俺はブランコに座り、どこを見るともなく、またなにをするでもなくぼうっと、背から差し込む赤く染まった風景を眺めていた。  
きい、きい、と長い時間が酸化させた鉄の悲鳴が、何の音もないこの空間に妙に響く。  
 
今、この公園には、どこか奇妙な雰囲気があった。  
俺はその奇妙な違和感を具体的に言い表せないが、確かにそこにはあった。輪郭が見えないのに存在感だけがあるその違和感は、俺の中の感情を不安へと変えるのには十分であった。  
 
 
不安がつのり、そしてそれが一気に途切れる直前、俺はブランコから飛び上がらんほどに立ち上がった。目の前には背の夕日が作るブランコの影。俺の影はない。  
俺は恐怖で走り出した。心臓が急速に鼓動し、汗が吹き出る。恐怖におわれただただ走った。とにかくあの異様な空間にはもうこれ以上いたくなかった。  
気づくと俺の昔の家の前に立っていた。玄関のドアをひらき家に入る。すると台所から物音が聞こえた。誰かいるのかもしれない。  
俺はただ人がいるということに安堵していた。さっきのは悪い夢だったのかもしれない。  
そこには、食事を作っている、昔の姿の久美がいた。小学校のころだろうか。なぜ幼い久美がうちで料理しているのかなんてことは考えなかった。俺は声をかけようとした。  
すると俺が声を出す前に後ろから声が聞こえた。振り返ると卓也であった。こちらも久美と同年代くらいであった。台所にいる久美の返事が聞こえる。  
そして卓也は俺を、まるでそこに誰もいないかのように文字通りすり抜けて台所へ向かっていった。  
 
俺は激しく困惑した。  
自分の手のひらを眺めた。俺の手は色がなかった。しろでもなく、また灰色でもない。色がないという事実はまったく形容しがたいものだった。  
コルクボードにはられている写真の、左には卓也、右には久美。中心には黒洞々とした何もない空間がひろがっていた。  
 
 
 
 
 
 
 
目を覚ますとすでに朝の気配が漂い始め、カーテンの隙間からはかすかな光が差し込んでいた。小鳥のさえずる音が聞こえる。  
 
 
壁にかかった額縁の中の、小学校の卒業式のときに三人で取った写真に欠落しているところはどこもなかった。  
・・・・・最近、まともに寝れていない。ねれたとしても、夢ばかり見るひどく浅い睡眠だ。  
どうせあと学校までは4時間もないのだし、このままベッドで横になっていたとしても寝れるわけもない。  
俺はひどくだるいからだを無理やり動かして机に座らせた。考査が近い。俺は何十回繰り返したかわからないその課題をまた1からノートにやり直していった。  
 
 
右手で機械的に数式をときながらも、頭の中では二日前のことを思い出している。  
要約すれば、卓也は、今月末には両親の仕事の都合で引っ越すということ。卓也は久美に・・・あのときからずいぶんかかったが、告白して、そして振られたこと。  
そういう内容だった。  
 
 
「朝勉なんてずいぶん勉強熱心じゃないの。」  
振り返ると制服姿の久美がいた。そうか、もうそんな時間か。  
「ノック位してくれよ」  
「したわよ。」  
「・・・今日朝早くおきて眠れなかったから勉強してたんさ」  
弁解した風に聞こえたかもしれない。だが、俺は以前ほどそのことに関して神経を使わなくなった。何か勘ぐられるかもしれないが、別にいい。  
どうせ、今回の試験ですべてが終わる。  
「・・・あんた今日学校休みなさいよ。」  
「なんでだし。」  
「いや・・・なんでもないわ。あたしもういくけど、ご飯作っておいたからあっためて食べて。じゃね。」  
 
うん。まるで母親だ。まあ、久美のような人間は、落ち度ばかりの俺みたいなのは対象外なのかもしれない、とぼんやりそう思った。  
 
 
俺の家族、両親しかいないが、俺が小学校3年生のときに他界した。  
父は根からのまじめな人間で、決してよい役職についていたわけでもなく、上司との関係もよくなかったようだがそれでも一生懸命働いていた。  
一方母は父には到底つりあわないような美人で、父と同じ会社で同期であった。  
多才な母はすでに出世ルートにのり、給料も父の何倍もあったらしい。  
父は俺が小学校三年生のとき、自室で練炭を炊いて自殺した。発見したのは俺で、父の手に握られていた遺書は、当時の俺には理解できなかった。  
――――僕のことは気にしないで、もっとよい夫と添い遂げてほしい。そして僕が君を苦しめたことに関しては、死で償うことにする。  
 
 
父は何を勘違いしていたのかは知らない。単に父が勝手にそう想像していただけなのかもしれないし、  
美貌の妻を持つ無能な父をうらやんだ男が父に何か吹き込んだのかもしれない。  
父が死んでまもなく、母に求婚してくる男が家をたびたび訪れるようになった。なかには父と同じ会社の上司さえいた。  
母は父の他界後まるで幽鬼のようになり、一年後の父の命日の日にまったく同じ場所で同じ方法で他界した。  
俺はその日母が死のうとしていたことを知っていた。止めはしなかった。あの時俺は、自分の行動に責任なんかもてなかったし、なにより母に死んでもらいたいわけがない。  
だが、こうすることが母にとって一番いいことなのだ、と理解し、俺はその日、小学校に登校していた。きっと俺がいないほうが母も未練なく死ねると考えたからだ。  
声も上げず静かに涙を流す俺に、授業中気づいた先生は幾度と声をかけてきたが俺は大丈夫だと言った。  
身を引き裂かれるような思いだったが、これが最後の親孝行だと思い血がにじむほど口内をかんだ記憶がある。  
とんだ親不孝ものだ。  
 
 
当時精神が錯乱しかけていた俺を救ってくれたのは久美だった。  
母方の親戚から引き取る話があったのだが、結局俺の意思は尊重され、まもなくして俺は幼馴染であった久美のうちに引き取られた。  
 
 
終業を告げるベルが鳴った。  
おお、昼休みか、と思いかばんを開けた。いつもはそこにある弁当はなかった。うちに置き忘れたか。  
寂しく腹を鳴らして不貞寝していると、どん、と弁当が目の前に置かれた。  
「ほら、どうせ置いといても忘れるだろうと思ったから、もってきたわよ。」  
「ああ・・・ありがとう久美。愛してるよ。」  
「行動で示してもらいたいものね。」  
こんなことをいうと、中学生のころは顔を真っ赤にして叩かれたものだが、最近はサラッと受け流されて始末が悪い。  
 
 
 
 
久美は、昔からその頭角は表していたが、とんでもない才女だった。  
スポーツはできるわ運動はできるわ、また勝気な性格と美しい容姿もあいまって中学のときは学年の華だった  
俺は当然彼女の家に住まわせてもらってることは隠していたが、親しくしているところを見られてはどんな関係なのかを問い詰められたりした。  
 
 
中学二年生の時。帰り道で他愛もない話をしていたときのことだ。  
「・・・秀ちゃんは久美のことどう思ってる?」  
俺はこのとき、やっときたか、そう思った。  
勝気な久美と気兼ねなく話せる数少ない男子である俺は、よく友人から久美を紹介してくれとか、普段の性格について教えてとか頼まれたものだったが  
卓也とこういう話をするのは初めてで、お互いなんとなく避けていた気がする。  
 
「どうって?」  
別に卓也の答えにくいように返したわけではない。だが、やはり真意は確認しておきたかった。  
「どうって・・・その・・・・・・えと・・・」  
口ごもる卓也。  
長い沈黙があった。  
 
「・・・僕、久美ちゃんのことすきだ。」  
「そうか。」  
「うん・・・」  
「まあ、うん、がんばってほしい。」  
「・・・・」  
 
 
俺がおもうに、卓也は、久美と付き合うことになっても問題ないような自信は持っていると思う。  
久美には及ばないが卓也もかなり勉強はできるほうだし、サッカー部では3年生に混じってレギュラーをとっている。  
むしろもっと自信をもっていいんじゃないだろうかと思う。  
対して俺は帰宅部で、卓也と比べるべくもない。自信などかけらもない。  
自分の本当の感情を吐露するようなおろかなまねだけは絶対にしたくなかった。  
 
 
「・・・ひでちゃん、本当の事いってよ。秀ちゃんも、久美ちゃんのことすきなんでしょ?」  
「ああいう男みたいなのは興味ないんよ。」  
「・・・じゃあ僕が久美ちゃんと付き合っても、かまわないんだよね?」  
「いいんじゃない」  
昔から、なぜか卓也は俺に対して競争心が強かった。  
そのほとんどに俺がまけまくってもなお卓也はなにかにつけて勝負を挑むのを好んだ。  
そして、今俺は、最後の勝負を挑まれているようだ。  
 
だが俺はこの勝負、絶対に負けたくなかった。負けるくらいなら、棄権でいい。  
 
 
俺が不眠症なのは最近始まったわけでなく、母が自殺してからだった。  
久美の家ですむようになってから、隠していたのだが、彼女にはすぐに夜中うなされていることを見破られた。結局見破られてからは一緒に寝るようになった。  
中学生に上がってからは俺はもともと用意されていた部屋に一人で寝るようになった。久美はそれでもかわらず俺のベッドに入ってきたが、俺がもう大丈夫だからという旨を暗闇の中伝えたとき  
何が大丈夫なのよ、と言い残して部屋を出て行った。当然その日からまたうなされ始めたわけだが、久美を襲わないように自制するよりはいくばくか気が楽だった。  
 
 
俺は父と母がまだ健在だったころ、よく父に似ていると母にかわいがられた記憶がある。  
俺もそれはそれでうれしかった。父が自殺するまでは。  
 
 
父はあらゆる劣等感を抱いていたんだ、と今の俺ならわかる。あの遺書の意味するところも。  
だから、俺は、努力することで、ある一点でいい、久美を抜けたら、あの過去を忘れられるのではないかと思っている。  
そうすれば、悪夢にうなされることもなくなるのではないか。本能的にそう直感が告げていた。そして彼女を抜くため必死で勉強してきたのだ。  
だが一度も勝てたことはなく、最近は不眠症状もひどくなってきた。  
だから今回のテストで久美を抜けなかったら、もうあきらめようと思っている。  
 
久美について  
 
 
 
壁に耳を当てる。  
時折かすかにうめき声が聞こえた。  
「・・・・ばっかじゃないの。」  
あのやろうは私を拒んで以来・・・もう3年になるか、悪夢にうなされているようだった。  
特にここ最近はひどい。ほぼ毎夜のようにうなされている。まともに寝れているのだろうか。  
あたしを拒んだ罰だ、自業自得だ、  
そうは思いながらも、本当はあいつのところへいって頭をなででやりたい。  
小学生のころ、あたしたちはもっとシンプルであれた。でも今は  
 
この壁が疎ましい。  
 
 
 
朝、秀明の部屋の扉をそろ〜りあけると、やつは机に向かってかりかり勉強していた。  
シャーペンのその音はまるで秀明の命を削っているようであたしは耐えられなくなった。  
「朝から勉強熱心なことね。」  
秀明が振り返った。目の下には大きなクマができており、目も充血している。  
「ノック位してよ」  
「したわよ。」  
してないけど。  
「・・・今日朝早くおきて眠れなかったから勉強してたんさ」  
秀明はそういって目をそらす。  
そんな死にそうな状態で勉強なんかしてんじゃないわよ このバカ  
「・・・あんた学校休みなさいよ。」  
「なんでだし。」  
「いや・・・なんでもない。あたしもういくけど、ご飯作っておいたからあっためて食べて。じゃね。」  
あいつ・・・大丈夫だろうか。どうみても睡眠不足だ。登校途中で車にひかれたりしないだろうか。  
さめてしまった秀明の朝ごはんをレンジで暖めながらぼんやり思った。  
・・・なんだか最近あいつのことばっかり考えている。  
癪だったので、秀明の弁当をかばんにしまった。学校に持っていってやる。あいつの困る顔が目に浮かんだ。  
 
 
帰りのHRが終わった。  
机の中から教科書を引き出してかばんにしまう。  
・・・たまには、秀明とも帰ってみるか。  
中学のころは周りの目がなんちゃらとか色気づいたことをいいやがって、あんまり一緒に帰りたがらなかったあいつだったが、  
もう高校生だ。そんなこと気にしないだろ。  
それに、話したいこともある。  
 
帰りの支度が終わり、秀明の席をみてみると机に突っ伏してあいつは眠っていた。  
 
「おーい秀明ー、もう放課後だぞー起きろー」  
私は、秀明の頭を叩く友人の手を全力で握り満面の笑顔で  
「コイツはあたしが起こすから、お前はもう帰れ。」  
というとひええぇええあひゃああとかいいながら帰っていった。  
とにかく、私はコイツに少しでも長く休んでいてほしかった。  
 
 
目を覚ますと、目の前に久美の顔があり、少なからず驚いた。  
いや、少なからずというよりは、息が詰まるほど驚いた。それで完全に目が覚めて、体を起こしてみると、日は傾き夕焼けがまぶしい。  
もうこんな時間か。  
となりで薄笑いを浮かべ、なんかむにゃむにゃ寝言を言う久美をみながらぼーっとしていた。幸せそうだとぼんやり思う。  
いつも見ている顔だ。なのになんだか懐かしい。  
妙に感傷的な気分だ。って全然柄じゃないか。  
「う、んー?」  
「おお、やっと起きたか。」  
「あ・・・う、うっさいわね!!もうあたしなんかあんたの寝顔見守るの疲れて寝ちゃったわよ!」  
言うと、久美は妙に慌て出した。  
「じゃなくて!勉強してたら眠くなっちゃった!そんだけ!」  
あせあせと机に広げた勉強道具を片付けていく。  
 
これ以上勉強されると追いつけなくなるからやめてほしいのだけれど。  
 
 
 
 
 
地平線の向こうの太陽の光を反射する雲を見上げる。  
日は完全に落ちて、あたりはすっかり暗くなっている。  
 
 
俺は週に二度か三度、以前俺の引き取りの話があった親戚、つまり叔父さんや叔母さんなのだが、顔を出している。  
叔父さんはそこで道場を構えていて、俺は毎回帰宅途中に脚を運んではボロ雑巾のようにめためたにされているのだった。  
近所の子供たちに教えているときは、まるで別人の用に優しい笑顔で優しい指導をするのだが、俺との実戦練習のときはまるで鬼のような顔で鬼のような技が出てくる。  
叔父いわく、君はセンスがいいから本気でやらないと勝てないんだよねー、だそうだ。  
青は藍より出でて藍よりも青し。もう6年以上も通っているんだから一度くらい勝たせてくれよと思う。  
 
俺はこのことをあんまり卓也や久美に知られたくなかった。  
だから、なるべく一緒に帰らないようにはしていたので、久美と帰るのは久しぶりだった。  
別に何を話すでもないが、別に気まずいわけではない。  
沈黙が心地よかった。  
 
「あ、あのさー。」  
久美が突然切り出す。  
「えとですね、えー・・・」  
普段は歯切りのいい久美だが、なんかどもっている。  
「・・・・この前帰り道に・・・」  
「はあ。」  
「・・・卓也に告白され・・・たんだけど。」  
「そか」  
おかしい。  
卓也の話では久美はその場で卓也の告白を断った、と聞いている。  
ならばなぜ俺にそのことを話す必要があるのか。  
 
「それで付き合うことにしたのか」  
「あうん、いやまあ、まだ保留してるんだけど・・・どうすればいいかなーって・・・」  
「久美はどうしたいんだよ」  
「・・・秀明はどう思うの。」  
「久美がしたいようにすればいいと思う。」  
「・・・秀明の言うとおりにする、って言ったら?」  
「なんだよそれ。」  
「言葉通りの意味だけど」  
「つまりそれって俺が断ってほしいっていったら久美は断るのか。」  
「・・・まあ、そうだけど」  
「うーん」  
 
俺は考えるそぶりを見せながら、反対に頭ではまったく違うことをほぼ反射的に考えていた。  
そして俺は、その頭に思いついた最低な考えが悪くないと思っている自分に気がついた。  
「俺は卓也と付き合ってほしい。」  
久美が足を止めた。  
俺も足を止める。  
蛙の鳴き声が遠くに聞こえた。  
 
久美はほとんど聞こえないようなかすかな声でわかった、とだけいい走り出した。というか家はすぐそこだ。  
これでよかったのか・・・・。  
卓也は、俺が安易な同情から、いましてしまったことを知ったら憤慨するだろう。少なくとも友達ではいられなくなる。  
だが卓也の心中を考えたら、こうする他思いつかなかった。小学生のころからあいつは想っているのだ。  
そして、真面目なあいつのことだから転校してもずっと想っているのだろう。  
 
 
これでいい。  
 
 
 
夜がすぐそこまで迫っていた。  
 
 

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