部屋は薄暗い。  
遠くの公園にぽつりと孤独な街灯が佇んでいる。その弱弱しい光が窓から差し込んでいる。  
これもまた、夢なのだろうか。  
両腕を動かすとかすかに痛みがした。見てみると・・・・どうやらずいぶん大きな注射針をうたれたらしい。  
今俺は自室にいるところと、注射をうたれたところをみると・・・・あの後綾子ちゃんが救急車を呼んでくれたのだろうか。では何で俺は自室にいるんだろう。  
俺が意識を失った後のことを考えようとしたが眠さで頭が働かなかった。  
 
このひどい倦怠感から言って、かなり長い間眠っていたのだろう。  
だが、それでもなお眠かった。しかもその眠さは限りなく有害なものであるということもわかった。  
・・・でも、いいか。まぶたを閉じた。  
人は長い間寝続けると脳細胞が死んでいくという。  
だが俺はもうなにもしたくない。何もほしくない。  
だから俺になにも期待してほしくなかった。  
 
 
 
呼吸の音がほんのかすかに聞こえた気がした。  
見ると久美が静かに佇んでいる。俺は声を出そうとして、息をすることさえ忘れた。  
彼女の、ほのかな光に照らされたその美しさは、同じ人間とは思えないほどだったから・・・。  
 
俺は時々、彼女のあまりの美しさにひどく惨めな気持ちになる。ちょうど今感じているような感慨だ。  
 
「テスト、どうだった。返ってきたんだろう。」  
気付くと、かすれた声が頭の中で響いた。  
癪に障る声だ。  
自分で言ってあきれる。  
 
 
「・・・・返ってきてない」  
ほとんど聞こえないようなか細い声で、めをそらした。  
「うそだ。かえってきたさ。」  
久美は答えない。  
「やっぱり、久美は一位だったのか。」  
「・・・・」  
久美は答えない  
俺は知っている。  
久美には、テストの点なんてどうだっていいことなのだ。  
そういう俗的なものを超越している。  
俺は惨めに『そういう俗的なもの』にしがみついたままだ。  
むなしい。  
「そういうわけにもいかないんだな」  
「・・・私には、秀明が体を壊してまでなにをしたかったのかわからない。」  
「わかんなくていい。くだらないことだから」  
 
 
おれにはしたいことがあった  
そのために愚かな振る舞いで久美も卓也も傷つけた。  
 
 
俺は久美や卓也とは違うのだろうかと思ったのがきっかけだった。  
 
人間、とくに自分が美しいとか優れているとか意識し始める思春期は特に、見られているというぎこちなさが生まれる。  
注意深く見ても見なくても、うちのクラスにもそういう類のは何人もいる。つまり自分を演じているわけだ。  
 
久美や卓也にはそれがない。鼻にもかけない。他人の評価に左右されない。自分と自分が一致している。自由である。  
俺はどうか。自分を演じた挙句、この有様だった。  
 
 
 
久美の父は言う。「お前ぐらいのがきんちょが自分を見積もってどうする。おぬしは老けすぎている。  
十代というのはな、可能性がある。責任がない。無条件で幸せでいられるし、そうでなくてはならんのだ。」  
それは俺がつまり根暗であるということを言いたいのだろうと思った。しかしそうではないようだった。  
 
 
 
 
「じゃあ秀明は、なにがしたかったの。あなたはまるで、何かにおびえていた。」  
長い沈黙と暗闇のむこうから声がした。  
 
俺は答えない。こたえあぐねる。  
ちいさいプライドのために、ずっと隠し通してきた劣等感だ。  
いやしかし、と思い直す。  
もうすべて終わったことだ。  
 
「俺は証明がしたい。証明がしたかった。めずらしく俺はやる気になったのだ。久美や卓也と俺が同じ人間であるということを証明したかった。」  
 
ちがう生物間で愛情は発生しない。もし久美が俺を好いてくれるんだったらそれは飼い主がペットに注ぐ愛情で、俺が今抱いてる感情は崇拝に近いなにかである。  
「違ういきもの同士に愛はうまれない。」  
 
俺はそれが怖くて否定し続けただけだ。  
だけど証明を始める前にはもうこの題意は成立しないことをわかっていた。  
それを言う必要はない。  
 
見ると久美のほほに一筋光が走っていた。久美の泣き顔なんて想像すらできなかったけど  
 
綺麗だなあ。  
 
彼女はなぜ、泣いているんだろう。俺に、同情しているのか。  
おれはこのまま惨めさに埋もれて死んでしまいたかった。  
 
ここで告白したらどうだろう。  
 
いまさっき力説していた俺の人間観とはまったく相反する。  
当然勝算があるわけない。だが自棄になったわけでもない。  
変わるのはせいぜい悪いのが最悪になるくらいで、  
これはあくまで事後処理の一環だ。卓也との約束の事後処理と、もうひとつ。  
 
「じゃあ、愛ができるかどうか試してみないの。」  
俺が勝算のない事後処理にでるかどうか悩んでいるとき久美がそっと言った。  
 
 
俺ははじめ久美が冗談を言ってるのかと思った。  
「もう6年以上も一緒にいて、なにもできてないんじゃあこれ以上何ができるんだよ」  
沈黙が部屋を包んだ。  
のどがからからに渇いていることに俺は気づく。  
 
べつに、たいしたことはない。  
人間、成長するたびあきらめなくてはならないものが増える。  
俺の場合、そのなかのひとつに、久美がいただけだ。  
そう、久美が・・・・  
窓の外の、藍色がほんのり淡くなった見慣れた空をみつめた。  
久美だけは、そこにあってほしくなかった――――  
 
俺はそのとき初めて悲しみというものを覚えた。  
死んでも泣くか、と思った。直後滝のように涙があふれる。  
俺は、もう、惨めで、惨めで、惨めで・・・・  
 
「あの、あ、あたしは、その、」  
頭の後ろで声がした。  
俺は窓のほうを向いたまま固まる。  
「あ、愛とか、えー、あるんだけど。」  
俺は次に久美が冗談を言っているのだと思った  
 
 
 
 
下に降りてみると、テーブルの上には朝食とは思えないような料理の品々がずらりと並んでいた。  
「あの、なに?これ。」  
何事かと思い台所であくせく働いている久美に聞いてみる  
「朝食。」  
「いや、意味がわからないんだけど、今日普通に学校だろ」  
「あんた丸二日ものまず食わずだったんだから、当然これくらいは食べられるわよね。」  
「はあ・・・。」  
それにしてもこの量は異常である。これから宴会でもひらくつもりだろうか。  
「はい、これスパゲティ。伸びないうちに食べなさいね。」  
俺は、朝からスパゲティ作ってんじゃねーよ!と叫びたかったが何を言っても無駄なきがしたので半ばやけくそになってフォーク片手に食べ始める。  
 
がつがつ食べてると料理を終えた久美が正面の椅子に座った。  
俺が食べるのをニヤニヤしながら見られる。  
「暇ならこれの処理手伝ってくれない?」  
「なにが処理よ」  
といいつつも箸で厚巻き卵をはさんであーん、とかしてくる。  
やってらんねーよと思いつつも何を言っても無駄な気がしたので半ばやけくそ気味にくいついた。  
 
 
 
 
 
 
憂鬱な月曜の登校風景だが、それがなぜだかずいぶん懐かしく思えた。  
「ねえ、秀明。」  
久美が言う  
「なに」  
「卓也はもう引越したの?」  
「さあ、わからん。」  
「そう」  
結局卓也には出発日も、引越し先も教えてもらえなかった。  
 
 
前を歩く久美の長い髪が、夏の朝の生暖かい風になびいている。  
そういえば、卓也との約束守れなかったな、女の子に告白させるなんてなにやってるんだろうなあ、とうららかな光を受けながら思った。  
 
 
自席に座る。クラスの喧騒もなぜか懐かしい。どうしたんだろう、たった二日寝ていただけなのに。妙に年老いた気分になった。  
「おいひで、さっき4組のやつから聞いたんだが、今日もう中間返されるらしいぞ。先生たち張り切りすぎだろ」  
となりの山田に言われた。中学からのつきあいで気の置けない友である。  
「え、まだ返ってきてなかったんだっけ?」  
「何言ってんだよ、先週受けたばっかだろ。ぼけるのはまだはえーぞ。」  
頭を叩かれる。・・・そうか、今日は月曜日か。俺はもうだめかもしれない。  
 
 
本日最後の地理の眠い授業が終わりを告げた。  
休日に寝続けても、眠いものは眠いのだ。自分でも不思議である。今まで眠りたくとも眠れなかったのに。テストの緊張が解けたからかもしれない  
 
「今日結局テスト返されなかったなー、あと一週間くらい返されなければいいのになあ。」  
山田が机にへばりつきながら言う。こいつの授業が終わったとたんに目が覚めるというのはなかなかまねできない芸当である。  
 
「おーし、中間返すぞー」  
すると担任が、間の伸びた声をあげながらクラスに前の扉からはいる。隣は、やっぱかえすんかよぉーちくしょーと不満げな声を上げていた。  
 
その一方、今度は俺が机にへばりついていた。手に汗がたまる。苦しいほど鼓動が早まった。  
「はい順番に並んでー」  
若番からどんどん消化されていく。・・・今久美が返された。久美のほうを決して見ないようにしながら、俺は死刑直前の囚人のような心持だった。  
 
 
 
 
「ああああー・・・・まあ、思ったとおりですけどね。おい、ひではどうだったんだよ。ん?  
・・・って、お、おい、なにも泣くことないだろう、気にするなよ、俺のほうがよっぽど悪いって。」  
「なんでもない。ちょっと疲れただけ」  
テスト結果をかばんにしまう。俺は目を閉じて、ただその虚脱感に身を任せた。  
 
 
 
 
 
テスト結果の学年順位には、1と記してあった。  
なんで・・・・・これじゃ秀明は報われない・・・。あんなに努力したのに・・・  
恐る恐るみると、秀明は机に突っ伏していた。  
 
テストでわざと間違えればよかったのだろうか・・・。  
いや。  
秀明は、あたしを超えるために努力していた。その努力を侮辱するようなことは、あたしにはできない。  
 
秀明の努力に負けないように、あたしはがんばった。心の奥底で、秀明があたしを越すことを期待しながら。  
 
あいつは、玄関で靴を履き替えていた。  
「あ・・・秀明・・・。」  
「ん?」  
「・・・いっしょにかえろ。」  
「うん」  
 
前の秀明が作る長い影を眺めていた。  
どうあいつに接すればいいかわからない。気まずい沈黙があった。  
・・・ん?そういえば、あいつが前を歩くなんて・・・  
 
「なあ、久美。テストの順位どうだった。」  
びくっとして立ち止まる。のどから自分のじゃないような声が出てきた。  
「・・・あたし、・・・秀明は、がんばったよ。順位なんてどうでもいいよ。だから・・・だって・・・」  
あたしは何を言ってるんだろう。なんで泣いてるんだろう。本当は秀明が泣きたいはずなのに。  
 
 
 
 
 
「久美・・・。」  
あたしは俯いたまま。  
「俺、末路は難かったけど、ちゃんと百里歩ききったよ。」  
「?・・・」  
秀明の言う意味がわからない。顔をあげると秀明が微笑んでいた。秀明のこんな自然な笑みは本当に、ほんとに久しぶりに思う。  
そして、あたしは突然理解した。  
「秀明、一位なの・・・?」  
「うん」  
そういえば、秀明は私と帰るとき、いつもあたしの後ろについていた。今日は私の前にいる。  
 
あたしは駆け寄って秀明にしがみついた。  
「この、ばか、あほ、早く言えよぉ・・・」  
秀明はごめん、とつぶやいた。  
あたしは、ばか、こういうときは抱きしめ返すのこのバカというと、おずおずと手を背に回してきた。  
 
あたしはその甲斐性ない態度にむかついて、それからなんだかおかしくなって、胸に顔をうずめて人の目も気にせず道端でわんわん泣いた。  
 
 
 

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