出して、吐き気を催した。
ここは父と母の寝室だ。
ここは父と母が死んだ部屋だ。
俺はベッドに倒れたままの体をはねおこした。
部屋を照らすものは月明かりしかなく薄暗かった。
汗が滝のように流れる。体が痙攣した。
俺は震えながらも月明かりを頼りに壁沿いに千鳥足でドアを目指す。
ドアノブに手をかける。狂ったようにドアノブをまわした。
だがいくら押してもあかない。引いてもびくとも、きしむ音さえ立てない。それは生と死を分かつ壁のように揺るがなかった。
助けてくれと叫ぼうとしたがのどからはひゅうひゅうとかすれた吐息しか漏れてこなかった。
見るとドアはいつのかにか鏡になっている。俺の顔があるべきそこには父の顔があった。
眼前に斑点状に湿った白いなにかがあった。
なんだこれ。俺の汗か。ノートか。
半ば転げ落ちるようにして勉強机を離れた。大量の汗をかいているのに、寒い。とてつもなく寒かった。
誰か、誰かいないか。母さん、父さん。
いや、そうか、そうだった、いないんだった。俺の家族は誰一人この世にいない。
壁に手をついて肩で息をした。丁度手を突いた先に、写真の中の三人が笑いかけている。俺と、卓也と・・・・
部屋のドアをこじあけて、久美の部屋の前まで走る。ドアの取っ手を回した。・・・しまっている。
おい久美、とドアを叩こうとしてやめた。
なにやってんだ俺は。
取っ手の冷たさが頭を少しだけ冷やした。
久美は昨日から部屋にこもってたんだった。
深呼吸をする。幾分か気持ちが落ち着いた。
と、突然取っ手に押された。
「うっさいわねこんな夜遅くに何してんのよ」
「うをー。」
床に無様に全力でしりもちをついた。痛い。
完全に腰を抜かしたようだった。
「いっ、いやあ、やっ、夜分遅くにすいませんねええへへへ」
「ちょっとあんた大丈夫?!なにその汗!」
顔を両手でがっちりつかまれた。手がひんやりとして気持ちいい反面抑える力が強すぎて痛い。
「だっ大丈夫で・・・」
「うっさい!大丈夫ってゆうな!」
なら聞くなよ、と思った。
「ちょっとタオル取ってくるから、おとなしく待ってなさいよ」
言うとすとすとと風呂場のある一階に降りていった。
かえってきたときに、腰ぬかした、なんて恥ずかしくていえるわけがないので、俺は必死の形相でほふくで自室を目指す。
「おとなしくしてろって言ったわよね」
ちょっと戻ってくるの早すぎやしないだろか。
「まったく、馬鹿じゃないのほんとに・・・」
といって抱き起こされる。俗に言うお姫様抱っこだ。
「くっ久美さん!それだけはやめましょうよ!ほら!」
「黙れ。」
ぴしゃっといわれた。
ベッドに放り投げられる。俺は布団を引き寄せて丸くなった。多分今日のことは一生忘れられないだろう。死のう。死ぬしかない。
「どきなさいよあたしが入れないでしょ。」
というなり俺を足で押しのけてベッドに入ってきた。
「ちょここで寝んのかよ」
「いい加減にしなさいよあんたがいつもうなされてる限りあたしだって安眠できないんだからね。」
全部ばれてたのか。いよいよ死ぬしかなさそうだった。
「いっとくけど襲ってきたら生きたままホルマリン漬けの輪切りにしてやっから覚悟しときなさい。」
久美はどっかのマフィアも猿轡をのどに詰まらせそうなほど怖いことをサラッと言った。
「わかってないな。俺は紳士なんだ。イングリッシュマンなんだ。」
久美に背を向ける。とたんにまぶたが重くなった。久美が背で何かつぶやいていたようだがよく聞こえなかった。
久美と寝るなんていつ振りだろうか。
悪夢の恐怖におびえない夜なんてもうほとんど忘れかけていた。
目を覚ましたときには既に久美はいなかった。
昨日のは夢だったのだろうか。久美が寝ていたあたりの枕のにおいかいでみる。甘いにおいがした。
いかんいかん。あいむあんいんぐりっしゅまん。
下に降りてみると久美がダイニングテーブルで朝食をとっていた。その隣でおじさんはビール片手に肩身狭そうにちびちびしている。
久美はめちゃくちゃ機嫌が悪そうだ。
「朝からビールって頭おかしいんじゃないの」
おじさんはさらに縮こまる。こころなしかビールを持つ手が震えていた。
すると、なんともきまずそうにテレビを見ていたおじさんの目がこちらへ向いた。
「お、おお、秀明いたのか、話がある。」
というが早いか俺の手を掴んで台所まで連れて行かれる。
「おい、秀明、おぬし久美に一体何をしたんだ。たまの休みくらい朝から酒飲んだっていいだろう。なのになんだあのキレ方は」
俺が起きてくる前に何をされたかはわからないが、さっき震えているように見えたのは気のせいでないということはわかった。ものすごい気の毒に思った。
「俺にもわからないですよ。あの、おばさんは?」
「ん、ああ。なんだかな。今日会議で企画だかなんやらを発表するらしくてな。発表内容のパワーポイントの最終調整だとかで朝早くに出て行った。」
「秀明!遅れんわよ!」
おじさんは久美の叫び声にヒッ、と小さく声を上げると、「じゃ、じゃあ後はおぬしに任せたぞ。うまくやれよ」といってそそくさ二階へあがっていった。気の毒すぎた。
悪夢のようなテスト期間が終わりを告げ、クラスは爽快感と開放感に満ち溢れていた。今日は金曜というからなおさらだ。
そこらじゅうで遊ぶ計画を立てている。
「秀明ー、今日カラオケ行かない?」
「うん、行かない。」俺は答える。
「なんだよーつれねーなー」
というとまた友人の輪の中に戻っていった。
そんなこと言うんなら否定形で聞いてくるなよ。しかしそれが日本人というものかもしれない。
カラオケは嫌いじゃないが、俺としてはテスト結果が帰ってくるまではもろ手を挙げて遊びに興じるなんてできそうもなかった。
テストの出来を確認するのはもう毎回恒例となっている。
当然、いつもそれとなく聞いてるわけだが。
「これからカラオケ行かないか」
冷たい目で一瞥された。
「冗談だけどさ・・・」
「テストどうだったのよ。そんな軽口たたけるからさぞよかったんでしょーね。」
聞こうとしたことを先に聞かれてしまった。なにやってるんだ俺は。
「だめでした」
「それ以外聞いたことないんだけど。」
「だろうよ。」
誰も彼女に向かってよくできたなんて言えないだろうよ
「久美はどうなん」
「まあまあね」
「はあ。」
まあまあですか、俺もこれ以外聞いたことがないきがする。そしてそのたび涙を呑んでいる。
これでは勉強期間より待ってるほうがつらいかもしれない。
・・・なんだか疲れた。腹のそこに泥のように積もった疲労感があった。
木の寿命か、すっかり重くなった引き戸をがんばって引く。懐かしいにおいがした。
中をのぞいてみると先生が近所の子供たちに稽古をつけていた。
「こんにちはー」
こんにちはー、お兄ちゃん久しぶりー、と囲まれた。もうすっかり顔なじみの子ばかりだ。
「ああ、久しぶりに来たところで悪いんだけど秀明君、この子達に稽古つけてくれないか。
ちょっと娘を幼稚園に迎えに行かなきゃならない時間なんでね。」
とにやけながらの先生。
「はあ、いいですけど」
やったー、お兄ちゃんーあそぼーと黄色い声が館内に響く。じゃあよろしくと先生は出て行ってしまった。
稽古をつけると先生は言ったが、実際のところはいわゆるお守りだ。
前に、初めて稽古を頼まれたときにまじめに稽古をつけてやろうとしたが誰一人従う子はいなかった。いや、近所の綾子ちゃんだけは俺の言うことを聞いてくれたか。
一人だけ女の子が味方についてくれた時は年甲斐もなく目頭が熱くなった。
「ねねー、今日は何して遊ぶのー?」
遊ぶじゃないよ、まったく。
不思議なことに、先生の指導にはまじめに従うのに、俺には全然従わない。子供たちはちゃんとわかってるんだなぁとそう思う。
「はい、じゃあまずは基本から」
師いわく、うちの流派はなんでも護身用だそうで、相手の攻撃をのらりくらり受け流す動作が基本である。
こちらからの攻めはけっして主力でなく、相手の攻撃を誘う一種のおとり動作と教わった。
えーあそばないのーと抗議が殺到する。群がられてなんかぽこぽこなぐられる。
「やっっかましいわ!ひでにーの言うこと聞けこの愚民どもが!」
すると突然叫び声が耳を貫いた。
館内は一瞬で静まり返る。それからすぐに子供たちはそそくさと二人組みになり基本練習をはじめた。
・・・愚民・・・・?いや、なにかの聞き間違いだろう・・・。
「いやーありがとう綾子ちゃん・・・綾子ちゃんだけだよ言うこと聞いてくれるの」
「いっ!いえそんな!ひで兄さんにはいつも教わっていて悪いですし・・・」
と顔を赤くして照れている。
いい子だ・・・。ほろりとなった。
でも、綾子ちゃんの言うことは聞くのに、俺の言うことは聞かないって。なんだろう、この気持ち。
哀愁にふけっていると突然、綾子ちゃんの笑顔がかすんだ。俺は足をもつらせて派手に転ぶ。
「いてて・・」
「だっ大丈夫ですか!顔色悪いですよ」
「ああ・・・だいじょうぶ・・・」
心配かけまいと、すぐに立ち上がろうとしたが足に力が入らず体制を崩して床に体をほうった。
吐き気と頭痛が交互に襲ってくる。大丈夫じゃないことは自分が一番よくわかった。
「ごめん・・・ちょっと疲れただけ・・」
それは自分に言っているのか綾子ちゃんに言っているのかわからなかったが
何とかそういって俺は壁に背をもたれる。胸が苦しい。視界の黒い斑点が次第に大きくなっていった。
「・・・!・・・・・!」
綾子ちゃんが何か叫んでいる。俺は答えようとして、息を激しく吐き出すことしかできなかった。