久しぶりに実家に帰った僕は、二十年ぶりに『きゃらめる』と再会した。  
保護ケースのなかで眠る彼女は僕のあやふやな記憶通りの、優しくふくよかな顔をしていた。長い睫と薔薇色の唇。文字通り『人形』そのままの整った顔立ち。  
『きゃらめる』は、授乳/育児用60系自動人形。僕の『乳母』だったアンドロイドだ。  
 
小さく誂えたメイド服を着た彼女は十才くらいの容姿だが、その用途の為に年齢を超越した大きさを誇る胸を持っている。  
確かワンタッチで簡単に乳房を露出できる仕組みの服だったと思うが、五歳児の頃の記憶はさすがに曖昧だった。  
…ずっと大好きだったきゃらめる。授乳用と子守用のアンドロイドを一体化できないか、といういささか乱暴な企業のアイデアから生まれた彼女は、物心ついたときから、僕の一番の友達だった。  
彼女の豊かな乳房から合成母乳を飲んで育った幼い僕は、時には小さな手を引かれ、あるいは柔らかな胸に抱かれて、ようやく復興した街をよちよちと散歩した。  
ボール遊びに鬼ごっこ。やがて授乳の仕事を終えた彼女は、性能の限界まで努力して次第に腕白になってゆく僕に付き合い、泥だらけで帰ることもしょっちゅうだった。  
そして、そのまま飛び込むお風呂で教えてくれた男と女の違い。今思えば初歩の性教育機能だったのだろう、子供心にも不思議な興奮を感じたのをうっすらと覚えている。  
 
 
…保護ケースの曇ったフードを外すと、懐かしい彼女の匂いに胸が詰まる。微かに甘く、眠気を誘う暖かい香り。  
彼女と別れてから、人生の様々な局面で僕を支えてきたのはこの懐かしい香りだったかもしれない。  
 
 
…そういえば、『きゃらめる』という妙な名前を付けたのは僕らしい。  
確か商品名が『キアラ』で、母の付けた愛称が『メル』だったとかで、とにかく『きゃらめる』は僕が初めて発した言葉のひとつだった。  
…思い出深いその名を、そっと呟いてみたが返事はない。彼女には所定の再起動操作が必要だった。  
もうすぐ、彼女は二十年ぶりに瞳を開ける。そのために僕は今日、生活に追われ長くご無沙汰だった田舎の実家へ帰ってきたのだ。  
 
 
『就学年齢児以上の使用はお控え下さい』  
そっけない注意書きに従い、五歳の僕ときゃらめるは別れた。社会生活の第一歩、『乳離れ』というやつだ。  
専属の献身的なお姉ちゃんが精神の発育に良くないという理屈は今でこそ理解できる。しかし当時の僕には、耐えられない辛い別れだった。  
 
…その日、僕ときゃらめるは、僕がもうすぐ通うことになる小学校を目指し歩いていた。戦後の復興期で巨大な工業ロボットが街中を闊歩していた頃だ。  
僕は偶然クレーター跡の水たまりで一匹の蛙を見つけた。希少だった天然の蛙。すぐにきゃらめるに捕まえるよう命じたが、彼女は従わなかった。いや、自然保護を遵守する機能により、従えなかったのだ。  
命令不服従に癇癪を起こした僕は、散々罵ったあと、彼女を深い水たまりに突き飛ばし、一人で歩いて帰った。  
幼児らしい反抗期の乱暴を一身に引き受けていたきゃらめるとの、それが最後の別れだった。  
夜になっても帰って来なかったきゃらめるを、何日泣きじゃくりながら待っただろう。  
月日は流れ、両親が密かに回収した彼女を休眠モードで倉庫の奥深く片付けていることを知ったのは、もう僕が六年生になった頃だった。  
 
 
しかし、思春期を迎える生意気な少年は、もう授乳アンドロイドなどに用は無かった。音楽にスポーツ、そして友達に、幼い恋…  
時々眠りにつく前、倉庫で眠る彼女のことを思い出し、そのうち起こして学校であった出来事を聞かせたり、迷惑をかけた小さな頃の事を謝ろう、と考える事もあった。  
しかし、翌朝目が覚めて、それを覚えていたことはない。そんな日々をどれほど繰り返しただろうか…  
 
 
…そっと抱き上げたきゃらめるは驚くほど小さかった。体重の三分の一くらいを占めているのではないかと思える胸がたぷたぷと揺れる。  
あちこちに付いたままの乾いた泥は、間違いなくあの日のものだろう。  
 
「…きゃらめる…」  
 
もう一度彼女の名を呼んで、服の汚れを払うと指先に触れたボタンがカチリ、と軽く鳴った。  
薄暗い倉庫の照明の下、きゃらめるの乳房が、僕を育てた二つの膨らみが露わになる。  
我慢できない衝動が込み上げ、僕は抱き上げた彼女の乳首にそっと唇を寄せた。  
息が詰まるような恍惚が身体を駆け、全てを忘れさせてくれる甘く優しい味に涙が滲む。  
 
受験、就職、苦しいとき、僕はいつでもきゃらめると共に生きてきたと思う。心のどこかに、いつでも飛び込める彼女の優しい胸があった。  
今日まで、逃げださないで頑張った自分への褒美として、僕は、とても妻に見せられない行為を続ける。とめどなく流れる涙も気にせず、きゃらめるの乳房にぐいぐいと顔を埋め続けた。  
 
やがて、目を閉じたままのきゃらめるから名残惜しく顔を離した僕は、用意してきた再起動チップをポケットから出す。  
 
「…バイバイ、きゃらめる…」  
 
この短い再会が、僕と彼女の本当の別れだ。今日までの感謝を込めて最後のキスをしてから、再起動チップを『記憶初期化』に設定する。  
 
…目覚める彼女を必要としているのは、もう僕ではない。先月産まれたばかりの僕の息子だ。  
…僕は涙をしっかり拭いてから、倉庫の外で息子を抱いて待っている妻の名前を大声で呼んだ。  
 
 
終わり  
 
 

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