「厄魔が出ますぞ」  
皺だらけの顔に出来るだけの心配を作ってみせて長老は言った。  
上座に座らせられた聞き手の若者は、鬱陶しさを極力見せぬように努めていて、  
少しでも気を緩めれば欠伸が出そうになっていた。  
顔立ちも無骨であるが、野卑な印象を与えない。服装も華美でないが、質が良い。  
人並みな背丈だが、筋肉がしっかり付いている。  
それよりも目を引くのは、壁に掛けられた大刀と樫の皮のような髪色。背が丸い  
のと髪の所為で猿のような愛嬌がある。  
梢楓、字を秋応。齢は十八。翠尾猿などと呼ばれている。  
愛用の兜の毛が異様に長いからだ。こう呼ばれるのは嫌ってもいない。  
父は円王朝で武玄王などと謳われた梢統である。  
その梢統から旅を与えられたのは六日前のこと。  
西の彼方にあると言う王国に行くよう命じられたのだ。奇獣の多い地域だが栄え  
た国で、円王朝との同盟も長い。アルだとかという龍人を訪ねろ。とも言われた。  
旅は初めてだが、好きだった。  
知らないことが多々見えてくる。邑の民の結束、都の政策が末端にもたらすもの。  
決して平穏な宮城では会う事も無かった人々。  
ただ面倒も多く、特に家柄が明かされた時の媚びる姿勢は、見ているだけで腹が  
立った。少しでも梢家に気に入れれようとするのだ。  
「いえ、なにぶん急いでおりますし、ご迷惑もおかけできない」  
慇懃に頭を下げて梢楓は邑の申し出を拒否した。  
「迷惑など!むしろ私どもの接待が事足りるか…いやはや。最近は奇獣も多く出  
ます。どうか我が邑に…」  
「そのように尽くされてはそれこそ私の徳に背きます」  
笑いながら梢楓は眼を大刀にやった。熟練したものなら本気でない事は一目でわ  
かるが、素人には武家の者の癇に触れたと思うだろう。  
怯み、長老は諦めたようにうつむいた。  
「せっかくのご厚意、申し訳ないが私はこれで」  
「はい、ただ。ただ、この先の山は本当に厄魔が出ます。どうしても無理でした  
ら引き返してくださいませ」  
梢楓は一度頭を下げて、  
夕刻に雨。山道を馬と行く。  
雨が振るのは予想していなかっただけに、備えも悪い。  
「まずいな…」  
雨は火を消す。野宿で火をおこさないまま眠るのは危険すぎるから、夜を徹して  
いることになる。これならば面倒だが麓の邑でやり過ごすべきだったか。と思っ  
たが、すぐにその長老の媚びた顔を思い出して、あきらめた。  
「ここの雨は長いぞ、武芸者」  
後ろから随分と小さい声。振り向くと深々と笠を被っていて、持ち物からすると  
猟師のようだ。左手には捕らえたばかりと思われる兎が、首を折られて力なく垂  
れている。  
「あんたは?」  
「この近くに庵を立てて住んでいる。お前が下の邑から出てくるのをみていた。  
『厄魔』と言ったほうが分かりやすいかな?」  
しわがれた長老の声が反芻される。  
その割に、敵意は感じられない。とすれば、邑全体での隠蔽らしい。と梢楓はす  
ぐに悟った。あらためてあの邑に泊らなくて良かったとも思った。  
「濡れたくないならついてこい」  
多少楽観的に思えたが悪意は微塵も感じられない。ついていって間違いは無いだ  
ろう。手綱を引き、梢楓は山道を外れた。  
 
草の匂いがした。  
庵の中は使い古された皿と鍋、それと干し肉。干し肉の臭いで獣を寄せぬよう回  
りに薬草が敷かれている。  
「武芸者。お前はどのくらいここに居座れる?」  
はじめは雨で気にしなかったが、この庵の主はずいぶんと声がくぐもっている。  
壮年かとも思えたが、それにしては健脚すぎた。慣れているとはいえ濡れた足場  
も躊躇なく進んでいた。  
まだ笠を脱がない庵の主に、梢楓は疑問の目を向けた。  
「武芸者ではない。行き先が定まって旅をしている。だから長くは居られん」  
そうか、と言うと主は笠の紐をほどいた。  
「ならば好都合。武芸者、頼みがある」  
面を覆った包帯が声をくぐもらせていたらしい。戦役で大きな怪我をしたのかも  
知れない。梢楓はぼんやりと考えた。  
「銀五粒だ。銀五粒で私を助けてくれないか?」  
梢楓でさえ、一瞬気後れしそうな眼差しがこちらを見据えていた。  
「助けるって?」  
「出来ることなら何でもする。頼む」  
刃圏に入ったような緊張感を出してくる瞳が、瞬間憂いを帯た気がした。  
「喫緊時なのは分かったが…」  
梢楓の言葉で気がついたらしく、庵の主は弾かれたように、包帯を解いた。  
「あぁ済まない。長い間つけていたから忘れていた」  
「!?…いや、気にしないでくれ…?」  
梢楓は言葉を探した。全く予想していなかった事態に、困惑を隠せずにいた。  
「ん?何だ、私が髭面の猟師とでも思ったか?雪李妹(シェイリーメイ)。よろし  
く頼む」  
包帯がはらりと床に落ち、露になった顔。  
収められていた黒髪は溢れるように肘の高さまで伸び、長い睫が服装にそぐわし  
くない艶やかな印象を与えた。  
誤解を恐れず言えば、梢楓は母、明花を美人だと思っていた。穏やかで柔らかな  
美しさを持っていた。  
この雪李妹と名乗った女は真逆の美しさを放っている。氷の彫刻のような危うさ  
と、どこまでも惹き付けられる魅力。そのなまめかしい瞳には、はかり知れない  
激情が燃えていた。  
その瞳がこちらを見据えて笑うと、一層妖しい美しさが引き立ち、梢楓は思わず  
目をそらせた。  
「そっちこそ名は?」  
布を取り払っても、声は小さく、女としてはかすれている。  
「梢秋応だ…!気は使わなくていい。嫌いなんだ。煩わしいだけだからな」  
「そうか。では梢。私を助けてくれるか?」  
「…何をするつもりだ?」  
「うん。実はな…私を娶ってほしい」  
 
何を言っているのか、頭が及ばなかった。―娶ってほしい―そう聞こえた気がし  
た。梢楓は自身の目尻を何度かつねった。痛みをおぼえるので、どうやら夢では  
ないが、こんな事は夢魔などの悪戯ではないのか。  
そう思えて仕方ない。  
「まさか。冗談にしてはたちが悪い」  
「何故だ?」  
「あんたみたいな美人から言い寄ってくるなど、都合が良すぎるな」  
言うや、雪李妹は少しだけ頬を紅く染めてうつむいてみせた。  
「美人だなんて…照れるな。梢に言われるなんて…」  
囲炉裏の薪が気持いい音をたてて割れた瞬間、雪李妹が梢楓に唇を寄せた。  
接吻などは初めてではない。兄に連れられ妓館に言ったことがある。初めて抱い  
たのは玄人女で、確かに気持良かったが、こんなものかとも思った。  
だが今の不意を衝かれた口付けにどのような意味があるのか、梢楓は混乱した。  
「顔が紅いぞ、梢。まさか初めてだったか?」  
「馬鹿にするなっ!」  
くすくすと笑う冬李妹をみて、梢楓は思わず両肩を掴み、床に押し倒した。端か  
ら誘っていたとすら考えた。雪李妹の着物を乱暴に取ろうとした段に至って、梢  
楓はようやく、脅えと後悔を孕んだ雪李妹に気がついた。とっさに離れて頭を掻  
く。  
「…申し訳ない。我を忘れたなどと言い訳はしない」  
「梢は…雌犬をだけるか?」  
また奇をついた言だが、そのままの意味を尋ねているらしい。  
「いや…考えた見たこともなかったが…」  
「ふふ。ならば私を抱けるはずもない。畜生以下の厄魔だからな」  
やはり声は聞き取れる最低限ほどで小さい。  
雪李妹が泣いている。声もあげず、ただ涙がその眼から流れ落ちていた。  
 
起き上がり、雪李妹は自らの帯をほどいている。  
「な!!?…何を!?」  
返事をしないまま帯を投げ捨て、こげ茶の着物を取り払う。  
梢楓は息を飲んだ。引き締まり、無駄のない美しい肢体。形の整った乳房。だが  
梢楓の目を奪ったのは身体中のに残った傷痕と、右肩から二の腕までの一際大き  
な火傷痕。並々ならぬ過去はすぐに分かったが、あまりに壮絶がすぎた。  
「梢はこの躰の意味が分かるか?」  
首を横に振ることしか出来ずにいた。  
「…私はここよりずっと西で生まれた。家は各地で商いをしていた。両親と姉、  
豪商と言うほどでなかったが、家族と幸せな暮らしを送れた」  
話ながら雪李妹は天井を虚ろに眺めている。黙って聞いておこうと思った。  
「この邑に来たのは五年前。今日と同じ雨の日だったな。私達は下の邑の宿で過  
ごすことにした。当然の考えだろう?だが、あの邑というのが間違っていた…」  
冬李妹の歯軋りが静かな庵に響く。雪李妹は耐えているのだ。闘っているのだ。  
肌がぴりぴりと痛みを感じるほどに悲しい気が漂う。  
「行商の父は財を常に持っていた。あの邑が何をしたか分かるか?」  
「!!…強奪」  
「鋭いな。そうさ、父と母は殺され、姉と私は連れていかれた。邑長の家の納屋  
だ。あそこの農夫たちは保身のために働かされていたのさ。連れて行かれた私た  
ちを生かす理由は無かった。処理はなんでも良かった。売るには私たちは現場を  
見すぎたからな。ではまた質問。一体そのとき、何があったと思う?」  
「ッ…!」  
梢楓も何があったのか薄々感づいている。ただそれはあまりにも、悲痛で現実に  
起きていいものではない気がして言葉にならなかった。  
「遊びさ」  
雪李妹が口元に冷たい笑みを浮かべた。  
割り切っていると言うよりは、諦めに近い気がした。  
「奴らの飼い犬どもに爪で掻きむしられ、犯され続けた。私達が泣くほどに喜ぶ  
奴らの顔を、今でも覚えている。犬の精に混ざって破瓜の血が見えたとき、よく  
肥った一人息子が手を叩いて笑っていた」  
話しながら雪李妹は肩の火傷を撫でた。  
「…」  
「散々に汚され、見るだけ見て飽きるまで楽しんだら奴らは納屋ごと火をつけた。  
使い捨ての玩具だからな。姉は自らを捨てて私の縄を切り、逃がした。幸か不幸か、  
私は思い切り焼けた空気を吸ってしまって、声が出なくなった。証人としての力を  
失ったんだよ。だからあえて殺すこともなく、生かされている…」  
「もう、やめろ!」  
聞いていられず、梢楓は黙らせるために冬李妹を抱きしめた。この小さな体が背  
負うには、大きすぎる。今日会ったばかりの女に涙を流した。  
「泣いてくれるのか…ありがとう」  
助けなくてはならない。そんな衝動に駈られているのに、雪李妹があやすように  
梢楓の背を撫でる。心音も梢楓だけが一方的に高鳴っていた。  
「この話を聞かせられる人を何年も、待ちつづけた…」  
「どうして俺にそのことを?」  
「私が梢を信じていて、好いているからだ」  
「たったいま会ったばかりなのにか?」  
「それを言うなら梢も今さっき会った私の話を疑うどころか泣いてくれているじ  
ゃないか」  
彼女とは立場が違いすぎるとも思ったが、雪李妹本人は疑う風も無い。  
「兎に角、一目ぼれというのかな。とにかくこんなに魅かれたのは初めてだ」  
歯に衣着せずに言っているのは分かる。素直な心情なだけに、梢楓は赤面した。  
 
「さて、本題に戻ろうか」  
着物を着なおした雪李妹は、襟を糺してから指で床をなぞった。梢楓もその先を  
見る。邑と庵。それより少し離れたところを示すのに、それぞれ針をつき立てた。  
「私を娶ってほしいといったが、そんなに大仰じゃなくていい。ここから四里先  
(約八キロ)の関所。そこを越えたいのだ」  
「ここから四里…歌紅関だな。誰かの伴侶であるとした方が、女性ひとりよりよ  
っぽど通りやすいと言う事か」  
「違う」  
「何?」  
「誰かの、では無い。梢の、だ」  
それが一番心を惑わすと知ってか知らずか、雪李妹は悪意無く笑ってみせる。  
「っこほん!俺の妻として歌紅関を抜けたとして、その後はどうするつもりで居  
るんだ?」  
「いつでも捨ててくれて構わん。私はただここのそばで生きていくつもりは無い  
だけだからな」  
とんとんと邑の針の頭を叩く。つつく指先にまで、ありありと憎悪がにじみ出て  
いて梢楓は沈痛な面持ちで見つめた。  
「庵はどうする?」  
「出るときに焼き払おう。あぁ、それで、ついでに梢。一度だけ邑にも降りてく  
れないか?厄魔は死にました、とあの老いぼれに言って欲しい」  
「良いのか?そんなもので?」  
「一つ、ここらへんで終わらせたいからな…」  
愛想笑いをして雪李妹は宙を見た。真っ黒な瞳が何を捕らえているのかは分から  
ない。  
「私の願いはこんなものだ。引き受けてくれるか?」  
「銀五粒だったな」  
「足りないなら、もっと…」  
雪李妹は袋から更に三粒、銀の小粒を取り出した。梢楓は八粒を雪李妹の掌にお  
き、ぎゅっと握らせた。  
「金には困っていない」  
「だが…」  
「代わりを考えている」  
「何だ?」  
「この頼みが成功してから貰うさ…」  
その夜は、獲ったばかりの兎を使った鍋が振舞われた。酒もある。  
話では歳は十九だと言う。なぜ尋ねたのかはよく分からない。梢楓も酒には強い  
はずだった。酔ってはいない。  
「悪いな。巻き込んでしまって…」  
「嫌だったら断っているさ」  
面倒では無い。  
助けたい気持ちが暗く冷たいものに変わり、自分の心の底に落ちるのを、梢楓は  
薄い蒲団の中で確かに感じ取った。  
 
翌日、朝のうちに詰所に要請をかけて長老親子を処断した。  
夜から襲われていた残酷な気分はそれで収めようとした。  
身分を明かした途端、武装した兵を五人もつけてくれたのはありがたかったが、  
どうしても後ろ盾を使ってしまったのはいい気分ではなかった。  
権威を利用するのを父は嫌う。しかしいくら怒鳴りつけられようと、これだけは  
譲れない。  
雪李妹は、そこまでやらなくていいと言ったが、それではわだかまりが取れなか  
った。  
 
歌紅関を抜け、二十日。大きめな街で宿に入った。  
会った翌日から、梢楓は覆面を許さなかった。  
街ですれ違う者が雪李妹を振り向く事に、少しだけ優越感を得ていた。  
あまり身分は明かしたくなかった。中々な武家の者だと分かれば、雪李妹との関  
係は変わってきてしまうだろう。せめて知られる前に、せねばならない事があっ  
た。それをしようにも、後一歩と言う所で躊躇ってしまう自分を、梢楓は叱咤し  
続けて今に至る。  
もどかしさとふがいなさに嫌気が差して、梢楓は寝台で意味も無く情けない声を  
漏らした。梢楓の悩みが自分にあるとは思ってもいない雪李妹は、買ってやった  
帯と服をこちらに悪いと思いながらも、嬉しそうに眺めている。  
まだ自分の欲しいものすら素直に言えないが、徐々に雪李妹は明るくなりつつあ  
った。  
「報酬を、まだ聞いてなかったな」  
梢楓は立ち上がって、窓を開け放った。外は夜でも賑やかで露店も多い。  
夜風に乗って香ばしい肉の匂いが入ってくる。  
「良いな。食いに行くか?」  
「はぐらかしているな…」  
「まぁ飯食いながら話すよ。行こうぜ」  
梢楓が雪李妹の手を取る。冬李妹は少し驚いたようだが、嬉しくてそのままつい  
てきた。  
 
「結局なんなのだ?」  
酒屋に入った。三組ほどが宴会のように歌を歌い、酒を酌み交わす。  
節操ないが、嫌いでない。雪李妹は少しだけ戸惑っていたようだが、すぐに慣れ  
た。二人を挟んで、焼いた小魚と饅頭。それに羊の肉があったがほとんど無くな  
った。梢楓は終止落ち着かない様子で中々食も進まない。  
「ふむ。それがな。よく分からんのだ。あぁ最後の食っていいぞ」  
「悪いな、貰おう。で、なんだそれは!?」  
「だからだ…」  
梢楓は箸を置いて腕を組んでうなだれる。怪訝な顔で雪李妹が覗き込む。つい、  
眼をそらせた。  
こういうものは大の苦手なのだ。眼を瞑って緊張を紛らわせた。  
「何だ…代わりというか、そう…欲しいものができるまで俺の隣に居ろ」  
声が上ずっている。  
恐る恐目を開いて雪李妹を見る。雪李妹は梢楓が何を言ったのかはじめ分から  
なかったようだが、理解し始め段段と顔に血が昇っていった。  
「…とりあえず、場所を変えよう。ここでは話しづらい」  
 
宿に戻るまで、雪李妹は何も喋らなかった。  
不機嫌なのか、気持ちの整理がついていないのかは、よく分からなかったが、そ  
の神妙な面持ちは梢楓を不安にさせた。  
「あの店の味が…嫌だったか?」  
「…違う」  
「夕刻の雑劇を見れなかったからか?」  
「私は最初から見なくていいと言った」  
「じゃあ、なんだって…」  
「分からんか」  
分からないはずが無いが、聞くのは怖かった。  
言うなり冬李妹は梢楓の袖を掴んで、寝台に座らせた。すぐに雪李妹自身も隣に  
座って向き合う姿勢になる。  
「あれでは嫌なのだ。私は梢にとっても荷物でしかないのか?」  
「そんな訳なかろうが」  
「ならばだ。…もう一度、その心根を誤魔化さずに言ってくれ。お前の言葉で」  
真面目な顔をしたまま、かすかに手が震えている。  
梢楓はその手をしっかりと両手で握った。握ったは良いものの、自分のほうが焦  
ってしまう。それでもここは自分がやらねばなるまいと、口を開いた。  
「…好きだ」  
雪李妹は狐につままれたような顔をしていた。  
「…それだけ?」  
「………」  
このときだけは口の巧い兄を羨んだ。雪李妹の口元が緩む。  
「っく。ははは…梢がそう言うならばそれで良い。私は付き従うだけだ」  
握ったままの両手から力が抜け落ちる。そのままぽとりと寝台の上に垂れた。心  
臓が静まる事をようやく思い出して、頭から血が引いていく。  
「梢、私は正直、梢に相応しいと思っていない。十のときに親は死に、この前まで  
山で生きてきたから、ろくな言葉遣いも知らない。声も無いからな。それに何より、  
穢れきった体だ…それでも…」  
「それでも。俺を信じたように、お前を、雪李妹を信じる」  
梢楓を見つめたままの雪李妹が紅潮し、瞳からはとめどなく涙が溢れた。  
俺が、俺だけが拭ってやれるのだ。と梢楓は再び上がった熱に促されるままに抱  
きしめた。  
「梢…少し、苦しい…」  
「!あぁ、すまん」  
「ふふ…じゃあ」  
「じゃあ?」  
抱きしめられていて、顔が見えないのは冬李妹にとっては幸いだった。  
「抱いてくれるか?今夜。梢の手で、私を染めて欲しい」  
小さな声。外は既に、粛々と提灯を垂らすだけだった。  
 
緩やかな音を立てて、雪李妹の着物が落ちた。ほどいた帯が乗ったままの梢楓の  
手が震えてる。  
「きれいだな」  
蝋燭の元、再び目にした体を眺めて、梢楓はぼやいた。  
慰めや、誤魔化しなどでなく一つの芸術を見ているような気分になった。  
「世辞なんかじゃないからな。本当に。…っ本当だぞ!」  
本当に俺は良い言葉を選べないな、などと軽く嘲笑。事実、繕いの言葉もとこ  
とん下手だった。  
「信じろよ」  
面倒になって、強引に口付けで終わらせる。  
―女は千の口説き文句より、口付けのほうが幸せになれる。―  
一度だけいった妓館の女が言っていた。名前も知らないが、今は感謝している。  
雪李妹は流れる唾液に侵食されたように、体を梢楓に預けた。  
稚拙な口付けは、徐々に互いを求める。  
事実、梢楓が舌を動かした時、雪李妹は拒まずに受け入れた。  
 
 
「梢…」  
名前を呼べる相手。  
誰からも疎まれ、蔑まれ続けた九年間を終わらせてくれたのは、運命的なもの  
だったのかも知れない。  
元々運命など安っぽい信仰でしかないと、雪李妹は思ってきが、それもこの前  
まで。  
運命は存在するのだ。と信じるのは、目の前に、肌を重ねているほど近くに梢  
秋応が居るからだった。  
「梢」  
もう一度名を呼んだ。そして、自分の名を呼び返してくれる。それだけの筈が、  
雪李妹にはどうしようもなくうれしくて、嬉しくて。泣く事しか出来なかった。  
この愛しい人の舌はぎこちないけれど、優しく入ってきて、丁寧に口を染めあ  
げる。  
吐息が甘さを醸しながら、口の端から漏れ出す。  
恥ずかしくなって、冬李妹は元々小さな声を抑えようとした。  
「聞かせてくれ。全部」  
「分かっ…た。ンッ…!」  
唇と唇。そこからしばらくして、肩の火傷へ。それから雪李妹の胸に下がった。  
「ぁ!…」  
「良い…だろ?」  
只でさえ小さな声が出ず、雪李妹は頷いて返した。  
 
分からない事だらけ。  
兄ほど頭も良くないから、考えるのを止めた。  
目の前の乳房は白く、触れると奥のほうから微かな鼓動が刻まれている。  
撫で、それからゆっくりと力が入って、手の中で意のままに形を変えた。  
いとおしくて、離したくなくて子供のように先端を吸った。  
「ぅ、ん・・・!」  
小さな、小さな声を漏らして、雪李妹は首を振った。  
それは、嫌がっているのでなく、快感に流されまいとして言るのだと、経験の  
少ない梢楓にも分かった。  
「下、触っていいよな」  
聞いたきり、返事も待たずに梢楓は雪李妹の秘所に触れた。  
温かくて、柔らかい。文字通り女性的といったような所に、夢中で指を入れた。  
雪李妹がしがみつく。何かに耐えるようだが、先ほどまでとは違って、恐怖も  
している。  
「俺だよ」  
そのたび雪李妹は胸にうずめた頭を縦に振った。分かっていても、恐怖はある  
のだろうか。しかし同時に甘い刺激に体は昂ぶっている。  
「シェイリー」  
「な、何だ…ぁあ。ぁ、それは?」  
「愛称。可愛いだろ?」  
「…馬鹿。っくは、はははは」  
二本まで差し込んでいた指を引き抜くと、雪李妹は、あっと名残惜しそうな声  
を出して、勝手に赤面した。梢楓の指には透明な液が糸を引いている。  
「お願いだ…」  
「ん?」  
「怖さに飲み込まれないように、手を繋いでくれ」  
雪李妹の細い指が絡む。握り返しながら、もう一度口付けをすることで、雪李  
妹を落ち着かせた。  
「入れるからな」  
自分の帯も解き、男のそれをさっきまで指を入れていたところに当てる。  
「じゃあ…」  
「ああ…いいぞ」  
果たしてどれだけの思いでいるのか、梢楓には分からない。ただこうして繋が  
っている事が、自分には気持ち良いこと。雪李妹には泣きたくなる事。  
それだけが事実だった。  
 
怖い。入ってきたもの、抱きしめているもの梢楓なのだと分かっていても、あ  
の日の犬が頭をよぎる。  
そのたびに、抗いかき消すように梢楓の背に爪を立てていた。  
雪李妹は目を瞑る。  
真っ暗。そこにあの二人と、発情した犬たち。どんなに硬く瞼を閉じても、涙  
が止まらない。  
「シェイリー。俺を…っく」  
ごめんなさい。心で叫んでも、血が出るまで梢楓の背中を掻き毟る。  
「俺を見ろ…!」  
涙で滲んだ視界の先。穏やかに笑ってくれている、焦げた茶髪の彼。  
犬が薄らぐ、反比例するように官能的な熱さが下半身から上がってくる。  
「俺がいるから。はぁ。だから俺を見ていろ」  
「…うん。ぁぁ!」  
涙を湛えた真っ黒な瞳が梢楓を射抜くように見つめる。  
湧き上がる情欲。長年塞ぎ込んでいたものが弾けたように、雪李妹は快感を甘  
受した。  
 
「ーーーっ!!!」  
喉を揺らし、声にならない声を絞り出し、雪李妹がびくびくと震えた。  
「シェイリー…」  
男は酒が入ると果てづらい。  
「わがままだが、もう少しだけ付き合ってくれ」  
お詫びのしるしに、軽く口付け。  
汗がにじみ出た肌を掴んでもう一度部屋に、乾いた打つ音と水音を響かせた。  
「守るからな」  
背筋を駆け抜ける快感に、抗う力も残っていない雪李妹は虚ろな目で梢楓を見  
ていた。  
「俺が、誰からでも守るから…」  
(何言ってんだろ、俺…まぁいい)  
雪李妹の香りにうなされるように、射精感が昇ってくる。  
もう終盤だ。  
梢楓は一際大きく動いた。なされるがままの雪李妹から熱にうなされたような  
喘ぐ声。耳をくすぐるような快感とともに昇りきった。  
急いで雪李妹の中からそれを引き抜くと、白い白い腹の上に白濁をぶちまけた。  
 
「楓だ」  
「え?」  
「梢楓だ。忘れるなよ。それに名を教える相手はそう居ない」  
(親父にどう言おうか?まぁいいか)  
「梢。私は幸せだよ」  
俺もだ。そう言おうとしたが、眠気で上手く言えたのか分からない。  
眠りに落ちる寸前、梢楓が見たのは大きな月と穏やかに微笑む女性の顔。  
幸せだ。もう一度、そう告げようとした。  
 

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