『メイド・カンナ 後編』
「あ、しまった」
金曜の夜、部屋で本を読んでいた優介さまがふいに呟いた。
用がないなら部屋に帰らせてもらって、テレビでも見ながら缶チューハイでも飲んで、と考えていた私は反射的に聞き返す。
「なんですか」
「うーん、明日の朝、早いんだよ」
だったらさっさと寝ればいいじゃないですか、私も部屋に帰ってテレビでも見たいし。
くるっと椅子を回して、優介さまは私に向き合う。
「浦沢さん、帰っちゃったよね」
とっくに。
浦沢さんは通いの台所担当だから、夕食の仕度が終われば帰ってしまう。
こんな時間に家にいるのは、ご家族の他は、住み込みの私と夜勤のおじさんくらいだ。
「おなかすいたんですか」
私が夜食用に部屋に隠しているカップラーメンを持ってきてあげてもいいけど。
「いや、明日、チームの練習場所が遠いんだよ。おにぎりでも作っておいてもらおうと思ってたんだ」
チームといっても、趣味で社長の息子とかその会社の社員とかが集まった草野球。
優介さまは、練習に行く途中にでも車の中でおにぎりを食べるつもりだったらしい。
「じゃ、私が用意しましょうか」
「カンナが?」
疑わしそうな目で私を見る。
私だって、おにぎりくらい作れる。
「でも、早いよ?」
これでもメイド稼業だから、目覚ましをかけておけば、起きれる。
「じゃあ、お願いしようかな。コンビニのおにぎりとか嫌なんだよ、仕事みたいで」
タカシナフーズのお弁当会社社長はそんなことを言う。
「じゃあ、お米研いできます。用がなければそのまま部屋いきますけど」
そうだね、と言ってから、優介さまは思い出したように私を手招きする。
「カンナも、行く?」
「え!いいんですか」
大きな声を出してしまった。
「うちのチーム、女の子の応援とか見学が流行ってるみたいで、けっこうみんな彼女とか連れてきてるから大丈夫だよ」
彼女。
私が、優介さまの彼女みたいに、野球の練習を見に行ってもいいと言ってくれてるんだろうか。
「……連れて行く彼女がいなくて、肩身が狭いとか」
ついつい、意地悪なことを言うと、おでこをぺしっと叩かれた。
「おにぎり、二人分ね。かわいいカッコしといでね」
それからまた何か言い返したような気がしたけど、覚えてない。
気がついたら、ふわふわした気分で台所でお米を研いでいた。
それから部屋に戻って、テレビも缶チューハイもそっちのけでクローゼットを開ける。
メイドの制服とパジャマの他は、全部優介さまに買ってもらった服だ。
ちょっと不機嫌そうな顔をしていたり、無口だったりすると、優介さまは私になにか欲しい物があるのと聞く。
すっごい単純思考。
私の全部が物欲で出来てるみたいで嫌だけど、優介さまのシャツについている口紅や香水の匂いのせいだとも言えないし、仕事が忙しいのに、休みといえばジムだの野球だのタカシナの社長と出かけるだのと出歩いて、ちっとも構ってくれないからだとも言えない。
だから、服が欲しいとか靴が欲しいとか言ってしまうし、言えばうんいいよ買っておいでと言ってくれる。
そんなわけで、私の部屋には着ていく場所も、持っていく場所もない服やバッグや靴が山ほどある。
優介さまがカノジョと別れてから1年以上たつし、新しい人ができた様子もない。
それがわかるのは、頻繁にお呼びがかかるからで、その度に優介さまは代価を払うように私になにが欲しいのと聞く。
おかげさまで、私のクローゼットはこのところ急激にふくれあがったわけだ。
何枚もの服を引っ張り出して、私はうーんと悩む。
野球の練習を見に行くのに、あんまり派手なカッコもおかしいし、ジーンズにTシャツというのもそっけない。
他のチームメイトの彼女たちに負けないくらいかわいくて、その場に合っていて、もし、もし練習の後で優介さまがゴハンでも食べて帰ろうかって言ってくれたら、万一のそんな時にもお店に入れるくらいの服。
クローゼットの中を確かめて、シャワーを浴びて全身を隅々まで洗って、髪もトリートメントしながら何を着るかずっと考えた。
部屋でパックしながら、ベッドの上に服を並べてコーディネートを悩む。
ああ、早く寝ないとお肌によくないし、万々一にも寝坊なんかしたらおおごとだし。
数パターンのコーディネートをハンガーに吊るして、私はベッドの中で早く眠ろうと必死で羊を数えた。
「おっ、かわいいね」
翌朝、鮭と梅のおにぎりを作って、卵焼きとウインナーとサラダを詰めたお弁当箱を入れたカゴバッグを抱えて、駐車場に行くと、ワゴン車に野球の道具を積み込んでいた優介さまが振り向いてそう言った。
こちらはスニーカーにトレーニングパンツにTシャツだ。
どうせユニフォームに着替えるんだったら、もう少し小ぎれいな服装をすればいいのにとがっかりした。
これじゃ、練習のあとに寄り道どころじゃなさそうだ。
私はこんなに考えに考えて、おしゃれをしてきたのに。
「それ、こないだ買った服?」
車に乗ってから、優介さまが聞く。
一応、買ってもらったときはどこどこでこれとこれを買いましたと見せて、請求書を渡すけど、ちらっと見ていいねとか可愛いねとか似合うんじゃないと言うだけだから、覚えていてくれると思わなかった。
「そうです」
「そのバッグもサンダルも、見覚えがある」
「……そうです」
もっと言えば、バッグの中のお財布もハンカチもポーチも、足の爪を赤くしているペディキュアも、イヤリングも。
優介さまが、ニヤニヤする。
「いつの間にか、ずいぶんたかられてるなあ」
私も、合計金額を計算するのがこわい。
「その数だけ、してるってことか」
朝っぱらから、なに言ってる。
私は聞こえないフリして、カゴバッグからおにぎりの包みとおかずのお弁当箱を出した。
「鮭と梅干ですけど」
「梅干」
車が高速に入って、片手を出した優介さまに梅干のおにぎりを渡す。
梅干は別宅の大奥さまが漬けたもので、優介さまの好物。
私も今度の梅干作りは手伝いに行こうかな、男を捕まえるにはまず胃袋からって言うし。
「おー、けっこう上手に作れるね。形」
「そうですか」
「味は、うん、うみゃい」
良かった。嬉しい。
「卵焼きとかあるんですけど」
運転中には無理かな、と思ったら、前を見たままアーンと口を開けた。
フォークで刺した卵焼きを口に入れる。
なんか、くすぐったくって恥ずかしい
「甘い卵焼きだね」
いつも浦沢さんの作る卵焼きが砂糖味だから、合わせたんだけど、おいしくなかったんだろうか。
「今度、朝ごはんに卵焼き出す時はカンナが焼いてくれないかなあ」
どうしよう、胸がきゅんきゅんする。
朝ごはんは、前の日に浦沢さんが下ごしらえをしてくれて、私が温めたり味噌汁に味噌を溶かしたりして仕上げる。
卵焼きも、前の日に焼いてある。
「あ、朝はカンナも忙しいか」
私がきゅんきゅんしすぎて返事を忘れていたら、優介さまがおにぎりを食べながら遠慮がちにつけ加えた。
「いいですよ、卵焼きくらいなら」
前の道路を見つめる優介さまの横顔が、くしゃっと笑った。
「やったー」
子どもみたいな言い方に、私はまたきゅんきゅんした。
優介さまの胃袋を捕まえたい。
草野球の練習そのものは、見ててもちっとも面白くなかったけど、キャッチボールして笑ったり、ノックで皆を走らせたりしてる優介さまはカッコよかった。
芝生のベンチに何人か女の人がいて、みんなもう顔見知りみたいで一緒にグラウンドを指差したりして笑い合っている。
私が少し離れていると声をかけてくれて、輪に入れた。
さすが、優介さまのチームメイトがお付き合いするような人らしく、上品ながら流行を取り入れた上質のファッションが目につく。
自分が見劣りするんじゃないかと、心配になった。
みんな、どぎついロゴなんかどこにも入ってないけど、高い洋服なんだろうなと思いながらベンチの端っこに座ると、隣りの女の人がにこっと微笑みかけてくれる。
ひとつ向こうにいる人は、ちょっとくだけた話し方をするから、社長の息子のとりまきみたいな社員の彼女なのかもしれないなんて、勝手に考える。
その平社員の彼女風な人が、私の隣をカラオケやイベント主催で有名な大企業の社長令嬢だと紹介してくれた。
「兄がいるんです、今、長尾さんからグローブで叩かれて」
笑いながらグラウンドを指さす。
見ると、じゃれあうように優介さまと何人かの男の人が固まっていた。
「でもね、美月さんの本命は、お兄さまの応援じゃないんですよねー」
平社員の彼女がからかうように言って、娯楽産業の社長令嬢はやだ、そんな、もう、と照れた。
「でも、今日はお休みなんですねー」
残念そうに平社員の彼女が言って、社長令嬢は困ったように微笑んだ。
あなたはどなたの?と聞くから、私は慌てた。
「あ、いえ、私、長尾の家の者なんです。あの、お身の回りの」
「あら」
平社員の彼女が細い眉を上げた。
使用人ふぜいが、とか、場違いな人ね、とか言われるんじゃないかと思って、肩を縮めた私に、彼女は言った。
「長尾さんのお家の人なんだ、彼、カッコいいですよねーなんて。付き合っちゃえばいいのに」
さすがに令嬢はそんなことは言わず、静かに微笑んでいる。
私も笑いながら、なんだか練習の間が楽しくなりそうだと思った。
練習の後、帰り道のサウナでさっとシャワーを浴びるからと言って私をカフェで下ろした優介さまが、30分くらいで戻ってきた。
「なんか、盛り上がってたね」
声をかけられて顔を上げると、朝とは違った服装の優介さまが私を見下ろしていた。
白いシャツの袖をまくって、細身のパンツにインしているのがスタイルの良さをくっきり見せている。
胸板が厚くて、袖から出ている腕とかすごく筋肉質なのに、お尻が小さくて脚が長い。
無造作に下ろしている髪が額にかかって、その下の目元が優しげに笑っている。
隣りのテーブルの二人連れの女の子とか、ものすごく見ていた。
シンプルなデザインなのに、パターンとか生地とかがいいせいか、それとも優介さまのスタイルがいいせいか、ぱっと人目を引く。
「み、みなさん気さくで、優しくしてもらいましたよ。あ、なんか飲みますか」
とっくに空になったアイスココアのグラスをストローでかき回して、私はまっ赤になってあたふたした。
いや、もう、なんていうか、すっごいカッコいい。
まともに見られない。
普段は家でダラダラしてるか、会社で青年社長してるかしか見たことないから、こういう家の外のカジュアルな優介さんを見たのは久しぶりだった。
「いや、どっかで昼を食べようよ。出れる?」
慌ててバッグを引き寄せて立ち上がる。
優介さまったら、ちょっとふざけながらまるでレディにするみたいに手をとってくれた。
ほんとに食事に誘われるなんて思ってなかったから、心臓が飛び回って胸の中に収まってくれない。
優介さまはさっと伝票を取り、会計してくるねと言う。
私は大急ぎでトイレに駆け込んで、リップを直して髪をチェックする。
その後はもう夢見心地で、食事もその後の公園の散歩もあんまり覚えていないくらいだった。
公園の池で名前のわからない小鳥の水浴びを眺めていた時なんか、腕とか組んじゃってた気がする。
信じられない。
帰りの車の中で、私は一日中、空を覆っていた薄い雲を見上げた。
「来週の試合は、晴れるといいですね」
「んー。じゃあその前に、カンナは帽子を買わないとね」
「……なんでですか」
信号で車を止めた優介さまが、私を見てニヤッとした。
「応援。来てくれないの」
きゅんきゅんで、死んでしまうかと思った。
帽子が欲しいと言ったら、じゃあ今夜ねって言ってくれるかもしれない。
でも、自分から取引を申し出るみたいで嫌だし、ほんとに帽子が欲しいだけだと思われたくないし。
それにもし、したいって思ってるのがバレたら恥ずかしい。
仕事なのかそれ以外のなにかなのか、次の週は月曜日からずっと優介さまは帰りが遅くて、私は一人でチリチリする胸を抱えていた。
木曜日になって、優介さまは夕食の後片付けが済んだころに帰ってきた。
「ゴハン、食べましたか」
「うん、ちょっと飲んできた」
誰と、と聞きたいのをガマンして、私は冷水用のポットからグラスに水を注いで差し出した。
水を飲み干した優介さまが、ふうと息をつく。
「カンナちゃんカンナちゃん、ちょっと」
「なんですか」
別に、誰が聞いているわけでもないのに、優介さまは私の耳元に口を近づけて小声で言った。
「これ、まだ誰も知らない話なんだけど」
「……なんですか」
「高階くん、タカシナの社長ね、結婚するんだって」
え。
あの、優介さまがかわいいと言っていたメイドのいる、タカシナの社長が。
「メ、メイドと?」
「まさか」
優介さまは肩をすくめる。
「そんなわけにいかないよ。ちょっとタカシナグループでゴタゴタがあってさ、手を貸してくれる会社の社長令嬢と縁談がまとまった」
……え。
「じゃあ、その、メイドはどうするんですか。その、かわいいメイド」
そう聞きながら、頭の隅っこでは優介さまが高階社長の家に招かれたのはずいぶん前だし、もしかしてとっくに心変わりしてるのかもしれないと思う。
そこなんだよ、とまた優介さまが身を乗り出す。
「ちゃんと、囲うつもりらしい」
ちゃんと、という言葉と、囲う、という言葉はつながるんだろうか。
「あれくらいの金持ちだと、メイドはメイドで遊びなのかと思ってたからね。高階くんは僕が思ってた以上にデキた男だよ。感動したね」
「……それって、メイドを妾にするってことですよね」
胸がチリチリして、焦げそうだ。
「まあ、彼がメイドに本気なのは知ってたんだよ。カマかけてみたし。それにしてもねえ」
高階社長は、結婚は金持ちのお嬢さんとするけど、そのお嬢さんのほかに愛人として世話をするってこと?
それって、結婚するお嬢さんにも、メイドにもひどい扱いに思える。
それなのに、優介さまは高階社長のことを誉めてるみたいに聞こえた。
「あれ、なに、カンナ。怒ってるの」
「別に。私には関係ないですから」
チリ、チリ。
「まあね、人んちのことだからね。ただほら、あのメイドもいずれ追い出されちゃうんだろうなって思ってたから」
そんな家、さっさと出て行って新しい男を探した方が絶対幸せになれるのに。
「その点、いい家柄じゃなくて良かったよね、うちは。カンナも安心でしょ」
なに言ってるんだかわからない。
私はプリプリしながら、優介さまが机に置いた空のグラスを取り上げた。
「さあ、知りませんよ」
優介さまはお風呂に入るらしく、ネクタイを外す。
クローゼットから着替えのパジャマとタオルを出すと、それを受け取りながらついでのように私の頬に触れた。
「なんで。いい男がいなかったら、うちにいればいいんだよ」
それは、どうも。
「そしたら、カンナは僕がもらってあげるよ」
「……は?」
ロケット台から飛び出すシャトルみたいに心臓が宇宙へ行ってしまうかと思った。
冗談にも、ほどがある。
「そうですね、ろ、ろうしても見つからなかったら、優介さまで、が、まん、してもいいれす」
言い返そうとしたら声が震えて、噛みまくった。
「やった」
タオルと着替えを抱えた優介さまが、私の肩に手を置いて身体を折った。
……キスされた。
「約束だからね」
ななななななんの約束?
呆然と立ち尽くす私を残して、優介さまはお風呂に行ってしまった。
もらってあげる、って言った?
カンナは、僕がもらってあげる?
それってもしかして、優介さまが私と結婚してもいいってこと?
嘘、そんなバカな。
そんな、まさか、嬉しい。
私は優介さまの脱いだ上着に顔を埋めて、思いっきり叫んだ。
お風呂上りの優介さまは、私が部屋にいるのを見て嬉しそうな顔をした。
「いてくれたんだ。怒ったかと思った」
「……なんでですか」
「冗談だと思われたんじゃないかなって心配になったんだよ」
あんまり、前の話を蒸し返したりしない優介さまには珍しく、さっきの話に触れる。
私が黙っていると、優介さまは机の上のノートパソコンを開いた。
「お風呂みんな入ったから、カンナも浴びておいで。お湯、足しといたよ」
「……はい」
チリッとした。
優介さまがなにを考えているのか、本気なのか冗談なのかわからなくなった。
「カンナ」
部屋を出ようとしたところで、呼び止められた。
「あー、さっきの話。本気で考えてみないか」
…………え。
「で、まあ、良ければ戻ってきなさい」
お風呂に入ったら、自分の部屋に行かないで、ここに戻りなさい。
それって、そういうお誘いなんだろうか。
頭の中を、野球観戦にぴったりのつば広の帽子が横切った。
「……いいですけど」
優介さまの顔を見ないで、ドアを閉めた。
チリチリときゅんきゅんが同時に来ると、苦しい。
肌が赤ムケになるんじゃないかと思うくらいゴシゴシ洗って、私は優介さまの部屋に戻った。
照れ隠しに、帽子買ってもいいですかと聞いてみた。
明日にでも買っておいで、といういつもの決まり文句は聞けなかった。
その代わり、優介さまはパソコンの電源を落として立ち上がると、私を抱きしめた。
ジムに行ったり、部屋で私を脚の上に座らせて腹筋したりしているせいで、筋肉のついた体は厚くて硬い。
「店ごと買ってあげるよ。カンナが結婚してくれたら」
また、気を失うかと思った。
「なんでですか、なんで急にそんなこと言うんですか」
「急に言ったけど、急に思ったわけじゃない」
わけのわからないことを言って、優介さまは私のおでこにキスをした。
「高階社長が結婚するのが、うらやましくなったんですか」
「……ちょっと違う」
優介さまはベッドに腰を下ろして、私を隣りに座らせた。
「こないだ、チームの練習を見に来てくれたろ」
「はい」
「メイドの制服じゃないカンナを、久しぶりに見た」
裸は見てるくせに。
「すごくかわいくて、びっくりしたよ」
そんな風には見えなかったけど。
「かわいいのは知ってたけど、あんなにかわいいと思わなかった」
「……それは、どうも」
「急に心配になったんだよ。今はカンナにカレシがいないけど、またできるかもしれないだろ」
……あんまり、いたことないんだけど、カレシ。
「もしかして、次のカレシがカンナと結婚しようと思ったらどうしようって思った」
「……考えすぎです」
「そしたらカンナはここを出て行ってしまって、他の男のものになる。他の男と暮らして、寝て、子どもを産む」
「……はあ」
「嫌だったんだ」
「……あの」
「それ、すごく嫌だと思った」
うつむき加減に、ぽつぽつとそう言うと、膝に置いた私の手に、自分の手を重ねる。
「だから、その前にちゃんと予約しておきたいんだけど」
人という生きものは、本当にきゅんきゅんで死んでしまうことがあるかもしれない。
私は両手で優介さまの手のひらをもてあそんだ。
優介さまは、黙って私に手を預けていた。
「カンナ」
しばらく手のひらや指を曲げたり伸ばしたり押したりしていると、優介さまがため息混じりに呼んだ。
「なんですか」
「……それ、ちょっと感じるんだけど」
私は慌てて優介さまの手を放り出し、優介さまはお腹を抱えて笑いながらベッドに倒れこんだ。
「カンナの手も貸して。ほんとに気持ちいいから、してあげる」
「や、嫌ですっ」
「いいからほら」
腕をつかんで引っ張られて、ベッドに転がる。
ベッドに斜めに横になったまま、優介さまは私の手をとった。
手を挟んで暖めて、ゆっくり揉み始める。
手のひらの真ん中から、親指の付け根の盛り上がったところや指の下、指を一本一本。
……確かに、気持ちいい。
うっとりしてくる。
こういうところ、優介さまは優しいなと思う。
気持ちいいからもっとして、じゃなくて、気持ちいいからしてあげる、と考えるところ。
「そっちの手も貸して」
その手は、唇を押し当てられた。
「して、いい?」
まあ、そのつもりでは、いた。
「いいですよ……」
優介さまのキスは、優しい。
まだ二人とも服を着たままで、脚なんかベッドの外に出てるのに、両手で顔を包まれて顔中にキスされる。
思わず吐息が漏れてしまうと、その開いた唇を狙われた。
温かくて肉厚な舌が侵入してくる。
私は夢中で自分の舌を絡めながら、優介さまに抱きついた。
なんだかすごくもどかしくて、もっともっと深く求めたかった。
優介さまのTシャツの裾をつかんで引き上げ、ジャージのズボンを下ろして引き抜いた。
「うわ、カンナ、慌てなくても僕は逃げな、いてて」
下着もむしりとって、上に乗る。
優介さまが、ニヤニヤしている。
「すごい、積極的」
「だめですか」
スカートの裾に手を入れていやらしく太ももを撫でながら、優介さまは首を横に振った。
「いや。そういうの、好き」
腕を上げてワンピースを脱ぐと、優介さまが私の脇を両手で触った。
手を上げているとあばらが浮きやすいから嫌なのに。
肉が薄くてくびれの少ない、胸も小さい身体が嫌い。
優介さまがもっと肉感的な女性が好きだったらどうしよう。
「……ちっちゃいですよね」
なんとなく、言ってしまった。
優介さまはちょっと驚いたように目を開き、それから小さくて薄っぺらな私の胸を両手で包む。
「カンナにくっついてるなら、どんなおっぱいでも好きだよ」
……そっか。
よかった。
「だったら私も、優介さまにくっついてるなら、どんなに気持ち悪くてグロイのでも平気です」
「ぅえ?」
優介さまが急に起き上がったので、私はベッドに仰向けに倒れた。
「こら、カンナ。そんな風に思ってたの?」
あ、正直に言い過ぎた。
怒られるかと思ったら、ちゅっとキスされた。
「そのキモチワルイのが、キモチイイくせに」
意地悪。
ちらっと見たら、もう大きくなっていた。
「それ、もう入るんですか」
ついに、優介さまが吹きだした。
「入れて欲しいの?」
まあ、その。
優介さまがちょっと動いて、私はあそこに触られる感覚にぴくっとした。
「カンナ、まだだよ」
「え……、そうなんですか」
よくわかんない。
「もうちょっと、くちゃくちゃに濡れてからのほうが痛くないと思う」
「え、と……、じゃあ、どうしたら…」
中に、差し込まれる。
「あ」
「それは、僕の仕事」
笑いながら言って、下がっていく。
「あ、…んっ」
足を抱え込まれて、お尻がむずむずした。
中をかき混ぜられながら、前のほうを吸われて、胸まで触られて、私は身体をうねらせた。
「やん、…あ、うん、あ、んっ」
やだ、気持ち良すぎる。
下の方からぺちゃぺちゃと水の音までしてきて、頭の中がしびれてきて、私は短く叫んでしまった。
何かが身体の中ではじけて、それでも優介さまはゆっくり中を触っていて、跳ね上がっていた腰が落ちるとそっと引き抜いた。
「大丈夫、カンナ」
びっくりした。
前に気を失ったこともあったけど、その後にすごく気持ちのいいとこがわかって、ああこの間はコレにびっくりして気絶しちゃたんだなと思った。
だけど、手で触られただけでこんなになるなんて。
「…やん、もう……」
「ごめんごめん、調子に乗りすぎた。感じてるカンナがかわいかったから、つい」
「……ばか」
仮にも主筋に向かってばかもないものだけど、優介さまは笑って抱いてくれた。
太ももに、なにか当たってるけど。
優介さまは、まだぼうっとしている私を優しく抱きしめて、髪を撫でてくれた。
「ねえ、カンナに最初のカレシができた時、僕は妬けたんだよ」
私の髪に鼻を押し付けるようにして、優介さまが言う。
「嘘っ」
思わず反射的に言い返した。
「だって、僕はずっとカンナをかわいいと思ってたからね。トンビに油揚げさらわれた気分だった」
やっぱり、嘘だ。
だって、私があの先輩の告白に頷いたのは、優介さまに美人のカノジョがいたからだ。
「……いたじゃないですか、お付き合いしてる人、いっぱい」」
「そりゃまあ、カンナがオトナになるまでのツナギのつもりでね」
なに言ってるんだか。
「そんなの、私だって、優介さまがあっちこっちで女遊びしてるから、誰でもいいやって」
ぎゅっと折れそうなくらい抱きしめられた。
「……もしかしてカンナ、僕のこと好きだった?」
かっと顔が熱くなった。
口が滑って、変なことを言ってしまった。
「違うの?」
ああもう、どうにでもなれ。
「なんで…過去形なんですか」
優介さまの心臓のドキドキが伝わってくる。
「僕のこと、今でも好き?」
優介さまが顔をあたしの頭に押し付けてるから、声が頭に直接響く。
「好きです……よ」
ああ、言っちゃった。
いきなり、優介さまががばっと身体を起こした。
「え、あ、え?」
脚の間に身体を入れて、顔の横に手をつく。
「そういうこと言われると、もう我慢できない」
我慢なんか、したことないくせに。
もぞもぞと支度をして、私の脚を広げた。
このカッコ、恥ずかしいんだけど、どうにもならないものなんだろうか。
いきなり来るかと思ったけど、優介さまはあのキモチワルイのの先っぽでつっついてキモチヨクしてくれる。
「……ん」
「ね。コレも悪くないでしょ」
顔が火を噴いて、優介さまの髪を燃やしてしまうかと思った。
それなのに優介さまは、私の脚を抱えて腰を押し付けてくる。
「痛くしないつもりだけど」
やっぱり、優しい。
「……痛くないです。もう」
痛気持ちいいようなことはあるけど。
「もう、ね」
優介さまがニヤニヤした。
もしかして、バレてるんだろうか。
私が話した、たくさんのカレシとの経験のこと。
もうずうっと、優介さまにしか抱かれてないこと。
「かわいいよ、カンナ」
同じことばっかり繰り返して言う。
「知ってます。何回も聞きました」
「何度言ってもいいだろ。かわいいんだから」
自分を、そんなにかわいいと思ったことはない。
それはつまり、ちょっとした贔屓目というか、優介さまが私のことを好きで、だからそういう風に見えてるのかもしれない。
「優介さまも、……カッコいいです」
つんつん、と触られる。
まだ入ってこないのかな、くちゃくちゃになってないのかなと心配になる。
「じゃあ、美男美女のカップルじゃないか、僕ら」
また、ばかなこと言ってる。
「ねえ、カンナ」
あ。
入ってくる……。
「いつ……?」
「ん、あ…」
「いつから僕ら、両思いだったの」
「あっ、ん……、んっ」
「ねえ」
そんな、こんなことされてるのに、返事なんかできない。
いいとこばっかり、擦ってくる。
私は背中を浮かせて反り返ってしまう。
優介様も無駄口を叩くのをやめて、動くことに熱中し始めた。
「んっ、ああっ、あっ、や、んんっ」
いくら痛くないって言ったからって、そんな急に激しくされたら、おかしくなる。
「う、カンナ、カンナ……、いい……」
優介さまがうめくように言う。
そんな声で呼ばれたら、頭がしびれる。
くちゃくちゃになってる、だってそんな音がする。
「ん、ん、あ、優介さま、あ」
夢中で抱きついて、優介さまを呼ぶ。
呼んだっていいですよね、だって私たち、好き同士だから。
「……カンナっ」
「ゆうす、け、さま、あ、あ、ああっ」
優介さまの、キモチイイのが、私の中で震えた。
電気が走る。
頭の中が、真っ白になった。
「ん、あ、ああ……」
余韻のように、優介さまがゆっくり動いて、そして私の中からそうっと消えていった。
小さい胸が上下しているのが自分でもわかる。
見られるの恥ずかしいから隠したいけど、動けない。
くちゃくちゃになっていたところを、きれいにしてもらった。
ああもう、そんなことされるなんて死ぬほど恥ずかしいのに、抵抗できない。
「カンナ、大丈夫?」
私は黙って優介さまにしがみつく。
「気持ちよかった?嫌じゃなかった?」
恥ずかしいから、そういうことを聞かないでほしい。
「だって、嫌なことしてたら困るだろ。僕は、カンナにだけは嫌われたくないよ……」
そんなこと言われたら、私が困る。
せっかく優介さまが好きって言ってくれたのに、きゅんきゅんで死んでしまったら、困る。
「カンナ……、かわいかったよ……」
頭を撫でてくれながら、優介さまが耳元で言った。
「…過去形、ですか」
見えないけど、優介さまはきっとニヤニヤしている。
私を抱きかかえるようにベッドに横になって、半分床に落ちていた掛け布団を引き寄せる。
「かわいいよ。ずっと」
満足した。
そのまま優介さまは私の身体に腕を回して、またどこがどうかわいかったか、恥ずかしがらせるようなことをいっぱい言った。
もう死んでしまう、今夜中に、私はきゅんきゅんで死んでしまうに違いない。
そのうち優介さまは言葉が少なくなって、眠ってしまう。
様子を見てベッドを抜け出そうとして、優介さまの腕に手を掛けたら、ぎゅっと力がこもった。
「カンナ」
まだ、眠っていなかったのかと思ったら、優介さまは私に脚を絡めてきた。
「ここで眠って」
でもそれは、あまりにけじめがないような気がする。
「嫌なんだ。目が覚めて、カンナがいなくなってるの」
またそんな、勝手なこと。
優介さまは、ふうっと息をついた。
「カンナは、ここにいて」
それ。
ずいぶん前に、聞いたことがある。
学校を卒業する頃になって、就職したらアパートを借りるつもりでいたころ。
うちから出て行くの、と優介さまが私に聞いた。
母が大奥さまについて別宅に行くのが決まっていたから、私一人でここにいるわけに行かないし、別宅は田舎すぎて通勤に不便だからと言った。
そしたら、優介さまが不満げな顔をしたのだ。
カンナは、うちにいて。
あまりに勝手な話なのに、私は逆らわなかった。
優介さまがこのうちにいてって言ったから、私はいた。
僕のそばにいてって言ったから、御世話係になったのだ。
私は、目を閉じて優介さまの胸にほっぺたを押し付けた。
ここにいて、って言うから。
だから、ここにいようと思った。
「……いいですよ」
*
大きな帽子を優介さまのツケで買って、草野球の試合で優介さまがエラーをふたつもして、チームが負けたのを「カンナが見に来てくれたから緊張したんだ」と言い訳をした翌週、珍しく旦那さまと優介さまが同時に帰宅した。
奥さまと私が出迎えると、優介さまはぽんと手に持っていたカバンを渡す。
それから、先に歩き出していた旦那さまの背中に言った。
「お父さん、お母さん、僕、カンナと結婚しますけど」
全身からぶわっと汗が噴出した。
な、なに言ってるんですか優介さま。
旦那さまは足を止めて振り返る。
「カンナは、それでいいのかい」
え、私判断ですか。
「は、いえ、あの、だって、そんな、いきなり」
しどろもどろになると、優介さまが不満げな顔をする。
「カンナ、僕のこと好きだって言ったじゃないか」
言いましたけど、それは、でも、だからって。
「そ、そ、そ、それは、あの」
旦那さまが白髪の混じっている頭を横に振った。
「それじゃダメだな、優介。カンナが嫌がってるのに結婚なんかできないだろう」
ですから、反対の理由が私ですか。
私の立場とかの、いわゆる身分違いとかじゃなくて、ましてや見た目とか人柄とか、そういう基本的なことでもなくて。
優介さまが私を振り返った。
「嫌なの、カンナ」
だから、そういうことじゃなくて、ああ、もう。
こんな時に、旦那さまと奥さまがいる時に、私が優介さまをののしったりひっぱたいたりできないような場面で、そういうこと言うの反則じゃないですか。
優介さまの、そういうちょっと計画的で頭のいいずる賢いとこ、だいっきらい。
旦那さまが、ちょっと笑った。
「ちゃんと、二人でよく話し合いなさい。いいね、カンナ」
私と一緒に旦那さまを出迎えた奥さまが、そこで口を開いた。
「我が子ながら、優介の決断力のなさにイライラしてたのよね。やれやれですね」
奥さままで、なんてことを。
「まあ、まだわからんよ、優介がカンナにフラれることもあるし」
旦那さまがおっしゃると、奥さまも頷いた。
「ああ、なんとかカンナが首を縦に振ってくれるといいんですけどねえ。心配だわ」
優介さまにそっくりの笑い方でニヤッとして、奥さまが私を見た。
心臓、心臓、とっくに私の胸から飛び出してどこかへ行ってしまった心臓はどこにいるんだろう。
私の顔は、きっと燃え上がってしまっているに違いない。
メラメラと音が聞こえる気がする。
優介さまは、ニヤニヤしながら炎に包まれた私の頭に手を乗せた。
「大丈夫だと思うよ。だってカンナ、こないだ帽子を買っただろう?」
白いレースのついた大きな帽子を買った私は、その代金として首を縦に振らなければならないのだろうか。
私は、部屋中にあふれるくらいのものを優介さまのツケで買ってきた私は、ついにを白旗を掲げることになった。
……なにか欲しいものがあるの、カンナ。
……あります。優介さまです。
うん、いいよ。
――――完――――