『メイド・莉子 8』  
 
はやる気持ちを抑えて、陽子さんが招いたマダムたちとお茶一杯分の時間をおしゃべりに付き合ってから、俺は離れに引き上げるために席を立った。  
離れを美月さんにご案内したら、とか、一緒に音楽の話でもしたら、とか言われたら面倒だと思ったけど、陽子さんはあっさり俺を解放してくれた。  
桜庭美月も、にこやかに俺を見送った。  
同席したのは数分だったけど、奥さまたちに囲まれて笑顔が引きつっていた俺よりも一つ二つ若い美月が、でしゃばらずに母親ほどの年齢の奥さまたちに混じってうまくやれるなんてたいしたもんだと感心した。  
 
早く莉子に会いたくて急いで離れに行くと、いつもより玄関際に莉子が立っている。  
「旦那さま、おかえりなさいませ」  
俺を見て、飛んでくる。  
さすがに人目を気にしたか、飛びついてはこない。  
なんだよ、なんか用か。弁当は先に届けただろ。  
「母屋でお食事なさってくるかと思いました。奥さまのお客様がお見えでしたし」  
廊下でそう言って、部屋のドアを開ける。  
「莉子も挨拶したのか?」  
とんでもございません、と莉子が全身を左右に振り回した。  
「わたくしが奥さまの大事なお客様の前になんか出たら、そそっかしすぎてなにをするか」  
いや、莉子はそんなにそそっかしくはないけど。周りからそう言われてそう思い込んでるだけじゃないか。  
誉めたつもりなのに、そうですか?と不満げな顔をされた。  
「ま、いいや。腹減ってるだろ?今日は昼飯ちゃんと食ったか?」  
莉子があごにひとさし指を当てて首をかしげた。  
「旦那さまは、やっぱりわたくしがお昼も忘れるほどそそっかしいとお思いですか」  
食ったんならいいんだよ。バカ。  
上着を脱いで外したネクタイと一緒に莉子に渡し、ソファに座る。  
それをクローゼットに片付けた莉子がダッシュで戻ってきて、弁当の入った紙袋を抱きかかえた。  
「当ててもよろしいですか」  
よし、やってみろ。  
紙袋はサザンクロスデリバリーだから、季節のメニューを熟知している莉子なら十種類くらいの候補に絞れるはずだ。  
紙袋に顔を突っ込むようにして、莉子が弁当の匂いをくんくんした。  
俺もさっきこっそり嗅いでみたけど、あっためられた紙重箱の匂いしかしなかったけど。  
わかったか、と聞こうとしたところで携帯電話が鳴った。  
なんだよ、俺はこれから莉子とお楽しみタイムなんだ、この時間のために今日一日会社でわけのわかんない話に頭を痛めたり秘書に小言を言われたり腹の出たオッサンにバカにされたりしてきたんだ。  
着信画面に出たのは長尾の名前だった。  
留守電に繋がるまで鳴らしておいて、電源を切る。  
「よろしいんですか」  
莉子が顔を上げる。  
――鶯原さんのいらっしゃるときに、お邪魔してもいいですか。  
今日、長尾のよこしたメールの催促だろうか。  
よりによって、莉子と一緒のときに。  
「いいんだ。で、わかったか、弁当」  
「もちろんです。お弁当は、僕も私もワクワクドキドキお誕生日パーティ、です」  
なに?  
慌てて紙袋をから紙重箱を取り出し、フタを開ける。  
横取りされた莉子がぶーぶー言いながら足元に座り込んだ。  
弁当の中身は、花形に型抜きされたハムが黄色い卵の上にかざられたオムライス。  
その周りにブロッコリーとカリフラワー、プチトマト、レタス。  
二段目には一口サイズのチーズハンバーグになにかのフライ、小型のカボチャをくりぬいた容器に入ったマカロニサラダ。  
ご丁寧にクリームとカラフルな砂糖菓子でコーティングされたマフィンとカップゼリーまで入っている。  
「あ、またやった」  
だから、サザンクロスのメニュー表はわかりにくいんだ。  
写真の上下に注文コードがあるからうっかりまちがえる。  
俺が注文したかったのはピリカラスタミナ焼肉&シーフードパエリア二段重だったのに。  
さっきの電話に出て、メニューのレイアウトについて提案してやればよかった。  
莉子はそんな俺にお構いなしに、おいしそうです、わたくしこの花形のハムをいただいてもいいですかと言う。  
うんうん、なんでも好きなものを食え。  
陽子さんは、まだおしゃべりが続くだろうから、奥様たちの帰りは遅くなる。  
その間は、絶対邪魔が入らないということだ。  
俺は膝の上に莉子を寝転がらせて、子どもっぽい弁当を食う。  
パンチの効いた肉や辛いものを食べたかったが、仕方ない。  
 
「はふん、おいしゅうございました」  
デザートのグレープゼリーをちゅるんと口に入れて、莉子が満足そうに言う。  
そうかそうか、うん、それでさ。  
莉子が寝転がったまま、ひとさし指をあごに当てた。  
「なんですか、旦那さま。今日はなんとなく、落ち着きがございません」  
そんなことはねえよ。ちょっと考えてたことがあるだけだ。  
俺は会社に持っていったカバンから、薄っぺらい教本を取り出した。  
莉子が覗き込む。  
「なんですか?『初めての……』」  
莉子が、目を大きくして俺を見上げる。  
ネットで注文したのが、会社に届いたんだ。家に届いたら莉子が見るかもしれないからな。  
まだ一度も開いていないその教本を、莉子に渡した。  
『初めての、バイエル』。  
「旦那さま?」  
頭悪いな。  
俺はゲンコで莉子の頭をぐりぐりした。  
「ほら莉子。腹ごなしだ。ピアノ弾くぞ」  
子猫みたいに両手を頭の上で動かして、痛いですと訴えた莉子が目を丸くする。  
「はぇ?ふぉ、ふぉんとうでございますか」  
本当だ、教本だって買ってやったじゃねえか。  
ほら、立て。  
「教えてやるって約束してたじゃねえか。一の指、二の指、三の指。ドレミドレミだ。今日からやるぞ」  
莉子の手をつかんで、ピアノ部屋に入る。  
「今ですか、今ぁ?」  
今だ。  
これから、俺は莉子にピアノを教えるぞ。  
それで、莉子と音楽の話をするんだ。  
いいか、ドレミのドは一の指だ。  
教えながら、自分の指も柔らかくして、また簡単な曲くらい弾けるようになる。  
陽子さんに、シューベルトのひとつやふたつ弾いて聞かせてやる。  
すごいわねって喜んだら、莉子のおかげだよって言ってやるんだ。  
埃ひとつない状態のピアノの椅子を引いて、莉子を座らせた。  
蓋を開けて、カバーの布を取る。  
半年ぶりに見る、鍵盤。  
莉子の表情がぱっと明るくなった。  
こんな顔をしてくれるんだな。  
俺には、こんなことしかしてやれないけど、だけど、俺にできることはしてやるからさ。  
さあ、やってみようじゃないか。  
指一本で、白鍵を押してみる。  
 
ボヨン。  
 
思わず、ぶっと噴出してしまった。  
莉子も不思議そうに俺を見上げる。  
「旦那さま?」  
「うは、あはは、悪い、ダメだ莉子。音が狂ってる。調律を呼ばないと」  
勢い込んでいただけに拍子抜けして、俺は馬鹿みたいに笑った。  
莉子がひとさし指をあごに当てた。  
「え、では弾けないのですか」  
「音は出るけど、合ってないからな、曲にならない。明日にでも見てもらって、それからだな、ははは」  
思いのほか、莉子はがっかりと肩を落とした。  
「そうですか……、で、でも明日は弾けますよね?」  
「まあな。執事に言っておく」  
そうですか、とちょっと莉子がしょんぼりした。  
「あ」  
なんだよ。  
「ということは、調律をなさる方がこのお部屋に入るわけですね?」  
ピアノを運び出すより調律師が来た方がラクだろうが。  
 
「いけません、旦那さまの蔵書を隠しませんと!」  
ピアノの椅子からぴょんと飛び降りた莉子が、楽譜の並んでいる本棚に飛びついてしゃがみこんだ。  
その下段に、莉子がきっちり揃えて並べている……、エロ本。  
「高階那智さまが、タカシナグループの社長が、日夜こういうもので楽しんでらっしゃるなんて噂になってはいけません」  
俺は日夜、楽しんではいないだろ、お前が昼間こっそり読んでるだけだろ。  
「そんなもの、誰も気にしねえよ」  
「いいえ、旦那さまがこういうものの助けを借りないといけないなんて思われたら、わたくしメイドのメンツが立ちません」  
だから。  
何度も言うが、莉子。  
逐一、なにもかも、間違ってる。  
莉子はいそいそと金髪爆乳の女がポーズを作っている表紙の雑誌を重ねて裏返し、棚の奥にしまいこんで、わざとらしく見えるところに音楽雑誌を並べた。  
「はあ、おっぱい大きいですねえ……」  
車海老、大きいですねえと言うときのように、ため息混じりにつぶやきやがった。  
「やっぱり、旦那さまは巨乳好きですか?」  
そういう言葉をどこで覚えてくるんだ。あ、俺の蔵書か。  
しまいこんだの引っ張り出して中を開くんじゃねえ、もうピアノはどうでもいいのかよ。  
「まあ、わたくし……、小さいのでしょうか」  
莉子が心配そうに胸を押さえた。  
まあ、巨乳ではないな。  
でも俺はそこに載っている金髪女の人工的な感じがするほどでっかい胸は、そんなに好きじゃないぞ。  
莉子くらいでいいんじゃないのか。  
上を向いても平らにならない程度で、手の中にすっぽり収まって、柔らかくって弾力があって、そういうの。  
莉子は嬉しそうにもじもじしながら俺に擦り寄ってきた。  
「よろしいのですか?」  
まあ、いいんじゃねえの。  
「その、今日は」  
ん?  
耳までまっ赤にしている。  
「……旦那さま」  
さて、なんだろうな。  
そっか、莉子もしたいって思うんだ。  
俺がしたくなって、莉子に付き合ってもらってるわけじゃなくて、莉子もしたいんだ。  
「あん、もう」  
「なんだよ、わかんねえよ」  
莉子がひとさし指を俺の脇腹に押し付けてぐりぐりした。  
やめろ、ばか。  
「わたくし、食べごろでございますけども」  
なに言ってる、バカメイド。  
「DVDで勉強したんじゃねえのかよ」  
俺が早送りしちまうような、冗長な出だしの部分。  
「はい。でもお誘いはみんな、男の人から」  
「いいからそれやってみろって、ほらほら」  
言いながら、顔がニヤついてしまう。  
莉子はうるうるっとした目で俺を見上げ、そろっと胸に手を当ててきた。  
「……旦那さま」  
うんうん。  
「旦那さまが、おいしそうに見えます」  
……この、肉食メイド。  
さあ、食え。  
うわ。  
バカメイド、本当に主人を襲うんじゃねえ。  
夜はまだ早いっての。  
……しょうがねえな。  
莉子が俺に飛び掛って服を引きはがそうとする。  
慌てるな、がっつくな。  
暴れる莉子を羽交い絞めにして引きずり、ベッドの上に放り投げた。  
「あん、もう、暴力反対です」  
なに言ってる、自分が飛び掛ってきたくせに。  
ほら、襲え、俺を。  
 
……気絶するかと思った。  
莉子が空手の黒帯だっていうのは、本当かもしれない。  
身ぐるみはがれて、俺は莉子に押さえつけられる。  
「マジっすか、莉子さん……」  
「はい。お許しをいただきましたので」  
激しく、後悔。  
ああ、強姦される。  
莉子は自分だけきっちりと制服を着込んだまま、俺の唇を奪う。  
すみませんごめんなさい助けてください勘弁してください。  
莉子がきゅわきゅわっと笑う。  
逆レイププレイになってきた。  
手加減しながら抵抗するフリをしてみたりして。  
ちくしょう、楽しいじゃねえか。  
莉子が俺の体にいっぱいキスをした。  
意外なところが気持ちいい。  
よせやめろと言いながら、気持ちいいところで莉子の体に触れると、それを合図にそこんとこを責めてくる。  
莉子も脱がせてやりたい。  
どうせなら裸がいいと思うんですけど、どうでしょう、ここはひとつ脱ぐ方向で。  
「やん、旦那さま、えっち」  
人をひんむいて裸にしてベッドの上で組み伏せておきながら、なに言ってるんだ。  
ひょいっと足首をつかんで引っ張ると、莉子がひっくり返った。  
どうだ、力は俺のほうが強いだろ。  
うげ。  
みぞおちに手刀が決まって、俺は体を折って咳き込んだ。  
「旦那さま、大丈夫ですか」  
莉子が言うな。  
「だい、じょうぶ、なわけねえだろ、バカメイドっ」  
「きゃあんっ」  
スカートの中に手をつっこんで、下着を引き下ろす。  
そのままたくしあげて、太ももの間に顔をつっこんでやった。  
「へ、ヘンタイなっくん……」  
今のは、聞こえなかったことにしてやる。  
両手で太ももを下から上に撫で上げて、そこに触れる。  
女って、ここの毛が柔らかいのな。  
かき分けるとピンク色だし、ふにょふにょの手触りで、あったかいし。  
「あん、旦那さま、それ、なんですか」  
わかるか。  
1、2、1、2。  
ピアノの基礎中の基礎の運指で、莉子の太ももを指先で弾く。  
撫でるのとも、つかむのとも違う感触で、莉子の体を弾いた。  
ワンピースの制服を脱がせて、ブラをはずして、ふるっふるのおっぱいの上で指を躍らせる。  
指の動きは固いけど、簡単な曲なら弾けそうだ。  
10本の指先で全身を弾かれて、莉子は体をよじる。  
接点が小さくてもどかしいのか、触れられる回数の多さが気持ちいいのか。  
だめだ、ピアノのレッスンをするって言ったじゃないか。  
練習は早く始めるに限るじゃないか。  
ほらほら、右手と左手をこんなふうに、な。  
乳首を上から指先でトントンすると、はふん、と息をつく。  
そのまま下がって、ヘソと下腹も弾いてやった。  
「あん、旦那さま、それは、なんていう、あん」  
「エリーゼのために、だ。それくらい聴いたことがあるだろ」  
いて。  
なんで噛み付くんだよ、気持ちよくしてやってたのに。  
「わたくしのためではないんですね」  
あー、まさかそんなベタなボケが返ってくるとは。  
うお。  
 
油断したところで襲い掛かられて、莉子は俺の足の間に入り込んだ。  
「わたくしは、みんな旦那さまのためでございます」  
それはどうも、あ。  
莉子の指先が、不協和音で俺のを弾きはじめた。  
それだとピアノじゃなくて、オーボエとかクラリネットとか、そういう感じなんだけど、あう。  
ほんとに演奏するように、莉子は先っぽをくわえ込んで指先で軽く叩く。  
あー、すげーそれ、きんもちいい。  
できればもっとこう、激しめの曲を演ってくれないかな。  
アップテンポで、フォルティッシモで、強めに。  
あ、う、うん、そう。  
莉子、ピアノよりオーボエかなんかの才能があるかも、う。  
ヤバ、イク。  
早すぎるだろ、俺。  
俺は体を起こして、莉子の肩を押し上げた。  
このまま終わったら、そりゃ気持ちいいだろうけど、なんかもったいないし。  
「第一楽章、終わりだ」  
莉子がひとさし指をあごに当てた。  
「第なん楽章まで、ありますか」  
そりゃもう、終わらないくらいいっぱいある。なければ俺が作る。  
今度は、俺が指と舌先で莉子を弾いてやった。  
ピアニッシモ、ピアニッシシモ、クレッシェンド、スタッカート、フォルテ。  
記号の名前と意味を教えてやりながら、そりゃあねちっこくねばっこく。  
「あん、あの、旦那さま、楽譜のお勉強はわかりましたから、あの」  
はうんはうんと鳴いていた莉子が、脚で俺の顔を挟んだ。  
なんだよ。  
「ですから、もう、演奏会を」  
バーカバーカ。  
演奏を止めたオーボエ奏者は、俺の首に抱きついた。  
いいか、オケはステージで待ってろ。  
指揮者とソリストの俺が上がってくるからな。  
客は割れんばかりの拍手をして迎えるわけだ、そんでもって指揮者は俺を客に紹介するように……。  
「前置きが長くないですか?わたくし、干からびてしまいます」  
干からびねえよ、ぐしょぐしょに濡れるまで弾いてやったからな。  
しょうがない、指揮者がタクトを振ってるからな。演奏してやるよ。  
ちょっと拍手しとけ、アレつけるから。  
いくぞ、ほら。  
「あん……、あ、世界の、高階那智さまでございますね、あん」  
なにを誉めてるんだよ、バカ。  
指揮者の指示どおりに演奏してるんだ。莉子が表情で出す指揮に従って。  
ここがいいから、もっとこすって。そこはゆっくり。盛り上がって、力強く。  
素早く、歌うように、滑らかに、クライマックスに向けて。  
「あ、はあん…、んんっ……、あ、あん、那智さ、まあ」  
もっと、テンポを上げて。  
あー、そういう指揮者がいたな。  
曲の解釈なんかどうでもよくて、やたら早弾きさせるのが好きな。  
顔も覚えてないけど、あの非常識な速さのタクトの先は覚えてる。  
その指揮の通りに、俺は弾いた。  
リズミカルに、奥まで深く、手前で浅く。  
「んっ、ん……、ん、あ、うんっ、な、那智さま、あん、ん」  
二人で連弾してるみたいだ。  
楽しいな。  
気持ちいいし。  
んじゃ、曲のクライマックスに向かおうか。  
う、あー。  
この最終楽章の言わんとするところはだな、繰り返されてきた主旋律が、ま、いいかそんなこと。  
「あ、ふ、ふわふわ、します、那智さま、すごく、ふわ……っ」  
そう、主旋律がふわふわして、それで最後に。  
「んあっ、あっ、……あ!」  
落っこちる。  
……落っこちるって楽譜記号は、なんだっけ。  
 
*  
 
陽子さんは、事故の前より元気になったように見えていた。  
奥さまたちとの社交も熱心だし、趣味のステンドグラスやコンサート鑑賞も、また始めたようだ。  
ずいぶん気が合うのか、桜庭美月も仕事が休みの日はちょくちょくやってくるし、一緒に出かけたりしている。  
陽子さんが外のことに気を向ければ、俺の世話も焼きたがらないだろうし、莉子に構っている暇もないだろうな。  
だから、俺はちょっと安心していたんだ。  
陽子さんは元気だし、会社でダメ出しされることも減ってきたし、仕事を覚えるのは面白いし、野球ではボールがバットに当たるようになってきたし、莉子は相変わらず食いしん坊でバカでかわいいし、ピアノは上手くならないし。  
メールと電話を無視された長尾が、それ以上しつこく言ってこなかったことも、油断した。  
つまり、俺はバカだったんだ。  
 
次の日曜日、草野球の練習後に長尾が車で屋敷までついてきた。  
来週の練習試合は少し遠いところでやることになっていたから、それならうちにある全員が乗れそうな小型バスで行こうと提案したんだ。  
それでも試合で使う道具を先に運んでおくのに俺の車では積みきれなかったから、長尾が半分車に積んできてくれた。  
離れの方に車を乗り入れ、バックミラーで長尾がついてきていることを確認する。  
車を停めて降りると、なにやら母屋のほうが騒がしい。  
自分の車から荷物を下ろそうとしていた長尾も、気にするように首を伸ばした。  
「おかえりなさいませ」  
いつの間に出てきたのかいきなり後ろから執事に声をかけられる。  
「なんだ、騒がしいな」  
見ると、執事が珍しく赤い顔をして肩を上下させている。  
英国上流家庭のバトラーは、走ったりしないんじゃないのかよ。  
「社長、恐れ入りますが母屋の方へ」  
え、だって荷物とか、長尾とか。  
「私にはおかまいなく、どうぞ」  
長尾が気を利かせるように言い、執事が俺に近づいて声を落とした。  
「……たった今、奥さまがお倒れに」  
俺は長尾をそこに置き去りにして、走り出した。  
陽子さん、めっちゃ元気だったのに。  
やっぱり病み上がりに無理させすぎたんだろうか。  
母屋の裏口にメイドたちが、屋敷の横付けにした車に群がっている。  
俺が駆け寄ろうとすると、半ハゲ半白髪のクセに足の速い執事が後ろからひじをつかんで引いた。  
「奥さまはこちらです」  
部屋に駆けつけると、陽子さんは白い顔をしてベッドに横になっていた。  
驚いたことに、メイド長と一緒にかいがいしく陽子さんの看護していたのは、桜庭美月だった。  
今日は陽子さんに招かれて屋敷に来ていたという。  
それまで美月とおしゃべりしたり庭を歩いたりしていたのに、急に倒れたのだと執事が言った。  
高階家の主治医はこっちに向かっているけれど、入院していた専門病院にも連絡をしたらしい。  
「なんで、そんな……、あんまり忙しくしないで休むように言ったのに」  
ベッドの脇に座り込んで、なじるような言い方をしてしまった。  
メイド長が何か言おうとしたけれど、思い直したように黙る。  
俺は頭が混乱して、ショックで、立ち上がることもできなかった。  
しばらくして医者がやってきて、俺と執事は隣の部屋へ移動する。  
 
執事に、どういう状況だったんだ、と聞いた。  
「社長、落ち着いてください」  
ソファに崩れるように座った俺の隣に立って、執事が強い口調でたしなめる。  
わかってる、俺がしっかりしないと。  
「奥さまと美月さまに、メイドがお茶とお菓子を運んだのですがお気に召さなかったようです」  
なにが。  
お茶が?お菓子が?それくらいのことで、陽子さんが何か言うわけないだろ。  
「運んだ、メイドです」  
「……だれ、だよ」  
ドアの向こうでは、カチャカチャと医療器具の音がする。  
「鶯原でございました」  
莉子。  
そういえば、まだ帰ってきてから莉子を見てない。  
「奥さまは急に興奮なさって、鶯原の持ってきたお茶とお菓子を床に投げ捨てまして」  
え?  
「桜庭さまがお止めくださったのですが、テーブルの花瓶で」  
嘘だ。陽子さんが、そんなこと。  
莉子に聞けばわかる、あいつはそそっかしいから、だから。  
「鶯原はさきほど屋敷の車で病院へ運びました」  
莉子!  
「社長!」  
ちくしょう、執事の馬鹿力。  
執事に腕を押さえられたまま、俺はなんとか振り切ろうとした。  
莉子がケガをした。  
いつもの擦り傷や小さな打ち身ではなくて、病院へ行かなければならないほどのケガ。  
陽子さんに、花瓶で。  
その陽子さんは今、隣りの部屋で意識をなくしていて。  
どういうことだよ、なんでだよ。  
「しっかりなさってください、高階社長!」  
俺を叱りつける執事の声は、死んだ父親が跡取りの兄貴を叱っているときの声に似ていた。  
 
 
陽子さんはその日のうちに、意識を取り戻すことなく再び入院した。  
眠り続けた半年間と同じように、きれいな顔をして、目を閉じて、たくさんの管で機械に繋がれて。  
なにが起きたのかは、メイド長を問い詰めて聞きだした。  
といっても、メイド長にもよくわかっていないようで、とにかく陽子さんはそれまで機嫌よく美月と過ごしていたのに、いきなり莉子に殴りかかったのだという。  
執事は莉子がお茶を運んだように言ったけど、陽子さんが嫌っている莉子にメイド長がそんなことをさせるわけもなく、莉子は奥の部屋にいたらしい。  
偶然、お茶を運ぶために開いたドアの隙間から莉子の姿を見た陽子さんは、形相を変えて花瓶をつかんだ。  
花と水がこぼれ、お茶を運んだメイドに体当たりしながら莉子に向かって花瓶を振り上げる。  
美月さんが止めようとするのも間に合わず、花瓶は莉子に向かって下ろされた。何度も。  
信じられない。  
どうして、そんなこと。どうして、そんなに。  
陽子さんの入院を見届けて、俺は夜中になってから莉子が運ばれた病院へ行った。  
面会の時間はとっくに過ぎていたけれど、ばかやろう、俺は世界のタカシナだぞ。  
莉子は、入院が必要らしい。  
二人部屋のうち一床が空いている部屋に、莉子はいた。  
そっと戸を引くと、盛り上がった寝具が見える。  
眠っているかと思ったのに、莉子は俺を見てぱっと起き上がろうとした。  
「ばか、寝てろ」  
あちこちにガーゼや包帯の当てられた寝巻き姿の莉子が痛々しくて、俺は泣きたくなった。  
なんだよこれ、どういうことだよ。  
「すみません、わたくし、そそっかしいもので……」  
手を取ってやりたかったのに、三角巾で固定されている。  
「びっくり、したろ。すごく……、びっくりして、痛くて」  
ほっぺたにバンソウコウを貼った莉子が、ぎこちなく笑った。  
「大丈夫です。ちょっと、ほんのちょっとでございます」  
嘘つき。  
 
ごめん、莉子。  
ほんとに、ごめん。  
俺がぐずぐずしてたから、莉子も大事だけど陽子さんも大事だなんて甘ったれたこと言ってたから。  
結局俺は、自分ではなんにもできないお坊ちゃんだ。  
「旦那さま?」  
気づくと、涙がぼろぼろ流れていた。  
「どうなさいました、どこか痛いんですか?ナースコールしましょうか」  
こんなとこに他人を呼ぶなよ、バカメイド。  
「もしかして、旦那さまも、どなたかに……」  
殴られるわけねえだろ、バカ莉子。  
みっともなく泣いて、最後のほうはちょっとしゃくりあげて、俺は朝まで莉子のそばにいた。  
莉子は不自由な手で俺の指先を握って、嬉しそうに目を閉じて、イビキをかいて眠りやがった。  
朝になって、莉子の顔を暖かいタオルで拭いてやったり、ベッドで歯を磨くのを手伝ってやったりした。看護って難しいのな。  
「旦那さまは、なんでもおできになりますね。立派なメイドになれます」  
ならねえよ。  
病院の朝食は見るからにまずそうだったけど、俺が食わせてやった。  
食後の鎮痛剤が効いてきて、眠そうな顔をした莉子に寝具をかけてやると、莉子は心配そうに俺を見上げる。  
どこにも行かねえよ。莉子が寝て、起きてもここいるから。  
「いえ、あの、お屋敷にお帰りになってください。いろいろ……ご心配でしょうし。それに会社にも行きませんと」  
そんなこと、莉子が心配しなくたっていい。  
でも、と莉子は必死にまぶたを持ち上げようとする。  
「あんまり特別扱いしていただきますと、わたくし、お屋敷に帰ってから人間関係が……」  
言いながら莉子が眠ったのを確かめて、俺は部屋を出た。  
医者に話を聞きたかったんだ。  
医者は、莉子の鎖骨と上腕骨にヒビが入っていて、あちこち打ち身がひどくて、割れた花瓶で切った傷もたくさんあると言われた。  
暴力事件として、警察に連絡しなければいけない、とも。  
医者と別れて重い気分で談話室に行き、携帯の電源を入れる。  
執事と秘書から留守電が入っていた。  
メールを確認する。  
長尾。  
そういえば、昨日長尾を離れの前庭に放り出してそれっきりだっった。  
怒ってるかなと思ったのに、とことん人間のできている会社社長は、俺のことを気遣い、草野球の試合のことも気にしなくていい言う。  
莉子が入院していることを知らせたら、どうするだろう。  
一度しか面識のない親会社の社長の自宅のメイドなんかを見舞ったら、不自然だぞ。  
こんなときに、どんだけヤキモチ焼いてるんだよ、俺。黒こげだぞ。  
 
莉子は骨折部分の手術をして、半月ほどのリハビリの後に退院することになった。  
俺が毎晩、会社帰りに弁当を買って見舞ってやったから、戻ってからの人間関係というやつを死ぬほど気にしていたが、知ったことか。  
陽子さんは、眠ったままだ。  
俺はまた、土曜日ごとに高速を飛ばして陽子さんの病院へ行く。  
臨時教師の契約が切れて無職になったという桜庭美月が、ほとんど毎日のように見舞ってくれているという。  
遠いのに大変だからと言ったのに、桜庭美月は通ってくる。  
ピアノばっかりやってて友達も少なくて、それなのにピアニストにもなれなくて、そんな時に優しくしてくれた陽子さんに感謝しているのだそうだ。  
髪をとかしたり、リップクリームを塗ったり、俺が気づかないような細やかな世話をしてくれるのはありがたい。  
だけど、このままってわけにはいかないな。  
美月も、莉子も。  
 
莉子がいない間、俺はメイド長にきっぱり言われていた。  
どんな理由があるにしろ、奥さまが鶯原をお気に召さなかったことは事実です。  
そのストレスが奥さまにあのような行動をさせていたのであれば、鶯原に非はないとはいえ、お屋敷から出すべきでした。  
そうしていれば、奥さまの心が限界に達して、再び眠りに逃げてしまうことはなかったかもしれません。  
鶯原が、ケガをすることも。  
いちいちもっともに思える言葉が、ぐっさりと突き刺さる。  
陽子さんが倒れたのは、俺が莉子をクビにしなかったからなのか。  
だけど、そんなことできたんだろうか。  
 
次の日曜日、気分を引き立てましょうと長尾に言われるままに、草野球の練習に顔を出した。  
そんな気分じゃなかったけど、執事も気分転換をすすめるし、断りきれないというのが本当のところだった。  
チームメイトと顔を合わせると、パーティで会ったことのある陽子さんの体調が悪いとだけ聞いていて、みんなが心配してくれるのも、申し訳ないけどうっとうしい。  
それでも、走りこんだり、柔軟したり、守備練習をしていると、確かに気がまぎれるようだった。  
長尾も詳しい事情も聞かないで、いつもどおりに俺に接してくれるし、サザンクロスデリバリー今月のメニュー表までくれた。  
ちくしょう、かなわないじゃねえか。  
練習試合の送迎で迷惑をかけたお詫びに、休憩の飲み物は俺が差し入れた。  
「えーと、高階…くん」  
ペットボトルを抱えて遠慮がちに近づいてきたのは、俺と同じ頃にチームに加わったメンバー。  
一通り、差し入れのお礼を言われたり、こっちが謝ったり、陽子さんを心配したりしてから、そいつは言った。  
「妹は、ご迷惑じゃないのかな」  
一瞬、莉子に兄貴がいたのかと思った。  
俺が目を丸くすると、そいつはちょっと笑った。  
「お姉さんが欲しかったとか言って、本人は本当に好きで行ってるみたいなんだけどね」  
えーと、今、俺の目の前にいるこいつ、名前は。  
「…桜庭くん」  
「うん?」  
桜庭美月さんって、キミの妹だったの?  
間抜けなことを、言ってしまった。  
陽子さんは美月のことを、あの日のパーティで会ったお嬢さんだと言った。  
あの日来ていたのは、チームメンバーの家族や知人たちだから、美月の関係者がチームにいるのは当たり前なんだ。  
俺は、どこまで頭の回らない甘ったれたお坊ちゃんなんだろう。  
桜庭は笑いながら、自己紹介した。  
カラオケやゲームの施設を全国にチェーン展開する会社で働いているという。  
まさかな、と思いながら言ってみた。  
で、社長の息子なんだ?  
「まあね」  
飲みかけていたスポーツドリンクを噴出すかと思った。  
ちくしょう、育ちのいいお坊ちゃんはジャージのポケットにタオルハンカチを常備して、隣りで飲み物をこぼしたヤツにさっと差し出したりするもんなのかよ。  
練習を再開しようと長尾が声をかけ、俺も桜庭も皆と一緒に腰を上げる。  
「本当に迷惑だったら、すぐ止めさせるから。よろしく、お義兄さん」  
それ、冗談なんだろうな。  
俺は、慌てて帽子を被ってグラウンドに飛び出した。  
美月が陽子さんに付き添ってくれるのはありがたいけど、それとこれはぜんっぜん違う話だから。  
え、それとも違わないのか。  
俺が知らない間に、そんなことになってるのか。  
問いただしたくても、陽子さんは眠っている。  
なにがなんだか、わけがわからない。  
……疲れた。  
俺は、つくづくお坊ちゃん育ちで苦労に慣れてないと思い知らされた。  
 
だけど俺は、ちょっとだけほっとしていた。  
陽子さんが眠ってしまったのは心配なことだけど、これで莉子は安心して俺のそばにいられるって。  
今までどおり、甘えたり弁当食ったりピアノ弾いたり、あんなことしたりこんなことしたり。  
問題は、なにひとつ解決してないっていうのに、面倒なことを見ないふりをしていた。  
莉子の退院の日、仕事を抜け出して病院へ行った俺は、気難しい顔をしたメイド長の目をかいくぐって莉子を離れに連れて来た。  
俺の部屋で、しばらく静養させるつもりだった。  
「でも、人間関係が…」  
もういいだろ、それ。もう屋敷中が知ってるぞ、俺と莉子のこと。  
「まあっ、そんな」  
照れたフリで嬉しそうに俺に絡まるな。  
嬉しいけど。  
メイド長に、怒られるだろうな。  
あ、早く会社に帰らないと秘書のオバサンにも怒られる。  
次の会議って、なんだったか。  
草野球のスケジュールはメールで来てて……、まあそれはいいか。  
なんか、忙しい。かったるい。めんどくさい。  
 
莉子を休ませて、会社へ戻ろうとしたところで母屋の車寄せに黄色い車が止まっているのに気づいた。  
美月のワーゲンだ。  
足を止めると、ドアが開いて紙袋を抱えた美月が降りてきて、俺に気づいた。  
軽く頭を下げると、小走りに駆け寄ってくる。  
地味な色のひざ丈スカートに、明るい色のアンサンブル、かかとの低い靴。  
落ち着いた組み合わせだけど、生地と縫製は上質な感じがする。  
小学校の非常勤講師を辞めてから、ずっと無職のまま陽子さんの面倒を見てくれるのは申し訳ないと思っていたけど、社長の息子の妹ってことは、美月自身にも無理に働く必要はないってことなのかな。  
桜庭のヤツ、俺のことをふざけてお義兄さんとか言いやがって。  
「陽子さんの着替えを、あの」  
「あ、いつもすみません」  
お礼を言うのがモゴモゴした。  
美月は上品ににっこりして腰をかがめると、紙袋を抱えて母屋の裏口から入っていった。  
あれ、もしかして桜庭美月って、俺のこと?  
確かに、桜庭美月なら陽子さんの世話も慣れてるし、陽子さんが目を覚ましても仲良くできるし、社長夫人たちとのお付き合いも上手だし、それなりの資産家の娘で、ピアノの教養があって、音楽の話も合って、美人だ。  
タカシナの社長夫人として、ふさわしい。  
誰も反対なんかしない。  
陽子さんも、執事も、メイド長も、……みんな。  
美月だったら、今みたいにいろんなことに気を回さなくてすんで、もっとのんびり暮らせるかもしれない。  
 
 
あれ、俺、なに考えてる?  
 
莉子のイビキが聞こえた気がした。  
 
――――了――――  
 

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