ケンダルを背負った魔女のたどり着いた家は、山の中腹に抱かれるようにあり、  
館と言うには小さく、小屋と言うには大きかった。  
古い時代の貴族の狩猟小屋だったらしく、しっかりとした造りをしていて、鹿や熊を  
模した石壁の装飾が、長年の風雪に耐えて摩耗し、一部黒ずみながらも  
切妻屋根の軒にあり、ケンダルを上からじっと見つめているようだった。  
 
「ケンダル、疲れたであろう?」  
「おれは……別に。アディアこそ、大変だったんじゃないのか」  
夕方の薄暗がりの中、魔女の家は不気味に浮かび上がり、知らず知らずのうちに  
体を固くしたケンダルだったが、逆にアディアが背中の筋肉を緩めたことに彼は気づいた。  
「なんの。もう我が家に到着じゃ」  
彼女は大仰な正面の扉に向かわず、裏へ回って小さな勝手口から中に入る。  
と、ケンダルが目にしたのは、威圧感たっぷりの外観とは程遠い、あたたかな  
色合いに満ちた、居心地の良い厨房だった。  
 
赤錆色のレンガの積まれた広い暖炉で、ちろちろと燃える小火が大鍋を温めていた。  
厨房の中央には美しい木目の頑丈そうなテーブルが据えられ、窓と反対側の壁には  
いろいろな薬草が吊り下がっていた。  
そこは、やがて訪れる夜の闇を遮断して、帰宅した者が肩の荷を下ろし、ほっと  
一息つきたくなるような小空間で、ケンダルは先ほどアディアが体の力を抜いた  
わけを知ったのだった。  
 
ケンダルはアディアに促されて背中から下り、テーブルに据え置かれた二つの  
椅子のうちの大きな方に、よじ登るようにして腰を掛けた。  
椅子は二つあるのに、彼女のほかは人の気配がないのを不思議に思いながら  
周囲を見渡し、椅子に深く座りなおす。  
「うわっと、と」  
自分でも驚くほどの大きな声がのどから出た。  
その白木の椅子は、彼が二人並んで座ってもまだ余るくらい大きかったから、  
ケンダルはひじ掛けをつかもうとしてつかみそこね、バランスを崩したのだった。  
   
「どうした? ケンダル」  
ケンダルが上げた叫びに、魔女が驚いた顔で振り返る。  
だがすぐに彼女は、後ろにひっくり返った少年を見て噴き出した。  
「なんでもない! なんでもないからっ」  
彼が慌てて取り繕って返すと、アディアはわけ知り顔で笑い、ケンダルに背中を  
見せて暖炉に近寄る。  
火かき棒で暖炉の灰を掻き立てる魔女の前で、熾された火が燃え上がった。  
本当に彼女には恥ずかしいところばかり見せてしまう、と彼女の後ろ姿を見ながら、  
ケンダルは地面に足が届かないながらも居ずまいを正した。  
 
「なあ、この家に一人で住んでいるのか? 他には誰もいない?」  
照れ隠しだと自覚しつつ、ケンダルは矢継ぎ早にアディアに問うた。  
「今は一人じゃ」  
水を張ったたらいを持って、アディアが近づきながら答える。  
彼女はケンダルの前にすっとしゃがみ込み、たらいを彼の足元に置くと、  
そのまま彼を見上げ、足を出すように言った。  
「さ、ケンダル。いや、足は両方じゃ」  
 
アディアが汗と泥でべたべたになった革靴の紐を引っ張り、そっと靴を脱ぎ取った。  
それから、やはり真っ黒に汚れた素足をものともせず、片手を足の裏に当てて  
固定すると、もう一方の手でたらいの水をすくい、ケンダルの爪先にかける。  
「……ひっ」  
予想外に冷たかった水に、思わず声が漏れる。  
「痛かったか?」  
魔女が心配そうにケンダルを見た。  
「違う。……水が冷たくて、……でも、平気だから」  
 
アディアはかすかにうなずいた。ケンダルにつむじを見せて、怪我に響かせないよう  
ゆっくりと、そして優しくケンダルの足を洗う。  
彼女の手の内で作られたくぼみから、透明な冷水がケンダルの足の甲を伝い、  
泥水となって下のたらいへ流れ落ちる。  
そのしなやかな指がケンダルの足首に触れ、ふくらはぎをこすり、踵を伝って  
足の甲をなぞる。彼の足の指の間に細い指先が入り込み、泥と汗を丁寧に拭う。  
   
――こんな風に母が父の足を洗うのを見たことがある。  
ケンダルはどぎまぎしながら、彼女のなすがままになった。  
もちろん、アディアはただケンダルの足を洗っているだけで、彼の父と母ほどに  
少年と魔女が親しいわけでもない。  
彼女との距離がひどく近いようでいて、同時に二人の間で親密さを感じているのは  
自分だけなのが、彼にはきまりが悪く、また悔しかった。  
――うん、自分が馬鹿みたいだ。  
ケンダルはそう思いつつも、彼女の首と肩のわずかな隙間からのぞく鎖骨が、  
彼女の手を動かすに合わせてわずかに上下するのを、しばしうっとりと見入った。  
 
「軽い打ち身じゃな。大したことがなくて良かった」  
「う……、うん」  
やがて足を洗い終わった魔女がその場を離れ、ケンダルはようやく息をつく。  
ほのかに痺れる足先を感じながら、慌てて頭を回転させて話題を探す。  
作業台の方で使い込まれたすり鉢を用意する魔女を目で追い、少年は口を開いた。  
「どのくらいの間、独りでいるの? 寂しくない?」  
魔女は振り返り、いささか剣呑な目でケンダルを一瞥した。  
 
「質問ばかりじゃの」  
「知りたいんだよ、いろいろとあんたのことが。……なあ、魔女っていったい  
どのくらい長生きできるんだ?」  
ケンダルは負けずに、腿の間に手を入れて体を支え、身を乗り出した。  
彼女の鋭く射抜くような視線は、この家の外観と似たようなものだと、ケンダルは  
薄々感づきはじめていた。  
「仔猫のような好奇心は身を滅ぼすと言うぞ」  
「仔犬って言ったり仔猫って言ったり、どっちなんだ? アディア」  
ケンダルは体をよじってけらけら笑った。足先の痺れが全身が広がったようで、  
なんだかあちこちがこそばゆかった。浮かれて椅子から転げ落ちそうになり、  
また後ろにひっくり返る。  
   
「ケンダル・オブテクルーは、もっと口を慎むことを知っていたぞ」  
魔女は少年のおどけた様子に気色を緩め、呆れたように首を振った。  
その表情のまま、近くの壁にぶら下がった薬草をつかみ取り、作業台に戻って  
それをすり鉢に入れると、すりこぎを握って手早く膏薬を練る。  
すり鉢の内側が深緑色に染まり、鼻の奥を刺激する嫌な臭いが厨房に充満した。  
「おれは彼とは違うからね。……それで、魔女は長生きできるのか」  
「おそらく、そなたの考えているよりは長く生きているよ」  
アディアがさらに別の薬草をすり鉢に加えながら答えた。  
 
「へえ……。それじゃ、アディア……」  
――ここが肝心。  
ここで失敗しては今までの苦労が水の泡だ、とケンダルは腹の中央に力を込め、  
わずかに湿った手のひらを腿になすりつけた。  
さらに自分を勇気づけるためにケンダルは、今はベッドで寝たきりになっている  
三歳年下の妹――フェイの姿を脳裏に思い浮かべる。  
比較的良い状態の日でさえ、青白い顔をしたフェイ。生まれた時から病弱で、  
体に負担だからと髪の毛を伸ばすのも、外を駆け回るのも許されない。  
フェイはケンダルの出立を心配し、毎晩神々へ祈りをささげる際、一緒に彼の旅の  
無事を願うと言ってくれた。  
そのうえ、ケンダルが旅立った理由を書いた置手紙を預かり、叱られるであろう  
ことも承知で、時が来たら家人に渡すことを引き受けてくれた。  
――フェイのために。  
 
「アディア、魔女になるにはどうしたらいい?」  
ケンダルはつとめて何気ない風を装って言った。  
「魔女に、じゃと?」  
しかしながら、アディアは眉をしかめてそれを聞き咎める。  
「うん、そう魔女になる方法。……おれでも魔女になれる?」  
「ケンダル、そなたは魔女になりたいのか?」   
「おれじゃないんだけど……。魔女は千年生きられるんだろう?」  
「そなたのような小さな子供が千年を望むとは、どうしたことじゃ?」  
アディアはまたしても首を振って、ケンダルへの困惑を示し、穏やか過ぎるほど  
穏やかな口調で聞いた。  
「ああ、そう言えば、何故わらわに会いに来たのか聞いてなかったな。  
誰かの千年の生を、不死を望んで、そのためにわらわのところに来たのか?」  
   
「……そんなところ」  
「そうか。過去にも少なくはない数の人間がそれを聞きたがった」  
アディアは低く答えた後、口を閉じているようケンダルに言い、手元の動きを再開した。  
清潔な布に軟膏を取り分ける魔女を黙って見ていられなくて、ケンダルはうつむいて  
アディアの洗ってくれた足先を注視する。  
フェイが、今日の気分はどうだとしつこく聞かれるのに時々うんざりすることがある、  
と小声で教えてくれたように、魔女だってきっと、こういった千年の生について  
人から聞かれることに、うんざりしているに違いないのだ。  
 
魔女の近づく音がして、ケンダルの足先に影が落ちた。  
薬を塗り付けた布が彼の足首に巻かれ、べとついた刺激にケンダルは悲鳴を  
呑み込む。  
さらに包帯を巻く魔女をぼんやりと眺めて、言いようのない脱力感にとらわれる。  
浮かれた気持ちがしぼんでくしゃくしゃになり、そのまま地の底まで沈んで  
しまえればいい、と彼は思った。  
アディアはこんなに親切にしてくれているのに、こんなごまかすようなやり方で  
魔女の不死の秘密を聞き出そうなんて浅はかな考えだったと、ケンダルは  
意気消沈する。  
――ごめん。……ごめん。  
フェイへ向けてかアディアへ向けてか曖昧なまま分からないまま、心の中で  
ごめんとつぶやく。  
 
「さて、わけを話してくれるか? ケンダル」  
すり鉢や包帯を完全に片付けた後、魔女はしゃがみこんでケンダルと目線を合わせた。  
深い色を帯びたアディアの目が揺らめく炎に照らされ、逃れようのない力を発して  
ケンダルを圧倒する。  
 
「妹が、病気で……」  
胸の奥の蓋をした部分からこみ上げた言葉は、大きな塊と共にのどにつっかえた。  
フェイは大丈夫。魔女になってきっと元気になるんだ。そう自身に言い聞かせて  
やっと保っていた希望が、憐憫と同情の入り混じったアディアの眼差しによって  
打ち砕かれていくようだった。  
ケンダルは急に寒気を感じ、ひざに乗せたこぶしを握り締めて歯を食いしばり、  
体中の筋肉をぎゅっと収縮させた。  
   
「ここ最近、ずっと寝付いたままで……。お医者様がね、魔女にでもならない限り  
長生きは出来ないって言うんだ」  
ケンダルは首を横に振り、魔女が物言いたげなのを静止した。  
「……うん、アディア。魔女にでもならない限りって絶対不可能って意味というのは、  
おれだって知っているよ。魔女にでもならない限り、砂を砂金に変えることは  
出来ないとか、ドユーカ山脈を一日で越えることは出来ない、とかさ。  
でも、もしかしたらって思ったんだ。もしかしたら、フェイが……フェイっていうのは  
妹なんだけど、フェイが魔女になれれば、元気に長生きできるんじゃないかって」  
魔女の視線を避けてまぶたを伏せると、まつげの間から大粒の涙がこぼれ落ちた。  
 
「魔女になる方法はない。そもそも、なろうと思ってなれるものでもない」  
アディアの声もまた、低くのどにつかえるようであった。  
「やっぱり、フェイは魔女になれない?」  
「もとより人として生まれた身には望むことが出来ぬ」  
アディアはいったん言葉を切り、両手でケンダルの頬を包みこんだ。  
火照った肌に当てられた手は冷たく滑らかで、その心地良さに少年は目をつむり、  
こすりつけるようにして顔を預けた。  
「誰かをそばにとどめる方法があるのなら、わらわは今このように一人で暮らして  
おらぬよ」  
燃えさかる薪の火花を立てつつ崩れる音が、静寂の中にひときわ大きく響いた。  
 
「フェイは死ぬの? その時、おれはどうしたらいい?」  
ケンダルは自分の顔がどうしようもなくゆがむのを感じ、うつむいてそれを隠した。  
新たに流れる涙がケンダルの頬とアディアの指先を濡らす。  
「もし、その時が来たなら、そばにいて手を握っていておやり。  
旅立つ者にとっても見送る者にとっても、それはおおいな慰めとなる」  
魔女は少年を引き寄せて、そっと抱きとめた。  
押さえつけていた喪失の予感と恐怖が、慟哭となって次々とあふれ出る。  
「ひっ……、え、ぐ……、……アディア」  
ケンダルはアディアの胸にすがりついた。背中を撫でる優しい手が、そうやって  
醜いまでに取り乱し、泣きじゃくってもいいのだと教えてくれた。  
   
「アディアはどうやって魔女になったの?」  
とうとう涙も枯れ果てアディアの肩に頭をのせて、ケンダルはつぶやいた。  
「わらわと袂を分かち、天に昇った神々の気まぐれ、置き土産じゃ」  
魔女の唇の動きと響く声とが、ケンダルの髪の毛をかすかに揺らす。  
「じゃあ、本当に魔女になる方法はないんだ。……ごめんな。無理を言ったりして」  
「いや、わらわとて、親しい人間との別れはいつまでも慣れぬもの。  
ましてやそなたのような幼な子が妹との別れを回避したいと願うのも無理はない」  
 
ケンダルは頭を起こし、差し出された手巾で顔面を拭いて一息ついた。  
それから、魔女を真正面に見詰め、黒い瞳の奥の彼女の悲しみを理解したように感じた。  
「分かったよ。あんた、そうやってたくさんの人を見送ってきたんだね。  
だから、こんなに人里離れた場所に一人で住んでいるのか? たいていの人間は、  
あんたを置いていってしまうから。知り合った人間と別れるのが嫌だから」  
たくさんの人を見送ってきた魔女がかわいそうで、さんざん泣いたのに、また涙がにじむ。  
 
「あるいはな。……だが」  
魔女が何かを思い出したように、ふっと笑った。  
指の背でケンダルの頬の涙をぬぐい、返した指先で彼の額に触れる。  
「ケンダル、そなた、妹の不死を望むか? それより快癒を望まぬか?」  
「え?」  
「病気を治せば、魔女になれずとも、人並みの寿命を生きることは出来るかもしれぬよう」  
 
ケンダルはおそるおそる魔女を見つめる。  
「そんなこと出来るの?」  
「わらわとて無駄に千年は生きておらん。どの道、そなたをディアント領地まで  
送らねばならんからな。ついでにその妹の様子を見るのもよかろう」  
怒涛のような期待が湧き起こり、また顔がくしゃくしゃになる。  
「さても、泣いたり笑ったり、忙しいことじゃ」  
魔女は微笑んで立ち上がり、壁にぶら下がっている幾種類かの葉をちぎって、  
小さなポットに投入した。暖炉の大鍋の湯を汲んでそれに入れ、糖蜜を加える。  
   
「アディア。でも、……でも、本当にいいの?」  
「よい。ケンダル・オブテクルーには借りがあるからな」  
「借りって?」  
「そなたの預かり知らぬ所じゃ」  
そう言って、魔女はポットの中身をカップに注ぎ、振り向いた。  
彼女の顔には柔和な笑みが浮かんでいて、ケンダルはそれ以上聞いては  
いけないことを悟り、口をつぐんだ。  
 
「さ、これを飲んだら、もうお休み。明日は早めに出発しよう」  
差し出されたカップは手に余るほど大きく、少年は両手でそれを受け取り、  
胸元に抱え込むようにして引き寄せた。  
なみなみと湛えられた液体からは甘い香りが漂い、ケンダルの鼻腔をくすぐる。  
何が入っているのか、粘度のある熱い飲み物を少しずつ飲み干しながら、  
魔女をちらちら見上げると、その度に魔女の優しい視線とぶつかる。  
「どうした? ケンダル。少し熱すぎたか?」  
「ん、そんなことない。すごくおいしいよ」  
立ち昇る濃い湯気が鼻の奥につんと沁みるようで、彼は目をしばたかせた。  
 
支えられて連れられた客用寝室の大きなベッドに寝かせられ、ケンダルは  
冷たいシーツにくるまった。  
お休み、とアディアが言って部屋を出た後、一転二転寝返りを打って目をつむる。  
洗いたてのような清潔なシーツは肌にすがすがしく、また何か花のようなかぐわしい  
匂いをわずかに嗅ぎ取って、この魔女の持つ意外な女性らしさの一面を発見した、と  
ケンダルは嬉しく思った。  
 
*  
 
ディアント領地までの帰路は、道連れが儚い希望だけだった往路と比べて、  
ひどく短かった――少なくとも、ケンダルはそう感じた。  
道すがらアディアにそう言うと、彼女は微笑んで賛成した。  
「そなたと共にいると速く時が進む」  
アディアのその答えを聞いて、少年は嬉しく思い浮き立つような気分になった。  
実のところ、目にしたものを一緒に見て共有し、それについての彼女の意見を聞き、  
あるいはケンダルが喋る時間はとても楽しくて、妹の病気がなければ、もっと旅が  
続いて欲しいと願ったくらいだった。  
   
そのキラキラと光る宝石のような時間は、ケンダルがアディアの後を犬のように  
付いて回ることによって、ディアント領地に着いても続いた。  
アディアがフェイの病床を見舞い、ケンダルに対してそうしたようにフェイの額に触れ、  
顔色や口中を診ていた時、ケンダルは部屋の隅でアディアを見ていた。  
また、彼女が薬を調合する時はそばにいて、薬草を混ぜ合わせるのを手伝ったり、  
他のこまごまとした用を務めたりした。  
 
「仔犬が無邪気に飛び跳ねる様子は、見ていて飽きぬな」  
アディアはそう言ってケンダルをからかったが、少年はもう仔犬呼ばわりされても  
気にせず、にやっと笑って返しただけだった。  
 
暇が出来ると、ケンダルはアディアと連れだって、ディアント領地を巡った。  
まっ先に二人が行ったのは、現在八匹の犬が飼われている犬舎だった。  
「この犬たちは、あの時から何代を経ているのであろうな」  
アディアは地面に膝をつくと、犬たちに手のひらの匂いを嗅がせ、額や耳の後ろを  
掻き撫でた。  
「懐かしい?」  
アディアは少し驚いた顔をした後、今度は微笑みながらケンダルの頭を撫でた。  
「そうじゃな。もう懐かしいと感じても良い頃合いかもしれぬ」  
 
それから行ったのは、整然と耕され作物がすくすく育つ田畑、綺麗な青い羽根を  
持つ水鳥の住む沼沢地、春や秋には豊かな実りを約束してくれる森。  
先々代の当主が建てた二棟からなるディアント館を歩き回り、アディアに四代前の  
ケンダル・オブテクルーの肖像画を見せることも忘れなかった。  
少年はいずれ受け継ぐことになるそれら全てを誇りに思い、得意げな表情を隠しもせず、  
魔女に領地の隅々まで案内した。  
 
置手紙だけで家を出て魔女に会いに行ったことで、ケンダルは両親にこってりと  
叱られたが、それでも彼はへこむことなく、充実した色褪せない日々をアディアと  
共に過ごした。  
けれども、物事が全てそうであるように、この輝かしい日々もやはり、ある小春日和の  
うららかな朝、魔女が旅の準備をしていると姉から聞かされて、終わりを迎えたのだった。  
   
「アディア!」  
階段を昇ってすぐの渡り廊下で、アディアの姿を見つけたケンダルは、まだ出発して  
なかったのだと、息を吐いた。  
彼女が自分に別れを告げず言わずに去ってしまうことはないと思いつつも、不安を  
隠しきれず、足音を立てて彼女に駆け寄る。  
旅の必要品が入った麻袋を片手に携えたアディアは、壁に並んで掛けられたケンダルの  
先祖の肖像画の、ある一枚の前にたたずんでいた。  
朝の鮮明な光線は窓際にとどまり、アディアの上半身はまだ暗い影の中にあったが、  
彼女の見つめている肖像画が四代前のケンダル・オブテクルーの絵であることは、  
容易に知れた。  
 
「アディア、ここを出て行くって本当?」  
魔女がゆっくりとケンダル・オブテクルーからケンダルへ視線を移した。  
「騒々しいことじゃ」  
「ねえ、本当なの?」  
ケンダルは魔女を引き止めるかのように麻袋に手を掛けた。  
「だって、北の森の鏡池に釣りに行こうって約束したのに、まだ行ってないじゃないか。  
それに、ほら、もうすぐお産をを迎える犬がいる。あの犬が仔犬を産むのは初めてだから、  
産むまでここに居て、お産を手伝ってやってよ。あの犬もあんたを信頼してるみたいだし」  
彼女を引き止めるための口実が次々と口からあふれ出る。  
 
「そうだ、アディア。あんた、ずっとここに――ディアント領地に住めばいいよ。  
おれの両親も、姉たちも妹も歓迎するよ。別に、帰る必要なんてないだろう?  
……あ、あの家には、誰もあんたの帰りを待ってる奴なんていないじゃないか!」  
子供が甲高い声でわがままを言っている、と自覚した時には遅かった。  
アディアの首が悲しげに左右に振られ、ケンダルの顔から血の気が引いた。  
 
「ごめん、アディア」  
ケンダルは小さく言ってうつむいた。  
「……でも、どうして?」  
言いすぎたことは分かっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。  
こんなに早く彼女が去ってしまうのを認めたくなかった。  
   
アディアは麻袋に掛けたままになっていた彼の手を取って、そっと握った。  
「……飼っていた犬が出て行ったきり戻ってこない。あれのために帰ってやらねばならぬ」  
「その、出て行った犬が家に戻るのを待っているの?」  
「そう……、そうじゃ。やはり、今でもまだ諦めきれぬ」  
「犬なら、今度うちで産まれるのを一匹やるよ。だから……」  
往生際悪く、ケンダルはすがりつくようにアディアを見上げた。  
 
アディアは少年にかすかに笑いかけ、それから頭を上げて肖像画の中の  
ケンダル・オブテクルーを仰いで、目をすがめた。  
「その昔、ケンダル・オブテクルーは、わらわに向かってこう言うた。つがう相手も  
見つからぬ、こんな寂しい場所でただ一頭、生きていくのは不憫だ、と。  
……ゆえにもう仔犬を持ち帰ることはせぬ。あそこは確かに寂しい場所ではあるし、  
いつ落ちるかも分らぬような危険な崖もあるからの」  
 
続く沈黙の中で、やはり似ておるのだな、とアディアが誰に言うでもなくつぶやいた。  
昼の時間帯が近づくにつれ、陽の光がやわらかく拡散する。  
彼女の顔が徐々に明るく映りはじめていた。  
どこか遠くを見つめているような横顔。さらっと線を引いたような顎のライン。  
微笑むでもなく、悲しむでもなく閉じた口元。こめかみから一筋のほつれ毛が  
頬にかかっていた。  
手を伸ばしてそれを直してあげたくても、きっと届かないのだと、ケンダルは泣きたくなった。  
 
「また会いに行っていい?」  
彼女の乾いた手のひらが、さらりとした感触を残してすり抜けていった。  
「駄目……なの?」  
「家族が心配するような年齢の子供は、来てはいけない。それに、次に崖下に  
落ちられても、また助けられるかどうか分からぬし、な」  
アディアはまたも首を振り、それから少しだけかがんで、困ったような慰めるような  
表情をケンダルに向けた。  
 
「そのような顔をするでない、ケンダル。また会える日もあるかも知れぬ」  
それを別れの言葉として、魔女は再会の約束をせずに、ディアント領地を去って行った。  
 

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