胃にもたれるような曇天と、殺風景で果てのない荒野。小さな馬車の窓から見える景
色は、せいぜいその程度のものだ。
アリス・ドゥ・フーリエは唇を強く引き結んで、その景色を睨み続けた。少なくとも、
馬車の内装を眺めているよりは変化があって気が紛れた。そして、気を紛らさずには居
られない程度には、アリスの心は傷つき疲れていた。
――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
幾度と無く繰り返した問いが、また頭の片隅を掠めた。するとたちまち追憶の波が押
し寄せ、そして揺るがしようの無い事実がアリスを容赦なく打ちのめす。
一昨日の夜、父はアリスを呼び出し、王都に居を構える富裕商家の屋敷へ向かうよう
命じた。父は政略結婚などとうそぶいていたが、本当の事情はまだ若いアリスにもすぐ
に察しがついていた。話は至極単純だった。
戦の続くこの国では戦費を負担する貴族の方が、却って貧しい昨今だった。なかんず
く、南部最前線を守るフーリエ家では重なる戦費に家計は破綻をとうに越えていた。そ
こで当主が下した決断は、富裕商人と娘の婚姻によって手っ取り早い経済支援を取り付
けようというものだった。さりとて、そうそう旨く話は進まない。やり手の商人に買い
たたかれ、言いくるめられ、結果は婚姻と言うより身売りに近かった。
つまり、自分は『売られた』のだと。一族の伝統と誇りのために、自分は生贄とされ
たのだと。思い人がいたわけではないにしても、見知らぬ他人の、しかも平民の家へ売
られるなどとは貴族の娘としては思いも寄らぬ転落だった。
「これでフーリエ家は救われるのですね」
アリスは斜向かいに座る老商人に初めて口を開いた。今さら自分の運命を嘆くだけに
も、これだけは聞いておかなければならなかった。
「それは御当主様次第だが、来年を充分に戦い抜くだけの金子は保障しよう」
老商人は穏やかな笑顔で答え、却ってアリスを励ます体だった。唯一の救いといえば、
この老商人が非道な人買いには見えないことか。
なればならと、これも貴族の娘としての勤めかとアリスはようやく噛めないものを飲
み込む思いだった。
それでも視界が歪み始めたので、アリスは袖口で軽く目元を拭った。だが、その歪み
はいつまで経っても解消されず、結局アリスは馬車に乗ってる間中、目元を拭い続けな
ければならなかった。
まだ暦は冬だというのに今年はいつになく温かい日が多い。そんな小春日和の晴天に
は露台に長いすを出して本を読むのがジュリアン・ダルレの日課だった。ぽかぽか陽気
に睡魔を誘われるならば、そのまま居眠りを決め込めばいい。王都でも有名な豪商を父
に持つジュリアンは悠々自適の生活を送っていた。
長引く戦に悩まされている国とは言え、頭を抱えているのは貴族や職業軍人達だけで、
一介の市民、特に王都の街では平和なものだった。だから、ジュリアンは日がな一日、
書物を読むか、そうでなければ家の者を相手にチェスを打つといった暮らしぶりだった。
その傍ら、老境に差し掛かった父親の方が未だ仕事に精を出しているものだから、『一
人息子が先に隠棲してしまったダルレ家』それが世間の評判だった。
そんな気楽な生活を送るジュリアンの心情は、実は傍目で見るほど穏やかでは無かっ
た。むしろ、日々を苛立ちの中で過ごしていた。他ならぬ自分への苛立ちだ。もはや青
年と思える歳をいくらも越えて、世間一般の常識と言うならば、とうに自立して働くべ
き年齢だと自分でも自覚はあった。それでもどうにも気力が沸いてこない。まずもって
何を生計とするか言うことからして、ジュリアンには皆目分からなかった。
順当に考えるならば父の後を継ぐべきなのだが、父親は押しつけるようなことはしな
かったし、当のジュリアンからして生き馬の目を抜くようなその競争社会で生きていく
のはなんとも窮屈に思っていた。かといって、何かの職人になるには技術が無く、聖職
なんてインチキ屋だと見抜けるほどに賢かった。そうしてまたいつもの悔悟に辿り着く
のだった。曰く、自分はダメ人間だ。いつまでも親の脛を囓るろくでなしだ、と。
そうも自責の念があるだけに、こんな自分を温かく見守ってくれる親には心から感謝
もしていた。だから、この日も出張から帰ってくるなり真っ先に息子の元に訪れる父親
を笑顔で迎えたものだった。
「ああ、父上、お帰りだったのですね」
長旅でお疲れでしょうに、仰ってくだされば僕の方から迎えに行きましたものを。さ
あさあ、この椅子にでもお掛けください。今回の仕事は順調でしたか。息子の気遣いに
父親の方でも満面の気色を浮かべいちいち頷く様は、それは一面では麗しい父子の情と
いうべきか。
「なに、いつものことだよ」
さりとて、この度はちと遠出をしすぎたかな。なにせ南の端までいってきたからのお。
ああ、そうそう、それでお前にも大事な話があるんだよ。そんな父親の話をジュリアン
の方では、もはや上の空にしか聞いていなかった。その後ろに佇む少女を見つけたから
である。
「父上、こちらは……?」
その少女にジュリアンは目を奪われた。当世流行の巻き毛とは無縁の解き梳かした金
髪は長く伸ばし、簡素なドレスに身を包んだ姿は潔癖さを感じさせる。雅やかな都会の
女性とはかけ離れた雰囲気だった。なにより端整な顔立ちに輝く青い双眸は、こちらを
射竦めるほどの光を湛えている。それがジュリアンには息が詰まるほどに眩しかった。
アドリアン・ダルレにとってジュリアンは年を取って授かった一人息子であった。そ
れ故、アドリアンにとって息子は可愛くて仕方がない。それこそまさしく我が人生にお
いて得た宝物に他ならなかった。だからついつい甘やかした。だからついつい甘えさせ
すぎてしまった。その自覚があるだけに、息子を我が儘にしてしまったのは自分の責任
だと感じていた。なればこそ、その贖罪にと更に何やかやとジュリアンの世話を焼いて
しまうのだった。
「ああ、それが大事な話なんだよ。紹介しようか、」
こちらはさる貴族の娘さんなんだが、まあ、色々な事情があってね、我が家で預かる
ことになったんだ。いやいや、下働きってことじゃないんだ。なに、お前の話し相手に
でも丁度良いんじゃないかとな。お前だっていつも家にこもっていたんじゃ退屈だろう。
まあ、お互いの気が合えば所帯をもったって……ああ、いや、それはちと気が早いか。
すまん、すまん。笑って誤魔化すもアドリアンにしてみれば、それこそが願いだった。
「ごほん、うん、それで名前は――」
「騎士フーリエ家の末娘、アリスです」
少女はアドリアンの言葉を遮るように、きっぱりと言い放った。その冷めた響きに、
むしろジュリアンの方こそが戸惑い狼狽する様だった。
やれやれ、これはちょっと見込み違いか――アドリアンは内心で頭を抱える思いだっ
たが、ともあれ、これが二人の出会いだった。
「ふぅ……」
目を覚ましたジュリアンがまずつく嘆息は、アリスが来てから日課となっていた。
横で寝息を立てるアリスに軽く視線を落としたジュリアンは、彼女を起こさぬよう慎重
に、そっとベッドから下りる。
それは、奇妙な同棲であった。
ジュリアンの部屋に住まうと言い出したのはアリスだった。彼女にとって、買主に
『所持』される事、そして抱かれるなり、好きなように弄ばれる事をアリスは自ら望ん
だ。
自身を身売りした金額以上の、さらなるフーリエ家への経済的支援を導き出す最善の
方法だと思ったからこそである。
既にアリスは覚悟を決めていたのだ。だが、しかし──。
ジュリアンはアリスに対して、指一本触れる事が無かったのである。
それどころか、父であるアドリアンから授かっていたいくつかの自分名義の荘園、そ
れらが月ごとに生み出す、ひとかどならぬ富をフーリエ家に譲渡するとアリスに対して
誓ったのだった。
「どうして、そのような事を? 私は、貴方にその、まだ何もされて──」
問い正したアリスを、ジュリアンは柔和な笑顔で遮った。
「僕は何一つ、社会に貢献できる男ではないのです。その僕が、国家の為に苦境に立た
されている名門フーリエ家に対してできる事はこの程度──。もっと、欲しいですか?
けれどこれ以上は、父上に相談しないとちょっと……」
そう言われたアリスは驚いた顔をして大仰にかぶりを振った。
「──いえっ。あ、有難う御座います……。家も喜ぶかと……」
向けた笑顔に対して、アリスが目を伏せて済まなそうな顔をしたのが、ジュリアンは
悲しかった。アリスに向けた言葉は、ジュリアンにとって真意の五割にも満たなかった。
自らを犠牲にし、援助を取り付けるべく自分のところに来た彼女の背負う使命、そして
運命を少しでも軽減できたなら──。それはジュリアンにとってアリスの感謝を求める
為ではなく、彼女が微笑む様を見てみたいという、童心に等しい心境からであった。
深く、自らが作り出した心の洞窟の底に佇んでいたジュリアンにとって、麗しきアリ
スは偶然に彼を照らした外界の陽光に他ならなかった。ただ、その輝きにもっと満たさ
れたいとジュリアンは思った。輝きが曇る事なく、燦々と自身に降り注いでくれるなら
それだけで良かったのである。
洗面台で鏡を見れば、うっすらとクマが出来ている事にジュリアンは気づいた。まぁ、
たしかに。と彼は苦笑する。美しくうら若いアリスがそばで寝ているのを意に介さず惰
眠を貪るほど、ジュリアンの心は鈍色には染まっていなかったのだった。
劣情に身を焦がす毎晩。
純潔を奪う口実なら、既に幾らでも──。
『いやいや、やめよう。僕みたいな男が。アリスさんはきっといずれ、僕の部屋から居
なくなるのだから……。それに、アリスさんに拒絶されたら? いや、拒絶されるに決
まってるじゃないか……』
かぶりを振ったジュリアンは、意識を切り替える事に集中する。
アリスが笑ったのなら、どれだけ素敵なことだろうか。
それを見てみたいとジュリアンは思った。それだけでいいと。
あたかも崇拝めいた感情を抱くジュリアンであったが、彼はまだそのことに気がつか
ず、ただ、アリスとの日々をどう過ごすか、そのことを考える。
アリスを想うと今までの自分と違う自分が騒ぎ出すのを彼は実感していた。
もしかしたら、自分は少し変われる、変わり始めているのでは──。
今日はアリスと、どんな事を話そうか。どんな話しを聞いてみようか。朝一番にそれ
を考える事が、アリスと共に暮らすようになってからの、彼のもう一つの日課になって
いた。
「チェスは、できる?」
「いいえ。覚えたほうがよろしいかしら?」
かつてはジュリアンだけの特等席であった露台には、小さなラウンドテーブルが据え
られている。ジュリアンとアリスの二人はこれといって何をするわけでなく、籐ででき
た深い椅子に腰を据えて、太陽の高い冬の空の下、午後を過ごしていた。
「いや……、なら少しお話をしましょうか」
「ええ」
二階にある露台から見渡せる王都の町並みを、じっと眺めながら微動だにしないアリス
の横顔を見やって、ジュリアンは椅子から少し身体を乗り出しながら言った。
「いかがです? こちらの生活には、すこし慣れましたか? ──と、愚問でしたね。
外出、まったくなさってないでしょう。良かったら、好きなように街を観て回ってもよ
いのですよ? 僕の部屋にずっと居たら、アリスさんも退屈でしょう」
「……ですが、私はジュリアン様に買われた身分なので」
そう答えたアリスの視線は、屋敷の前の大通りを通り過ぎる四頭立ての馬車を追う。
『買われた身分』──。アリスのその言葉は、ジュリアンの心に重く響いた。
はたから見ても二人の関係は確かにアリスの言うとおりであるのは明確。豪商が名門
貴族の末娘を買い叩いたのは紛れも無い事実でもあったからだ。
アリスの心象を良くしようと、自分に出来うる限りの支援をフーリエ家に施した。し
かし、その行為はよりアリスと自分の距離を遠めてしまったのではないかとジュリアン
は考える。
「人が、多いですね」
「え?」
アリスの横顔が少しだけ笑ったようにジュリアンは感じた。
「私の故郷には、こんな石畳で舗装された道路なんてありませんでした。雨が降ると馬
車が通れなくなってしまうような道ばかり……」
自発的なアリスの言葉を、ジュリアンは始めて聞いた。繊細なアリスの言葉に対して、
彼女の心象を悪くしないようにとジュリアンは明るく告げた。
「憧れるな。とても牧歌的なんでしょうね」
「田舎なだけですわ……。こんな華やかで豊かな王都とは比べ物にならない、ちっぽけ
で地味な所です……」
そう言って俯いたアリスの横顔を、肩口から流れた金糸のような髪があたかヴェール
のように隠した。
続く言葉が告げられないジュリアンは、自らの感性の希薄さを情けなく思う。こうい
う時、男ならばなんと声をかけるのか。彼女の心を解きほぐす言葉はなんなのだろうか。
『意中の女性を前にしてどう振舞うべきか』という問は、ジュリアンの心を路頭に迷
わせる。何か言わなければ、と思っても下唇が僅かに震えるだけで、ジュリアンは硬直
した。しまった、僕は、しくじった──? ど、どうしよう……。
そう思ったとたんに、ジュリアンの背伸びして演じていた落ち着いたそぶりが、日差
しを浴び割れ砕ける水溜りの薄氷のように崩れ去ってしまうのだ。
無理も無い。家族以外の人と接する機会はほぼ皆無。ジュリアンの心は、他人と対峙
するには今だ脆弱であった。論理的な思考すら機能しなくなり、それこそ迷子の子供の
ような心持にいたった彼の心情、いかばかりか。
そんな時、空ろを彷徨うジュリアンの視線に、大通りを再び通過する馬車が映った。
「う、う馬ま」
「はい?」
「い、いや、いや。馬とか、乗られたりするのですか? その、フーリエ家といえば、
かつて王都で開催された馬上試合で無敗を誇ったと、聞いた事があります……。だとす
るならば、アリスさんも、乗馬などをですね……」
ぎこちないジュリアンの言葉に、アリスは静かに、丁寧に答えた。
「え、ええ。家臣団の皆から比べたら、私の乗馬術など嗜み程度ですが……。幼い頃か
ら父には、だいぶ」
「で、でしょうッ」
振り向いたアリスは、ちょっと驚いたふうにしてジュリアンを見た。
「……大丈夫、ですか?」
かぶりを降って額の汗を拭うと、ジュリアンは一度唾を飲み込んでから表情を持ち直
す。
「いや、だ、大丈夫、大丈夫ですよ? 実はですねアリスさん。父から与えられた僕の
牧場(まきば)が、そう遠くない所にあるのです。貴族からの委託で、繁殖や調教を行
ってましてね。もちろん僕名義の馬もおります。どうです、ずっと僕の部屋に篭もって
いては、健康に悪いでしょう。たまには乗馬でもしてみませんか?」
アリスの表情が、僅かに緩んだのをジュリアンは見た。
「乗馬、ですか……。ジュリアン様は馬に乗られるのですか?」
「あ、ぼ、僕ですか?」
アリスの問いに、やっと体裁を整えたジュリアンの表情が再び揺るいだ。
父からそのくらい嗜みなさい、と言われた事はある。しかし、移動は決まって馬車な
のですからとジュリアンは袖を振っていた。なので、当然乗れるわけもなく、これから
先も乗ることは無いだろうとたかを括っていたほど。
アリスはジュリアンの表情からそれを読み取っていたようであった。
「騎士の娘ですから、乗馬くらいは。施しを受けている御恩もあります。私でよろしか
ったら、お教えしましょうか?」
向けられた微笑に、ジュリアンは反射的に答えていた。
「是非!」
勢い余って立ち上がり籐の椅子を倒すジュリアンの様を見て、アリスがさらに微笑ん
だ。そしてジュリアンは、見たことの無い自分名義の牧場でアリスと共に馬を駆る姿を
夢想した。
続く