午後五時のアラームで、デスクのパソコンの電源を落とした。
なにか言いたげな秘書や部下の視線を無視して、ビル最上階の社長室を出る。
どうせ、父親の急死でいきなり社長の椅子に座ったような俺がいようがいまいが、重役たちが勝手に会社の業績をのばしてくれる。
地下駐車場へ降りるエレベーターに、追いついた秘書が飛び乗ってきた。
「社長、雑誌の取材はいかがなさいますか」
俺は黙って首を横に振った。
以前受けた経済誌の取材では、真面目に相手をしたのに雑誌になったときには『天才ピアニスト高階那智、タカシナグループ社長へ華麗なる転身』とかいうふざけた記事に華麗なる転身をしていた。
以来、俺は表に出るのをやめた。
ネクタイを外し、上着を脱いで夕暮れの混みあうデパートへ向かう。
地下食品売場でオバチャンを押しのけて松坂牛ステーキ弁当とデニッシュパンを買った。
その袋を車の助手席に放り込んで、まっすぐ自宅に帰る。
今日も、瑣末なこと意外はいつもとほとんどかわらない。
我ながらつまらない生活だ。
裏門から車を入れ、でかい母屋の隣にある小さい建物の前に停めた。
子供の頃、神童とうたわれた俺がピアノの練習に集中するためにと、親父が建てたものだ。
それ以来、家中をいつもうろついている大勢の使用人にまとわりつかれるのがうっとおしくて、もっぱらこっちで寝起きしている。
ドアを開けると、奥から半白髪で半ハゲの執事が出てきた。
「おかえりなさいませ、社長」
俺は黙って頷いて、自分の部屋に向かう。
執事を追い抜くときに、ちらっと見慣れない女がいるのが目に入った。
着ているのはメイドの制服だから、先週辞めていったメイドの代わりだろう。
三部屋続きの自分の部屋へ入り、買ってきた弁当をソファ前のテーブルに投げ出す。
上着とネクタイを車の中に忘れてきたが、執事が車をガレージに入れるときに気づくだろう。
リモコンを取り上げて、100インチのテレビの電源を入れる。
続きのアクションゲームをやろうかと思ったが、冷める前に弁当を食おうと思い直す。
食堂へ行けば母屋のコックが作ったうまい料理があるが、出て行ってテーブルにつき、ナプキンをかけ、ワインを選び、パンとスープから順に出されるものをちんたら時間をかけて食い、隣に立った執事や出てくるコックにうまいとか、まずいとか愛想を言うのがめんどうくさい。
ただでさえ、毎日オヤジたちに取り巻かれて過ごしているんだ。
家でくらい、一人でゆっくり過ごしたい。
それなのに、片手と口で割り箸を割ろうとしたときに誰かがドアをノックしやがった。
返事をしないでいると、ドアが開いてさっきちらっと見えたメイドが立っていた。
血管が透けそうなほど白い肌に、まだ幼さの残る顔つき、背だけ伸びてしまってバランスを取りきれていないような体型。
ひっつめた髪からまとめ切れなかった産毛のような短い毛が額の生え際でくるっと巻いている。
前のメイドはベテランでぎすぎすした女だったが、これはまた正反対のタイプを寄こしたものだ。
メイドはドアを背にして頭を下げた。
アニメやゲームだったら、ぴょこんという効果音が鳴りそうだった。
「ご挨拶させていただきます。本日からお世話させていただきます、鶯原莉子でございます」
めんどうなので返事をしないでいると、メイドはずかずかと部屋の中に入って俺の足元に散らかった弁当の入っていた袋や包み紙をぽいぽい拾う。
勝手にそんなことをされて少なからずむっとした俺は、片手でテレビのリモコンを取り上げてDVDの再生ボタンを押した。
「あああああああんっ!!」
デッキに入ったままのディスクが途中から再生され、大画面でニセモノのナース服をはだけたAV女優が大きな声を上げる。
赤面して耳でも覆うかと思ったら、メイドは聞こえていないかのようにゴミをゴミ箱に入れ、ドアの横でまたぴょこんと直立して待機の姿勢になった。
「あん、あん、ああん、きもちいいっ」
女優のセリフがうるさい。
俺はリモコンを上げてDVDの再生を止め、そのリモコンをメイドに向けて振った。
用はないからさっさと出ていけ、というつもりだった。
ところがタイミング悪くドアがノックされ、そっちを振り返ったメイドは俺を見ていなかった。
やってきたのは使用人のだれからしく、短く話をしてからメイドが俺を見た。
「社長、お約束したというお客様がお見えのようですが」
約束なんか誰ともしてないぞ。
「社長。お通しして、よろしいですか」
俺は返事をしなかった。
不機嫌な顔を見ればわかるはずだ。
メイドはムキになって繰り返す。
「こちらに、お通ししても、よろしい、ですか」
それが主人に対する口の利き方か。
見ると、両手を握り締めてちょっと顔を紅潮させているメイドと目が合った。
「……」
眉間に縦ジワを刻んでじろっと睨みつけてやる。
それをどう思ったのか、メイドはすました顔でドアを閉め、また直立不動に戻った。
なんだ、こいつ。
手を下から上に振って、出て行くように示しても気づかないようだ。
そのくせに、ちらちらと俺を見ている。
俺は存在を無視することにして、ガツガツと残りの弁当を食い、弁当で足りない分を別に買ってきたパンに食らいつく。
そこに突っ立っているならお茶の一杯も入れればいいのにと思ったが、メイドは棒のように突っ立ったままだ。
弁当の空容器をテーブルに放り出したところで、またドアが開いた。
せっかくの夜のくつろぎの時間を邪魔するのは、どこのどいつだよ。
「どぉおも、こんばんわぁ」
聞き覚えのある声に、俺はまたむっとした。
「太平出版の、山口ですぅ」
本当に通しやがった。
俺の表情さえ読めないとは、察しの悪いメイドが来たものだ。
こういうメイドは早めにいびり出してやるに限るが、来てしまった男は自分で追い返すしかないようだ。
「約束なんかした覚えはないぞ」
経済誌の編集者のわりに頭の弱そうな山口は、いやいやそんなとかなんとか言いながら勝手にソファに座る。
「それで、最近はいかがですか、社長」
ねちっこいしゃべり方が大嫌いな男だった。
「こないだのうちの記事が評判でしてね、なんせ世界的に有名な天才ピアニスト高階那智が突然の引退宣言、タカシナグループ社長就任ですから」
うるさい。
「音楽界も、ずいぶん引き止めたんでしょ?それでも高階ともなれば、二束のわらじってわけにもいかないですよねえ」
うるさい、うるさい。
「まだ24歳、神童とさわがれてイケメンで独身で人気ピアニストで、タカシナグループのお坊ちゃんで」
うるさい!
俺は脇においていたテレビのリモコンを取って、山口の真後ろの巨大画面で叫ぶ裸の女の映像を再生してやった。
その音量に驚いて振り返った山口が、実物の何倍も大きい乳房に慌てたように取材用のICレコーダーを取り落とした。
「い、いやあ、びっくりした。そうですよね、社長もまだ若いですから、えっへっへ」
腰を上げる様子のない山口を、俺は奥歯を噛み締めて最大級の眼力で睨みつける。
リモコンを投げつけてやろうと手を上げたところで、俺と山口の間に何かが立ちふさがった。
「お約束した、と、いうのは」
俺はとりあえず、振り上げた手を下ろす。
目の前に立ちはだかったメイドが、山口の落としたICレコーダーを拾ってカバンに押し込んでいた。
「……嘘、だったのでしょうか」
こちらからは、メイドの表情は見えない。
見えるのは、ただいつもの愛想笑いを顔に貼り付けたまま、落っこちそうなほど目を剥いた山口の恐怖の顔。
「お、おい……」
俺が言っても、メイドは振り返らない。
「でしたら、お引取りいただきませんと」
言葉だけは落ち着いた、無邪気ささえのぞく口調。
山口は血の気の引いた顔を何度も何度も縦に振って、ICレコーダーを押し込まれたカバンを抱えると転がるようにドアのほうに駆けて行った。
「また、またおじゃましまふはらへっ」
聞き取りにくいものの、かろうじてそれだけ言って出て行ったのは、編集者根性あっぱれというべきか。
いや、そんなことより。
「あ、ああ、あああん、ああっ」
DVDの女優が代わり映えのしない声を上げ続ける中、メイドは俺の食べた弁当の空を集めた。
「おい、お前」
腰を曲げて紙くずを集めていたメイドが、ぴょこんと背中を伸ばして振り向いた。
少し色素の薄い丸い目が下から俺を見上げる。
それから顎に白い指先を当ててひょいと眉を上げる。
「なるほど、社長のお客様には要注意、なのでございますね」
ゴミを脇に置き、背中を伸ばす。
その洞察力があるのに、俺の出て行け光線は気づかなかったのか。無視か。
「それと、わたくしは鶯原莉子と申します。そう申し上げましたが」
……う。
顔を近づけられて、思わずソファの背に背中を押し付けた。
きめの細かいつるんつるんのほっぺたが、至近距離にある。
「うぐいすはら、りこ、でございます」
そんなに接近して、二度も言わなくても。
俺が黙ったまま頷くと、メイド、いや鶯原莉子は、ソファの隙間から一冊の雑誌を拾い上げ、センターテーブルの真ん中にキッチリ揃えて置いた。
『御曹司ピアニスト、引退の本音と経営手腕』。
山口の野郎、俺の知らないところでもう一本記事を書いてたのか。
一年以上も前に撮ったらしいステージ写真が表紙を飾っていた。
―――半年前、親父と兄貴が乗った飛行機が不時着なんかしなければ。たった三人の死者の中に二人が含まれてさえいなければ。
俺はまだ、空港で待っているファンに手を振りながら世界中でピアノを弾いていたんだ。
「いらねえよ」
雑誌をテーブルに置いたまま、鶯原莉子が下がろうとしたので、俺は言った。
DVDの女がうるさい。
男優までが、おうおうと言い出した。
もうすぐフィニッシュなのだろう。
つまらないエロなら、せめてもっとまともなBGMを使えばいいのに。
莉子はゴミを持ったまま俺の視界から消えようとする。
「おい!」
雑誌を持っていけよ。
鶯原莉子が振り向いて、ひとさし指を顎に当てた。
「わたくしですか」
他に誰がいるんだよ。
「お前……いや、うぐいしゅ…」
噛んだ。
鶯原莉子が眉を上げた。
「うぐいすはりゃ…」
「はい」
鶯原莉子は返事をしたが、俺は自分の舌を噛み切ってやりたいような気分だった。
「莉子」
「はい」
ふん、名前で呼ばれても返事をするのか。
「そいつは今の男の忘れものだ。俺のじゃない」
「はい、かしこまりました」
お届けしましょう、とでも言うかと思ったら、莉子は雑誌を弁当のゴミを入れたビニール袋の中に押し込んだ。
俺の視線に気づいたのか、顔を向けてにこっとした。
笑うと幼なく見える。
こいつ、いくつなんだ?
「社長のお嫌いな人間は、クズでございますし」
「……」
「その忘れ物など、ゴミでしかございませんし」
……まあ、取りにもこないだろうけど。
莉子はビニール袋を縛ると、それがクセなのか、またひとさし指を顎に当てて眉を上げた。
「次にあやつが参りましたら、半月ほど立ち上がれないようにいたしましょう」
いや、それ、やりすぎ。
「おま、莉子、なんかできるのか」
莉子は細い眉を上げた。
目が丸くなった。
「わたくしはメイドでございます。お屋敷内で社長になにかありましたときのため、一通りのことは」
……怖えよ、なんだよ一通りって。
だいたい、家にいてなにがあるっていうんだ、物騒じゃないか。
俺が呆然と見ていると、莉子は手を止めて俺の顔を見た。
なんだよ。
「あの」
ぎくっとする。
なんで俺がメイド相手にビクビクしてるんだ。
「お忘れ、で、ございましょうか」
莉子の顔と、その手が持っている雑誌を交互に見比べて、俺は頷いた。
「だから、忘れ物だと言ってる」
「そう、でございます、ね」
バカなのか、こいつは。
「おおおおおおおっ」
テレビ画面で、男優が吠えた。
「いっちゃううううううっ」
合わせて、女優も叫ぶ。
莉子がゴミを片付けて、またドアの横に待機した。
気のせいか、不機嫌そうにむくれている。
なんか、このメイドは今までと違うぞ。
執事か秘書の陰謀か?
何だって俺はさっきからこいつが何か言ったりしたりするたびにぶつぶつと独り言を言っているんだ?
DVDが終わって静かになった部屋で、気配を消したように立っている莉子をちらっと見る。
さっき立ったところを見ると、長身の俺のあごくらいまでは背がある。
肩幅は狭いから、骨格は華奢だろう。
しかし、山口があれほどおびえたのは尋常じゃない。
「用はないぞ」
手を振ってもあごをしゃくっても、気づかないようにそこに立っているので、仕方なく言葉で言う。
「はい」
返事をして、そのままそこにいる。わかってないじゃないか。
「用がないんだからそこにいるなって言ってるんだよ」
莉子がぴょんと一歩前に出た。
「あ、お休みになるんですか」
俺は小学生か。何時だと思っている。
「寝ねえよ」
なんでメイドふぜいに俺がこんなに口をきいてやらなきゃならないんだ。
「そうですか」
そう言うと、また石像のように固まる。
うっとおしい。
リモコンを向けて、くだらないバラエティ番組に合わせる。
半年もすれば地方の営業だけが仕事になり、一年もたてば事務所で電話番でもしてそうな芸人が騒いでいる。
「だったらそのへん片付けてろよ」
視界に入るのが気になるので、そう言ってやった。
……返事もしない。
「おい!聞こえてるだろう」
莉子がわざとらしくきょとんとする。
「……わたくしでございますか」
「他に誰がいるんだよ!」
だんだん声が大きくなる。
なんで、こんなに体力も気力も使わなきゃいけないんだ。
自分の部屋という、この上なくくつろげる孤独の楽園にいるのに。
「うぐいすはら、りこ、でございます」
うんざりだ。
俺は片手で莉子の言葉を遮った。
「わかった。莉子。奥の部屋が散らかっているから、片付けろ」
莉子は満足そうに口角を上げた。
「かしこまりました」
返事をして、続き部屋になっている奥へ行く。
俺の部屋はこのリビングと、奥のプライベートルーム、その奥の寝室が三つつながっている。
その真ん中の部屋へ莉子が入っていってから、俺ははっとしてソファから立ち上がった。
「おい、お……、莉子!」
莉子がまるでそこで立ち止まっていたかのようにすぐに戻ってきた。
「社長」
俺が何か言う前に、莉子が部屋の中を指差した。
「大きなピアノが、ございます」
……なにを、驚いているんだ。
プライベートルームは、俺のレッスン室だったのだ。
一流といわれる世界のピアニストたちも愛用しているメーカーのグランドピアノが置いてある。
もう用がないものだが、素人に興味本位で触られるのは許せない。
触るな、と注意しようとしていたのに、拍子抜けした。
「今もこれは、お弾きになるのでございますか」
なに?
「いや、もう、弾かない……が、さ、触るな」
「かしこまりました」
莉子はそう答えて、また奥へ消えた。
なんだ、あいつは。
自分が働く屋敷の主人が、半年前までそこそこ名の知られたピアニストだったことを知らないわけはない。
ポップスやロックのアーティストほど知名度はないかもしれないが、サッカーのルールを知らなくても一番有名な選手の名前くらい知っているだろうし、選挙に行かなくても首相の顔くらい知っているものだろう。
だとしても、何のための確認なんだよ。
ハゲ執事はどんな基準でメイドを採用しているんだ。
どっと疲れた。
俺はぐったりとソファに座り込んで、しばらくくだらないテレビを見た。
サインしてあげましょうかと言ったら、あなたどなたと言われたような気分だ。
今はもう存在しない、ピアニスト高階那智のプライドがくしゅんと縮んだ。
まあ、莉子にとって俺がタカシナの社長であれば、それでいいんだろうが。
テレビの内容がちっとも頭に入らず、しかたなく風呂にでも入るかと奥の部屋の方を見た。
何をしているのか、莉子はこっちに来ない。
テレビを消して耳を澄ますと、ばさばさと紙の音がした。
まさか、楽譜か。
奥の部屋の壁一面の書架には貴重な楽譜や本、写真集がぎっしり並んでいる。
もう用はないとはいえ、楽譜は演奏家の宝だ。
俺はソファから身体を起こして、奥の部屋へ飛び込んだ。
「おい、いや、莉子。なにをしてる」
莉子がテーブルに広げている雑誌の束を見て、俺は別の意味で慌てた。
発売日順に並べなおされているのは、俺が中学時代からこっそり買い集めていたエロ雑誌。
そういえば、本棚の下段はかなり乱雑になっていて、その中にいらない本も突っ込んであった。
片付けろといわれれば真っ先に手をつけたくなる場所かもしれない。
「あ、いや、それはいい、もういらない」
莉子は古い雑誌をぱらぱらとめくった。
唇がちょっと突き出される。
「さようでございますね。もうずいぶん、使い込んだようでございますし、新しいものにしたほうが」
雑誌のページはゆがんだまま硬くなっていて、ところどころページがくっついている。
その通り、ずいぶんお世話になった……いや、そういう問題ではない。
このメイドは、なんだ。
メイドというものは、主人の機嫌を取りながら命令に従ってかいがいしく世話を焼くものじゃないのか。
少なくとも、今までのメイドはそうだった。
俺は莉子が手にした雑誌を取り上げて、テーブルに叩き付けた。
両手を雑誌を持つ形で空中に掲げた莉子が、俺を見る。
じっと見つめられると、どぎまぎした。
「おま、莉子がどう思っているか知らないが、俺はこの家の主人だ。タカシナの社長だ。使用人は使用人らしくしろ!」
今まで何人もの若いメイドを辞めさせた、ドスを効かせた声で言う。
さあ、泣け。
泣いて部屋を飛び出して、そのまま荷物をまとめて出て行ってしまえ。
莉子は空になった手の平をそっと上下に合わせると、そのまま軽く組み合わせる。
すい、と足を出して俺との間合いを詰める。
な、なんだ。
莉子は唇をとがらせて、ぷいっと横を向く。
「かしこまりました」
……疲れる。
こいつはさっさと部屋から追い出すに限る。
「寝る」
吐き捨てるように言うと、莉子は笑顔のまま答えた。
「では、お風呂をお支度いたします」
「いらない。シャワーでいい」
続き部屋の一番奥は、洗面所とバスがついた寝室になっている。
そっちへ足を向けながら俺は莉子の目の前で手を下から上に振った。
さあ、今度こそお役ごめんだ。出て行け。
「ご一緒いたします」
俺の耳はどうかしたのか。
絶対音感にこそ恵まれなかったが、そこそこの相対音感くらいは身についている。
いや、そうでなくてもこんな近くでこんなにはっきり言われた言葉をどう聞き間違うのか。
「なに?」
俺が足を止めたので、莉子は危なく俺の背中にぶつかりそうになる。
「どうかなさいましたか」
それはこっちが言いたい。
莉子は俺の前に立って寝室のドアを開ける。
「どうぞ」
やはり、聞き間違えたか。
半年のブランクですっかり動かなくなった自分の指に目を落とし、聴覚も鈍るのかと思う。
俺はベッドに腰掛けて、莉子がバスルームに入ってシャワーの温度を確かめ、俺の着替えを用意するのをボンヤリと見ていた。
莉子が部屋に戻って来るのを待って、立ち上がってシャツを脱ぎかける。
「……おい。…莉子」
「はい」
莉子は俺の横に立って脱いだシャツを受け取ろうとするような仕草を見せた。
「なにやってるんだ」
「はい」
「もういいから、下がれ」
ボタンを外したシャツを、莉子がはぎとるように脱がせた。
「シャワーは明日の朝になさいますか」
なにを言ってる。
「いや、今から」
「はい」
わけがわからない。
だから出て行け、と言おうと息を吸ったとき、莉子がにこっとした。
「ご一緒いたします」
やはり、聞き間違えではなかった。
だとしても、意味がわからない。
「なんだっ、て?」
シャツを手の中で簡単にたたんで、莉子はひとさし指を顎に当てた。
「シャワー、ご一緒いたします」
俺は、さもまぬけた顔をしていたに違いない。
「……なんで?」
聞かれたことが不思議だとでもいうように、莉子は俺を見上げる。
「はい?」
混乱してきた。
「……意味わからない。シャワーは一人で浴びる」
莉子は素直に頷く。
「かしこまりました。ではお後に頂戴いたします」
……俺の耳は、いったいどうなったんだ。
なんで、メイドが俺の部屋のシャワーを使うんだ。
「他の部屋にもシャワーぐらいあるだろう」
いらっとしながら言って、ベルトの金具に手をかける。
さっさと出て行かないと、脱ぐぞ。
「ですが、お添い寝いたしますのに」
……耳、俺の耳、しっかりしろ。
莉子が睫毛の長い目をしばたく。
「……お添い寝も、いたしませんか」
メイドの添い寝。
俺は幼稚園児か?
改めて、莉子を上から下まで観察する。
薄化粧の白い顔は、細い眉とくっきりした丸い目、ちょっと反り返り気味の鼻、小さなぷるっとした唇。
細い首と華奢な肩、すらっと長い腕。
悪くはない。
俺は無意識にごくっと喉を鳴らした。
制服に隠れた胸や腰、尻や脚はどうなっているんだろう。
シャワーの後で、どんなふうに添い寝するつもりなんだ。
それはその、つまり。
莉子がうふっと笑った気がした。
「どうぞ」
シャツを置いて、代わりに取り上げたバスタオルを俺に渡した。
それ以上の問答をあきらめて、俺は黙ってバスルームに向かう。
熱いシャワーを浴びながら、考えまいと思っても俺の頭は勝手に莉子を裸にする。
気にいらない、ナマイキなメイド。
口調はていねいだが俺の言うことなど全く聞こうとしない。
にこっと笑って見せながら、時々俺をバカにしたような目をするのは気のせいか。
言うことを聞かず、得体の知れない『ひととおり』のことを身につけた女。
それなのに、頭の中で一糸まとわぬ姿になった莉子を妄想して、俺の血液が下半身に集まる。
やばい。
シャワーを冷水にして、俺は思考から莉子を追い払う。
なんとか落ち着かせてバスルームを出、体を拭いて置いてあるパジャマを着た。
俺が部屋に戻ると、莉子がいそいそとタオルを抱えてバスルームに向かっていく。
こいつ、ほんとうに主人の部屋のシャワーを使うのか。
お湯の音が長く続き、俺は部屋の明かりを消してベッドに入った。
目をつぶっても、眠くはならない。
お湯の音が止まり、しばらくしてドライヤーの音が聞こえてくる。
それも止まってから、人が暗い部屋の中をそうっと近づいてくる気配がした。
なんで、自分の部屋の自分のベッドに横になって、こんなにドキドキしなければならないんだ。
掛け布団がそっと持ち上げられる。
マジかよ。
「……お添い寝、いたします」
うっ。
俺の背中に、なにか暖かくて柔らかいものが触れる。
びくっとして身体を離そうとすると、細い腕が胸に巻きついてきた。
「……おい」
言ったつもりが、喉と口の中が乾いて声になっていない。
「おい」
もう一度、言う。
「はい」
首筋に息がかかる。
「くっつくんじゃねえよ、暑苦しい」
返事の変わりに、暖かな脚が絡みついてくる。
跳ね回っている心臓の鼓動が、莉子にバレやしないだろうか。
「お添い寝は、こうでございます。決まりをご存知ありませんか?」
決まりも何も、添い寝そのものがわからない。
まさか、『朝飯』と同じくらい『お添い寝』が世間では認知されている風習なのか?
知らない、と言うとバカにされるような気がして、俺は黙った。
うふふっと、また莉子の息が吹きかけられた。
「嘘でございます」
なんだと。
言い返す前に、莉子が俺を後ろからそうっと抱きしめた。
「でも、お約束でございますから」
意味がわからない。
ただ、莉子に抱きつかれて自分の体のそこが熱くなるのはわかる。
俺は莉子の体温を全身で感じながら、なるべく別のことを考えようと必死になる。
もしかして、メイドに後ろから抱きつかれたくらいで眠れないなどと思われてはいないか。
俺は莉子が後ろから身体を押し付けてくるのに耐えながら、眠ったふりをした。
まさか、朝までこうしているのか。
莉子に気づかれないように、そっと自分の股間を押さえる。
おとなしく、おとなしくしとけよ。
同じシャンプーを使ったはずなのに、莉子から甘い匂いがする。
背中に触れるだけなのに、この柔らかさはなんだ。
女って、こんなに柔らかくていい匂いのする生き物なのか。
もぞもぞと動いて離れようとすると、莉子が鼻を鳴らした。
「あん」
なにがあん、だ。
「しゃちょぉ……」
はふん、と俺のうなじに息を吹きかける。
「わたくし、もう、眠いです……」
体を摺り寄せて、莉子はうふ、うふ、と笑った。
「お添い寝、楽しい、ですね…」
言い終わるか終わらないかで、すうすうと莉子が寝息をたてはじめる。
なんだろう、人の体温をこんなふうに感じるのはひどく久しぶりだな、などと考える。
俺を生んだ人は、覚えていないほど早く死んでしまった。
天才少年ともてはやされて、世話係のメイドも使用人も、俺を腫れ物に触るかのように扱っていたから、誰かに抱かれたり頭をなでられたりした記憶はない。
そうか、人ってあったかいんだ。
むしろ、暑い。ひっつきすぎだ。
莉子のヤツ、俺をナメてるのか、よほどの経験があるのか、……天然か。
ちくしょう、振り向いて触りたい。
しかし、そんなことをして莉子が目を覚ましたら、どうする。
それを力づくで思い通りにする自信は……ない。
子どものころからお坊ちゃんで神童でちやほやされ続けた俺は、ずっと大人に囲まれてやれテレビだコンサートだ海外だといそがしく、ろくに友だちを作って遊ぶ暇もなかった。
つまり、俺は彼女いない歴イコール年齢で、……女を、知らない。
モテ過ぎて困るでしょうと言われて、そんなふりをしているが実際はそうなのだ。
そして今、薄い下着一枚で後ろから女に抱きつかれて、手も出せずにいる。
やばい。ほんとに、やばい。
誰か、このメイドを、今の俺をなんとかしてくれ。
その夜、俺は時々寝返りをうったり絡みついてきたりする莉子をもてあまして、朝まで悶々として眠れなかったのだった。
――――了――――