「……ふぅ、退屈だ。つまらぬ」
下穿き一枚の姿で玉座に腰掛け、耳をほじくりながら魔王は呟いた。
だらしない恰好でくつろぐ主君に、側近である使い魔の蝙蝠は口を尖らせる。
「なんてお姿ですか、魔王陛下。もう少しシャキっとなさって下さい。
幾ら世の中が平和だからといって、魔界を統べる王としての威厳と言うものがあります」
面倒臭そうに部下を一瞥した後、魔王は食べかけていた果物を口に放り込んだ。
「そうカリカリするな。お前も食うか?」
言いながら果物の入った籠を差し出すが、相手は『結構です』と首を横に振る。
魔王は憂鬱そうに溜息をついた。
「余は退屈で退屈で仕方が無いのだ。どこぞの“勇者”とやらが余を討伐しにでも来てくれれば、
良い暇潰しになるのだがな……」
「……お戯れを」
「のう、いつもの様に鏡を持って来てくれぬか。人間の世界を映すあの鏡を。
今の余にとっては唯一の慰めなのだ」
魔族の長たる魔王は不老不死の存在。
与えられた無限の時間を持て余している彼は、人間界の様子を観察することが日課となっていた。
人間達の活き活きとした生活風景は、所在無い心を一時でも紛らわせてくれるのだ。
「畏まりました。本日はどこをお映ししましょうか?」
手早く用意された魔法の鏡は、たちまちの内に人間界の光景を映し出した。
鮮明な映像を覗き込みながら、魔王は気怠げに指示を与える。
「そうだな、その森の辺りを見せてくれ。そう、そこだ。……ん?」
興味の惹かれるものを見付けたのか、魔王は玉座から身を乗り出した。
一つの対象物を食い入る様に見詰める彼に、使い魔は尋ねる。
「何か面白いものでもありましたか? ……なんだ、人間の雌か」
魔王の視線の先には一人の娘の姿があった。
まだ成人もしていないのであろう、幼さの残る若い女。田舎の清楚な町娘といった風貌である。
「どうしたことだ……この娘は」
魔王の薄い唇から、思わず吐息混じりの言葉が零れる。
「……なんと愛らしい!」
使い魔はギョっとして主君の顔を振り返った。
赤銅色の切れ長な双眸はキラキラと輝き、陶然と鏡面の少女を眺めている。
つい先刻まで退屈を愚痴っていた人物とは、まるで別人。
その精彩に溢れた表情が、魔王の完全なる一目惚れを物語っていた。
「ふむ。この娘こそ我が妃に相応しい。決めたぞ。余は彼女を妻とする。
そうと決まれば早急に迎えに行かねばな!」
突拍子も無く重大な決定を下してしまった彼に、使い魔は慌てて口を挟んだ。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さい。どうぞお考え直しを。誇り高き魔族の王が、
人間の娘をお妃様に娶るなどと……前例がありません。――って、お聞きになっていない!?」
彼は懸命に説得しようとしたが、肝心の魔王は全く話を聞いていない。
純粋で思い込みの激しい頑固な魔王は、絶対に決定事項を覆さないのだ。
その場に移動の魔法陣を描くと、さっさと呪文の詠唱を始めてしまう。
「では行ってくる。なに、心配することは無い。お前にもすぐ可愛い世継ぎの顔を見せてやれるだろう」
彼は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「ウィンクなどしている場合ではありません。あぁあ……魔王陛下がご乱心召された!
どう考えても人間との恋愛事が上手くいくわけが無い、異種族間の婚姻が成立するはずが無いのに!」
彼の心配も余所に移動の魔法は完成してしまった。
「夕飯までには帰る!」
どこまでもマイペースな魔王は、鋭い牙を剥き出しにしてニカっと笑った。
魔族の頂点に君臨する王は、時に少年の様に無邪気で自由奔放、そして残酷だった。
気紛れを起こされる度に、使い魔は振り回されてしまう。
「あ、陛下!! せめて何かお召し物をっ……パンツ一丁で行ったところで変態扱いされるだけですよーー!!」
轟音と地震、発動の閃光とともに魔王は姿を消した。後に残るのは虚しい残響だけ。
「……非常に心配だ」
使い魔は渋々飛膜を広げ、主君の後を追って羽ばたいた――――。
可憐な少女はおやつの林檎に齧り付きながら、森の道を一人で歩いていた。
青い瞳はくりくりとして大きく、健康的なふっくらとした頬は薔薇色、肉感的な赤い唇は艶やいでいる。
柔らかい亜麻色の髪は三つ編みに結って両肩に垂らし、
その小柄には不釣合いの豊満な胸は、歩みに合わせて重たげに揺れている。
飾り気の無い質素な身なりをしているものの、なかなかの美少女である。
今日は親からのおつかいで隣町まで買い物に行く予定だ。
葦で編んだ丈夫なバスケットを片腕にぶら下げ、彼女が軽い足取りで道を進んでいると。
突如地鳴りが響き、大地が激しく震え始めた。
「きゃ! な、なに?」
頬張っていた林檎の実が手からポロリと落ち、驚いてその場に尻餅を付いてしまう。
目の前の空間が大きく歪み光が弾けた。
気が付くと、少女の眼前には一人の異形が現れていた。
「あわ……あわわわわわ…………」
恐怖のあまり腰の抜けてしまった少女は、悲鳴を上げることすら儘ならない。
いきなり立ちはだかった人型の雄の魔物は、流暢に人語を喋り始めた。
「初めまして。我が名は魔王。子の人数は15人を希望する!」
爽やかだが意味不明な自己紹介である。
彼の姿形は人間の若い男に似ていたが、身の丈は2mに達しようかという堂々たる体躯。
人ならざる者の証である赤銅色の双眸と、腰まである銀髪を持ち、長い耳はエルフの様に尖っていた。
細かく刻み目の付いた鎌型の太い角が頭部から生えており、獣じみた発達した犬歯は吸血鬼を思わせる。
そして、何故か身に着けているものは下着一枚だけ。
そのおぞましい出で立ちに命の危険を感じて、少女はガタガタと震え上がった。
「娘よ、単刀直入に言う。お前に惚れた。早速だが結婚を申し込む! 余の妃となってくれ」
「は……はい?」
少女は目が点になってしまった。
この魔物が一体何を言っているのか、全く理解出来ない。
「近くで見るとますます可愛らしい。――ん? どこへ行く」
頬に触れようと大きな手を伸ばされた途端、少女の防衛本能が働いた。
ハッとして身を引いた後、物凄い勢いで立ち上がり、脱兎のごとく駆け出す。
「た、助けてぇーーーー! 魔物よ魔物が現れたわーーーーっ!!!!
しかもパンツ一枚しか履いてないし! 露出狂の魔物よーーーー!! 誰かぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「待て、待つのだ。逃げるでない」
泣き叫びながら助けを呼び、全力疾走する彼女を魔王はのんびりと追いかける。
「ひいぃぃぃ!! 食べられちゃう! こっちに来ないで食べないでぇ! あっちに行ってーー!!」
「我が妃よ、お前は誤解している。別に取って食おうというのではない……、
食ってしまいたいほど愛おしいのは確かだが」
熱烈な愛の告白も、必死で逃げ続ける少女の耳には届かない。木々の合間を縫って彼女はがむしゃらに走った。
しかしどこまで逃げても、半裸の魔物はしつこく後を追ってくる。
やがて少女の体力は尽きた。森の奥深くへ、遂に行き止まりまで追い詰められてしまう。
「はぁ、はぁ……あ……あ、やめて……はぁはぁっ……殺さないで……まだ生きたい……
人生でやり残したことがまだ沢山あるの……」
頬を上気させ息を弾ませながら、涙目で悲痛な命乞いをする。
草の上にへたり込んだ少女は、迫り来る恐怖から逃げる様にじりじりと後じさった。
少女の怯えを知ってか知らずか、魔王は白い牙を剥き出しにしてニッコリと微笑む。
「よし。では、始めようか」
「な、何を……?」
「何って、交尾に決まっておるだろう」
「こっ!?」
当然のことの様に言いのけた彼に、少女は絶句して固まる。
「互いのことを良く知るには交尾に限る。雌が雄の器量をはかる時は大概こうするものだ。
求婚を受けたからには、お前も余の生殖能力を知りたいだろうしな。……それとも、人間は違うのか?」
魔王は悪びれる様子も無く、きょとんとした顔で尋ねた。生殖に関して、魔族は人間より動物に近い。
性行為に及ぶまでに相手との心の距離を縮めるといった、手間暇や時間をかけない。
好感を持った相手を見付けたら、とりあえず相性を確かめてみる。
そのまま互いに気に入れば、番いとなって子を設け育てるのだ。
人間の男女の機微や貞操観念など、魔物が解するわけが無い。
彼に人間社会の一般常識は通用しなかった。
「さっ、さっきから何を訳の分からないことを言ってるの?
初対面なのに突然結婚してくれだなんて……。貴方のお嫁さんになるつもりはありません!
魔物の子供を生むだなんてご免です。お、お断りします……!」
緊張と恐怖で上擦った声を震わせながらも、勇気を振り絞って少女は言い放った。
まさか断られるとは思っていなかったのか、魔王は驚いて目を瞬く。自信満々だったのだ。
「なんだと……余を拒絶するとは。魔界において最も強い雄である、この余を……何故だ?
眷属の女達はこぞって我が子種を欲しがるものだが……」
彼は生まれてこの方、同族の女から拒まれたことは唯の一度も無かった。
魔力や戦闘能力が高く、動物の雄として優秀でさえあれば、いくらでも雌を惹き付けられるからだ。
『いかに強いか』、魔族にとってそれだけがモテる条件。複雑な情緒を持つ人間とは価値観が違う。
「……ふむ、分かった」
暫く悩んでいた彼が、何事か納得した様子で頷いた。
「良かった。分かってくれたのね……」
ホッと胸を撫で下ろした少女は、魔王の次の言葉に絶望した。
「ああ、返事を急かし過ぎてしまったな。まず実際に、余の雄としての力を示してやらねばならなかった。
余がお前の伴侶たり得るか存分に試すがよい。答えはそれからで構わぬ。きっと考えを変えるだろう」
話が再び振り出しに戻る。魔王は少々抜けたところがあり、そのうえ独り善がりで強引だった。
いつも自分に都合の良い解釈しかしない。
「えっ、えぇ!? い、いえ、そうじゃなくて……! あ、あぁ、いやぁぁぁぁ!!!!」
意思の疎通を図れないこの状況に少女は焦ったが、しかしもう遅かった。
甲高い悲鳴が静かな森に木霊する。
続く。