遠くで虫の声が聞こえて、私たちは並んで河川敷を歩いていた。  
他愛もない話をしながら、彼は微笑んでいる。  
私も答えようと、彼を見上げた。  
 
―――突然、つないだ手が振りほどかれる。  
「え?」  
彼が怪訝そうな顔をして私を見た。  
振りほどかれたんじゃなく…私が離したんだ。  
 
「!」  
視界がぐるっとスクロールし、草の中に体が沈んだ。  
空気の匂いが変わり、虫の声が急に近づいて…いつのまにか河原に降りたとわかり、  
「んっ」  
続いて体が次々と情報を与えてくる。  
口を塞がれている…手足を押さえられている…服を剥ぎ取られている!  
慌てて身を捩っても、草が顔にこすれるだけで解放しては  
もらえなかった。  
 
(助けて…)  
唯一自由に動く目を何度も動かす。彼はさっきまでそばにいた…  
だけど、オレンジ色の空と数人分の影しか見つからない。  
必死でさがしているうちに目も覆われ、虫の声をかき消して笑い声が耳につく。  
「ん、んー…!」  
小さい爪が目尻にくいこみ、同時に少し開いた視界の端で手が肩から下へと伸びる。  
 
知らない人の手が、乱暴に胸と…太ももを掴んだ。  
 
 
目を開けると、見覚えのある薄暗さの中だった。  
夢にうなされていたようだ。  
 
ドクドクと脈打つ首筋に汗が流れ、冷たい空気に冷やされる。  
目の裏で何かが不快に渦巻いて、顔を覆った両手はじとりと濡れていた…。  
手を離して現実に戻っていくと、そこは眠る前の光景とほとんど変わっていない。  
「……」  
多少安心したものの、そのまま眠れそうになく。  
カーテンからもれる月明かりが鬱陶しくて、窓辺まで歩いた。  
ふと横にある姿見に視線を移すといつもの自分…  
常に眠たげな目ともつれる髪の、魅力の無い自分の姿が映っている。  
視線はそのまま惰性で下がり、丸みを帯びた上半身をうつす。  
てのひらの形に汚れた体を…  
「…!」  
シャッ  
急いで月明かりを遮り、視界と一緒に脳裏に浮かんだものを変えようとする。  
…一旦突き落とされたら、平静を取り戻すのは難しい。  
映像は消えても、ギュッと掴まれた痛みが皮膚の下でうごめいている。  
噴出す汗をシャツでぬぐいながら、脈の音を忘れ、布団へ戻ろうと歩いた。  
 
裸足の足に、冷えた布が当たる。  
平澤君は大きな体を窮屈そうに布団に横たえていた。  
 
みぞおちが重くなるのを感じた。  
私は彼にとってプラスになるものは何一つ持っていない。  
そしてもう、これ以上先に進むことも無いだろう…同じ部屋にいることさえ  
不自然かもしれない。  
 
(この人は、彼らとは何もかも違った)  
畳の上に座り、顔を近づける。  
そのまま彼の寝息に耳を澄ませながら手を伸ばした。  
私は何をしているんだろう…暗くてよく見えないけれど、  
触らなくても多くは記憶で補えるのに。  
(あんまり怖くなかった。今はむしろ慣れてる)  
(この人の横で彼らを思い出すなんておかしい)  
布団の上に乗せられた腕に触れる。…スポーツをしている彼の体は  
硬く鍛えられていて、秋に移っていく今頃は浅黒い肌をしている。  
「……ふ…」  
わずかに興奮が生まれ、指先がゆれる。快とも不快とも、恐怖とも…  
もっと複雑なものともつかない感情だった。  
肩をかすめ、首へ、あごから唇へと指を滑らせていく。  
低い声で、私の過去にはあまり出てこない標準語を使って。  
時々キスをくれた。  
 
私はそこまで許されていた。次に進んでもおかしくなかった…  
耳元へ指を移し、髪をなぞった後で下へおろしていく。鎖骨を越えて胸まで…  
シャツの下で、そこは他の部分よりも温度を保っている。  
初めて感じる温度じゃない…ここを、そのまま押し当てられたことがあったはずだ。  
 
思い出せないなんて。  
 
「ん…」  
体が弾かれたように後へ引いた。起こしてしまった?  
急いで自分の布団にもどり、彼に背を向ける。  
胸がドキドキする。足先が震えている。布団をめくる音は聞こえただろうか?  
自分の状態を意識しないよう壁を見つめ、室内の音に集中した。  
 
どれだけ時計の音を聞いていただろう。  
それに彼の寝息が混じっていると分かり、肩の力を抜いた。  
…布団に押し付けた指先が温かい。さっきの出来事は、私が無意識に  
指に力を入れていたせいかもしれない。  
「……」  
手を握り、なるべく音を立てないように寝返りをうった。  
うすく見える彼の輪郭は、さっきと変わっていないようだ。  
…安堵を覚え、すぐに胸が苦しくなってくる。  
彼は何の非もない。  
自分から近づいたのに。縋ったのは私なのに。  
私は拒絶してしまう。  
 
目を閉じて、彼のシャツに額を押し当てる感触を何とか思い出した。  
こんなことも、いつまで続けていられるだろうか。  
 

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