悪魔がいました。  
 
 悪魔は、とてもとても強い体をもっていました。落ちる巨岩をその身に受けても、傷ひとつ受けません。とても  
とても強い魔法を受けても、血ひとつ流しません。勇者様の剣をその身に受けても、眉ひとつひそめません。  
 
「……意味は、あるのでしょうか?」  
 
 けれど、そんな悪魔は、とてもとても弱い人間たちに問いました。  
 捨てられた子猫のように、その身を小さくさせて、少しずつ、言葉を紡ぎ続けました。  
 それは、意味を成さない言葉なのかもしれません。しかし、勇者だけは、どこか得心がいったように、驚愕の表  
情でその悪魔の姿を見すえていました。  
 
「お前は……情を知る、というのか?」  
「わがままばかり言って、暴力ばかりふるって、それで、どうなるの、でしょうか……」  
「お前は……」  
「どうして、人は、人を裏切るのでしょうか……。ひとりだと、駄目なのに……」  
 
 悪魔は、惑い、悩んでいました。  
 勇者も、惑い、悩んでいました。  
 
 片や、自身にわいた感情のために。片や、自身にわいた疑念の心に。  
 
「分かる日が来るだろう」  
「そう、なのですか?」  
「そういうものだ」  
「そういう、ものですか。……ふふ、なんか、わからないけど、あったかいです」  
 
 そう言って、悪魔は笑いました。  
 勇者も、笑いました。  
 
 けれど、次の瞬間。  
 
 悪魔は、炎に包まれていました。  
 
「……え?」  
 
 勇者は、呆然としました。  
 紅の焔は、とてもとても綺麗で。とてもとても、悲しい色で。  
 勇者が背後を見れば、杖を構える、とてもとても偉い魔法使いが、ひとり。  
 
「あ、ぁあ……」  
 
 勇者様は呆然と、その炎を見つめました。しかし、その唇は、ゆがんでいました。  
 安堵の、かたちでした。  
 
 
 けっきょく、悪魔は、悪魔のままだったのです。  
 けっきょく、人間は、人間のままだったのです。  
 
 降りしきる雨の中、レンガ造りの家々が、その身を濡らしている。赤い体を、茶塗りの体を、灰色の身を、わず  
かばかり濃くしながら。黒雲から落ちるしずくのひとつひとつが、跳ね、散り、飛んで舞う。しめった空気の中で、  
薄くもやのかかる景色を、さらなる霞色に染める、そんな雨。  
 落ちるしずくは揺らがず。空気の抵抗を受けてもなおのこと、垂直落下。愚直と称されるほどの落下運動は、彼  
らが雨水であるゆえんか。水ひとつひとつが集まり、その結束によりて、雨となる。  
 
 黒雲に覆われているせいだろうか、夕闇がそこここを支配する時刻だというのに、周囲は夜のように暗く、冷た  
い。雨音のせいで、夜のような静けさはないものの、灰色の空間が場を支配している。夜の不気味な雰囲気がそこ  
ここに満ち満ち、濡れた石畳が落ちる雨粒を跳ね返す。  
 
 レンガ造りの家屋が立ち並び、形成された道は、細く細く細い。家々から漏れるランプの明かりが、薄暗闇を切  
り裂き、また別の淡い光と混じり合い、灰色の空間を柔らかく切り裂いている。  
 落ちる雨粒。家屋から漏れ出る淡い光に照らされて。されどそれも一瞬のこと。地に落ち、跳ねて消え、あるい  
は水たまりの一部と化す。  
 
 そんな風景のなか、とあるひとつの家屋の窓際に、影ひとつ。  
 
 それは、少女だった。いや、背丈の低さと小柄な体躯からすると、童女や幼子といった表現の方が適切なのかも  
しれない。そのかんばせを構成するパーツのひとつひとつが、幼さ特有の青さとみずみずしさに満ちあふれていた  
からだ。  
 その姿は、雨の景色と厚いガラス窓を挟んでも、なおのこと鮮明である。童女の存在が色濃いせいか、それとも  
雨の風景がことに希薄であるからか。  
 
 幼子の姿は、奇異といえば奇異であった。プルシアンブルーのみで構成されたワンピースの上に、フリル多めの  
白いエプロンをつけている。ウエスト部分はしっかりと引きしめられ、その代償と言わんばかりに、広がりを見せ  
るスカート部分。エプロン部分となる布地のそこかしこには、十字架を紋様が刻まれている。  
 童女の小柄な体躯とも相まって、さながらその姿は妖精のよう。羽はなくとも、その整った姿は、ひとつの絵画  
を想起させる。  
 
 幼子の顔立ちは、人形のように整っていた。目鼻立ちを構成するパーツ、その配置具合も絶妙。白い白い肌と、  
プラチナブロンドの頭髪をセミロングにして流し、ちょこんとその場に直立不動。子供そのものといった姿である  
のに、その表情は鉄そのもの。鉄面皮、氷のつら。  
 白い肌理と桜色の唇のそばには、翡翠の双眸が加わる。全ての要素が、人形そのものといった雰囲気。もしも、  
この幼子が四肢の力を抜き、壁にもたれかかると同時にまばたきせねば、恐らくは人形と勘違いする者も多々いる  
ことだろう。逆を言えば、それほどまでに、恐ろしいほどに、整っている。  
 
 
 つつ、と童女の指がガラス窓をなぞる。数センチメートルの、決して強くはないへだたり。それを挟んだ先には、  
片や雨粒満ちる寒い外。片やランプの光と暖炉の光がまぶしい屋内。  
 童女の指は、窓の表面をなぞる。結露は指によって裂かれ、同時に道が形成される。  
 
 つつ、つつり、つるる、と。  
 
 童女の指は動く。ただそれだけであるのに、どこか幻想的なのは、雨景色と童女の整った容姿のせいだろうか。  
それとも、寂寥感すら感じられる、灰色の雲のせいだろうか。  
 恐らく、それは誰にも分からないだろうが。  
 
 夜闇と黒雲の中、結露をぬぐった、指ひとつ。  
 
   
 雨の降り止まぬ町並みを睥睨しながら、少女――リザは誰にも聞こえぬように溜息をついた。  
 
 よもや、こんな事態になるとは予想だにしていなかった。おとなりさんの家に、からかい目的で遊びに行くまで  
は良かった。しかしついつい話し込んでしまい、気付けば空には灰色の雲。慌てて窓まで近付けば、夜空を雨粒が  
支配する状態となってしまっていた。  
 
 苛立ちまじりに、窓にひっついた結露を指でぬぐい、絵を描く。四肢を伸ばした巨人が、矢を受けて口から吐血  
している絵だ。なんともまあガキくさいことを、と自身にあきれると同時、手のひらを動かしてその絵を消す。  
 当然、手のひらが濡れた。自業自得である。  
 ゆえに、苛立ち増加。自業自得である。  
 
 それでも表情が変わらないのはどうなのか、とリザは窓に映った自分の顔を見て思う。童女そのもの、といった  
幼い顔立ちだが、そこに色は感じられない。若々しい青さ以外は、何もない。  
 なんとも生意気そうな顔である。自分の顔を見つつ、リザはそう思う。  
 
「あっぱらぱー」  
 
 ごまかしの意味を含め、とりあえず脊髄が思いついたことを口に出してみる。  
 即座、後悔する。仕方のない話だ。知能を持つ者は、後悔という二文字と常に友人関係なのである。それはリザ  
も例外ではない。  
 
 プルシアンブルーのエプロンドレスをひるがえし、リザは窓に背を向ける。必然、彼女の視線は屋外から屋内へ  
と向くことになり。翡翠の瞳に新たな光景が刻まれる。宝石のように輝く彼女の双眸が、椅子を、暖炉を、テーブ  
ルを、その上にたたずむランプを、映していく。  
 一般的な家屋の内部風景である。木製のテーブルに、添うようにして木製の椅子が四つ。その奥にレンガづくり  
の暖炉がどっしりとそこに腰を落ち着けている。リザの左手側には洗面所へと続く扉があり、右手側には別の部屋  
へと続く扉が。  
 
 
 ごく普通のリビングルーム。そこに、リザはいた。  
 
   
 部屋の中を歩きまわる。ぺたん、ぺたん、とスリッパの間抜けな音がこだまする。すんすんと鼻を鳴らしてみれ  
ば、即座に入る、隣人の家特有の匂い。どこか青いような、それでいて染みわたるような、不思議な匂い。  
 
 暖炉は今、機能していない。残り火のような燃えかすめいた赤が、その奥に少しあるのみだ。部屋の中心に位置  
する場所からともるランプが、ぼんやりと部屋の中を照らすかたちとなっている。赤くもあり黄色くもある淡い光  
が、薄ぼんやりと夜の闇を切り裂いている。  
 光は、小さい。それでもなお、リザの流す白銀の髪は、キューティクルのきらめきをそこに残す。白銀が黒を、  
柔らかく裂く。  
 
 それは、見る者を魅了せしめるほどに幻想的な光景であったろう。美しき幼子の髪は、さらりと流れて夜に舞い、  
光の残滓がランプの主張と混ざり合う。妖治なる姿、と称しても差し支えなかろう。  
 
「ぱらりらぷー」  
 
 その当の幼子が、脊髄言語を口から駄々漏れにしていなければ、の話ではあるが。  
 リザ、再び心の中だけで頭を抱えて後悔する。知識ある生き物というのは、過ちをくり返しながらも成長してい  
くというが、とてもそうは思えない。何度も戦争が起きるように、何度も痴情のもつれが起きるように。往々にし  
て、学習できぬ事柄、というのはあるものだ。  
 リザの脊髄は、よくよく脳を押しやって自己主張する。仕方のない話である。  
 
 さて、当の幼子であるリザの精神状態はといえば、あきれの色が濃い。やることも特にないからといって、窓の  
外を眺めて絵を描き、わけの分からない独り言を漏らす。そんな間抜けな行動をしていれば、誰とて溜息のひとつ  
やふたつは垂れ流したくなるだろう。  
 
 リザは、居間の東側に位置する扉を見やる。扉は動かない、まだ動く気配がない。  
 
 
 
 待ち人をするのも苦痛なものだ。そう思いつつ、リザは脊髄と脳を戦わせ続けた。  
 
   
 雨の音をしばし聞いていれば、やにわに右の扉が動く。  
 リザがそちらに視線を向ければ、ゆっくり開かれる、木製のそれ。ぎきぃ、と耳障りな音を立てて開いた先から、  
ひとつの影が躍り出る。  
 
「悪い悪い、待たせたみたいだ」  
 
 リザの前に降り立ったのは、ひとりの青年である。長身痩躯、茶色がかった黒髪をやや長めに伸ばしたその姿は、  
どちらかといえば優男の部類に入ろう。男性にしては白めな肌と、長い四肢も、その印象に拍車をかけている。  
 青年は、リザの方に視線を向けた。同時、頬をひくつかせた。  
 
「大丈夫です。私も、今、来たところですから」  
 
 痛烈とも言える皮肉を吐くは、青年の視線を受け止めたリザ。紡がれる言葉こそ苛烈であるものの、声色はまさ  
しく鈴を鳴らすがごとく。高く高く、高すぎず。  
 そんな彼女の言葉を受けた青年は、眉を八の字にしつつ、どこか所在なさげに視線を横にそらした。  
 
「相変わらずだなあ……。というより、この部屋、寒い、暗い、怖い」  
「そうですね」  
「風邪、ひいてないか?」  
「私はひきません。あなたはどうか知りませんが」  
 
 表情を変えずに言い切り、リザはぴょこぴょこと部屋の奥まで歩いていく。エプロンドレスと白銀の髪を揺らし、  
暖炉のそばまで行き、道具を手に取る。片方は火かき棒、片方は燃料。  
 
「あ、暖炉、やってくれるのか?」  
「このままあなたに不満げな顔されると嫌ですから。こちらの精神衛生上の問題です」  
「意訳すると『べ、別にアンタのためにやっているわけじゃないんだからねっ!』ってとこ?」  
「他人の脳内修正に口を挟む気は、こちとら寸毫たりともありませんので。どうぞご自由に」  
 
 青年のからかいをぴしゃりと切り捨て、リザは氷のつらのままに作業を続ける。手を動かし、道具を使えば、暖  
炉の赤は色濃くなり、その光量を増していく。手つきそのものは慣れたそれだが、小柄なリザが暖炉の手入れをす  
るのは、どこか滑稽であった。  
 
「なんだかんだ言って、優しいよな」  
「受け取っておきます、ありがとう」  
「皮肉で返さないのか?」  
「あなた相手に、それは、さして有効ではありませんから」  
 
 にべもない、という言葉そのものといった様子で切り捨てるリザに、青年はやれやれと溜息をつく。それは、あ  
きれというよりかは、親愛と諦観のこもった息だった。  
 
 
「相変わらず、可愛くない女っすね、リザ」  
「それは言うまでもないことです。――アスト」  
 
   
 ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。火の粉がレンガの壁に体当たりし、しかしレンガは動かず揺るがず、ひとつの  
焔が消えたのちに、また別の焔が。淡い赤がそこここを照らし、雨音激しい夜の闇を、薄く裂く。  
 雨足は、先よりもなおのこと苛烈になっている。窓を打ち付けるたびに、ばこばこと自己主張。耳障りですらあ  
るそれは、ひっきりなしに響き渡る。  
 
 薄ぼんやりと、焔の色彩。それに照らされている自分を自覚しながら、リザは椅子に座り、眼前の青年、アスト  
と対峙する。線の細い優男ではあるが、一応はリザの友人、兼、隣人である。それなりに敬愛のような思いは、最  
低限のラインではあるが、とりあえずはある。  
 テーブルに肘をつき、窓の外で落ち続ける雨景色を見つつ、横目でちらちらとアストの方へ目をやる。彼は、あ  
まり表情を変えずに、リザの姿をぼうっと見ていた。  
 
「雨、止まないな」  
 
 やがて、ぽつりと青年は言う。リザはその言葉を聞くと同時、ほんのわずかに目を細めた。次いで、首を動かし、  
青年の方へと視線を向け、小さく頭を下げて言う。  
 
「そうですね。というわけで、泊めてください。嫌ならあきらめますけど」  
「別にいいけど……ひとつ屋根の下で、男と女が、というのは」  
「下半身問題に傾倒してばかりの大衆意見を重んじてどうするんですか。こともあろうに、私のようなメスガキに」  
 
 結構な毒を垂れ流し、リザはその幼子に相応でなかろう雰囲気の溜息をひとつ。あきれもしているし、わずかな  
がら揶揄の意味もかねている。が、どちらかといえば歓喜の念が大きい。勿論、口に出せば本日のジンマシン発生  
数が過去最高記録を突破するだろうから、言の葉にはせぬが。  
 戸惑う男の様子に、一種の嗜虐的な感情でも引き起こされたか、リザは唇の端を少しだけ上げてみせた。それは、  
彼女なりの笑顔である。  
 
「……というより、私、はじめてなんですよね」  
「だろうなあ」  
 
 テーブルの上を、指で弾きながらリザが言う。その言葉は、先程の言葉よりも、とげの数が減っている。とはい  
え、その冷たい流れと音階は変わることがなく。結局のところ、人形めいたというよりかは人形そのもの、といっ  
た印象を崩さぬ姿のままになったリザ。勿論、当人は気にしない。  
 そんな彼女の姿を見、一度逡巡するかのような仕草をしたのち、苦笑するのはアスト。優男のつらが、さらに細  
い、線のような印象を放つ表情となる。  
 
「そう、はじめて。『悪魔』に対して、そんな気をつかう言葉を吐く人間」  
「だろう、なあ」  
 
 
 どこか自嘲めいた唇のゆがませ方をするリザに、青年は、曖昧に微笑むのみで返した。  
   
 
 ――悪魔。  
 
 それはもはや、この世にほとんどいないであろう存在。人間よりもはるかに高い残虐性と闘争本能をもち、その  
個々の力も、人間など歯牙にもかけぬほどに高い。過去、人間たちがこぞって悪魔を襲撃した際、悪魔はその手を  
一振りしただけで、大地に幾多もの不恰好なミートローフを作り上げたという。  
 彼らの姿は、おとぎの世界にあるような竜のそれとは違う。彼らの格好は非常に人と似通っており、体格の微妙  
な違いこそあれど、少し細工をするだけで人間と変わらぬ姿を見せることが出来た者もいるという。  
 
 つまりは、人間社会に容易に紛れることが可能であり、その気になれば、その隠密性は人間たちを震撼させるで  
あろうこと請け合いだ。  
 
 とはいえ、今現在、悪魔はいない。もしいたとしても、そんな過去の書物にしかないような絶滅危惧種、とっと  
と捨て置け、という始末。  
 これは、悪魔が非常に突出した闘争本能をもつがゆえの、間抜けな帰結である。簡単に言えば、彼らは、暴力を  
振るって振るって振るって、暴虐の限りを尽くした結果、他の生物にえらく嫌われることとなってしまったのであ  
る。当然といえば当然であろうが。  
 
 いかに悪魔が強いとはいえども、皆に嫌われていれば袋叩きされるのは自明。共通の敵を認識すれば、仲間意識  
と団結力が目覚める。同じ目的意識を持った者たちは、道は違えど、集団で悪魔討伐することが多々あった。  
 気分的に言うなれば、魔王ひとり相手に、勇者と戦士と僧侶と魔法使いが四人がかりのタコ殴りをするそれと似  
たようなものだ。数は力である。  
 おまけに、同族争いもよくよくあるのだから、弱ったところを攻撃されて死ぬ、というケースも多々あった。ど  
う考えても間抜けとしか思えない、苦い歴史の一ページである。  
 
 
 と、このような間抜けなプロセスを経て、悪魔という存在は確立する。要は、力が強いだけの阿呆、という認識  
を残して。  
 一般人の考えとしては、悪魔はいるんだろうけれど、探したいとも思わない。残った数少ない種族で、どうにか  
細々とやっているんじゃなかろうか? というものばかりだった。つまりは、興味の対象となりえない。それほど  
までに衰退した種だ、とも言える。  
 
 が、一時とはいえ、人間社会を引っかき回したことは事実なので、とりあえず、悪魔という単語は人々の心に刻  
み込まれることとなった。  
 
 
 
 そんな種が、いるのである。  
 リザは、その数少ない、悪魔のひとりだった。  
 
 
「何度も何度も何度も聞くけど。本当にリザって、悪魔なんか?」  
「うい。いっつ、とぅるー、とぅるー」  
 
 暖炉の弾ける音の中でアストがたずねれば、リザは右手をぴんと上げて肯定する。同時、白銀の髪とエプロンド  
レスが揺れ、その妖精めいた絶世の美が小さな焔に照らされ、鮮明な姿となる。  
 容色美麗、幼子そのもの、といった姿をもつリザは、誰がどうみようとも悪魔のそれには見えない。それよりか  
はむしろ、精霊だの神のつかいだのといった、神聖な役職が相応かと思わせるほど。  
 
「駄目だこの幼女……。本当にただの人間にしか見えないべ」  
「クソ生意気な、という言葉が先に付きますが。あと私は26です」  
「歳とるの、遅いんだっけ?」  
「とは言っても、人と比べれば微々たる違いですが。私は単に、歳を重ねても成長しない体質みたいです」  
 
 自分より4つ年下の男を見ながら、リザは目を細め、暖炉の火を見やる。ぱちぱちと爆ぜる音の向かい側では、雨  
の降りしきる音が響いている。  
 
「なんか悪魔っていうと、荘厳な口調で、我が眷属にならぬかー、とか」  
「それはただのアホです。そんな偉そうなイタい台詞、ガキぐらいしか言いません」  
「いや、色々な方面に喧嘩売っていないか? その発言」  
「いいんですよ、別に。アホが荘厳な口調やっても、単なる自己陶酔ですから。まあ、言うなればガキのままごと  
と同じです。ガキのそれよりかは、七億倍タチが悪いですが」  
 
 つばでも吐きそうな勢いでそう捲くし立て、リザは小さな小さな吐息ひとつ。その仕草だけ見るのならば、悪戯  
を失敗した子供が浮かべるそれと、なんら変わりはない。  
 そんな彼女の姿を見ながら、苦笑するのはアストである。その眼光には、悪魔と相対している際にありがちな、  
恐怖の色は微塵もない。のみならず、こんな毒舌幼女に怯えるのはどうかと思う、という考えが、ありありとにじ  
み出ている。それは、おとなりさん同士の色眼鏡であったのかもしれないが。  
 
「宿泊代として、何かさせてください。掃除でも洗濯でもいいですから」  
「そういうとこ律儀だよね、リザは」  
「いい人を演出したいわけではありません。単なる相互利益に基づく関係を壊したくないだけです」  
「意訳すると……」  
「べ、べつにあなたのためじゃないんだからねっ」  
「うわー、ちょー棒読みー。ぜんぜん嬉しくねーや、あははー」  
 
 全く表情を変えずに、抑揚ゼロの調子で、お決まりの台詞を垂れ流すリザに、アストは乾いた笑いで返した。ど  
うにもこの外見幼女の悪魔は、表情が変化しない癖があるのだな、などと考えながら。  
 
   
 リザの鉄面皮は今に始まったことではない。数年前、アストと初の邂逅を果たし、今よりもずっと冷たい雰囲気  
でいた頃。彼女はずっとずっと、鉄のつらを保ち続けていた。月日を経るにつれて、変な冗談も真顔で返す程度の  
機転は身につけるも、相変わらず表情は変わらなかった。  
 結局、癖である。直せない方の癖である。表情変化に乏しいことは、無論、リザ本人も知悉している。だからこ  
そ、可愛げというものを捨てて、口から遠慮なく毒を飛ばせるのかもしれないが。顔面から媚を捨てれば、口から  
も媚が消えるのは、ある種の必然だったのかもしれない。  
 
「まあ、冗談はここまでにしておきまして」  
 
 こつん、とテーブルの表面を指で弾いて、リザは鼻息ひとつ。  
 
「過度の要求は相手に負担となり得ますので、これを最後にします。何かしてほしいこと、ありますか?」  
 
 あまりにあけすけな物言いに、リザの言葉を聞いた青年は苦笑する。  
 彼女は、いつもそうだった。言葉を額面通りにしかとらえられない。だからこそ、変な場所で馬鹿正直な物言い  
をする。それはコミュニケーション能力の低さと交流回数の不足がもたらした結果であったが、いびつな誠意のあ  
らわれであったともいえた。  
 
 リザは、幼いのだ。実年齢ではなく、そのありようが。  
 だから幼女の姿でいるのかもしれない。肉体が精神に引っぱられているのかもしれない。  
 アストはそう考える。その結果、苦笑がにじみ出る。  
 
「特に……ないかな。もしも明日、寝坊したら叩き起こしてほしい、それくらい」  
「了解です。えせ探偵、兼、えせ便利屋は大変ですね」  
「えせは余計だ、えせは。俺の方より、そっちはどうなんだ?」  
「ぎりぎりです。薬の売れ行き、悪いです。副業でどうにかしている状態です」  
   
 そう言って、リザは妙に素早い動作で、ふところからひとつのぬいぐるみを取り出し、それをすぽりと左手へと  
はめてみせた。  
 ワニをデフォルメした、微妙に不細工なぬいぐるみである。底部の穴は、小さな女性がどうにか手を入れられる  
程度の大きさ。パーマネントグリーンを主としたそのワニの姿は、誰がどう見ても、大体同じ評価を下すであろう。  
センス悪い、と。  
 その本能的な嫌悪感を刺激される姿を垣間見、アストが頬をひきつらせると同時、  
 
 
「貧乏薬屋もどうにかしねェとな? リザっちみてぇな幼女が身を売るようになりゃ、世も末ダぜぇ?」  
 
 
 ぺこぺこ、とゴムが跳ねるような音を振りまきながら、リザの左手に装着されたワニのあぎとが上下する。同時、  
どこか奇妙な声が、雨音を切り裂きながら、薄暗い室内にこだまする。  
その声色は、成人男性一歩手前の、生意気盛りの青いそれ。発生源は定かではなく、リザの唇は全く微動だにせず。  
 『副業』の一部を演出するリザの姿を見て、またもアストは苦笑い。  
 
「そっちの仕事の方が稼ぎが良いくせに、よく言うよ」  
「じゃかマしい、優男メ! テメェ、この前、王城のそばにいるパツキンの女騎士、タラしてたろーが!」  
「いやいやいやいや、あれはですね、友人の妹という交流関係でして、特に邪なことは」  
「あ、彼女、左の乳首が性感帯です。処女なので、もしも抱くのならば優しくしてあげてください」  
「なんで知ってんだリザ!? というより、そいつとふたつの声で攻撃するのやめて、本気でやめて」  
 
 アストの言葉を受け、リザはゆっくりとそのワニのぬいぐるみを引っ込める。その際、ヘタレな青年が、ありあ  
りと安堵の吐息を垂れ流したことは、彼の名誉のために黙っておくことにしたリザだった。  
 
 
「ちなみに、そいつ、ではありません。フェルナンデス、という名前がちゃんとあります」  
「ワニのくせに、なんて大層な名を……」  
 
 
 
 
 がくり、とうなだれる青年を見て、リザの唇の端はまた持ち上がった。  
   
 
 リザは、自覚していた。気分が高揚している自分を自覚していた。  
 
 
 
 普段ならば、商売のひとつである腹話術を、そうそう何度も金なしで見せたりはしない。一応、特別な場以外は、、  
自重するように心がけている。はたから聞けば、吝嗇だの何だの言われるかもしれないが、とりあえずのポリシー  
だ。止める気はない。  
 あんまり甘いことばかり言っていると、明日の食卓にパンひとつない状態が続くこととなるだろうから。  
 
 こんなに笑った経験もあまりない。笑いながら腹話術をした経験もさしてない。人間と、こんなに交流したこと  
もさしてない。  
 色々と気が置けない仲であるアストに対し、リザは好意を抱いている。それは勿論、恋情ではない。どちらかと  
いえば、間抜けだけれど真人間である兄に対する、親しみのそれのようなものだろうか。もしも彼に結婚相手なん  
ぞ出来たのならば、指をさしてげらげらと笑ってやるのも良いのかもしれない、本心からそう思う。  
 
 恋や愛といった、そういう感情は、リザにはよく分からない。だが、信用や信頼、友愛といった概念は、大体な  
らば理解できる。それを踏まえ、リザは、アストを様々な面で信用している。単なる隣人ではないが、友達、と言  
うわけでもなく。とかく不思議な関係だ、とリザは思った。  
 
 
 だが、こういう、よく分からない関係に馴染んでしまうのも良いのかもしれない。リザは、薄暗い部屋の中で、  
慌てるアストの姿を見ながら思う。  
 悪魔だからといって、暴力を振るってばかりいることが良いわけではなかろう。悪魔とてものを食べる。人に似  
た姿を持つ。だから、人ごみに紛れるのも良いのではないか、と思う。その思いは、ある意味、愚かでもあったろ  
う。その思いは、所詮、リザ自身が語った『ままごと』に近しい思い込みなのだから。  
 
 
「もし良ければ、媚薬、あげましょうか? ピナスに悪影響が残らない、弱めの効力の……」  
「やめてください、本当に勘弁してください、リザ様。平に、平にご容赦を!」  
「……ちっ、これで不人気商品がやっとひとつ減らせる、と思ったんですけど」  
「俺、残り物処理機ッ!?」  
 
 
 リザは、自分をいつわりながら、この甘いぬるま湯じみた場に耽溺する。おぼれふける。  
 それが、ままごとじみた、人間ごっこであるとしても。    
 
 
 鬱蒼とした森の中。フクロウの鳴き声と、湿った空気が支配する、種々様々な木々がそこここに立ち並ぶ場所。  
湿り気の多い土が大地を覆い、野生の動物の荒い息づかいが、さながら音楽のように飛び交い、ひとつのうねりと  
なって響き渡っていく。  
 夜闇に彩られたその場所は、人口の光は無論のこと、月光すらも届かない。時折、葉と葉と葉の隙間から漏れ出  
る淡いきらめきが、細々とした線となって、地を小さく照らしているだけだ。  
 
 数々の巨木のとなりに、小さなしげみ。そのそばには、うじゃうじゃと小さな虫が徒党を組んで行進している。  
静寂とした森の中。獣たちの小さな声と、虫の鳴き声を除けば、そこに無粋な音はない。  
 
 
 そこで、かたり、と。  
 
 
 小さな音がこだました。  
 虫や風の音色ではない。それと比べるべくもないほどにいびつで、禍々しい音。耳に入れるだけで、掻痒感をも  
たらすような音。  
 響いた音は、木々の隙間の夜闇へと。黒に溶けて、黒に響く。たったひとつの違和が、不協和音の原因をつくる。  
 
 瞬間、夜闇の中で金色が踊る。さざなみのごとく、ゆらりと流れて、淡いきらめき。  
 巨木と巨木の隙間から、影と夜に溶けるようにして、ひとつの人影が現れる。どこか遠い、人間とは隔絶した雰  
囲気をもってして、そこに。  
 
 夜の静謐は打ち破られる。その存在に、壊される。  
 しばしの時を経て、金色の影は去っていく。あとに残るは、どこか胡散臭い沈黙を保つ森の姿、ひとつ。先と違  
い、沈み込むような静寂とは程遠く。虫の声も、鳥の鳴き声も、風の音色も、どこか遠く。それは、あたかも、先  
の金が、音に込められる魅力という魅力を全て吸い取ったかのよう。  
 美麗なる流れは、もうそこにはなく。あるのはただ、偽物めいた美しさだけ。  
 
 
 先程まで金色の影があったその場所には、小さな焼け跡がひとつ、あった。  
 茂みを焦がし、あたかも全てのものを切り離すかのように、ひとつ。  
 
 焦げた匂いは、この森の中において、この瞬間、最も鮮明な要素だった。  
 
 
 
 静かな音は、もう戻らない。  
 
 
 

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