額を探る冷たい手が途切れた意識をくすぐり、ケンダルは目を覚ました。  
濡れた手巾が突っ張った彼の頬に当てられ、乾いた泥をぬぐい去る。  
「犬の仔かと思うたら、人の子であったか」  
やわらかな声がして、ケンダルがわずかにまぶたを開けると、間近に迫った  
若い女の姿がぼんやりと浮かび上がる。  
 
深くかぶった頭巾の奥で、雪のように白い肌が、緩やかに結い上げられた黒髪に  
縁どられている。長いまつげに囲まれた黒い瞳が、まばたきもせずにじっと彼を  
見つめている。  
案外若いんだな、とケンダルは地面に横たわったままで思った。  
去年の暮れに遠くの領地持ちの男に嫁していった、ケンダルの一番上の姉と  
同じくらいに見える。  
けれども、彼女が見た目通りの年齢でないのは、眉間に浮かぶ黒い渦状の  
文様でうかがうことが出来る。  
それは、人とは違う魔女に付けられた神々の刻印なのだ。  
 
「千年を生きる魔女。あんたは……」  
どんな想像していたのよりも彼女は違っていたから、ケンダルはその先を続ける  
ことをためらった。  
しわくちゃの顔に乱杭歯が口から飛び出た、ひどく醜い老婆である魔女。  
ぼろぼろの黒い服を着て夜の闇を歩き回り、小さな子供をさらいに来る。  
さらわれた子供は魔女の家に閉じ込められて一生出られないのだと、一番上の  
姉はケンダルによく話して聞かせていた。  
もう年も九つを超えたケンダルには、それが夜寝ない子供を脅すための物語だと  
知っているけれど、それでも幼い頃に聞かされた話は、漠然とした恐怖となって  
心の隅に残っていた。  
 
だが今、ケンダルの目の前にいる魔女は、恐ろしい感じも不吉な感じもしない。  
魔女の衣服は黒く染められてあったが、ふわっとした上着と胴を絞ったスカートは、  
目の詰まった毛織物という地味な素材で、彼の姉妹が身につける仕事着と  
それほど変わっているわけではなかった。  
スカートの裾から覗かせた革靴の先には少し泥が付いていて、彼女は空を  
飛ぶこともないんだ、とケンダルは取り留めもなく思った。  
   
――うん。でも、きれいな人だ。  
夕方とはいえまだ明るい空と、うっそうとした広葉樹の森を背後にして、魔女は  
ケンダルのすぐ脇に屈んでいる。  
ほっそりとした姿だけでも魔女の存在は際立っていて、ケンダルは彼女が頭巾を  
取って綺麗に化粧をしたらどんなだろうと思った。  
彼女のなだらかな肩から伸びた腕は、まっすぐにケンダルに向かっている。  
見上げるケンダルに優しい眼差しを向けた魔女は、そっと彼の鳶色の髪を撫でつけた。  
 
「助けを求めて啼いたのは、そなたであろう?」  
魔女の浅紅色の唇から静かな問いが発せられた。  
ぼんやりと彼女を眺めていた少年は我に返り、自分に何が起こったか、どうしてこんな  
泥だらけのまま谷底で寝転んでいるような事態になったか、はっきりと思い出す。  
 
道すがら、足もとが崩れて谷間に落ちた。  
急いでもいたし、そう険しくもない山と思って油断していたら、いつの間にか崖の  
きわまで迫っていたらしい。  
地面が消えたと思った瞬間、夢中でつかんだ木の根っこは、ぽきりと小さい音を  
立てて折れた。懸命に足を突っ張らせても、苔がずるりとはがれ落ち、どうしても  
落下の勢いは止まらなかった。  
もんどりうって全身泥まみれになり、このまま底無しの淵に呑まれてしまうのだと  
恐怖に駆られ、叫んだのを覚えている。  
その悲鳴を、この落ち着いた女の人に聞かれたのだと思うと、恥ずかしさで頭に  
血が昇った。  
 
「上から落ちたか? まだ幼いのに一人で山をうろつくなど、正気の沙汰ではない。  
夜の山には魔物も出ると、親や大人たちから聞かなかったか?」  
「……あんたを、探していたんだよ」  
ケンダルは足首が痛むのを無視して体を起こした。  
身じろぎすると、背中を突き刺さった石の破片がぱらぱらと落ちて転がる。  
地面から吸った湿気で、背中がじっとりと冷たい。  
   
「話に聞いていたのとは、なんだか違っているけど、あんたが魔女なんだ。  
おでこにちゃんと模様があるし、こんな山の中で女が一人で……」  
ケンダルは魔女に、にやりとして見せた。  
「女が一人で出歩いているのだって正気の沙汰じゃない。そんなことを出来るのは、  
魔女以外にはありえないもの。……なあ、でもあんた、おれを閉じ込めたりなんて  
しないだろう?」   
「……せぬな」  
ケンダルのいささか無礼な質問に対し、魔女は穏やかな表情を変えずに否定し、  
そして口元に笑みさえ浮かべた。  
「昔話の魔女のように、人間を犬に変えたり蛙に変えたりも、しない?」  
「せぬ」  
 
「魔女――魔女アディア」  
少年は期待を込めて彼女の名を呼び、彼女を食い入るように見つめた。  
「……あんたの名前はアディアだろう?」  
「よく知っておるな」  
魔女はかすかにうなずいて、ケンダルの視線を受け止める。  
 
「おれがあんたの名前を知っているの、不思議に思わない?」  
ケンダルは問いかけ、同時に彼女とケンダルを繋ぐ糸に気付いてほしいと願った。  
ひょろっとして手足ばかりが長い、と姉たちはケンダルをからかうけれど、自分が  
それ以外に目立った特徴のない平凡な子供であるのはよく知っている。  
一族の共通の特徴である、鳶色のくしゃくしゃな髪や、同じ色の大きな目や、笑うと  
ことさらに吊り上がる目尻も、魔女の眉間の文様のように、はっきりとした印ではない。  
だから彼女には分からないのだと焦れて、ケンダルは彼女の答えを待てず、すぐに  
また口を開く。  
 
「あのな、おれの名前はね、ケンダル・オブテクルーなんだ」  
彼女が覚えているかどうかは、分からなかった。  
ケンダルが知っているのは、姉が話した魔女とは別の、祖父に聞いたもう一つの  
魔女の話。祖父の、そのまた祖父、ケンダルと同じ名のケンダル・オブテクルーが  
会った魔女アディア。  
怪我をした仔犬を拾って手当てをし、犬には同じ種類の仲間が必要だろうと言って、  
その仔犬をケンダル・オブテクルーに預けたという。  
   
「ああ。では、ディアント領地の子じゃな」  
魔女は目をすっと細め、ケンダルをしげしげと眺めた。  
「うん、そう。覚えているんだな」  
「忘れはせぬ。……忘れはせぬ、が……」  
ケンダル・オブテクルー。つぶやきが魔女の口からこぼれて消えた。  
 
「では、そなたはケンダル・オブテクルーの子か? 孫か?」  
「おれは、そのケンダルの……孫の孫だよ、アディア。あんたの会ったケンダルは、  
……もうとっくに死んでる」  
ケンダルが困惑しながら言った途端、魔女は唇を引き結び、ほの暗い闇の底に  
落ちたかのような物思いに沈んだ。  
少年の知りえない多くの事柄を呑み込んだままの瞳は、星空にのみ照らされた  
夜の湖面のように黒く、また深かった。  
 
「……アディア、あの……」  
「なんじゃ?」  
アディアはケンダルへと視線を戻し、うながすようにゆっくりとまぶたを揺らめかせた。  
「前のケンダルは、もしかして魔女から見ても怖い人だった? うちには代々の  
当主の肖像画があるんだけど、その中でも彼が一番ひどいしかめっ面をしてる。  
祖父からも彼はとても厳しくていかめしい人だったって聞いた。彼は何か……」  
 
「怖い?」  
一転、魔女は小さな笑い声を洩らして破顔した。  
「わらわが知っているディアント領地の主はひょうきんな男であった。  
しかし、もう四代も前とは。かように時が過ぎてしまったのだな」  
アディアは谷間で風に吹かれる黒百合のように揺れて笑った。  
だが、その目の奥に言いようのない悲しみが垣間見えて、ケンダルは恐る恐る口を開く。  
 
「あの、怪我をした犬を治して、おれじゃない方のケンダルに預けた、って本当?  
耳が垂れてて、全身に黒のぶちがある犬なんだけど」  
「そのようなこともあったな、昔の話じゃ」  
「その犬はさ、とてもたくさん子供を産んで、今ディアント領地にいる犬はみんな、  
あんたが助けた犬の子孫なんだ。その犬たちは丈夫で賢くって良い猟犬になるから、  
近隣の領地からも欲しいって、よく貰いに来るんだ」  
「そうか、では良かったことだ。ケンダルもそれを望んでいた」  
「自慢の犬たちだよ。今度また子供が生まれるんだ。もう何匹かは貰い手が  
決まっていてね」  
   
「……ところで、ケンダル」  
胸を張ってあごを上げたケンダルが、ともすれば日の暮れるまでしゃべり続ける  
とでも思ったのか、魔女はとどめるような仕草をしながら彼をさえぎった。  
「ディアント領地からここまでは、子供の足では随分遠かろうに、わざわざわらわを  
探して会いに来るとは、何かせっぱつまった要件でもあるのか?」  
「そりゃ大事な要件さ。でも、そう遠いってわけでもなかったよ。  
親や姉たちに内緒で準備するのは大変だったけど、妹に手伝ってもらったんだ。  
それに……、っつ、痛……」  
ケンダルは立ち上がろうとして思わぬ激痛に襲われ、体をくの字に曲げた。  
痛みをともなって赤く腫れ上がる足首を、隠すように片手で押さえつける。  
 
「そなた、怪我をしておるな」  
魔女はケンダルの足首をちらりと見た。両手を差し出して前屈した少年を支え、  
低い滑らかな声で彼を気遣う。  
「怪我なんかしてない。ほんとに、痛くなんかないんだ。ほら、大丈夫だって」  
崖から落ちて悲鳴を上げたうえに怪我までしてたら格好が悪いと、ケンダルは  
体を立て直し虚勢を張った。  
が、すぐに痛みに耐えられずに尻もちをついて、短い息を吐き出す。  
 
「そなたは口の減らない仔犬じゃな」  
どこか面白がるように魔女アディアはふふっと笑った。  
「いくらおれや他の人間が、あんたたち魔女よりも寿命が短いからって、犬扱い  
するなよ。もとは魔女も人間だったんだろう?」  
「あるいは、な」  
「だったら……」  
 
アディアは胸の前で優雅に手を振り、なおも言いつのるケンダルの精一杯の  
強がりをいなした。  
「まあ、なにはともあれ、まず怪我の手当てをせねば。……さ、動けぬだろうから、  
おぶってやるぞ。わらわの家に招待しよう」  
魔女はかがんだまま、くるりと半回転し、当然のようにケンダルに背中を向けた。  
   
「女が背負って運べるほど、おれは軽くないぞ」  
「なんぞ仔犬の重いことがある?」  
「……アディア。また、仔犬って言う」  
ケンダルは口を尖らせ、振り向いた魔女をにらんだ。  
「ふふ……」  
魔女は肩越しに笑い、両手を後ろに回して、ほれと促す。  
 
「し、……仕方がないな。でも、本当におれは、歩けないほどの大怪我してるって  
わけじゃないからな」  
その有無を言わさぬ様相に抵抗できず、ケンダルはしぶしぶという態を装って、  
彼女の体躯にしがみつく。  
両手を魔女の体の前に回すと、やわらかい乳房がケンダルの手のひらに当たった。  
 
「あっ。……ご、ごめん!」  
ケンダルは慌てて誤り、手を引っ込めた。ぐらりと体が傾いて、彼女の背中から  
落ちそうになる。  
「何を誤る? それより、しっかりとつかまっておらんか」  
「う、うん……」  
魔女は素早くバランスをとり、小さく息を出してケンダルを背負いなおした。  
 
ケンダルは、今度は危険な場所に当たらないよう慎重に手を滑らせ、体の力を  
抜いて魔女の首筋に鼻先を寄せる。  
と、彼女の耳の後ろからふわっと漂う甘い匂いが、彼の鼻腔に届いた。  
ケンダルの耳の付け根が熱を持ち、どきどきと脈を打った。  
頭に血が昇っている。抑えようとしても動悸がますます速まり、ひどく居心地が悪い。  
「これ、そのようにもぞもぞするでない」  
「うん……」  
こういう時、耳たぶと首が赤くなっていると、姉たちがいつもからかってくる。  
だから、今もそうなのだろうと、ケンダルは内心で溜め息をついた。  
 
――これこそ、アディアに見られなくてよかった。  
魔女の黒髪が半分脱げた頭巾に擦れて立てる、さらさらした音を聞きながら、  
ケンダルは心底そう思うのだった。  
 

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