三人娘が来てから早くも半年ほどが経った。
いや、本当に早く感じられたのか、ちょっと俺にはわからない。
長く生きすぎていると時間感覚がボケてくるらしく、
時間の進み方が早く感じられるのか、遅く感じられるのか、わからなくなってくるのだ。
まあとにかく、俺の主観的な時間のことは置いといて、客観的な時間は確かに半年くらい経ったのである。
「ししょー! ししょーってば! 起きてくださいよ!」
心地よい惰眠に身をゆだねていた俺を揺さぶり起こすヤツがいた。
ケイトだ。
ケイトは女性であるにもかかわらず、過去に剣術道場に通っていたことがあったらしい。
それなりに筋も良く、剣だけでなく槍の扱いも出来たので、この俺が直々に鍛えることにしたのだ。
鍛えることに意味はない。
ただの暇つぶしだ。
「素振りは終わりましたっ! 約束通り、今日は私の相手をしてください!」
半年前は長かった金髪は、今ではばっさり切っている。
エレノアやキャロルとは違ってとてもアクティビティーな彼女にはよく似合う髪型だ。
「ああ、はいはい、わかったよ」
欠伸をするついでに背筋をのばし、流れた涙と涎を手の甲で拭く。
今日は、ケイトに組み手をしてやる約束をせがまれて、ついつい了承してしまった日だ。
適当にストレッチとアップ運動、
そして素振りをやらせている最中、日差しが気持ちよかったため、ついうとうとと。
「もう、いくら私が相手だからってそんなに気を抜かないでください」
いや、それにしても今日はいい陽気だな。
びっくりするほど昼寝日和だ。
適当に相手した後、昼寝することにしよう。
「はいはい」
木剣を片手に持ち、軽く二度振ってみる。
ケイトも自分の木剣を持ち、俺の正面に立って油断無く構える。
ケイトは彼女の年齢で、更に女性というハンデもありながら、中々堂に入った構え方をしていた。
最近平和ボケしている俺ですら指先がチリチリとする。
裂帛の気合が籠もっている。
なるほど、かなり本気でもって俺とやろうとしているらしい。
少し構えを直して、ケイトと見合う。
しばらくの間見合っていた俺とケイト。
先に動いたのはケイトだった。
俺相手には下手な小細工は通じないと考えたようで、まっすぐ突っ込んでくる。
それがベストな考えだ。
まあ、ベストを尽くしたところで、勝てるかどうかはまた別なんだが。
「ぃやああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
ケイトの全力の一撃が振り下ろされる。
もし一般人がこれを食らったら、いかな木剣といえ、下手したら死ぬほどの一撃だ。
俺は右手に持った木剣で、その一撃を受け止める。
バヂィ、という木と木がぶつかり合って通常出さないような音を出し、弾けた。
ケイトの木剣は受け流されて、俺の頭ではなく、何もないところに滑り落ちる。
「ま、まだまだぁッ!」
俺は自分の木剣をケイトの脇に差し込んだ。
そのままくるっと力を込めれば……。
「へ、あっ、きゃっ!」
バランスを崩したケイトは、その場で転ぶ。
仰向けに倒れたケイトの首元に、軽く木剣を向けてやって、終わりだ。
「これで満足したか?」
「うっ……うう……や、やっぱりししょーはバケモンだぁっ!」
「バケモンって、人聞きの悪い」
「で、でもでも、あんなことやれるなんて人じゃないですよ。
私の全力の一撃を片手で受け流して、人の脇に木剣差し入れて転倒させるなんて、
常人の筋力と反射神経じゃありません」
「要するに慣れの問題さ。
まっすぐ突っ込んでくるのがわかれば、筋力と反射神経はそれほど必要じゃない。
行動を予測して、通常の反応より早く動けば割と簡単にこれくらいできる」
「それでもやっぱり常人のすることじゃありませんよ!」
普通の人間で俺の今言った境地に立ったヤツは何人か知っている。
ただ俺もそうかというと違う。
全て筋力と反射神経で出来てしまうからだ。
出来るんだから、相手の動きを予測なんてする必要もなく、必要がないから鍛えなかった。
鍛えない上に、筋力と反射神経以外の、もう一つの能力を使えば対人戦では無敵になれてしまう。
そもそも頭をかち割られようと、胴体ぶった切られようと、俺はどうせ死なないんだけどな。
手に持っていた木剣を地面に落とし、俺はさっきまで寄りかかっていた木に向かって歩いていった。
「じゃあ、後は適当にいつも通りのことをやっててくれな」
「師匠は何するんですか?」
「今日はちょっと昼寝を楽しむことにする」
「いいんですか? 剣術の修行は一日怠けると取り戻すのに時間がかかりますよ」
「かわいい弟子が俺に追いつけるように怠けてやるんだよ」
さあ昼寝昼寝。
今日は何十年に一日もない昼寝日和の日だ。
いつもは律儀に生きている俺も、今日ばっかりは昼寝することに決めた。
近くでケイトが剣術の訓練をしている音を聞きながら、俺は木に寄りかかって眼をつぶった。
木漏れ日が実に暖かい。
優しい風が俺の頬を撫で、髪を揺らしている。
うん……実にいい……。
俺が眠りに落ちるのに、一分とかからなかった。
夢を見た。
懐かしい夢だった。
辺りは暗闇、空には月が。
「……勇者様」
白いドレスを着た女性がいた。
腰まで伸びた美しい金髪が、夜風に吹かれてほんの少し揺れる。
俺は腰に剣をつり下げたまま、暗闇と戯れる彼女を眺めていた。
彼女の声を、俺の耳が欲していた。
ああ、懐かしいな。
何年前のことだろうか。
「姫……」
話自体は陳腐だったものの、俺は彼女のことが本気で好きだった。
長く生きてきて、色んな女性を愛してきたけれど、彼女は一番最初に本気で愛したヒトだった。
そして一番最初に救えなかった女性だ。
彼女とともに王城のテラスで見た星空は、今でもはっきり覚えている。
「父は……父はきっと私たちのことをわかってくれます」
彼女が俺に寄りかかってきたときの心地よさも、体温も、涙の色も鮮明に覚えている。
俺がまだ勇者になったばかりで、まだ多くの人間性を持っていたときの話だ。
魔王を倒し、魔族を屠り、人間を救った……一番調子に乗っていたときでもある。
当時の俺は何でも出来ると思っていたし、いつかは必ずハッピーエンドを迎えられると思っていた。
恋に酔っていたことも、失敗したことの一つの要因だったのかもしれない。
「そうですね、きっと俺たちは……」
バカみたいな笑みを作って、空を見る俺。
俺以外に頼れる人がいないヒトの体温を感じつつ、俺は彼女以外のことを考えていた。
愚か過ぎるといえばそうなんだが、これを愚かとだけ言って斬り捨てるのは、人間性の否定に他ならない。
当時の俺に、もうちょっと上手く立ち回ることができたら、現状も少しは変わっていただろう。
最低でも彼女を連れて逃げる甲斐性があれば、彼女をあんな目に合わせることはなかったろうに。
「勇者様……」
「姫……」
世界を救った勇者と、救われた国の姫、か。
初心だった頃の俺が交わした、唇が触れるだけのキス。
今でもあれ以外で、あれほど濃密に他者と心を交わしたキスはない。
「師匠、終わりましたー」
ケイトの声がした。
途端に眠りが醒め、今まで見ていた夢はうたかたに消える。
「師匠、師匠ってば」
起きるのは面倒で、体を揺さぶられるがままにして、狸寝入りをする。
こう心地よい眠りを味わったら、目を開くことさえ酷く億劫になる。
「もう、ししょーっ!」
起きない俺に痺れを切らせて、ケイトはやけになって力一杯揺さぶってきた。
ケイトが俺に近づいたせいで、汗の臭いが鼻腔一杯に広がる。
これが男だったら、何すんじゃボケェッと飛び起きてぶん殴るところだが、
別に女、それも見た目のいいものだから特に気にならない。
「……起きない……全っ然、起きない……流石師匠、っていうべきか。
動かざること山の如しだわ」
ようやく諦めてくれたのか、ケイトは俺を揺さぶることをやめてくれた。
ただ、俺を放っといてはくれないらしく、その場で座り込んだ。
「んー……確かに今日はぽかぽか暖かくて、眠くなりそうな陽気よねえ」
今更気付くだなんて、ケイトもまだまだだな。
百年くらい生きてみれば、今日の昼寝の適温っぷりはわかる。
えーと……ああ、そういえば人間の寿命って百年もないか、じゃあ俺の境地まで立てないわな。
「でもあれほど揺さぶっても起きないなんて異常よね。
師匠、強いし、若いし、なんか悟っちゃってる目してるし、最初から異常といえば異常なんだけど」
ほっとけ。
「本当は起きてるんじゃないかしら? ……寝たふりしてる?」
再びケイトは俺の顔に近づいてきた。
寝息やら何やらを感じ取って、眠っているかどうかを確かめているらしい。
ふっ、無駄な事よ。
狸寝入りは勇者の必須スキル。
熟練レベルに達している俺に、ケイトが気付くはずもない。
「寝てるわね……本当、ぐっすりと」
ふん、その通りだ。
俺は寝ているんだ、だから早くあっちいけ。
今こうしている間にも、絶好の昼寝タイムは刻一刻と減りつつあるんだ。
一秒がダイヤモンド一粒に匹敵する黄金の時間を無駄にしたくはない。
「……起きないわね」
そうだよ、起きないよ、だからあっち行け。
俺のあっち行けという心の奥底からの念は、ケイトには通じなかった。
不出来な弟子を持って俺は不幸だ。
ケイトはあっち行くどころか、顔をますます俺に近づけてきた。
このままじゃ、顔が触れるぞ。
目を開いてないからよくわからんが、気配が顔の前に来てる……。
「……」
「……」
「……」
「……」
……。
「起きない、わよね……」
あれれ?
ケイトって俺にそーゆー感情を抱いていたのか。
普通の師弟関係だと思ってたんだけどな。
やっぱり俺の感性が鈍っているせいか、見抜けなかったようだ。
「やっぱり起きない……」
ケイトの声は心なしか残念がっているようだった。
いや、俺の気のせいかもしれんが。
「……私も昼寝しよう。師匠、膝を借りますよ」
ふうむ、流石に、もう、起きた方がいいかな?
ケイトの気配がもそもそと、横になって俺のフトモモに頭を乗せようとした直前に足を動かした。
ケイトの後頭部は空を切り、地面の木の根にぶつかる。
「あ、いたたたた……」
直後、目を開いた俺と、目が合った。
地面に転がっているケイトを、木に寄りかかっている俺が見下ろしているような格好になる。
ケイトはきっかり五秒ほど、硬直していた。
「し、しししししし、ししょーっ! お、おおおおっ、おきてらしたんでしたきゃかかかか」
「言葉になってないぞ」
「い、いひゅ、いひゃから、いつからおきてらっしゃりんらから」
いつから起きてらっしゃったんですか、か。
あまりに慌てすぎて、呂律が回ってない上に舌を噛みまくってるせいで言語が崩壊をきたしている。
「いつからだと思う?」
「いつ、いつ? え、っと、わ、わかりません……」
「最初からだ」
「最初、最初……え、えっ、ええええええええええええッ! じゃ、じゃあッ!」
「いやあ、ケイトは変わった性癖を持っているようだな」
「や、やあああああああッ!」
ケイトは顔を真っ赤に染めてうずくまった。
両腕で顔を隠して、なにやらよくわからない言語をうめいている。
精神的七転八倒状態とでも言うのだろうか。
「まあまあ、ケイト、落ち着け。顔を上げろ」
うずくまっていたケイトの肩に手を当て、優しい声を掛ける。
ケイトは肉団子みたいに丸まった状態から、ちらと顔を出し、すぐまた隠す。
そしてその後、うあーんと声を上げて余計に体を動かし始めた。
「十秒だけお前に猶予をやろう。その間に走って逃げるんだ」
わかったか、と言うとケイトは少し顔を出してこちらを見た。
俺がこんなことを言い出した意図がわからないようだった。
まあ、通常のやり方じゃないというのは俺だってわかっている。
「ほら、うずくまってないで早く逃げる準備をしないか。十、九、八、七……」
「わっ、わわわッ!」
ケイトはただ焦って言われるがままに立ち上がり、俺に背中を向けて、全速力で走り出した。
両手で顔を隠しつつ、そのせいで時々転びそうになりながらも一目散に逃げていく。
ふむ、きっとケイトは混乱していると思って、俺の都合のいいことを滅茶苦茶言ってみただけなんだが、
なんだか予想以上に上手くいったようだ。
「も、もうお嫁に行けないーッ!」
ケイトは大声で喚きながら、森の中に突っ込んでいき、すぐに見えなくなった。
ここの生活に慣れてきたことだし、我を忘れているというものの危ないところまでは行かないだろう。
やれやれ……最後まで騒がしいヤツだったが、これでようやく落ち着いた。
「……また変なことに巻き込まれないようにしないとな」
木の下という、目立つ場所で昼寝をしていたからいけなかったんだ。
要は見つからないところで昼寝をすれば邪魔も入らない。
ふむ……木の上、ってのもいいな。
ちょうど俺が背にしていた木は大きさといい、高さといい文句なしの逸材だった。
この木に登って眠ることにしよう。
「とうっ!」
地面を軽く蹴ると、数メートルの距離を飛び上がる。
すかさず手を伸ばして木の枝を掴み、そのまま反動を付けてよじ登る。
出来るだけ太い枝に跨り、幹に体重を掛ける。
俺の体重に負けて折れたりはしないみたいだし、余程強い風でなければ揺れることもないようだ。
あとはロープがあれば、俺の体を縛って、寝ている最中に落ちないようにすれば万事OKだが、
残念ながらそこまで用意していなかった。
まあ、落ちたところで多少痛いだけだから大丈夫だろう。
うん、より近くに感じられる木漏れ日と、頬を撫でる風が実にいい感じだ。
このまま、昼寝を楽しむことにしよう。
今度は陰気な夢なんて見なけりゃいいな。
ゆるゆると、睡眠という俺には生きるために必要不可欠でなくなった生理状態に陥ろうと目を閉じた。
いくらでも寝ていなくてもいい体になったとはいえ、眠ると頭がすっきりするし、ストレスも落ちる。
一日中起きていてもやることはないし、どちらかといえば寝ることは好きだ。
しかし、一度起きてしまったため、いくら陽気がよくてももう一度寝付くことが中々できない。
ううむ……ケイトめ……余計なことをしてくれたッ!
ケイトを恨んでもしょうがないので、目を閉じ、風が俺の頬を撫で、木の葉を揺らす音に集中してみることにした。
すぐさま寝ることが出来る、というわけではないが、これはこれでいいかもしれない。
しばらくゆるゆると心地よい状態に身を任せ、時間の感覚が次第に無くなっていく。
……。
「どうしたの、ケイト姉さん?」
「あ、いや、さっき師匠がこの木のところで寝ていてな……ひょっとしたら近くにいるのかな、って思って」
また邪魔が入ったッ!
はっきりとした意識が蘇ると、木の下に三つの気配があることに気が付いた。
あの三人娘が、集まって、なにやらこそこそ話している。
「そういえば、さっきのケイトの叫び声が聞こえたけどどうしたの?」
「エレノア姉さん……い、いや、別に何でもなかったよ……」
「ケイト姉さんは『お嫁に行けない〜』って言ってたから、想像に難くないけど」
「きゃ、キャロルッ! だ、黙れよ!」
思ったより騒がしい。特にケイトが。
ようやく気分が良くなってきたというのに、またダメになってしまった。
「で、何でまた今日は呼び出したんだ? キャロル」
……ケイト、こいつ俺のいないところだとちょっと言葉遣いが荒いな。
まあ、どうでもいいけど。
「いえ、ちょっと……先生達のことでね」
キャロルの言う先生とはあいつのことだ。
あいつを魔法の先生として師事しているからな。
ケイトが俺のことを師匠と呼ぶのと同じ理由だ。
……何故かキャロルは俺のことを『お兄様』などと呼ぶんだが……。
エレノアとケイトはあいつのことを『お姉様』と呼んでいるので同じノリなんだろうが、
『お兄様』って俺の柄じゃないし、呼ばれるたびにどことなく面はゆい。
前にそれとなく、お兄様って呼ぶのやめろ、って言ってみたが、ニッコリ笑ってスルーしやがったからな。
あんまり深く突っ込むと、今度はあいつが俺のことをお兄様と呼び始めるような予感がするので、やめておいた。
……ううっ、想像しただけで寒気がする。
「ケイト姉さんは先生達のこと、どう思う?」
……あれまあ、なんというか出ることが出来なくなるようなお話をするみたいで。
気付かれないようにこの場から立ち去ることも出来るっちゃ出来るが……うーん、聞いていこうかな。
あんまり趣味のよくはないが、俺だってやっぱり他人からどう思われているのか気になる。
「どう、って言われてもな」
ケイトはうーんと唸って腕を組んだ。
「師匠は強い」
強い、って言われても俺としてはあんまり嬉しくない。
もちろん自分で鍛えたのもあるが、ほとんどが神の力によるパワーだからな。
強さが生きることも、最近は滅多にないしな。
「強さの底すら見えないほど強い。
今日も手合わせしてもらったけど、見合った瞬間絶対に負ける、ということがわかるほどだった。
しかも、それでいて師匠自体は全然本気を出していないというか……。
師匠がその気になったら、私なんて三秒と経たずに殺されちゃうんじゃないか、ってそんな風に思えてくる」
俺がその気になったら、残念だけど三秒も経たずに殺せちゃうんだけどな。
まあ、ここまで見抜けていただけでもケイトもいい目をしていると言える。
「あとちょっとジジ臭い感じもするかな」
……今度、起きあがれなくなるくらい相手してやろうかな、ケイトには。
「若いくせに達観しすぎているっていうか。万事に冷めているような感じがする。
はっきり言って、情熱が足りない。かといってクールっていうわけじゃなくて……ジジ臭い」
ケイトの言うことも一理あり、俺自身万事に冷めていることをわかっている。
だって、大抵のことはやりつくしちゃっていて、どれもこれも新鮮さを感じられないんだもの。
無駄に熱くなって疲れるより、適当にやって休んでいた方が楽なんだもん。
実際、年齢はジジ臭いってレベルじゃないしな。
「……なるほど、ケイト姉さんは精神的おじさん趣味だったわけ」
「な、なッ! 何を言うんだキャロルッ!」
「ちょっ、ね、姉さん、ちょ、チョークとかやめてよ! 締まってる、締まってる!」
その場でキャロルを締め上げ始めたケイトを、エレノアがたしなめる。
キャロルはここに来た日から、ケイトやエレノアなんかより精神的にタフだったが、
あいつの影響からか、性格がちょっとずつこう、ちょっと、なんか嫌な感じになってきてしまってる。
「こほん、それで、ケイト姉さんは先生のことはどう思う?」
「先生? ああ、お姉さまのことか……正直なことを言うとちょっと怖い人、かな」
それには全面的に同意できる。
ただあんまり迂闊なこと言い過ぎると、消されちまうぞ、ケイト。
「むーっ、それはケイト姉さんの脳みそが筋肉で出来てるからじゃないの?」
「な、なんだとっ!」
「いつも黒い服着てるし、部屋の趣味も悪いし、足音立てずに歩いてるけど……。
でも、先生だってちゃんと優しいところもあるのよ」
「そうなのか? あの人、無口だからあんまり話したことないしなー」
「無口、っていうのは偏見よ。
確かに私にも必要以上のことはあんまり話してくれないけど、お兄様とはよく一緒に話しているもの」
「……ふーん、そうなのか」
ケイトの声のトーンが一段下がった。
キャロルはそれを察したのか、ささっと話題を転換すべくエレノアに話しかけた。
「エレノア姉様は、先生達のことはどう思う?」
「うーん……私は強いとか頭がいいとかあなたたちよりわからないけど、とにかくご主人様もお姉様も恩人ね。
本来奴隷として扱われるはずの私たちにとてもよくしてもらっているもの」
「そうね、先生達の対応があまりにも普通過ぎるから忘れかけてたけど、
私たちはお兄様にも先生にも一生かかっても返せきれないくらいの恩があるのよね」
俺としては別に気にしてないけどな。
食い扶持が三人増えたところで、どうってことはない。
剣術を稽古してやってるのも、俺の暇つぶしだし、
あいつが魔法の勉強をつけてやってるのも、自分の研究を手伝わせるためだからだ。
それに、色々と事情もあるしな。
「でね、ケイト姉さんにエレノア姉様。お兄様や先生の名前って、知ってる?」
「いや、師匠は私がいくら聞いても名前を教えてくれない。
あれほど腕の立つ人なんだから、それなりに有名な人だと思うんだけど……。
お姉さまの方は、尋ねたこともないな。エレノア姉さんは?」
「私も……ご主人様に聞いても、その度に笑って誤魔化されてるわ」
……んー。
こんなことを言い出すなんて、キャロルのやつはもうわかったのかな?
ま、いずれバレることだしな。
「私も先生やお兄様に名前をいくら聞いても教えてもらえなかったわ」
俺の名前を教えて欲しい、と一番しつこかったのはキャロルだ。
エレノアは俺に遠慮しているのか、一度教えなかったら二度と聞いてこなかった。
ケイトは俺をさぞ高名な剣士だと思って聞いてきたが、しばらくすると忘れてしまった。
キャロルは俺に遠慮もしないし、忘れもせずに何度もしつこく聞いてきた。
あんまりにもしつこいから、一時期顔を合わせるたびに俺の方が走って逃げ出さなきゃならなかったほどだ。
「弟子入りして、こっそり先生が書いた論文なんかを読んでみたけど、
現在の魔法技術の数百年先に行ったものを平然として使っているの。
中には魔法関連の業界が、一晩にしてひっくり返るといっても過言じゃないようなものも、
先生の部屋には無造作に積まれてるの」
ふーん、そうなのか。
いいよなあ、あいつは。
空よりも広く海よりも深い学問を、飽きることなく探究できて。
剣術なんていくら鍛えても確実な限界がくるし、
そもそも鍛えたところで張り合える相手が魔王とその部下一くらいしかいない上、
魔王は数十年に一度しか戦えず、部下一の方とはもう本気で戦えない。
その点魔法の研究ってのは、役に立ったりするから楽しいんだろうなあ。
俺も魔法は使えるけど、理論があーだこーだとかいちいち考えずに、感覚だけで使ってるからな。
使える魔法も、ほとんど攻撃魔法だけだし。
いまさらあいつに頭下げて教えてくださいってお願いするっていうのもイヤだから、
趣味として料理に逃げたわけだが。
「ただの天才、ということすら出来ないレベルなのよ。
先生の外見年齢から言って、赤ん坊の頃から研究をしていたとしても、
あそこまでの境地に立てるわけがないわ」
その場でキャロルはなにやら専門用語を交えながら、捲し立て上げた。
実現不可能とされていた魔力永久機関の創造やら風邪、水虫、癌の特効魔法薬なんかの発明品とか、
そういったことを熱く語り始めた。
それにケイトは興味なさげに欠伸をし、エレノアはいまいちわかっていないのか、首をかしげている。
魔法の学問ってのは高度なので、一般人にとっての反応はこんなもんだろう。
「で、要するに何なんだ? 師匠とお姉さまの話してたんだろ?」
「っと、そうだったわね。先生はただ天才というだけでは説明できないモノがあるのよ」
「はいはい、お姉さまがすごいってことはよくわかったよ。毎晩のように聞かされてるから」
「先生が書いた本やら論文を計算してみると、何十年不眠不休で書いたところで絶対追いつけないくらい量があるの。
だから、先生もお兄様も私たちとはあまり年齢が違わないように見えてるけど、
本当はもっとお年を召しているんじゃないかなあ、と思ったのよ」
「はあ?」
「どういうことかしら?」
「先生とお兄様が私の予想通りの人物だとしたら……四百年以上生きている人なのよ」
おおっ、まさに的中だ。
「……キャロル、師匠達をネタに使って私たちをからかおうとしているんだったら許さないぞ」
「そんなことするわけないじゃない! ある程度、裏付けるようなことを調べて言っているんだから!」
「でも四百年以上生きていられる人なんて……」
「今の魔法技術であれば、百五十年ほどまで生きられる延命魔法があるわ。
それとは別に、『奇跡の人』スタマール氏は、延命魔法無しで三百年生きた普通の人間よ。
もっとも行方不明になっただけだから、今も生きている可能性もあるのよ」
おっ、スタマールか。
これはお馴染みだ。
俺が勇者になって、魔王を討伐する間に知り合ったヤツだ。
ただの人間のくせにやたら長生きしている謎なヤツだった。
俺らと違って緩やかだが年をとって、最後に会ったときは爺さんだった。
爺さんっていっても元気溌剌で、米二俵担いで平然とフルマラソンできるスーパー老人だったがな。
どこにいても必ず俺たちの居場所を察知してきて連絡をよこしてくれたり、
永世勇者補佐のあいつですらもスタマールの情報源やら長命の理由を理解できなかったり、
不思議を通り越して気持ち悪いヤツだったけど、嫌な伝説が残っている俺達の数少ない理解者だった。
最近、遊びに来ないと思ってたけど、行方不明になってたのか。
……ひょっとしたら逝ったのかもな。
死に際を人に見せるようなタイプじゃなかったからな。
ま、スタマールに関しては死んだと思っても忘れたころにひょっこり顔を出すヤツだったから、
生きている可能性も十分あるがな。
「でも、四百年以上ってのは、ありえないだろ。
私も『奇跡の人』の話は聞いたことあるけど、あの人、ちゃんと年を取っていたじゃん」
「もし実在したならば、たった二人だけ年を取らない人がいるのよ」
「それは……誰? キャロルちゃん」
「『名無し』よ」
流石はキャロル。
とりあえずそれなりに幸せで頓着していないエレノアと、剣術ばっかに打ち込んでいたケイトとは違うな。
憶測で物を言うタイプじゃないから、いくらか手がかりも掴んでいるんだろう。
「『名無し』……『名無しの二人』『ノー・ネーム』様々な言われ方があるけど、『名無し』が一般的ね。
『名無しの勇者伝説』に出てくる神に任命された若い男の勇者と、若い女の補佐。
四百五十年ほど前に現れ、魔王を打ち倒し、勝利をもたらされたとされている存在よ。
彼らは神から不滅の肉体を得て、その代償として、名前を失った……。
何年経とうが年を取らず、死ぬこともない存在。
……先生とお兄様が名前を名乗らないのではなく、そもそも名前がないのならば説明がつくわ」
「ば、バッカバカしい。名無しの勇者伝説みたいな御伽噺が本当だと思っているのか?」
「歴史家の中では名無しの勇者伝説は実際に起こった出来事だと認める人もいるわ。
中央図書館で起こった火災のため、当時の資料はほとんど残っていないけど、
各地に断片的に、名無しの勇者伝説が実際に起こったことを裏付ける文献がいくらか見つかってるわ。
第一、ケイト姉さんだって名無しの勇者伝説は本当のことだと信じていた人だったじゃない。
第百十二回武闘大会での優勝賞品が名無しの勇者が使っていたとされる『名の無いの剣』だった、って」
「あれが本物の『名の無い剣』だった証拠はないだろ!
私たちが生まれるずっと前の武闘大会だったし、
優勝者がそのまま姿を消して、結局本物かどうかわからなずじまいだったそうだし」
「私がそれをケイト姉さんにいって、絶対本物だ! と言い張ったのはケイト姉さんなんだけどね。
それに、その大会だけ群を抜いてハイレベルな選手が参加してたのに、優勝者は当日参加者の無名の剣士。
東洋の武器『ジュッテ』なるものを使って、全試合相手選手の武器破壊をして勝ち抜き、
尚かつ、当時武闘大会の公営ギャンブルで悪行を働いていた地下組織を準優勝の女剣士とたった二人で壊滅に持ち込み、
副賞の賞金を惜しげもなくばらまいた上、決勝戦で人間離れした勝負を見せた女剣士と翌日結婚宣言をし、
庶民の人気が最高潮に達していたのに、更にその翌日に逃げた人だったんだけどね。
もちろん、本物の名無しの勇者が自分の剣を取り戻すために大会に参加したっていう話は今でも聞くし、
その人は『名前を覚えさせられない呪い』という、本当にそんな呪いがあるのか疑わしい呪いにかかってたらしいわ。
お金に執着していないってところが、私たち奴隷三人を買って、特に何もさせない誰かさんに似てない?
その上、私、『名の無い剣』にすごく似ている剣をこの家の空き部屋の中で見たことあるんだけど」
もちろん、その大会優勝者は俺だ。
いやー、自分の剣なのに数百年放りっぱなしにしちゃってて、
たまたま王都に行ったときに優勝賞品にされてたのを見てびっくりして参加したんだよね。
その際なんかもう色々と大変な目にあったんだけど、それはまた今度の話にしておこう。
「じゃあ、なんなんだよ! 師匠があの『三つ首の悪魔』だと言うのか、お前ッ!」
「そうじゃないわ、姉さん」
「うるさいッ!」
「きゃっ」
ケイトがキャロルを突き飛ばした。
キャロルは木に当たり、微かに振動がここまで伝わってくる。
「もう二度とそんなこと言うなよ、キャロル!」
ケイトはそう言い捨てたあと、その場から走って行ってしまった。
『三つ首の悪魔』ってのは『名無しの勇者伝説』に出てくる名無しの勇者の末路だ。
その名の通り三つの首があって、口から毒と呪いをはき続けているらしい。
もちろんそんなのは当時の王が勝手に作り上げた捏造だ。
激しい粛正の嵐が王都に吹き荒れて、俺を擁護していた人間は皆殺しで、資料もほとんどが燃やされた。
表向きには中央図書館の火事と片づけられているが、歴史の裏では人間の業が働いていたってわけだ。
そのせいでこんな突飛な嘘がまかり通っている。
戦争直後、俺の周りには味方より敵が多かったから、嘘の広まり方も早かった。
俺と一緒に前線で戦った人間には仲間が多かったし、親友と呼べるような人間も結構いた。
ただ危機的状況にあるっていうのに、王国には保身しか考えていないヤツが多くて、
そういうやつらは大概安全な場所にいるから戦争が終わっても生きてる上、
庶民やら兵士やらに人気のあった俺を嫌いらしかった。
戦争が終わってしばらくしたら、
王とタコ貴族どもが魔王軍と戦っていたときよりも強く結束して、勇者である俺を追っ払ったのだ。
前線で恐怖で震えながらも家族のいる国を守るために戦って生き残ったが、守った国の人間に殺された戦友や
スタマール、それに竜人族のみんなにも迷惑掛けたことを考えると少しやるせない。
あのとき俺にもう少しの甲斐性があって、見通しの甘さがなかったら、防げたかもしれない。
……いや、そのことを考えるのはもうやめることにしたんだった。
時計の針を止めることが出来る俺でも、戻すことはできないんだから。
「姉さん……」
「……ケイトちゃん」
キャロルとエレノア、あと俺は走り去っていくケイトを見る。
どうやらケイトはもうちょっと落ち着かせてから、俺と一対一で話す必要があるみたいだ。
「エレノア姉様。もし先生達が『名無し』だったらどうする?」
「どう、って?」
「きっと先生達は優しいから、私たちにどうするか選ばせてくれるわ。
ここを出て行って、別の場所で生きることを許してくれると思うの。そうなったら、どうする、ってこと」
「ここを出る? どうして?」
「……ああ、いいわ、エレノア姉様。最初っからそーゆー考えは頭にないのね」
さってと、とキャロルは自分の服の埃をはたいて、三角帽子をきゅっと被り直した。
ふむ、この二人は大丈夫そうだな。
「で、キャロルはどーすんだよ」
「きゃっ!」
木からぶらーんと垂れ下がって、俺は二人の目の前に姿をさらした。
キャロルは、突然俺が現れたことに驚いて、小さい悲鳴を上げて尻餅をついた。
「お、お兄様ッ!」
「いやー、聞くつもりはなかったんだけどな。
木の上で昼寝してたら、お前らが話をし始めちゃってさ。
しかも内容が内容だから降りるわけにもいかないし」
「き、聞いてらしたんですか?」
「うん、まあ、な」
さあて、なんと言うべきか。
「キャロルの推測は的中してるぞ。俺こそが名無しだ。来月で四百七十歳になる。
東方より来たりて王都を救い、魔王の心臓に剣を突き立て、勝利をもたらした勇者だ」
地面に降り立ち、言う。
エレノアもキャロルも、突然の登場にまだ泡を食っているようだ。
「で、キャロルはどうするんだ? お前の言ったとおり選ばせてやる。
ここに残るか、それとも出て行くか。
奴隷のこととか、出て行った後の行き先とかそういうことは考えなくてもいいぞ」
「私? 私ですか? 私は例え出て行けって言われても出て行きませんよ。
先生がこの世界で最も優れた賢人であることが証明された以上、石にかじりついたってここに残ってみますわ」
キャロルは青色の瞳でこちらをじっと見つめてきた。
キャロルはそうだろうな。
最近は格好まであいつを意識していて、黒い三角帽子を真似して常に被るほど、あいつに心酔している。
一体何世代前の魔女スタイルなんだよ、と突っ込みを入れたい。
「そうか、なら別にいい」
「ところで、お兄様。お兄様が名無しの勇者なら、魔法が使えるんですか?」
「まあな、攻撃魔法くらいなら……って、その前に聞くことはないのか?
お前らの話じゃ、俺は『三つ首の悪魔』ってことにされてるんだろ?」
偉く普通に接してくるキャロルに今更ながら気付いた。
正体を明かしたらもうちょっと驚かれると思っていたんだが……。
エレノアが驚いていないのは、育ちが良すぎるため、少し物事を二歩三歩遅れて考えているからだ。
自分にはついていけない話には口を挟まないように躾けられているのか、黙って聞き役に徹している。
剣術のケイトに、魔術のキャロル。
エレノアは長女であるが故に、妹たちよりも自由を制限されていたんだろう。
「ふふん、あんなの作り話に決まってるじゃないですか。
ちょっとくらい頭が回って、名無しの勇者伝説のことを真剣に調べた人がいるならわかりますよ。
誰も倒せなかった魔王をたった二人で打ち倒した勇者が悪魔になって、
どうして戦力が激しく減退していたはずの国の騎士団で倒すことができますか?
神の力を得た勇者に代わる勇者『エリント・フォン・ドルリエ』が出てきた、と書かれていましたが、
それに関する歴史的資料には色々と矛盾点が多くて、役に立ちはしません。
実在したエリント・フォン・ドルリエは、ただの貴族で戦闘訓練は積んでいませんでしたし、
神の力を得たといいつつも、残存モンスター討伐に直接参加したことは一度もありませんでした。
他にも上げれば枚挙にいとまがないくらい胡散臭い点が多いんですよ。
名無しの勇者が、魔王を倒すところまではちゃんと筋が通っているのに、それ以降がガタガタで、
何らかの見えない力が働いていた可能性があるというのは、今や歴史家の間にとっては常識なんですの」
……ほほう、もう人間なんかに期待しないっ、なんて思っていたけど、中々どうして成長したもんだな。
あと関係ないけど、糞エリントはぶっ殺す。
もうとっくに死んでるが。
「ただそれは飽くまで歴史家の中の話で、一般じゃまだまだ名無しの勇者は悪魔のままなんですけどね。
四百五十年の間続いたプロパガンダは、今や数年で掘り返すことのできない根深いものになっていますわ」
「そ、か。まあ、今更俺のイメージのことなんてどーでもいいんだけどな」
イメージはどうでもいいが、キャロルが賢明な判断を下してくれて少し助かった。
俺らの正体に気付いて、エレノアやケイトを煽ったら今以上にややこしいことになっていたに違いない。
「私は……よくわかりませんが、ご主人様が三つ首の悪魔なら、別にそれはそれでいいかな、と」
ふと忘れたころにエレノアは口を開いた。
おっとりとした口調で言っているものの、嘘を言っているようには見えない。
こういう反応が一番コメントに困るなあ。
普通の人間からは恐れられるくらいの反応をして貰った方が正直な話一番楽なのだ。
ちょっと胸が温かくなるような、優しいお兄さんを演じていて報われたなー、と思わなくもない。
「ところで話は戻りますけど、お兄様、魔法を使えるんですよね」
「ん、まあ、な。理論とかは簡単なことくらいしかわからんから高度なものを聞かれてもわからんけど」
キャロルは突然しなを作り、俺に体に肩を当てて、顔を見上げてきた。
「なら、それを見せて欲しいんですけど。
勇者の魔法は大きな光を放つ神聖なものと聞きましたから」
「いや、無理」
断ったらキャロルの顔が変化した。
あからさまな落胆っぷりで、実にわかりやすいヤツだ。
「俺の魔法は威力を抑制してもかなり大きい音と光が出るんだよ。
試し打ちなんてしたら、イムイム村の連中が驚く」
ただでさえ、デルパ山には天狗が住んでいる、などと変な噂を流されているのだ。
これ以上刺激して、賞金なんかをつけられたら別の場所に引っ越さなきゃならない。
別にここに執着しているつもりはない。
ただ他の場所を探し、新しく家を造って荷物を運ぶだけでも結構な労力になる。
キャロルはタコみたいに口をとがらせて、不機嫌さを全開にしていた。
文句を言ったりはしないものの、向学心が旺盛なキャロルは俺の魔法を解析しようとしていたんだろう。
ただの魔法ならまだしも、勇者だけしか使えない魔法もあるからな。
もちろん、永世勇者補佐のあいつは俺の魔法よりももっと高い威力の魔法を使える。
俺でも全力をもって魔法を放てば山を一つ消し飛ばせることもできるんだから、
ずーっと魔法の研究を重ね、魔力を高める修行をしていたあいつなら一体どれほどの威力があるのか。
想像すらできない。
何年前か忘れたが、一度あいつと俺が魔法を打ち合ったときがあったけど、
あのときは手も足も出なかったというか、もはや一方的な蹂躙だったからな。
俺の体は塵も残さず消滅させられたわけだ。
体が完全消滅しても、全く死なないのが永世勇者の辛いところだ。
ん、まあ、魔法は見せられないけど、ちょっとしたパフォーマンスくらいは見せてやろうか。
「クタートッ!」
俺の声と同時に、家の空き部屋の壁がばりばりと音を立てて割れた。
壁の割れ目から飛び出てくるのは『名の無い剣』
名の無い剣、とはいうものの、実際には名前がある。
いや、本来はなかったはずなんだが、ちょっとした事情があって『クタート』という名前が存在するのだ。
名の無い剣は俺の手に収まって、動きを止める。
いくつものルーンが刻まれた柄、強力な魔力が篭められた黒い鞘に入れられた白銀の剣だ。
黒い鞘を抜きはなつと、刀身がこの世に現れる。
自ら光を発し、ウォォォと唸りを上げる『名の無い剣』
とある鍛冶師の体に神が宿り、一晩のうちにこの剣を作りあげた。
その鍛冶師の息子が俺なんだがな。
「どうだよ? カッコイイだろ?
勇者にしか抜くことのできない『名の無い剣』
一々呼びだすたびに壁を修復しなきゃならないのが面倒だが」
剣が飛んできた方向を見ると、また壁に大きな穴が開いていた。
あの穴を修復するのはもちろん俺だ。
いっそ、呼びだしたときに開閉するドアか何かを付けておこうか。
「ふふん、見せるのは何も剣だけじゃないぞ」
そういって一歩下がり、名の無い剣で左腕を肘の当たりから切り落とす。
相変わらずわけのわからない切れ味だ。
空気を斬るのと、腕を斬るのとで全く感触が違わない。
「きゃああああああああッ!」
「ご、ご主人様、う、腕が、腕がぁッ!」
「まあまあ、慌てなさんな」
斬られた左腕はぼたっと地面に落ちる。
落ちた腕の傷からは血が溢れ出て、地面を赤く染めている。
俺の肘の切り口からは少ししか血が出ない上、すぐに止まった。
うっすらと腕の輪郭が浮かび上がり、段々と彩度が上がっていき、五秒と立たず実物となった。
「ほらな。いくら斬ろうがこんな風に復活するんだ。これが勇者の不滅の肉体の本領だ。
例え全身が灰も残さず燃え尽きても、一分もかからず完全復活を遂げる。
死ねないことに感謝すりゃいいのか、恨めばいいのか、わからないけどな」
名の無い剣を鞘に収めた。
この剣ってあまりにも切れ味が鋭すぎるから、使いづらいんだよね。
あんまり木を切るのに適してないし、魔王だって素手で倒せるから、使う場面はほとんどない。
キャロルとエレノアはまだ青ざめた顔をしている。
うーん、ちょっと刺激が強すぎたか?
手首くらいにしておいた方がよかったかな。
とりあえず、斬った腕は捨てておこう。
落ちた腕を拾い上げると、手首を掴み、そのままぶん投げた。
木々の上を回転しながら飛んでいって、空の彼方に消えた。
あとは動物達が食ってくれるだろう。
「お、お兄様、い、痛くないんですの?」
「腕は斬ったら普通は痛いもんだ」
「で、でも今……」
「痛いけど、どうってことはない。死なないし、痛みになら慣れてる。
俺は魔王と戦った勇者だぞ、全身の皮膚を炭化させられたり、
肉を腐食させる呪いをかけられたり、痛みだけをもたらす魔法なんてのも掛けられたことがあるからな」
「そ、そうですの……」
ふと見たら、エレノアはぼろぼろ大粒の涙を流していた。
そ、そんなショッキングだったんだろうか?
「も、もう止めてください、ご主人様」
「お、おおぅ!?」
「ご自分でお体を傷つけるような真似は、おやめくださいっ!」
いつもは大人しいエレノアが大きな声を上げているのにちょっとビックリだ。
「わ、わかったよ。エレノアがそう望むんなら、そーしてやる」
別に俺は狂った自傷癖は持ち合わせていない。
今回腕を切り落としたのも、ビックリ人間ショーみたいなノリだった。
ただ見せる相手が悪かったようだ。
俺が名無しの勇者であることを告げたときでさえ、のんぽりしていたエレノアが、震えて泣いている。
罪悪感で胸が締め付けられているような感じがする。
少し脅かし過ぎたってレベルじゃねーな。
「すいません、お兄様。エレノア姉さんって、血とかそういうのに耐性なくて……」
「お前はあるのかよ」
「魔法に血はつきものですから」
キャロルはエレノアの肩を叩いて宥め始めた。
うーむ、失敗したなあ。
きゃーすごーい、というリアクションを期待していたのにこんな結果になるとは。
普通の人間ってこんなに血を見て泣いたりするんだろうか?
昔の俺だったらわかったんだろうが、今はもうわからん。
痛みっていうのは元々生命の危機を知らせるためにあるものであって、
不死身の俺にとっては、ただの普通の人間だったときの名残でしかないからな。
普通の人間とは腕一本切り落とすことの意味の重さの違いがはっきりしているようだ。
「でも、腕を切り落としてもまた生えてくるって便利ですね。
どうしてもお腹が減ったときとか、自分の腕を食べてしのげるんじゃないんですか?」
「自分の腕なんてまずくて食えたもんじゃないさ」
「食べたことあるんですの?」
「二回くらい、な。俺は餓死をしないんだが、まあ、ちょっとした事情があって……」
「どんな事情なんですの?」
「……言いたくない」
長く生きていると、思い出したくない記憶なんてたくさんある。
もう今ではそういった過去とは上手く折り合いをつけられるようになってきている。
「そんなことより、もうちょっとキャロルの話を聞かせてくれよ。
なんで俺が名無しの勇者だとわかったのか、その理由を最後まで聞いていなかったろ」
名の無い剣をほいと木に立てかけた。
ポケットに入っていたハンカチーフを取り出して、今も嗚咽するエレノアに渡して、
俺も背中を軽く撫でてやる。
もちろん、右手でだ。
「お兄様が勇者ではないか、という疑問を持ったのは初日のことでしたわ」
「初日? 結構早いな」
「私、頭の中で人に自分流の名前を付ける癖があるんですの」
「ああ、なるほど、そういうことか」
『名無し』は伊達ではない。
俺という存在につけられたあらゆる名前は、消滅するのだ。
だから例えば、キャロルが俺のことをミッシェルと名付けたら、
その次の瞬間、ミッシェルという言葉がキャロルの頭の中から消滅する。
紙に書きとめるなどの物質的に残しておくことは可能だが、それを覚えることは決してできない。
なんでそうなっているのかは説明が出来ない。
世界がそういう構造になっているから、としか言えない。
なんで? なんで? と問い続けた極限に至った答えと同じく、
俺の名前が消失する理由は神のみぞ知ることになる。
そういった何かしら働いている見えない力のことを俺は仮に『世界の力』と呼んでいる。
特に俺はそういった『世界の力』に影響されやすいのか、
俺は俺に付けられた名前を誰かが声に出しても、その音を認識できないし、
誰かが俺の名前を何かに書いたとしても、その文字を読み取ることができない。
ただ、これも実は例外の事柄が一つあるのだが、今回は割愛させてもらう。
「そこから、名無しの勇者伝説のことを調べようとしたんですわ。
まずは先生の書庫に入る許可を得て、過去の伝説や物語がまとめられた本棚へ行ったんですの。
先生の書庫には国立中央図書館に匹敵するほどの蔵書数があって、
私が探している本がある本棚には、世界各地の細かな物語から有名な伝説まで多くの本が揃っていたんですが、
その本棚の中で『名無しの勇者伝説』という最も有名な伝説の本がなかったんですの」
「ああ、あいつ、歪められた伝説のことを毛嫌いしてるからな」
曰く、この私が逆立ちして下劣な言葉を言い続けてるなんて信じられない、だそうだ。
この俺が三つ首の悪魔と呼ばれているのに対し、あいつは『五つ足の悪魔』と一般的に呼ばれているが、
それは最大の禁句で、俺がそう呼ぼうものなら肉体を粉々にされる。マジで。
「本が無い以上詳しく調べることはできませんでしたので、
微かに残っている記憶で、何か証拠はないか、と空き部屋なんかを探索していたときに、
その、名の無い剣を見つけましたの」
名の無い剣は、俺以外の人間には決して抜けない剣だ。
だから伝説通り刀身が光っているかどうかを調べるのは無理だったろうが、
柄に刻まれたルーンが少し特殊なので、キャロルの予測の参考にはなったんだろう。
しかし、それだけで特定するのは証拠として少ないな。
名前をつけられないのも、本がないのも、名の無い剣らしき剣も状況証拠でしかない。
別に推測だけならば十分立てられるが、キャロルがエレノアやケイトに告げるのにはちょっと動機が弱い気もする。
「確証は、先生の契約書を見たことなんです」
「あいつが見せたのか?」
「いえ、先生が留守にしている間こっそりと……」
な、なんちゅー恐ろしいことをするんだこの子は。
俺がそんなことやろうものなら、底がないといわれている『大地の割れ目』から突き落とされるぞ。
実際に落ちてみたところ、底はあったけどな。
体が溶けちゃったが。
「契約書……悪魔や精霊なんかと契約を結んだことの証明書みたいなものですわね。
この契約書には名前の記入が必須なんですが、
確かな効力を持った契約書に普通に『永世勇者補佐』と書かれていたんですの。
普通こういった類のものに、肩書きといったものを書いても意味がないのですが、
永世勇者補佐、というのはこの世界にたった一人しかいないわけですから、認証されたものなんでしょう。
契約書は偽物ではありませんでしたし、その通り書かれているので、もうこれこそが確固たる証拠だと思いまして」
「いや、お前……よくあいつに殺されなかったな」
キャロルはきょとんとした目でこっちを見てきた。
お前は何を言っているんだ、とばかりの目つきだが……これは、やっぱり。
「先生はそんなことしませんよ」
そういった途端、キャロルの体がほんの少し小刻みに震え始めた。
目尻にうっすらと涙が溜まり、今にもこぼれそうになる。
これ以上はまずい。
キャロルの腕を掴んで引き寄せると、顔を俺の胸に押しつけて宥めた。
「大丈夫、大丈夫だ。あれは全部夢だから、な」
「お、お兄様……せんせ……ごめんなさい、もうしません、許しテクダサい」
やっぱり見つかっていたか。
手加減はしているだろうが、あいつのお仕置きは常人には耐えられないだろう。
おお、キャロル、かわいそうに。
決して触れてはならないものを触れてしまったんだろう。
だがやがては好奇心が我が身の破滅を呼び起こすことを知るのは大切なことだ。
懐かしい。
あいつが取っておいた栗のケーキを勝手に食べてしまったとき、俺もお仕置きを受けたからな。
キャロルは俺の腕の中でがたがた震え、涙で俺の上着を濡らす。
時間が経つとともにゆっくりと落ち着いてくる。
ふと前を見るとエレノアが泣きはらして赤くなった目で、何故か恨めしそうにこっちを見ていた。
「ど、どうしたエレノア?」
「……別に何もありませんわ」
ぷいっと顔を逸らすエレノア。
言葉に刺があったり、態度の不機嫌さからは、どう見ても何もないようには見えない。
キャロルの頭をぽんぽんと優しく叩いてやったあと、ゆっくり引き離した。
「ご、ごめんなさい、お兄様……なんだか急に寒気がして……」
「ああ、別に構わないぞ。もしまた辛くなったら、俺に言えよ。
特に雷の日の夜とかしんどいだろうからな」
「も、もう、そんな子どもじゃありませんわ」
ぐず、と鼻をすするキャロルだが……雷の轟音はきっとトラウマを触発させるだろうからな。
記憶を消す処理はしてあるようだが、根の深いところまで消し去るようなことはしていない。
多分、キャロルはこんなトラウマを植え付けられた以上、戦闘魔法使いとしてはやっていけないだろう。
ま、キャロルは学者畑で活躍するようなタイプだから、これも一つの親心なのかもしれない。
「で、キャロル、俺たちを名無しの勇者だと見破ったことはわかった。
じゃあ、なんでお前らが俺たちに買われたのか、それはわかったか?」
「いえ、それはまだ、調べてません」
「ふーむ。お前のことだから推測の一つでも立ててるんじゃないのか?」
「……いえ、本当に何も……今お兄様に指摘されて初めて、
そういえばなんで私たちが買われたのかしら、と思ったところで」
うーん、普通、俺たちの正体を見破ったらそれを考えると思ったんだがなあ。
「正直、舞い上がってましたわ。
確信を得られて、それだけで満足していたというか……目に入りませんでしたの」
そうか。
ま、そういうもんなのかもしれんな。
「じゃ、次までの宿題ということにしてやろう」
「え? 教えてくれるんじゃないんですの?」
「まあな、自分でたどり着くならまだしも、今はまだ俺から教えるようなことじゃないしな」
見たこともない人物のせいで、今のこいつらが振り回されるようなことはしない方がいいだろう。
「ただちょっと今回のはシビアかもしれんぞ。ヒントを一つくらいやろう」
と、言ったところで少し戸惑った。
ヒントをあげて、変な勘違いされては困るな。
そこんところは教えてやろう。
「一応言っておこう、俺らはお前らを苦しめるために買ったわけじゃない。
そこんところは確認しておくぞ。
じゃ、ヒントだ。『ドルリエ三令嬢』……いや今は元三令嬢か」
エレノアとキャロルがあからさまに反応した。
こいつらも今までずっと『エレノア』『ケイト』『キャロル』としか名乗らなかった。
もちろん、奴隷の身分に落ちた以上、以前の生い立ちなど捨て去る決まりだが、
それでも一度も名乗らないのは変だ。
今まで俺から聞いたことはないが、聞いたところで教えてくれなかったに違いない。
なんてったって、貴族の生まれなんだからな。
かなり前から落ち目の家だったとはいえ、
三人の娘はわざわざ自分の素性を恥知らずじゃあるまい。
「どうしてそのことを……」
反応したのはエレノアだった。
長女であるが由縁か、特にそういうことに敏感のようだ。
「俺にだって物事を調べるスキルくらいある。何もキャロルや永世勇者補佐の専売特許じゃないのさ」
不安そうにしているエレノアの肩を軽く叩いた。
今となっては……つまり、俺が名無しの勇者であるということがわかってから、
エレノアには別の懸念が生まれているんだろう。
ドルリエ家は、昔はかなり有力な貴族だった。
最盛期は、そう、ざっと四百五十年から四百年くらい前あたり。
当主が三つ首の悪魔と五つ足の悪魔を大地の裂け目に突き落とした勇者だったという話さえある。
その後、王から娘を嫁に貰って、ますます力を付けた。
ただ、時代の流れというのは残酷なもので、段々と力を失い、最後の当主は借金に首が回らなくなり、
首が回らないんなら吊っちまおう、と自殺してしまった。
お家取り潰しになった上、借金返済のため、何もかも売り、娘も売って今に至る。
こいつらが三人セットで売られていたのも出身が理由だ。
金を持っている商人っていうのは、大抵が貴族に嫉妬している。
どんなに貧乏貴族ですら、生まれの卑しさというものが理由で、商人のことを嘲ったりする。
商人はそれがどうにも我慢ならないらしくて、自らも貴族になりたがろうとする。
だけれども、貴族の血というものは金では買えないし、
買えたとしても金額が高すぎたり、条件が付いていたり、やたら手間暇かかったりする。
エレノア、ケイト、キャロルは三人セットで売りに出された。
大抵性奴隷というのは、奴隷商側が調教を施し、閨の技を覚え込ませるものらしいが、
元、とはいえ貴族という箔がついた三人は全く手を付けず、むしろ純潔ということをアピールポイントとして売られた。
元貴族の娘を犯したところで自分が貴族になれるわけではないが、代償行為くらいにはなるだろう。
貴族の尊い血を汚すことに特別な快感を感じたりもするんだろう。
エレノア達がもし永世勇者補佐に買われることが無かったら、
ケイトの剣術の腕も、キャロルの魔法の才能も生きることも無く、
変態商人どもの愛玩具として、一生を過ごしていたのは間違いない。
よくよく考えてみればすごいもんだ。
滅多に奴隷として売りに出されることのない元貴族の娘。
三人セット。
全員処女。
器量良し。
文句のつけようのない完璧な奴隷だ。
具体的な金額はわからないが、びっくりするほどの高額商品だったんじゃなかろうか。
需要は限りなく高いだろうし、オークションか何かで売られるだろうから値段は青天井だったのは想像に容易い。
俺が初日にどうでもいいって言ってこいつらすごく驚いていたけど、それも無理はないような気がする。
というか、永世勇者補佐のあいつは一体どっからそんな金を集めたんだろう?
知りたいような、知りたくないような……。
あいつは空間転移の魔法が使えるから、俺の知らないところで何かをやっていても不思議じゃない。
「不安か、エレノア?」
出自を知られたことがよほどショックだったのか。
エレノアの顔は若干青ざめていた。
「いえ、大丈夫です」
割り切れないところも色々あるんだろう。
俺は事実関係のみしか調べていないし、どういう経緯で没落したのかは知らない。
だから詳細はほとんどわからない。
安心しろ、と俺がエレノアに言ったところで説得力無いだろう。
でもやっぱり言うべきことは言っておかなきゃダメかな?
「いいかエレノア。俺は永世勇者だ。
気まぐれでストライキ起こしたら、人類は終了する。
我ながら軽い性格の持ち主だと思うが、この世界で最も重要な存在であると自負している。
そんな俺が、お前の過去なんてことにいちいちかまうと思うのか?」
「……」
あー、もう面倒だな。
この後ケイトがいると思うとうんざりする。
「ま、俺から言えることはこんなことくらいだ。
俺はお前の事情を深く調べたわけじゃないし、例え調べたところでお前の気持ちなんてわかりっこない。
思う存分悩んで、苦しめばいい。少なくとも、全く無駄にはならんさ」
恋でもしたら悩みもなくなるんじゃなかろうか。
そういえばイムイム村のケリズとかゆーのが中々の男前だったような気がする。
今度紹介してみようか……あ、いや、そういえばケリズは死んだったんだな。
九十二歳の大往生、ひ孫に囲まれて幸せな死を迎えたって風の噂で聞いた。
「キャロルは……ま、お前は大丈夫か」
「ええ、私は末女でしたから」
キャロルはそう控えめに言ったが、胸の内には恐らくもっと他のことが蠢いているのだろう。
調べてないが大抵分かる。
長女のエレノアは家存続のため貴族に嫁がせ、次女のケイトと三女のキャロルは、
奴隷にせずとも商人に金と引き替えに嫁入りさせる。
彼女らの父親はあんまりろくな人間じゃなかったようだからな。
家に対する価値観が、姉妹といえど違うんだろう。
本当はもっと言いたいことがあるんだろうが、エレノアに遠慮して黙っているってところか。
「じゃ、今回はここいらでお開きってことで」
エレノアはこの後悩むんだろう。
それが悪いことだなんて言えない。
定命の人間は、生まれてきたときに世界の全てを得て、死ぬときに世界の全てを失う。
結局はゼロなのだから、生きている間の足し算と引き算はより多くやっていた方が、ゲームとしては楽しめるだろう。
エレノアとキャロルは自分の部屋に戻っていった。
ま、なんだかんだ言ってあの二人の問題で、俺が今やれることはやった。
あとは時間が解決してくれるだろう。
さて、残ったのはケイトだけか。
ま、今夜あたりが山だろうな。
気付けばすっかり昼寝をする気が失せていた。
あれだけ濃い会話をしたあとだ、それも無理はない、か。
ただ少し残念だったような気もする。
しょうがない、今日は早めに夕飯の支度に取りかかろうかな。