少女は、人の真似事を始めた。  
 
 全くゼロからのスタートは、想像以上に困難だった。無理もない話である。器自体が違うのだから、相手の気持  
ちを分かることなど、未来永劫できるはずもない。古今東西の物語を読みふけり、物語の感想書をも読み、なるべ  
く温厚そうな人間を見つけて話をする。  
 この一連の作業は、想像以上に大変だった。そもそも、空気を読むことが出来ない。話のなかで、相手を怒らせ  
ることなどしょっちゅうだ。それでも、根気強く、どうしてか、何故か、理由を求めた。  
 返礼は、大抵が言葉だったが、たまに肉体言語の場合もあった。理由をしつこく聞けば殴られる、そんな体験を  
したことも、一度や二度ではない。無論、責任は自分にあると少女は知っていた。だから謝る。謝ることしか出来  
ない。それが、心からの謝罪かどうかは分からなかったが。  
 
 理不尽を知ったのもその辺りからである。ある時は、謝罪すれば性器をつきつけられ、奉仕を強要された。ある  
時は、謝罪すれば逆に激昂され、ナイフで腹部を刺されかけた。ある時は、いわれのない罪をなすりつけられそう  
になった。  
 
 正直、人間は、あまり褒められたものではなかった。自分と同じぐらいの駄目さ加減だ、と嘆息する暇もあらば  
こそ、少女はとにかく人間と交流を続けた。結局、寂しかったのだろう。孤独を軽んじることなどないから、上辺  
だけのくだらない関係であっても、それに埋没したいと願う。  
 少女は、弱虫だった。常に安全な場所がないと落ち着けない。争いごとを苦手とするのは、安全な場所がめちゃ  
くちゃになることを恐れるゆえだ。  
 少女は、臆病で、弱虫で、怖がりで、どうしようもないほどに身勝手だった。  
 
 
 ある日、盗賊たちが幼子の集団をさらい、強姦しようとしていた。  
 少女は、特に何も考えず、盗賊たちの首をすべて、その両腕で引き千切り殺した。衝動的な善意だった。  
 
 返ってきたのは、幼子たちの石つぶてと罵声、盗賊たちの家族の怨恨、それと追撃だった。  
 
 ことここに至り、少女は得心する。結局、この世の中は、巨大な天秤で成り立っているのだ、と。誰かを殺せば  
誰かを救えるが、誰かが救われるかたわらで、被害者の家族は、こちらを『悪役』として認識する。  
 よくよく考えてみれば、すぐに分かることだった。  
 
 百人中、十人だけ受かる試験がある。ひとつだけ願いをかなえてくれる神様のおかげで、その十人の中に入るこ  
とが出来たのならば、受かった者にとって、その神様は救世主となり得るだろう。同時に、試験にぎりぎりであぶ  
れた十一人目にとっては、かの救世主は悪鬼以外の何者でもなく。  
 個人的主観の問題である。ある意味では、戦争のようなものだ。どちらも正しいと信じている。客観的な視点で  
見てみれば、結局は、同じ穴に落ちてぎゃあぎゃあ乱痴気騒ぎをしているだけ。  
 
 
 少女は学習した。自覚のない善意こそが本物の『悪魔』なのだと。  
 
 どんな理由があろうとも、自己を正当化してしまえる。自分は正しいことをしている、という逃げ道が出来てし  
まう。人ひとりの行動は、必ず何かに影響を及ぼす。それにすら気付かない、気付けない。それは、とてもとても  
恐ろしいことだ。狂信者となんら変わりはない。  
 
 同時に、少女は逃げ道をひとつ見つけた。  
 
 自己満足のために行動している、という、ありきたりな一文を。  
 
 
 
 ――だが、月日が経った今でも、彼女はまだ、人間の考えが分からない。  
 
 
 悪魔は、放心する。  
 
 
 なんだこれは。一体何が起きている。私の意識を凍結させるようなことが起きている。これは何だ。これは何事  
だ。これはどういうことだ。こんな事態は考えていない。予測はしていた。だから何だ。こんな。何故。どうして。  
何のために。  
 
 ありとあらゆる言語と言語と言語が、頭の中でぐるぐると混ざり合い、しかしリザは一言も発することが出来な  
い。何もかもが過ぎ去って、何もかもが意味を持たず、何もかもが意味を失う。  
 
 眼前には、ひとつの遺体が横たわっている。人の頭ほどもある大きさの穴を腹部に空けて、絶命しているイリス  
の姿がある。赤茶けた髪と、おしゃまな雰囲気のある顔立ちと、白めの肌がそこにある。  
 腹の穴からは臓物がこぼれ落ちている。全身は生臭い、性のにおいがする。顔やわき腹には、打撲傷とすり傷が  
ある。  
 
「どういう、こと……」  
 
 背後から町人たちの視線を感じながら、リザは、がくりと大地に膝をつく。  
 
「後ろの森で見つかった。つい、少し前にだ」  
 
 人ごみの中からアストが出てきて、リザのとなりまで駆け寄って、状況を説明する。彼の表情は硬い。雰囲気も、  
いつもとは違って無機質だ。  
 
「野草を取りに行った奴が第一発見者だ。遺体を発見した時、わずかに金色の髪が見えたらしい。性的暴行をされ  
た跡もある。致命傷は腹の傷だ。……なんだってこんな子供を」  
 
 言葉が素通りする。リザは茫然自失、表情はいつもの鉄面皮だが、全身は悪寒に支配され、小さな動きすら抑制  
されている状態。  
 後ろから、町人たちの声が聞こえてくる。イリスと仲が良かったからつらいだろう、やっぱり信じられないだろ  
うな、なんであんな女の子をねえ、こんな殺し方をするなんて酷い奴ね、などなど。  
 
 うつむいたまま、リザは深呼吸する。とにかく、落ち着くべきだ、と。  
 目を少し上に向ければ、血と精液と何らかの粘液にまみれた友人の骸が見える。だが、それにかまけてばかりで  
は、何も出来ない。落ち着くよう、落ち着くよう、呼吸して呼吸して。  
 
 
「はなして!」  
 
 
 大声が聞こえる。それは、リザの背後にある人ごみの一角からだ。見れば、イリスの母親が半狂乱になって暴れ  
出し、それを三人ほどの男が止めている光景だった。はがいじめにしても抜け出されそうなので、大の男三人がか  
りでやっとどうにかなっている、という状況。  
 無理もなかろう、とリザは思う。友人である自分でさえ、この始末なのだ。人間をまねる悪魔でさえ、この始末。  
人間同士、しかも肉親となれば、正気のひとつやふたつ失ってもおかしくはなかろう。  
 どこか居心地の悪さを覚えて、リザは立ち上がり、そばにたたずむアストに軽く会釈する。  
 
 
「殺してよ! イリスを殺した奴を、殺してっ!!」  
 
 
 瞬間、リザは背を震わせた。  
 
   
 殺して、とイリスの母は言った。それは、怒りのためだろう。怒りのために、あのような、残酷なことが言える  
のだろう。だが、イリスの母にとってその言葉、は残酷でも何でもなく、正義の鉄槌そのものだ。  
 そういった事情を踏まえて、リザは身を震わせる。自分も、あの言葉が、残酷とは思えなかったからだ。  
 
 同時、リザは、あの錯乱した姿の女性を頭の中で描く。憎悪に身を焼かれたイリスの母は、普段の温厚ぶりな  
ど、どこ吹く風といった姿だった。憎悪は人を変える、とは誰が言っただろうか。  
 
 
 
 人ごみは、時間が経過するにつれて、その密度をどんどんと薄くさせていく。ひとり離れて、ふたり離れて。遺  
体は運ばれ、やがてそこには、先の喧騒など忘れたかのように、静寂を保ち続ける町の一角だけがあった。  
 リザは、ずっとそこにたたずんでいた。イリスの血が少量落ちていたその場所に、ずっと。皆が去って、被害者  
の母親も強制的に連れ去られて。あとに残るは、放心状態のリザだけ。  
 
 人は死ぬ。あっけなく死ぬ。理不尽な理由で死ぬ。物語と絶対的に違う点はそこだ。いかなる伏線も、いかなる  
論理も、いかなる道徳も意味を成さない。あっけなく、本当にあっけなく、死んでしまう。  
 
 イリスは、殺された。誰に殺されたのか、皆は検討がつかないだろう。  
 だが、残念なことに、リザは分かってしまう。あの森の中、唐突に目覚めた力。感覚で悪魔のにおいと残滓を追  
うことが出来るリザには、犯人の目星がついてしまう。  
 
 イリスを殺した者は、自分と同じ、悪魔だと。  
 
「……悪魔」  
 
 瞬間、リザの肌が粟立つ。内から漏れる、黒い海嘯。もてあまし、どうにもならず、爆発させたくてもさせられ  
ない感情。言うまでもなく、それは憎悪だった。  
 
 リザの心は、今、憎悪に染められつつある。いや、もう染まりきっている。手は震え、歯はがちがちと鳴り、心  
拍の数は平静時よりも多く。  
 リザは、そこらの壁やものを蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。  
 
「駄目。……駄目」  
 
 深呼吸をする。心を落ち着けようとする。だが、出来ない。肺臓を、黒い炎が焼いているような感覚。物理的な  
痛みはないのに、胸の内側が痛くなる。疼痛ではなく、それは激痛だった。  
   
 イリスを殺した悪魔は、正直、憎い。だが、それでリザが私怨に狩られて復讐したとしてどうなるのだろうか。  
あとには何も残らないし、自分の意思でひとりの存在を殺した瞬間、リザはその憎んだ相手と同列にまで堕すので  
ある。  
 加えて、イリスを殺した悪魔に、もしも友人がいた場合、リザはその友人に怨まれることとなるだろう。憎悪は  
憎悪の連鎖を呼ぶ。そんなことは、大昔から分かりきったことだ。  
 だが、それでもリザは。  
 
 
「殺します。自分の意思で、復讐される覚悟を、返り討ちされる覚悟を、全ての覚悟を背負い、手を汚します。も  
ともと汚れてはいましたが……、今回は、自分の意思で、全てを受け入れて、殺します」  
 
 
 誰もいない空間で、挑発するようにそうつぶやいた。それは、自分自身に言い聞かせる言葉である。殺す、と決  
めた瞬間、殺害対象の知り合い全ての苛烈な怨恨を受ける覚悟をもたねばならない。しかし、それは罪の認識など  
という高邁なものではなく、あくまで自己保身の心。  
 そもそも、ひとつの存在を殺すことに、善悪や罪過や正悪の概念など意味を成さない。良いこと、悪いこと、そ  
ういう考えは、社会というルールの中においてのみ適用される。あらゆる道徳と倫理観は、暴力の前に意味を失う。  
殺すことは、殺すこと。それだけが真実なのだから。  
 
 
 リザという悪魔は、この時、イリスを殺した悪魔を殺すことを、覚悟した。  
 
   
 リザは、自宅へと足を向ける。目的を完遂するに必要な道具を取らねばならないからだ。  
 だが、自宅の扉を見かけた際、その前にたたずむひとつの影を見つけた。茶色がかった黒い髪に、細い体躯の青  
年。神妙な顔つきでリザの方を見やる、アストの姿を。  
 
「……どうするんだ?」  
 
 自宅の前でたたずむ彼に近付けば、いきなり問われる。主語も何もない、簡潔な質問。普段ならばそれを指摘し  
てからかうのだろうが、今のリザにそんな余裕はない。  
 平和な世界に耽溺し続けていたのである。日常は続くが、理不尽はどこかに降りかかる。それがたまたま、リザ  
の友人だったのだ。だから荒れる。心が荒廃する。ささくれ立った心は、明確な色彩の焔となりて、リザの心に行  
動原理を発現せしめる。  
 
 リザは、親指を立て、喉の前で横薙ぎにかき切る仕草を取る。  
 
「犯人を殺します」  
「分かるのか?」  
「ええ。犯人は、私と同じ、悪魔です。……アストは、気付いていたのでしょう?」  
「まぁな。あくまで予測、ではあったが」  
 
 リザが問えば、どこか恥ずかしそうに視線を逸らしながら、青年は言う。いつもと違ってぎこちないやりとり。  
それがなんだか遠く、どこか薄ら寒いものに感じられて。リザはぶるりと身を震わせる。  
 
「悪魔の位置は、私しか察知できません。単身、乗り込みます」  
「義憤による復讐か?」  
「いいえ、恣意的感情による『人殺し』です」  
 
 言外に、あらゆる言語は意味を成さない、と語るリザ。そんな彼女の目をしばし見つめて、観念したかのように、  
青年は溜息をつく。  
 空気が、弛緩する。  
 
「……お前さんってさ、本当に、本当に、本当に、馬鹿で不器用で駄目女だよなあ」  
「否定はしません。ですが……今回ばかりは、もう止まりません」  
「そうなのか? 表情が変わっていないから、分かりにくいが」  
「私、今まで本気で怒ったことがないんです。嘘くさいですけど。でも……多分、今回は本気で怒っています」  
 
 感情に流される、ということがリザにはほとんどなかった。あっても、ただの気まぐれで済んでいたし、さして  
重大な事件を起こすでもなかった。だが、今回ばかりは毛色が違う。  
 恐らく、犯人は、リザの憎悪など知ったことではないのだろう。それは当たり前だ。殺す殺さないという問題の  
中に、個人的事情は意味を成さない。倫理を無視するのならば、精神面での事柄は全て芥同然だ。物的事象のみが  
絶対である。  
 
「まあ、いいけどな。正直、人間が悪魔を倒すのならば、その被害は大きいだろうし。お前が鎮圧してくれれば、  
僥倖だよ。それに、イリスの両親の敵討ちにもなるしな。……と、ここまでが大衆的所感だ」  
「で、あなたの本心は?」  
 
 あきれたように肩をすくめてリザが問えば、アストは珍しく獰猛な笑みを浮かべて、言う。  
 
 
「余裕があれば、俺の分まで一発でいいからぶん殴ってほしい」  
「了解です。余裕があれば、強烈な一撃を与えてやります」  
 
 アストの横をすり抜け、リザはいったん、自宅に戻る。レンガ造りの小さな家は、必要最低限の機能しかなく、  
世辞にも薬屋には見えない。それを証明するかのように、玄関口に貼ってある依頼書は、見事な白紙である。  
 ここまで繁盛しないと、喜劇にしかならないな、と思いつつ、リザは自宅の最奥部へと進み、そこにあるタンス  
をどける。どけた先にあるレンガの壁は、一見、何の変哲もないように見える。  
 が、そこへ手を伸ばし、上下に動かせば、がちゃりと音が鳴り響き、壁の一部が不恰好な蓋のように、外れて落  
ちる。壁に小さく空いた穴。リザはそこに手を入れ、中にあったものを一気に引き抜いた。  
 
「……よし、上等上等」  
 
 リザが手に取ったのは、50センチメートルほどの長さをほこる、杭だった。真っ白なそれは木製で、見れば見る  
ほどに、吸い込まれそうな魅力がある。神秘的、とでもいおうか。きちりと切り揃えられたそれは、竜の角のよう  
な威厳に満ち満ちていた。  
 それを背中に回し、特別丈夫なリボンと紐を用いて、器用に体に縛りつける。エプロンドレスが不恰好なかたち  
になるが、それはそれで仕方がない。  
 
 最後に。棚から薬を漁り、飲む。疲労回復と精神沈静の作用があるそれを、ひとつ、ふたつ。  
 げふぅ、と息を吐いて、荒れた自室をあとにする。  
 
 
「なにをしていたんだ?」  
 
 玄関を出てみれば、道の端にいるアストから声をかけられる。待ってくれていた、ということは、激励の言葉の  
ひとつふたつでも投げかける気なのだろう。リザは彼のもとへと近付いていく。  
 そばまで歩み寄り、そこでくるりと体を反転させ、背中がアストに見えるようにする。しばし待ち、また、くる  
りと一回転。今度はアストと向き合うかたちとなる。  
 
「……杭か?」  
「はい。以前話した、対悪魔用の必殺武器です」  
「誇張じゃないんだな?」  
「……さすがに、こんな空気の中、私もふざけたことは言えませんよ」  
 
 頬をかき、無表情のままに言うリザ。だが、言葉の端々は、いつもより荒々しい。  
 
「殺します。ですが、殺し方は私個人の指針に乗っ取り、やります」  
「町人のひとりとしては、勝手にやれ、という感じだな。悪魔を殺してくれればなんでもいい。……しかし、ひと  
つ疑問なんだが。どうして町に入って、俺たちを皆殺しにしなかったんだ?」  
「それは、知ったことではありません。私はそろそろ行きます」  
 
 首をひねるアスト。だが、リザはそれを切り捨てる。  
 
 嫌な話だが、同じ悪魔であるリザは、どうしてひとりだけをなぶり殺したのか分かる。恐らく、悪魔特有の嗜虐  
心と、残虐性が原因だろう。暴力を振るうことに悦楽を覚える悪魔のことだ。少女ひとりをいたぶり、つい調子に  
乗って町の人間に見つかりかけ、今はほとぼりが冷めるまで遠くに逃げて待機、というところか。  
 集団における優位性を、悪魔は知悉している。それに、人間社会のつながりの広さは、様々な面で厄介だ。だか  
らこそ、慌ただしく去り、体勢を整えているに違いない。リザはそう予測した。  
 
 
「行ってこい、不器用女」  
「行ってきます、優男」  
 
 軽口を交わして、リザは悪魔の気配を追って、町を出た。  
 
 
 そこは、多くの木々が立ち並ぶ場所だった。青々とした匂いと、土特有の鈍重な匂い。闇夜のなかにおいても、  
なお鮮明に見える、枝葉の緑色。  
 立ち並ぶ木々の数々は、月明かりの淡い光を受けて、薄茶色に輝いている。夜の空気は、冷たく、とかくとかく  
冷たく、それでいて静謐だった。  
 
 そう、静謐である。この森の中には、あるべきものがない。鳥と虫の声も、風の音色も、木々のざわめきも。ま  
るでそれは、森そのものが死んでいるかのよう。ただ風景を構成するものがあるだけで、それに付随する要素は何  
もなく。作り物めいた風景が、そこにある。  
 そんな作り物めいた空気が蔓延するなか、作り物めいた美を持つ者が、ひとり。金色の髪を流し、真っ黒なドレ  
スをまとった、絶世の美を見せる女性の姿。めりはりのある肉体を揺らし、木と木の隙間を抜け、唇を上げたまま、  
ゆっくりと歩いていく。  
 
 ほどなくして、女性は歩みを止める。背後を振り返り、目を細める。  
 女性の眼光の先にあるのは、森の中においてなお目立つ、ひとつの太い木だった。どっしりとたたずむそれは、  
樹齢三桁に達するのかもしれない。表面にはいくつもうろがあり、伸びる枝の数も多い。  
 
 そんな木の後ろから、女性の視線を受けて飛び出すように、ひとつの影。  
 
 月光の残滓を受けて、淡く輝く白銀の髪。無粋ともいえるほどに安っぽいエプロンドレスをまとい、紐やリボン  
で腰や腹の辺りを縛り、鉄のおもてをたたえてそこにたたずむは、女性の姿。体格は小柄も小柄、子供のよう。た  
だ、発せられる雰囲気は、青さというものを廃すそれ。  
 
 
 金の髪を持つ悪魔と、白銀の髪を流す悪魔は、今ここで向かい合った。  
   
 
「つけていたのね。いい趣味しているじゃない、ガキのくせに」  
 
 金のロングヘアーを手でいじりながら、その女性は嘲りの念を言葉に乗せて言う。だが、それを受けても、白銀  
の髪をもつ方は動じない。鉄面皮のまま、氷の表情のまま、ただ言葉を受けて、その場に立つだけ。  
 
「質問があります」  
 
 鉄のおもてを崩しもせず、白銀の髪の女性――リザは、一切の怯えも見せずに問うた。  
 
「なにかしら?」  
 
 そんな彼女の挙措に苛立ちを覚えたのか、眉をひそめながら金髪の女性――フィロは、リザに渋々応じる。  
 
 
 
「今日の朝。やや早めの時間帯。……赤茶色の髪の女の子を、手にかけましたか?」  
 
 相対する者から視線を一切外さずにリザが問えば、フィロの方は一瞬だけ瞠目するも、それから楽しそうに笑い  
出す。淑女めいた所作で、小さく、くすくすと。  
 
「ええ、そうよ。私が殺してやったわ。あなた、いい勘しているじゃない。ガキのくせに」  
「どうやって殺しましたか? 悪魔なりの手段で?」  
「……本当に、いい勘しているのね。いいわ、今日は気分も上々、話してあげる」  
「ありがとうございます」  
 
 ぺこり、とわざとらしくリザが会釈をすれば、金髪の悪魔はまたも眉をひそめるも、その殺人の経緯を思い返し  
ているのだろう、にやにやといやらしい笑みで、八の字の眉を打ち消した。  
 
 金髪の悪魔は語る。陵辱劇と殺人手法。野草を採取する少女と出会い、会ってすぐさま痛めつければ、カエルの  
ような悲鳴を上げたこと。冥界の生物で四肢を拘束し、媚薬で狂わせ、乳房を踏み、男性型の下僕を使って、陵辱  
したこと。それを見て楽しんだこと。最後に、精神が壊れたから、腹部を思い切り右手で貫き、えぐるようにして  
臓器を引き抜いてやったこと。  
 それを、悪魔は、リザの前で、主観も交えて懇切丁寧に説明した。  
 
「もう、あの無様なカエルじみた悲鳴ったら、おかしくっておかしくって!」  
「いい趣味していますね」  
「……なぁんかその物言い、皮肉を言っているようにしか聞こえないんだけど?」  
「今頃気付いたんですか? 頭悪いんですね、あなた」  
 
 瞬間、空気が凍りつく。発生源は、金髪の悪魔、フィロから。それは明確な怒気であり、明確な殺気であった。  
もしも一般人がこの空気を何も知らず吸ったのならば、悪寒に全身を支配され、金縛りでもされたかのように動  
きを止めるであろう。  
 だが、リザは動じない。悪魔の殺気は、悪魔が受け取るのならば何の問題もないからだ。ただ冷徹に、翡翠の瞳  
を光らせて、殺気をみなぎらせる相手の顔をねめつける。  
   
「言うじゃない、クソガキ。その慇懃無礼な態度も、演技?」  
「いいえ。これは素です。さて……場も温まりました。そろそろ自己紹介といきましょう」  
 
 有無を言わせぬ勢いでそう言い、リザはぎこちなくスカートの端と端とを両手でつまみ、ぺこりと可愛らしく礼  
をする。仕草そのものは洗練されていないが、人間臭いとも言えるその動きは、リザの美貌とも相まって充分に映  
える様相であった。  
   
「私の名前は、リザ。しがない薬屋、兼、腹話術師です」  
 
 そう言ってふところから不細工なワニのぬいぐるみを取り出し、アゴをぱこぱこと動かす。  
 
「俺の名前はフェルナンデス! リザっちの相棒! よろしく!」  
 
 この凍った森においては場違いなほどに陽気な声が響き渡る。だが、リザの表情は変わらない。相も変わらず、  
大真面目である。  
 
「私はフィロ。悪魔よ」  
 
 そんなリザをあきれと諦念のこもった目で見る金髪の女性。それでも、リザは絶対に動じない。生来の鉄面皮を  
揺るがしもせず、ただそこに立ち、女性の姿を、言動を、雰囲気を、ありようを、全てを白眼視している。  
 
「フィロ、ですか。自己紹介ありがとうございます。で、早速ですが」  
 
 そう言って、リザはぬいぐるみを取り外し、だらりと両手を下げ、腰も少し落とす。丁度、ゾンビがいれば、こ  
のような格好になるのかもしれない。妙ちきりんなその脱力姿は、しかし、滑稽ではなかった。むしろ、珍妙だか  
らこその不気味さがある。  
 そんなリザに呼応するかのように、森はさらなる静謐に包まれる。悪魔と悪魔が対峙しているせいだろうか、森  
が、呼吸を、いななきを、全てを止めている。  
 
「まあ、言ってしまえば、私はこれから、あなたに敗北という素敵な味を教えちゃいます。一応、情報として教え  
ますけど。あなたが殺した人は、私の友人だったんですよね。というわけで、私に倒されてください」  
「へえ……?」  
 
 何の気はなしに、まるで明日の天気を語るかのようにリザが言えば、とうとうフィロは目を細めて怒気をあらわ  
にする。だが彼女は、リザの言葉の裏の意味を察していた。これから戦いましょう、という。  
 
「あなたは、私に熱をくれるのかしら?」  
「そんなもん、いっぱいあげますよ。斬られたり殴られたりすると、痛いを通りこして熱いですし」  
「……ふぅん、本当、生意気な女ね」  
「言われ慣れました、それ」  
 
 ぴしゃり、と相手の言葉を切り捨てて、どんどんと態度が無礼に、言動が皮肉げになっていくリザ。それは、鉄  
のかんばせの裏にある、内なるどす黒い炎のせいだろうか、はたまた悪魔がゆえの本能なのか。  
 そんな自分に冷却処理をするかのように、ふう、と一回息を吐いて場の空気をいったん変える。  
 
「……正直、犯人が私レベルの小物とは思いもよりませんでした。いや、強姦殺人なんてする時点で、小物だと察  
して然るべきだったんでしょうが。ちょっと残念です」  
「小物とは、言ってくれるじゃない、悪魔を前にして。そんなに死にたいの?」  
「いや、死にたくはないですね。私、臆病ですから。死ぬのも痛いのも怖いのも大嫌いです」  
「よく言うわよ、このクソガキ」  
   
 フィロの怒気は高まりつつある。そんな彼女の姿を見ながら、リザは、そろそろ頃合いだろう、と考え、さらに  
全身の筋肉を弛緩させる。だらりと垂れ下がる手から、ますます力が抜けていく。  
 
「私は、あなたのその驕慢を正面からへし折ることを第一目的とします。まあ、半死半生の目にあわせることが目  
安なので……、死ぬ気でかかってきてください」  
「本当、命知らずね、あなた。よくもまあ、悪魔に向かってそこまで言えること」  
 
 
「宣言しておくんですよ。あと、とっとと本気で来てください。あなたが負けたあとで、本気じゃなかった、とか  
そういう類のいいわけをされると困るんで。まあ、言っても無駄でしょうけど」  
 
 
 リザがそう言うと同時、空気が爆ぜた。  
 
 唐突にも過ぎる、静から動への転化。土が跳ね、空気は揺らぎ、風は流れる。わずかに遅れて、たん、と地面を  
蹴る音が、そこここにこだまする。  
 フィロが、リザに肉薄していた。それは本当に一瞬のことで、まばたきの間に、両者の距離をほぼゼロまで縮め  
るその脚力は、さすがは悪魔としか言いようがなく。  
 
 全く動かず揺らがずの姿でいるリザに、フィロの右手が伸びる。人間とは比較するのも馬鹿らしいほどの膂力で  
放たれた、抜き打ちの手刀は、まっすぐにリザの心臓へと向かっている。  
 その指の先端が、彼女の衣服に突き刺さろうかという瞬間、ゆらり、と影が揺らめいた。  
 
「ぐ……がぁっ!?」  
 
 カエルを潰したような悲鳴が響き、両者の位置が入れ替わる。それは一瞬の出来事であったが、その一瞬の間に、  
状況はすでに劇的な変化を見せていた。  
 リザは、右手を横へと投げ出すような格好で、あとはだらりと脱力の様相。その身には、いや、その身にまとう  
衣服にさえも、傷ひとつ付いてはいない状態。表情は全く変わらず、鉄と氷のそれ。  
 そんな彼女の背後には、もんどりうって地面に膝をつくフィロの姿が。彼女は苦悶の表情で脂汗を流し、左手で、  
右手の首を押さえている。ありえざる方向にへし曲がった、右手首の骨を、押さえている。その翡翠の瞳の色から  
は、納得いかないと言わんばかりに、剣呑な光が、ぎらぎらと。  
 
 両者は振り向きあい、距離を取る。リザは脱力の様相で鉄面皮だが、フィロは憤怒の形相でリザをねめつけ、手  
首を押さえている。  
 とはいえ、常識外の回復力をもつ悪魔のこと。しばし向かい合えば、金髪の悪魔のへし折れた右手は、いつの間  
にやら、平常時のそれへと戻る。  
 
「あなたは……」  
 
 
 目を細め、歯をぎりぎりと鳴らしながら、射殺さんばかりの視線を向けるフィロ。だが、リザは応じない。全く  
言葉を発さず、ただ、脱力の様相のままに、あごを小さくしゃくるだけ。  
 その仕草が、何よりも雄弁に、彼女の気持ちを表していた。  
 
 
 戦いが、始まる。  
 
 
 

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