「ああああの、それでっ! どどどどうすれば良いんですかっ!?」  
 魅了の魔法を教えるに当たり、僕らは場所を移動していた。  
 そのまま森の中で続けても良かったのだが、シルヴィアが強硬に反対したのだ。  
 理由を聞けば、森の中だと回りの木々に見られて恥ずかしいらしい……良く分からない  
感覚だ。  
「落ち着いて、シルヴィア。まずは深呼吸してごらん?」  
 今いるのは木々の合間にできた、草で編んだような壁に区切られた部屋の中。  
 小屋くらいの広さの部屋の中には、蔦でできた机に椅子が二脚、そして草と葉っぱでで  
きたベッドが一つ。部屋の中は、森の奥深くのような清浄な空気で満たされている。  
「すぅ〜、はぁ〜、すぅ〜〜……っ!? ごほっ、ごほっ!」  
「シルヴィアっ!? だっ、だいじょうぶ!?」  
 息を深く吸い込みすぎたシルヴィアがむせて咳き込む。  
 そんなシルヴィアであるが、この部屋を作ったのもまた彼女なのだ。  
 少し開けた空間でシルヴィアが念じると、あちこちから草木が寄り集まり、五分とかか  
らずにこの空間が作り出された。  
 その手際は見事で、彼女の力が他のドライアドに比べても群を抜いて高いことが分かる。  
「すすすすす、すみません、わたしったらほんとに……」  
 うなだれるシルヴィア。  
 うーん、どうにも緊張しすぎだなぁ……適度な緊張は悪くないが、こうも硬くなってい  
ると、この先に支障が出てくる。  
「それにしても……」  
 シルヴィアの緊張をほぐすために、違う話題を振ってみることにする。  
「来てからずっと思ってたけど、この森は綺麗だね」  
「そそそそうですか!? あのあの、うっ、嬉しい……です……」  
 真っ赤になってうつむくシルヴィア。  
 
 ……なんだろう? 今の話に赤くなるようなところがあっただろうか?  
 気にはなったが、とにかく話を続ける。  
「家の近くにも森があってね。大きさは広いんだけど、ものすごく荒れていて……森はそ  
んなものだとずっと思ってた。だからここに来たときは、正直おどろいたよ」  
「そ、そうなんですか……。あの、もしかすると、その森には森の精がいないのかも知れ  
ないです」  
「そうかもしれない。古い森なんだけど、昔そこに住み着いた邪霊との戦いがあったらし  
くて……。だから、その時にいなくなってしまったのかも……」  
 あ、まずい。  
 落ち着いたのは良いが、しんみりした感じになってしまった。  
 慌てて話題を元に戻す。  
「ああ、そうか。ここの森にはシルヴィアがいるから、こんなに綺麗なんだね」  
 口にしてから気付く。  
 今の台詞がまるで口説いているようだと。  
 何を言ってるんだ、僕は。  
「そそそそそんなことないです! わたしなんて全然っ! だって、魅了の魔法も使えま  
せんしっ!」  
 ぶんぶんと首を振って慌てふためくシルヴィア。  
 でも、どことなく嬉しそうに見えるのは、自分の棲んでいる森が褒められたのが嬉しい  
からだろうか?  
 ドライアドにとって自分が棲んでる森は、自身を同じようなものなのかも知れない。  
「魅了の魔法ならこれから教えてあげるから。うん、大丈夫。シルヴィアなら、きっとす  
ぐに使えるようになるよ」  
 僕が保障するから……と、調子の良い嘘に内心悶え苦しみながら、台詞を続ける。  
 それでも、これでシルヴィアの緊張が解れるのなら安いもの、と……  
 
「はっ、はいっ! ががががんばりまふっ!」  
 あ、噛んだ。  
 まあ良い。それでも最初に比べればかなりましな方だ。  
 これなら落ち着いて話を進められそうだ。  
 一呼吸おいて話を始める。  
「それじゃ、始めようか。でも、その前に……」  
 そう。  
 魔法を教える振りをする前に、試しておきたいことがあった。  
「シルヴィア、魅了の魔法を使ってもらえるかな?」  
 それは、シルヴィアが魅了の魔法を使えないのは本当かどうか。  
「えっ!? でっ、でもでも、わたしは……」  
「うん、分かってる。ただそれでも、教える前に一度、シルヴィアが使うところを見てお  
きたい」  
 ダメかな? と、できる限り優しく聞こえるように問いかける。  
 もちろん、シルヴィアが嘘を吐いているなんて思っているわけではない。  
 ただ、シルヴィアのことだ。魅了の魔法が成功しているのに、掛かっていないと勘違い  
して、使えないと思い込んでいる可能性もある。  
 さすがに無いと思いたいが、念のために確認しておきたかった。  
「あ、えっと……でも……」  
 シルヴィアに嫌がる素振りは無い。  
 それでもためらうのは、どうして使えない魔法を僕が見たがるのか、か?  
「使い方は分かるんだよね。魔法を使うところを見れば、使えない理由も分かるかも知れ  
ないし……シルヴィアがイヤじゃなければ、だけど」  
 シルヴィアの疑問を、それっぽい言葉でごまかす。  
 実際それも確認しておきたいことではあるし、嘘を言ってるわけではない。  
 
「そ、そうですね……わっ、わかりましたっ! やってみますっ!」  
 納得してくれたのか、シルヴィアが魔法を使おうと立ち上がる。  
 まずは第一段階クリアかな。  
 これでシルヴィアが魅了の魔法を使えたなら、何も問題は無いのだけど。  
「大丈夫、だいじょうぶ……きっとだいじょうぶ……」  
 ぶつぶつと何かを呟いているシルヴィアを見つめながら、魅了の魔法がちゃんと発動し  
た場合に備えて、こっそり心の中で精神系の防壁を展開しておく。  
 大丈夫だと思うのだが、もし魔法が発動した場合、シルヴィアの魅了に抵抗できるかど  
うか自信が……いや、何を言っているんだ僕は。  
 念のために備えることに、理由なんて必要無いのに。  
「そっ、それじゃ、いきますっ! いいですかっ!?」  
 僕が頷き返すと、シルヴィアは静かに集中し始めた。  
 ドライアドのような妖精たちは、魔法の使用に呪文や動作を必要としない。ただ念じる  
だけで魔法が発動する。  
 シルヴィアの集中と共に、彼女の周りに魔力が構成されていくのが分かる。  
 一見ばらばらで、その実すべてが見事に絡み合った魔法構造。生まれながらに魔法を使  
える妖精たちならではの、自然な美しさを持つ魔法構造だった。  
 だが。  
 魔法が組みあがる直前、その魔力はぽふんっ、と霧散した。  
「あ……」  
 あまりに唐突な出来事に驚く僕に向かって、  
「ど、どうですか……? みっ、魅了の魔法っ、かかか掛かりましたか……?」  
 シルヴィアがおそるおそるたずねてくる。  
 この様子では、魔法が成功したかどうかも、何が悪くて使えないのかも分かっていない  
に違いない。  
 
「失敗……だね。魔法がちゃんと構成できてないみたいだ」  
 魔力の構成に問題は無い。  
 ただ、シルヴィアの魔法には、魔法構造をつなぎとめる何かが欠けていた。  
 それが何かは、残念ながら妖精の魔法に詳しくない僕には分からない。  
「そうですか……こ、今回はうまく行きそうな気がしたんですけど……」  
 しゅんとなってうなだれるシルヴィア。  
 だが、彼女の言葉を信じるなら、これまで使えなかったのが、あと少しで使えるように  
なるところまで来ている可能性もある。  
 そうであれば、あとは何かきっかけがあれば使えるようになるに違いない。  
「落ち込まないで、シルヴィア。大丈夫、僕の魅了の魔法なら、教えればシルヴィアなら  
すぐ使えるようになるよ」  
「そっ、そうですかっ!? わわわ、わたしっ、がんばりますっ!」  
 そう言ってシルヴィアの頭をぽんぽんと叩いてやると、今までうなだれていたのが嘘の  
ように、シルヴィアが勢い良く答えた。  
 その姿を、単純だなぁ、と思いながら、同時にその素直さを少しだけうらやましく思っ  
た。こうまで誰かを純粋に信じることができるのは、シルヴィアの人生が幸せなものだっ  
たからだろう。  
 この純真無垢なこの少女を傷つけぬよう、魅了の魔法を教える振りを最後まで遣り通す  
ことを静かに誓う。  
「それじゃ、シルヴィア。魅了の魔法の使い方を教えるから良く聞いて」  
「ははははい!」  
 僕の言葉にこくこくと頷くシルヴィア。  
 これから教えることはまったくのでたらめだが、これだけ信じてくれるのならそれだけ  
で効果があるかもしれない。  
 
「良いかい? 魅了の魔法を掛けるときは、まず相手の目をじっと見つめ」  
 言いながら、シルヴィアの瞳をじっと見つめ、  
「妖精語は分かるよね? そうしたら呼吸を止めて、心の中で『好きになって』と妖精語  
で11回、丁寧に念じるんだ。その間、呼吸をしてはいけない」  
 呼吸を止めた。  
 見つめられて、シルヴィアの深緑の瞳が落ち着き無く動く。だが、決して視線を逸らそ  
うとはしなかった。  
「…………」  
 最初は適当に済ませるつもりだったのが、シルヴィアの真剣な様子に形式だけは真面目  
に行うことにする。  
 シルヴィアの瞳を見つめながら、心の中でゆっくりと11秒数える。  
 ただ、心の中で念じるのは止めておいた。  
 自分で言っておいてなんだが、これは恥ずかしすぎる。  
 やがて。  
「……ふぅ」  
 11を数え終わり、大きく息をつく。  
 そして、ぱんっ、と手を打った。  
「はい! これで今掛けた魅了の魔法は解けた。どうかな、シルヴィア?」  
「えっ、えっ!? あのあの、えっと……」  
 状況についていけず、わたわたとうろたえるシルヴィア。  
「どきどきした? しなかったのなら失敗だけど……」  
「あっ、あの! ど、どきどきしましたっ! 本当です、掛かってました!」  
 嬉しそうに答えるシルヴィア。その姿に心が痛む。  
 そんなこと、魅了の魔法の効果であるわけが無い。  
 こんな至近距離で見つめられて、この純情な妖精がどきどきしないはずが無いのだ。  
 
「そ、そう? 良かった。それでどうかな、シルヴィアもできそう?」  
 きりきりしてくる胃の痛みをごまかしながら、シルヴィアに尋ねる。  
「あっ、はい! 大丈夫だと思います! あっ、あれあれっ、でもでもっ!」  
 わたわたしながら、シルヴィアが首をかしげる。なんて器用な。  
「あのあのっ、最初に魅了の魔法に掛けられたときには、わたしシモンさんにこんなに長  
い時間見つめられた覚えが……」  
「あ〜っと! それはね!」  
 大きな声でシルヴィアの言葉をさえぎる。  
 まずい。まさかそんなところにまで気が回るとは。  
「こ、今回教えるのは基本の魅了。何事もまずは基本からね。そのときの魅了の魔法はも  
っと高度なものだから、教えられるのはもっと後になるよ」  
 慌ててごまかしながら、これはうかつなことはできなさそうだ、と気を引き締める。  
 これまでの受け答えの様子から、冷静さのかけらも無いかと思いきや、普通に頭が回る  
くらいの余裕はあるようだ。  
 どうやらシルヴィアのことを少々見くびりすぎていたのかも知れない。  
「そっ、そうですよねっ! あんなにすごい魔法は、シモンさんくらいにならないと使え  
ませんよね! わっ、わたしっ! がんばります!」  
 そう言いながら、きらきらとした瞳でシルヴィアが見つめてくる。  
 ……止めてくださいシルヴィアさん。  
 お願いだから、そんな瞳で僕を見ないでください。  
 うう、胃が、胃が……。  
「そ、それじゃ今度はシルヴィアがやってみて。やり方は覚えてる?」  
「は、はいっ! だだだいじょうぶですっ!」  
 こくこくと頷きながらシルヴィアが答える。  
 本当に大丈夫か?  
 
 あまり大丈夫そうには思えないシルヴィアの返事を聞きながら、とりあえずシルヴィア  
の様子を見て、効いてる振りをするかしないか決めることにしようと考える。  
「そそそそれじゃっ! それじゃいきますっ!」  
 そう言ってシルヴィアは大きく息を吸い込むと、呼吸を止め、僕のことをじっと見つめ  
てきた。  
「…………」  
「…………」  
 部屋の中に沈黙が広がる。  
 そうして澄んだ深緑の瞳に見つめられて。  
 いまごろになって初めて、シルヴィアの美しさに気付いた。  
 滑らかな白い肌、エメラルドグリーンの艶やかな髪、桜の花びらのような可憐な唇。  
 たれ目がちな眼差しは今はしっかりと見開かれ、まっすぐに僕のことを見つめてくる。  
 おどおどとゆれる瞳しか見たことが無かったせいかその視線は新鮮で、不覚にもどきん  
と鼓動がゆれた。  
「…………」  
「…………」  
 沈黙は続く。  
 始まってわずかに経って、僕は少し前の自分の言葉を激しく後悔していた。  
『好きになって、と心の中で唱える』  
 なんて馬鹿なことを言ったのか。  
 今シルヴィアは、まっすぐに僕を見詰めてくるその瞳の奥で、「好きになって」と繰り  
返しているはずで……  
 いかん、考えるな、考えるな……  
 顔が赤くなりそうになるのを、必死になって堪える。  
 それにしても、長くてもわずか11を数える間のはずなのに、いったいどれだけの間見  
詰め合っているのか……  
 
 儚げで幻想的にも思えるその姿の中、瞳だけは一途に僕のことを見詰めてきて……次第  
にその瞳に吸い込まれそうに目が離せなく……  
 だが、そんな印象も。  
「ぷはあっ! おっ、終わりました!」  
 シルヴィアが口を開いた瞬間に、幻のように消え去った。  
「どどどどうです!? 魅了されましたか!?」  
「あっ、ああ……。そうだね……魅了されたよ、シルヴィア」  
 シルヴィアに頷き返す。  
 魅了の魔法がかかったか、と聞かれたら、どう答えるか考えただろう。  
 だが、魅了されたか、と聞かれたら……YES、と答えるしかない。  
「ほほほほほ、ほんとですかっ!? どきどきしますかっ!? どきどきしてますか!?」  
「ああ、本当だ。どきどきしてるよ、シルヴィア」  
 だから、そう答えてしまったからには、せめて最後まで魅了されている振りを続けよう。  
 胃の痛みも、嬉しそうなシルヴィアの笑顔に比べればなんてことは無い。  
 そして。  
「あのあの、それじゃ! わわっ、わたっ、わたしのことをどう思ってますか!?」  
 初めて魅了が成功したことに喜ぶシルヴィアが、嬉しそうにその効果を確かめ始めた。  
 まずは質問からか。  
「可愛いと思うよ。君の事を想うとどきどきする」  
 正直に思っていることと、ほんの少しの嘘を。  
「あっ、あうあう……。そ、それじゃ、あのっ! ててて、手を握ってもらえますか!?」  
 次に行動。ここまでは予想通り。  
 僕はシルヴィアの手を取ると、騎士が貴婦人にするように、その手に軽く口付けをした。  
「ええええっ!? あ、あのあのあのっ!」  
「あ、ごめんシルヴィア。いやだったかな?」  
 まずい、少し調子に乗りすぎたか?  
 
 これでばれては、シルヴィアを傷つけてしまうし、それでは本末転倒だ。  
「いっ、いえ!? あのその、しっ、して欲しいなぁって思ってたことをされたから、び  
びびびっくりしただけです!」  
 そう言って、うわぁ、魅了ってすごいんだなぁ……と呟くシルヴィア  
「わ、分かった。これからは言われたことだけするようにしよう」  
 そう答えながら、ぽつりと思う。  
 ああ、思えば今回の依頼は楽だったなぁ……と。  
 襲ってくる魔物を避して、周囲に被害が出ないように気をつけながら、ひたすら攻撃魔  
法を叩き込む。なんてシンプル。これこそあるべき冒険の姿だろう。  
 純真無垢なドライアドを嘘とごまかしでだまくらかす、なんてのは、冒険者の役目から  
はずれているにもほどがある。  
「そそそそれじゃ、つぎつぎつぎはっ! キキキキキ……」  
「落ち着いて、シルヴィア。大丈夫、僕は逃げないよ」  
 嘘です、もう泣いて謝って逃げ出したいです。  
「キッ、キッ、キッ、キス! キスしてしてして、くくくくくださぁい!」  
 顔を真っ赤にしながら言い終えたシルヴィアが、目を瞑って顔を寄せる。  
 だが、そのお願いは想定の範囲内。  
 ぷるぷると震えながら、小さく唇を突き出すシルヴィアに顔を寄せると、唇ではなくそ  
の額に口付けをした。  
「あっ、えっ!? ああああのあのっ! キっ、キスは唇にっ!」  
「残念、同じお願いは一度きりです」  
 いきなり新ルール登場。  
 さも当たり前のような発言だが、当然そんなルールは無い。  
「ええええっ!? そそそそうなんですかっ!」  
 だが疑うことを知らない純真なドライアドは、それも魅了の決まりと受け入れてしまう。  
 キスを避わすためとは言え、ここまで素直だと逆に悪い気がしてくる。  
 
「ええーと、それじゃ、うーん……」  
 新ルールの登場に、いきなり真剣に考え出すシルヴィア。  
 ……しかし、これは困ったな。  
 このままではいつぼろが出るか知れたものじゃない。  
 それにしても、一体いつまでシルヴィアは魅了の効果を確認し続けるつもりなんだろう。  
 始まる前は、効果を確認できたら、シルヴィアはすぐに魅了を切るだろうと思っていた。  
 僕を魅了し続ける意味が無いし、この状態では魅了を教わることもできない。  
 シルヴィアが魅了の魔法の効果を疑っているというのなら分かる。それなら、疑いが晴  
れるまで効果を確認をし続けたくなるだろう。  
 だが今のシルヴィアは明らかに魅了の効果を信じきっており、疑っている様子はかけら  
も感じられないのだ。  
 それなら何故、何を理由にこれを続けるのだろう……  
「そっ、それじゃ、次に行きます!」  
 そんな僕の疑問をよそに、ようやく考えがまとまったのか、シルヴィアはこちらに向き  
直ると、再びお願いを口にした。  
「あのあの、わたしの身体をシモンさんの両手でぎゅっと、優しく抱きしめてください!」  
 う、いきなり要求が具体的になっている。  
 やはりこの娘、侮ってはいけないようだ。  
「……分かった」  
 必死になって考えてみたが、よほど無茶な解釈をしない限り、このお願いを避わすこと  
はできそうにない。  
 仕方が無い。  
 覚悟を決めてシルヴィアの身体を抱き寄せた。  
 
「シルヴィア……こうで良いか?」  
 シルヴィアは抵抗することなく引き寄せられ、柔らかく華奢な身体がすっぽりと僕の腕  
の中に納まる。  
「はははははいっ! あのっ! もっとぎゅっとしてもらってもっ、いいい良いですか?」  
 言われるがままにシルヴィアの身体をぎゅっと抱きしめる。  
「それにしても……」  
 思わず呟く。  
「なっ、なんですかっ!?」  
「いや……強すぎないか、シルヴィア?」  
 ぎゅっと、優しく、とはいきなり矛盾した要求だと思っていたが、こうやってみるとそ  
うでもないことが分かる。  
「だっ、大丈夫です……。ちょうど……良いくらいです……」  
 耳元で囁かれるのをくすぐったそうにしながら、シルヴィアがふるふると頭を振って答  
える。そのたびに、若草色をしたシルヴィアの髪から、爽やかな緑の香りが漂う。  
「つ、次はですね……あのあの、わたわたっ、わたしの名前を呼んで……それから、それ  
から……」  
 時々声をかすれさせながら、シルヴィアが耳元で囁く。  
 そのたびに鼓動が乱れるのを感じる。これは僕の鼓動か、それともシルヴィアのか。  
 ……いや、その前に、ドライアドにも心臓はあるのだろうか?  
 身体は温かいし、頬に朱が差すことから血の巡りがあることも確かで、それなら心臓が  
あるのは当たり前の話で……  
「シモンさん、それから……好きだって……言ってください」  
 どくんっ、と心臓が大きく鼓動を打ったのがはっきりと分かった。  
 あらぬ方向に跳んでいた思考が、シルヴィアの一言で一瞬のうちに正気に返る。  
 
「……分かった」  
 この要求も、前よりはましであるが、やはり外して行動することはできそうに無い。  
「……シルヴィア。好きだよ、シルヴィア」  
 シルヴィアを抱く両腕に力を込め、耳元で囁く。  
 囁いた後に、離れてから言えばよかったと気付いたが、もはやあとの祭りだった。  
「わっ、わたっ、わたしも! わたしもシモンさんのことが、すす好き好き好きですっ!」  
 あう、三回も言っちゃった……。  
 思わずといった感じの、聞かせるつもりではないシルヴィアの呟きが、一番効いた。  
 たまらずシルヴィアの身体をぎゅっと抱きしめる。  
 もう自分でも、魅了された振りをしているのか、そうでないのか、行動の線引きが怪し  
くなっている。  
 理性と知性を切り札とする魔法使いにはあるまじき行いだ。  
 そんな内心の葛藤を置き去りに、腕の中のドライアドは、次なる要求を口にする。  
「今度はですね! あのあの、めめ目を瞑って、少ししゃがんでもらえますか!?」  
 今までとは毛色の違う要求。  
 少し考えてみるが、特に問題になりそうなことは無い。  
「これでいいかな、シルヴィア?」  
 いや、先ほどの経験を生かして、抱きしめていたシルヴィアの身体を離す。  
 そして、言われた通り目を瞑って少し身を屈めた。  
「ははははいっ! あのあの、それじゃすこし、そそそそのままでええぇぇ……」  
 酔っ払ったみたいにシルヴィアの語尾が伸びる。  
 視線が無くなればうろたえるのも収まりそうなものだが……  
 そんなことを考えていると、両方の頬に手が添えられたのがわかった。  
 一体なにを? そう思う間もなく、  
 
「んむっ!?」  
 唇に感じる柔らかな感触に、要求も忘れて目を開く。  
 目の前に、目を瞑り震えながら唇を寄せるシルヴィアの顔。  
「……!?」  
 キスされている。  
 頭ではそう理解しているのだが、思考が付いてこない。  
 ただ唇に感じる、シルヴィアの柔らかく甘酸っぱい唇の感触で頭の中が一杯になる。  
 程なくして。  
「……はぁ」  
 顔を離したシルヴィアが、ため息をつく。  
 そうして目を開いたところで……目が合った。  
「…………」  
「…………」  
 わずかな沈黙。  
 次の瞬間、火が出るかというような勢いで、シルヴィアの顔が真っ赤に染まった。  
「あああああうあうっ!? ななななな、なんでっ!? めめめめ目を開けちゃダメです  
よっ!?」  
「す、すまんっ! もう開けても良いか、シルヴィア?」  
 慌てて目を閉じ、シルヴィアにたずねる。  
「ダメダメ、ダメですっ! まだ開けないでくださいっ! しばらく開けちゃダメなんで  
すっ!?」  
 シルヴィアが慌てふためく様子を聞きながら、胸の奥になんとも言えない衝動が湧き上  
がってくるのを感じる。なんだろう、この感情は。  
 もう要求は終わらせたはずなのに、またシルヴィアのことを抱きしめたくて仕方なくな  
ってくる。  
 
「そ、それじゃ、次に行きます。良いですか、シモンさん?」  
 しばらくしてようやく落ち着いたのか、シルヴィアが話し始める。  
 その言葉に頷きで答えると、わずかな沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。  
「目を瞑ったまま聞いてください……最後のお願いです」  
 これまでと打って変わった静かな声。  
「シモンさん、わたしを……」  
 目をつぶらせたままなのは、最後くらいは口ごもらずに言いたいからだろうか。  
 それなら、ちゃんと聞いてやらねばなるまい。  
 だが。  
「わたしをっ! だっ、だだだだだだだだっ!」  
 待てっ、どこへ行くつもりだ、シルヴィア!?  
 決してシルヴィアが走り出したわけでは無いのだが、ありえない方向へ駆け出して行き  
そうな様子だったシルヴィアは、  
「抱いて……くらふぁい……」  
 僕の身体にしがみつくと搾り出すような声で囁いた。  
「…………」  
 その言葉が終わるのと同時に目を開ける。  
 胸にしがみついたシルヴィアは、言い切るのにそれだけの勇気が要ったからか、あるい  
は最後のお願いすら噛んでしまったからか、その瞳に涙を一杯にためていた。  
「……分かった」  
 静かに答える。  
 そして僕は腕を伸ばすと、  
「これで良いな、シルヴィア」  
 胸にしがみつく彼女の身体を、ぎゅっと、優しく抱きしめてやった。  
 
 もちろん、彼女のお願いが文字通り抱きしめることではないことくらい分かっている。  
 だが。  
 ここで彼女を抱くわけには行かない。  
 最後の最後で彼女の想いを裏切ることになってしまったこと良心が咎める。  
 今頃になって気付く。彼女が何故魅了の効果を確かめ続けたのか……いや、気付いてい  
たのに、気付かない振りをしていただけだ。  
 それでも、ここで彼女の願いどおり抱いてしまったら、最終的にはきっとシルヴィア自  
身を深く傷つけることになる。彼女は自分の気持ちに気付いてすらいないのだ。  
 だから、今ここで彼女を抱くわけには……  
「ダメですよ……ちゃんと抱いてください……」  
 まるで僕の心の中を見透かしたかのようなタイミングで、シルヴィアが囁く。  
 その言葉は静かで、裏切られたばかりの少女の言葉には聞こえない。  
「シルヴィア……さっきも言ったとおり同じお願いは……」  
 決定的となる言葉を発しようとしたその時、シルヴィアはしがみつくその手に力を込め  
ると、震える声で囁いた。  
「一度だけ、ですよね……。だから、抱きしめるだけじゃダメですよ。そのお願いは……  
もう聞いてもらいましたから」  
「あ……」  
 しまった、とも、やられた、とも思わなかった。  
 震えながらしがみついてくるこの少女を……心の中でただただ賞賛した。  
 もう認めるしかない。  
 僕はシルヴィアに、この恥ずかしがり屋で、あわてんぼうで、そのくせとんでもなく頭  
の回る妖精の少女に、心の底から惚れてしまっている。  
 だが。だが、しかし。  
 シルヴィアの身体をゆっくりと離すと、頭を下げながら告げる。  
「すまない、シルヴィア……それはできない……」  
 
 だからこそ、彼女を抱くことはできない。抱くわけには行かない。  
 たとえそれがシルヴィアの願いだとしても、嘘を吐いたまま、魅了されているのかいな  
いのか、あやふやな状態の彼女を抱きたくは無かった。  
 だが。  
 頭を上げたとき、沈み込んでいるかと思っていたシルヴィアは、変わらず静かに僕のこ  
とを見つめていた。  
 そして視線が合った瞬間、僕の瞳を見つめながら、にっこりと微笑を浮かべた。  
「し、シルヴィア?」  
 突然の微笑みに不意を打たれ、どきんっ、と鼓動が高まる。  
 それと同時に、その微笑から目が離せなくなった。  
 美しい。  
 可愛らしい。  
 抱きしめたい。  
 ただただシルヴィアを愛しく思う気持ちが溢れて止まらない。  
 抱き寄せて、自分のものにしたくなる。  
「…………」  
 そんな僕の気持ちにこたえるかのように、シルヴィアは目を瞑るとキスをせがむように  
小さく顎をつきだす。  
 その唇に、誘われるように顔を寄せ……  
 ぱんっ!  
「……っ!?」  
 シルヴィアが手を叩いた音で、はっと我に返った。  
 ……一体僕は何をしようとしていたのか。  
 
「い、今のは!?」  
 魅了の魔法?  
 思わずシルヴィアに顔を向けると、シルヴィアがこくん、と頷いた。  
 これが……ドライアドの魅了の魔法……  
 いつの間に掛けられたのか、まったく気付かなかった。  
 これまで何度か魅了の魔法を使われたことがあったが、シルヴィアの魅了に比べれば、  
まるで子供のお遊びだ。  
「使えるように……なったのか……」  
「はい……。シモンさんの……おかげです……」  
 おもわず呟いた言葉にシルヴィアが答える。  
「いや、僕は……」  
「分かったんです……どうして魅了の魔法が使えなかったか」  
 嘘を吐いていた、そう続けようとした僕の言葉をさえぎって、シルヴィアが話し始める。  
「ドライアドは……生まれたときから魅了の魔法が使えるわけじゃ無い……恋をして、初  
めて魅了の魔法が使えるようになるんです。ようやく、わかりました……」  
 囁くようなシルヴィアの声。  
 嬉しそうにも、哀しそうにも聞こえるのは、何故だろうか……  
「だっ、だから……シモンさんのおかげですっ! わっ、わたし、馬鹿だから気付かなく  
って……」  
「シルヴィア……」  
 ちがう……馬鹿はこっちだ。  
 シルヴィアの気持ちを知っていながら、騙すことになると言い訳してごまかしていた。  
 
「シモンさんが好きですっ。だっ、だからだから……お願いです、だっ、だだだだ……」  
「もう良いよ、分かったから……ごめんねシルヴィア」  
 搾り出すような声で話すシルヴィアの身体をそっと抱き寄せる。  
 触れた瞬間びくっと震えたものの、シルヴィアは抵抗することなくその身を委ねてきて  
くれた。  
「シモンさん……」  
「…………」  
 柔らかなシルヴィアの身体を抱きしめながら思う。  
 思えば簡単な話だった。  
 彼女は僕に恋をして、僕はそんな彼女を傷つけたくなかった。そして今、僕はシルヴィ  
アに惚れている。魅了も何も関係ない、それだけは確かな真実だった。  
 これまで何度も朴念仁と呼ばれてきたが、ここまで言われなければ気付けないなんて、  
どれだけ罵られても足りないくらいだ。  
「そうだね、確かにそうだ……好きだよ、シルヴィア。愛してる」  
「わわっ、わたっ! わたしも……んむっ!?」  
 またうろたえ始めてしまったシルヴィアの唇をそっとふさぐ。  
 さっきしたのより、もっと深いキス。  
 突然の口付けに硬直していたシルヴィアも、目を瞑って答える。  
 二度目のそのキスは、お互いの気持ちを確かめ合うように、長くながく続いたのだった。  
 

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