あの凄惨な事件から、十数日が経過した。サーリアの町は表面上こそ平静を取り戻したが、時折、人々の顔に暗  
い色が落ちる事実は否定しきれなかった。  
 凄惨な死体。陵辱の爪跡。遠く離れた森で、大量の血液が飛び散っていたという自警団の情報と、町に再び凶刃  
が来ぬという理由から、町人たちは、この事件を終わったものと認識した。  
 
 いや、終わった、と認識したかったのだ。それだけ、あの事件は、色々な人の心に、様々な感情を残していった。  
イリスの母はいくぶんか持ちなおしたが、やはりその顔に暗い色が差すことは何度もあったし、イリスの父は、前  
よりも溜息をつく回数が多くなったという。  
 イリスの友人である子供らは、彼女の存在を日に日に忘れていった。誰もが皆、忘れていくのは仕方のない話で  
ある。明確な死の概念をつかめぬ年齢である子供ならば、それはなおさらの話だ。  
 
 
 そんななか、リザはというと。  
 
 
 
 
「行くのか?」  
「ええ。私が、私でありながら、私を捨てるために。……うわ、格好つけすぎですね、これ」  
 
 
 
 ザックを背負い、白木の杭を腰にさし、旅の準備を始めていた。  
 
 
   
 リザは、あの事件の起こった日、フィロという名の悪魔を殺した。その工程はあくまで作業的であり、心を凍ら  
せて行ったものだが、やはりいくつか穴は空いていたのだろう。  
 
 リザは、嗜虐の心と優越感を覚えていた。同時に、小さな闘争本能をも。仕方のない話である。悪魔は、元来、  
闘争本能や嗜虐心に基づいて行動する生き物だ。リザが平穏を愛するのは、あくまで、意地になってでも人間に紛  
れようとした、強情な心があるからこそ。  
 だが、やはり心というものは不完全だ。どんなに意地や矜持があろうとも、ささいなことで穴は空く。ささいな  
ことで心はひび割れ、ささいなことで人は間違いを犯す。それでいて、ささいなことで、誰かは誰かを憎む。  
 
 怖かったのだ。全ての『作業』を終えたリザは、いつの間にか、股間を濡らしていた。歩くたびにドロワーズが  
ぬちゃぬちゃと卑猥な音を立てた。拷問をして、殺しをして、性的興奮を覚えた。  
 それは体質のせいであったのかもしれない。だが、事実は事実である。リザの股間は濡れていた。それだけが冷  
たい現実だった。  
 
 
 もしかすると、いつか、快楽に流される日が来てしまうのかもしれない。そう考えると恐ろしさを覚え、町の人  
と接しても、どこか満たされぬ日々が始まる。イリスを失って、人間でありたいという小さな意地もわずかな規模  
となり、あとに残ったのは、悪魔であるという事実のみ。  
 と、数日前まではリザも思っていたのだが。ある日、思い立った。  
 
 
 たまには受動的ではなく、能動的になってみても良いのではないか、と。  
 
 
 
 悪魔の本能を沈められる手段がどこかにあるとすれば、行くのも良いのかもしれない。リザはそう思った瞬間、  
すでに旅支度を始めていた。  
 希望はどこにあるか分からない。だが、希望が確実に存在するという理由もない。しかし、最初からあきらめる  
のは、時として良いが時として悪い。現状に満足していないのなら、多少乱暴でもどうにかせねばなるまい。そん  
な考えを抱き、リザは、己と向き合ってみようと決断したのである。  
 
 拠点を捨て、遠くの地を歩み、情報を得、知識を養いながら、生きてみようと決断したのである。   
 
 
 
 青空が広がっている。小さな風が、ひっきりなしに流れている。暖かな陽光は大地を照らし、建物を、人々を、  
全てを照らしていく。  
 広遠なるアクアブルーのその下で、青年と悪魔は言葉を交わす。  
 
「行くあてはあるのか?」  
「はい。とりあえず、世界各地にいる、有名な魔女様や賢者様たちに会ってみようかと」  
「信憑性は?」  
「ゼロに近いですが……、まあ、このまま怯えて生活するのも嫌なんで、あがいてみようかと」  
 
 どこか気恥ずかしげに言い、リザは微笑した。鉄面皮が揺らぐその瞬間は、彼女の眼前にたたずむアストをして、  
眉唾ものの出来事だったのだろう。アストは瞠目し、まるで絶滅危惧種でも見たかのように、間抜けな吐息を漏ら  
した。  
 
「でも、そんな崇高な理由ばかりじゃないんです。怖かったんです。暴力、振るっちゃいましたから。私が最も嫌  
うそれを、私自身で行ったことは事実ですから。どんなに自己嫌悪をしたとしても、罪は罪です」  
「罪は消えない。償えない。だから逃げ出したい。そういうことか?」  
「……はい。贖罪という逃げ道が封じられますと、ね。怖くて怖くて。私、臆病ですから」  
「……本当、不器用だな。でもまあ、お前さんらしいと言えばらしいが」  
 
 どこか寂しげに笑うアストを見て、リザは遠くに目をやる。その視線の先には、小さな小さな墓石が見える。  
 
「墓参りはしないのか?」  
「私にそんな資格はありません」  
「資格なんて必要あるのか?」  
「はい。あるんです。だから、行きません、行けません」  
 
 目をつぶれば、リザは思い出す。  
 赤茶色の髪を揺らして、無邪気な笑顔でからかってきたイリスのことを。この町に来てから、初めての女友達で  
ある彼女の記憶は、未だ鮮明に残っている。  
 
 思えば、どうして彼女に自分の正体を未だに伝えられなかったのだろうか、とリザは後悔する。やはり、人を信  
じているとか言うかたわら、どこかで猜疑心はあったのだろう。これはリザの精神の脆弱ぶりが招いた結果なのだ  
ろう。もやもやとした霧を、胸中にて抱え、もう二度と会うことはない彼女のことを思えば、リザは恐らく、これ  
からずっと、イリスの笑顔を追い続けることになるのだろう。  
 
 
 
 だから悲しい。だから怖い。  
 
 
 だから、前に進んでいこうと考えられる。  
 
 
 きびすを返す。白銀の髪が揺れる。風が、頬を撫でる。  
 
「私の家は好きにしてかまいません。今までの礼です、アスト」  
「……とっておくよ、アホ女。克服したら、また戻ってこい」  
 
 背中にかけられた言葉に、リザは一瞬だけ目を見開き、それから振り向きざまの苦笑で返した。  
 
 
「気が紛れたら、戻ってきます。お互いに生きていたら会いましょう」  
 
 
 そう言って、リザは足を前へと投げ出した。  
 かつん、と音がする。ブーツと石の路がぶつかった音、硬質な音。  
 
 この音を聞く日がまた来るのかどうか、神ならぬ身であるリザには分からない。けれども、この音を、覚えてい  
こうと思う。どんなにありふれた音であっても、この音は忘れぬよう、心に刻む。  
 
 悪魔の身は人よりも強いが、心はそれに反して脆弱だ。もしかすると、その隙をつかれて、あっさり殺されてし  
まうのかもしれない。あるいは、リザが殺した悪魔の知り合いたちが、復讐の炎でリザを焼き尽くすこともあるの  
かもしれない。  
 生まれつきの上から目線は、もう変えられない。だからこそ生じる欠陥があり、だからこそ生じる惰弱な精神が  
ある。それをリザは知悉している。だからこそ、だからこそ、惑い、悩む。  
 
 だが、それでも、立ち止まってはいけない時というものは、必ず存在するものだ。  
 
 
 
 足を進める。サーリアの町を出て、平原を歩む。ゆっくりと、それでいてしっかりと。  
 
 
 リザは、歩き出す。  
 
 
 
 誰かが言った。  
 生きることは、罪を重ねることだ、と。  
 
 生物は食べなければ生きていけず、食べることは命を奪うことである。生きている以上、殺していかねばならぬ  
現実がそこにある。ダニを殺しても罪悪感ひとつ抱かないのにもかかわらず、身近な同種を殺すことには罪悪感を  
覚える。これを滑稽と言わずとして何と言うのか。  
 罪悪感を抱けるのは、まだ現状に余裕があるからだろう。言うなれば、それは甘えである。だが、リザはその甘  
えがなければ、恐らく、本当の悪魔に堕してしまう。本物の悪魔になれば、いずれ人間に袋叩きにされ、殺されて  
しまうだろう。  
 
 人間性を失わず、しかし、甘さのみに耽溺してはいけない。リザが生きるには、そうせねばならない。  
 それは茨の道ではなく、誰しもが体験する道である。自分と向き合う、ただそれだけの道。  
 
 がんじがらめに絡まった糸。がんじがらめに絡まった鉄線。ひとつ切れればどこかが落ち、ひとつ繋げばどこか  
が切れる。天秤は、両方に都合よくかたむきはしない。  
 だが、それでも。  
 
 
「まずは、南の方にでも行きますか。……寒くなりそうですし、ね」  
 
 
 遠くの空を見ながら、悪魔は歩き続ける。その先に何があるか分からない。分からないからこそ、歩を進める。  
 世界は巨大な天秤で出来ている。何かがあれば、別の何かがどこかにある。代償は常にそばにある。  
 
 悪魔は、拠点を捨てて新天地へと向かう。あの拷問の際に感じた優越感と嗜虐心は、未だに彼女の胸中に残存し  
ている。それに対しての嫌悪の情も、無論ある。  
 だが、反面、そのおかげで自分という存在が少しだけ分かった。何も悪いことばかりが起きるわけではない。前  
向きに、前向きに考えていけば、いつかは何かを見出せる、そんな気すらしてくる。  
 
 また新しい地で、何かが起こる気がする。それが吉と出るか凶と出るかは分からない。  
 
 ただ、今は、この希望にも似た、一抹の思いを抱えて。遠くの空を、見据えて。  
 
 
「いってきます」  
 
 
 前へ前へと、歩き出す。  
 
 
 
 
 
(おしまい)  
 
 

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