空っぽの色紙が僕の手の中に残った。  
 
「じゃあ、この色紙を持って行ってくれるやつ、誰かいないか?望月と仲の良かったやつ」と担任教師が教壇から言った。  
当然のように手は挙がらない。  
あいつと仲の良かったやつなんていない。  
 
「誰もいないか。すまん清水、お前行ってくれないか?」  
教師はすまなそうな笑顔で僕に頼んだ。  
 
「いいですよ」と僕は言った。  
 
「本当にすまんな、学級委員長」  
僕は教師から色紙と手紙の入った封筒を受け取った。  
薄っぺらい、ちゃちな色紙だった。  
 
* * *  
 
 
『短い間だったけどありがとう』  
『次の学校でも頑張ってね』  
『さようなら』  
 
色紙に書かれた寄せ書きを見ながら、僕は石段を昇る。  
この町の地形は結構独特で、町の北側に山が、すぐ南側には海があって、山肌に住宅や寺が密集していて、坂が多くて道は狭く二人がぎりぎりすれ違えるくらいしかない。  
 
強い夏の太陽が僕の影を石畳に色濃く焼き付けている。  
ふと背中に手を回してランドセルに触れる。  
黒のランドセルはじんと熱を含んで、それが指先に伝わる。  
 
僕は色紙から目をあげる。  
さすがに寄せ書きに罵倒の言葉はなかった。  
あれだけ望月をいじめていた連中が、わずかばかりでもまともな心を持っていたことに僕は少し安心して  
それからそんな賢しさを苛立たしく思った。  
 
 
「望月のこと、ちょっと気にかけてやってくれな」  
 
職員室に日誌を届けに行ったときに、担任教師が言った。  
四月の下旬のことだ。  
 
「あの子、なかなか口下手で友達も作れてないみたいなんだ。俺も気をつけるようにするけど、なかなか目の届かないところもあるからな。  
何か困ってるようだったら手助けしてやってな。頼む!」と拝むような格好をして笑った。  
 
「はい、分かりました」と僕も笑って応えた。  
 
「何かあったら教えてくれよな」  
「はい」  
 
 
教室に戻ると、やんちゃな男子数人が箒でちゃんばらをしていて、女子は仲良く喋りながら二人で一つの机を後ろから前へ運んでいた。  
教室の隅っこに望月がいた。  
彼女は箒を持って床に置かれたちりとりにゴミを集めようとしていた。  
しかしちりとりが動いてしまって上手くいかないようで、今度はしゃがんで左手でちりとりを押さえて右手で箒を操ろうとした。  
彼女の小さな右手一本で扱うには箒の柄は長すぎて、満足にごみは入らなかった。  
 
望月がそうやって苦闘していると、ちゃんばらをしていた男子の一人がよろけて、その拍子にせっかく集めたごみを撒き散らしてしまった。  
男子は謝りもせず望月を一瞥して、それからおろおろしている彼女を友人と一緒に笑いものにしていた。  
 
 
「僕がちりとりやるよ」  
僕はしゃがんで、彼女からちりとりを受け取った。  
受け取るとき彼女の手が触れて、僕は少しどきりとした。  
 
望月はお礼も言わず、目を合わせようともせず、立ち上がって散ったごみをまた集め始めた。  
 
「ほうき係は三人いるはずなんだから、全部一人でやることないよ」  
ちりとりに集められていく埃の塊やビニール片や、牛乳ビンの葢なんかに目を注ぎながら言った。  
 
おそらく窓際でちゃんばらをしているやつらがそのほうき担当なのだろうが彼らがサボっていて、また周りの女子にも頼めないので仕方なく一人でやったのだろう。  
 
「何か困ったことあったら言ってよ。僕も手伝うからさ」  
箒が止まった。  
 
僕は顔をあげた。  
いつも少しうつむいている望月とちょうど目が合った。  
彼女はさらにうつむいて「いいの」と言った。  
 
彼女の白い頬もきれいな目も、長い髪に隠れて見えなくなった。  
 
「いいの……って?」  
 
「私が悪いから、どんくさいから、変な子だから、だから、いいの」  
 
「そんなこと……」  
 
望月はごみを全て片付け終えると、一度も顔を上げずにそのまま立ち去った。  
後にはちりとりを持った間抜けな僕が立っているだけだった。  
 
 
ある朝いつものように登校すると、三人の女子が僕の席の一つ前の机を囲んではしゃいでいた。  
そこは望月の席だった。  
 
僕は自分の席に座って、様子を窺った。  
 
三人が何をしているのかすぐに分かった。  
彼女たちは望月の机にペンで落書きをしていたのだ。  
まだ書き始めたばかりのようで、机の右三分の一ほどに幼稚な嘲罵の言葉が書いてあるだけだった。  
 
「やめなよ」という声が喉元まで出かかって、しかしそこで萎んで消えしまった。  
望月が登校してこの机を見たら、と考えて、なんだか胸が絞られるように痛んだ。  
こなければいいのに、と思った。  
こないでくれ、と心の中で祈った。  
 
しかし望月は来てしまった。  
 
彼女は机の前で立ち尽くして、それから深くうつむいた。  
遠くでさっきの三人がくすくす笑っていた。  
その様子に気付いた他の子も愉しげに見物していた。  
望月はやっと席について、ランドセルから筆箱を出して、消しゴムで落書きの上を擦った。  
けれどペンの文字は消えず、消しカスが人を小馬鹿にするように机の上に散らばっただけだった。  
彼女は消しゴムをしまうと、途方に暮れたようにまたうつむいてしまった。  
 
女子三人は反応をなくしたおもちゃに興味をなくしたようで、今度はファッション雑誌を囲んではしゃいでいた。  
僕は一度教室を出て水道でハンカチを濡らしてから、また教室に戻った。  
そのハンカチで落書きで汚れた机を強く拭いた。  
 
「良かった、水性だから落ちるよ」  
望月は顔を上げて、僕の手元をジッと見つめていた。  
 
軽く拭けば消えるのに、僕はなぜか意味もなく力強く拭いた。  
落書きはあっという間に消えた。  
彼女の孤独もこうやって消えてしまえばいいのに、と思った。  
 
望月に目をやると、彼女は何か言いたげに口をわずかに開いたり閉じたりしながら、相変わらず机に視線を落としていた。  
 
* * *  
 
望月へのいじめはその後も続いた。  
体育の時間、校庭を走っているとき教師の目の離れた隙に男子の一人が足をかけて彼女を転ばせた。  
彼女は見事に前のめりに転んで、肘と膝を擦りむいた。  
真っ赤な血が白い足に一本の線を引いて涙のように流れていった。  
そのときも彼女は泣かなかった。  
うつむいて耐えていた。  
 
けれど望月はだんだん休みがちになっていった。  
そして七月には学校に来なくなった。  
 
もうすぐ夏休みに入る七月の中旬のある日、彼女が転校することを担任から聞かされた。  
親の仕事の都合だと言うから、たぶんいじめが原因ではないのだろう。  
 
担任は色紙を掲げて  
「これにみんな一言ずつお別れの言葉を書いてください」と言った。  
 
色紙は僕のところにも回ってきた。  
 
『転校先でも頑張ってください。さようなら』と書いた。  
望月をいじめていたやつらと何も変わらない言葉を書いている自分がたまらなく嫌になった。  
 
* * *  
 
インターホンを鳴らす。  
しばらくしてドアが開いて女性が顔を出した。  
望月のお母さんだろうか。  
穏和な感じの人だった。  
 
「こんにちわ、日奈子のお友達?」  
 
僕は望月と友達なんだろうか。  
この女性の言う『お友達』は『クラスメート』ぐらいの意味なんだろうと頭では分かっていても、少し言い淀んでしまった。  
 
「あの、これ、今度転校しちゃうって聞いて、クラスのみんなで寄せ書きしたんです」  
僕は色紙と手紙を差し出す。  
 
「あら、ありがとう。今、日奈子を読んでくるからちょっと待ってて」  
望月の母親は色紙を受け取らず、踵を返してさっさと中に入っていってしまった。  
僕は気の重くなるのを感じながら、強い日射しの下で彼女を待った。  
引き戸の開く音がして、奥から小さい足音が聞こえた。  
 
「あの、これ、クラスのみんなが寄せ書きしてくれて、あと先生から手紙」  
なんとなくしどろもどろになりながら、目の前に立っている望月にそれらを手渡した。  
彼女は受け取った色紙を見て、それから悲しいような悔しいような表情をほんのわずか、僕の見間違いかと思うほどに滲ませた。  
 
胸が痛んだ。  
僕は咄嗟に彼女の手から色紙を引ったくって、それを折り曲げた。  
驚くほど簡単に小さくなったそれを右のポケットに無理に押し込んだ。  
望月は目を丸くしていた。  
とんでもないことをしてしまったという思いが湧いて、僕は焦った。  
 
最低の行動だ。  
 
謝ろうとした僕に、望月は手紙を差し出した。  
担任からの手紙だ。  
 
差し出された手紙を受け取った。  
彼女の思いが僕の心に流れ込んできた。  
そのことがすごく嬉しかった。  
僕はその手紙を封筒ごと破ってポケットに押し込んだ。  
色紙も手紙も、二人の視界から消えた。  
世界から消えた。  
 
「ありがとう」と望月が言った。  
彼女はうつむいてはいなかった。  
目と目が合った。  
優しい目をしていた。  
 
僕は彼女に言わなければならないことがあるような気がした。  
『頑張ってください』でも『寂しくなるね』でも『さようなら』でもない何かを。  
 
けれど言葉は声にならず、思いは形にならず、夏の光に溶けてその行き場を失った。  
僕は何も言えず、彼女の透き通った瞳を、頬にかかるきれいな髪を、ただ見ていることしか出来なかった。  
蝉が鳴いていた。  
 
その夏初めて、蝉の鳴き声を聞いたような気がした。  
 

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