★ヴァリオキュレの森 三話「揚々たる童子の門出」(エロ無し)
随分ながいあいだ、ふたりは視線を交錯させていた。
少女の胸部は横一文字にえぐられ、何重にもまいたさらしからの出血は留まるところを知らない。
彼女にとっては、ズキズキとする痛みなどより体力を奪われていく方が問題だった。
だが、眼前五十歩ほどのところにいる男には……隙が生まれない。
自分と同じく正眼にかまえた大剣に強い威圧感をおぼえて、なかなか踏み込めずにいる。
かといって向かっていかないことには、相手から来そうな気配を感じないのがやっかいなところだった。
ならば――
「はあぁっ!!」
ダンッ、と少女が右足をふみこむと、ありえない光景があらわれた。
明らかに人間業ではない速さで、大地を‘滑空’しているのである――
「……んなっ!?」
ガイィン!
驚く余裕もほとんど与えられず、本能的に頭上へかかげた大剣がリベカの細身剣を受けとめていた。
しかもそれを認識した時にはもう姿を失している。
……いや、もとの場所に――さっきまでアベルがいたところに戻っている。もう彼は別の場所にうつっているが……
ふざけるな、とぶちまけたくなった男である。
いかに剣気や魔気を極めていようがあんな芸当はできるはずがない。
聞いたことも見たこともない。
大人があるいて五十歩もかかる距離を一秒ていどで詰めるなど、それこそ《高速》系統の魔法でなければ不可能だろう。
しかも、これらの魔法は詠唱を要するのに比べ、先刻の大地を‘滑空’する移動方は一目したところ代償がなさそうである。
リベカが依然として鋭い視線をむけている中、カインは冷静に考え続けているが……
少女が深く息を吸いこんだのを視認するや、男は大剣を脇構えにあらためた。
「はあぁっ!!」ダンッ!
「バァーカッ!」ヒュバァッ!
二人の行動はほぼ同時だった。
男が横軸の衝撃波をはなったのにかまわず、少女はまっすぐに対象を目指した。
今度は腹の高さにせまってきた白刃。
地に足を付けていなければこの走法は成立しないし、かといってアベルを護った時のように被刃することは不可能だろう。
いきおいが良すぎて切断されてしまう可能性がきわめて高いからだ。
左右への移動も跳ぶこともできない今、かわす方法はひとつだけ――
結果的に、リベカは衝撃波をよけきった。それも頓狂なものだったが。
「――??」
カインは声も出せなかった。
少女は地に足をつけて地面を‘滑空’したまま、頭を擦りそうなほど身体をおもいっきり反らしたのである。
逆にいえばそれだけで、いとも容易く危機を脱してしまったのだ。
そして、一瞬とはいえ呆けてしまった男には隙が生じていた。
がら空きになった左半身に照準をあわせ、少女は‘浮かせていた’右足をふみこんで男の眼前に仁王立ちした。
男は危険を察知して右へ横っとびしたが、遅かった。
ザンッ!!
「がぁっ!!」
苦痛に呻きながらも大剣を少女にあびせると、細身剣ごと軽い身体がややふきとんだ。
男は斬りとばされた左腕の方へ駆けようとしたが……すでにリベカが目のまえに立ち塞がっていた。
――迅すぎる。
長身の男は、ほんの一瞬だけ茫然とした表情をあらわにしてから、思いのままに叫んだ。
「ッザケんなオラァあっ!!!」
右腕ではなった突きは、しかしリベカを捉えられなかった。反対に――
ザンッ!!
「っ!!」
残った上肢をあっけなく断ち切られても男は声をあげないどころか、口元には不敵な冷笑をうかべている。
むしろこれが狙いだったのだ。
細身剣をふり払った少女に、カインはあるかないかの制止時間を見い出した――
「っしゃぁ!!」
「ぐフっ! …………」
音も声もにぶいものだった。
渾身の力で蹴りあげられた少女の華奢な肢体が、血の弧を描いて宙をまう。
その姿をながめている間もなく、次なる刺客はすでに側に居た。
アベルである。
それを確認した時すでに遅し――
「くっ……ぐっ! くそ!!」
リベカに左腕をやられたときから、こうなることは判っていた。
カインは《魔気同調》を解かれたあと、自分の十八番である《眼縛》をかけられていた。
それも自分のよりずっと強力な《眼縛》だった。
使い勝手こそ良いものの、習得には多くの労力と努力と時間を要するこれを、アベルはこの齢で――十六で行使できるのだ。
二十八のカインと魔法を比較したら、その差は歴然どころじゃあなくなる。
「…………っ」
両腕を斬られた姿でしゃがみこみながら、険相の男は歯噛みして自分を見下ろす妖美な弟を見上げていた。
「痛くないのかい、兄さん。うらやましいなあ」
「んだとコラ……なんもかんも思い通りできるてめぇに何がわかる!」
「そうか。父さんに改造してもらったんだっけ。楽だよね。いつまで周りにそれが隠し通せるか……」
「ぅっせえ! あの方を……てめぇの親をなんだと思ってやがる?! この化け物が!!」
「失礼だな。‘色人’ではあるけど、いちおう僕は人間だ。それに……」
「あぁぁ耳が腐る! さっさと殺しやがれ人でなし野郎が!!」
「あっ、そう…………」
カインは一瞬、自分の言葉を後悔した。
アベルの周囲には禍々しい黒光が雲のようにうずまいており、頭上には太陽の如し炎の球体がごうごうと熱音をたてながら肥大化している。
もう自棄だった。
「くそっ、卑怯者が! 一対一とか宣言しといて、雌ガキがやられたら自分がきやがって! 恥知らずがっ!! 嘘は――」
「お前が言うな」
少年が放った極寒たるひと言は、男に届いただろうか?
どちらにせよ、カイン=レヴィアタンの存在は塵一つ残すことなく、またたく間にこの世界から抹消されていた。
ナルシルの丘には、大きな一軒家四棟に相当するほどの焼け野原ができている。
やりすぎた――額を押さえてよろめきながら、少年は反省した。
‘あの日’強く誓ったはずなのに、こうも容易に強大な魔気を放ってしまうとは……何か対策を考える必要がありそうだ。
「…………」
アベルは波うつ紫髪を揺らしながら、昏倒して横たわっているリベカに視線をうつした。
彼女には悪いことをしたけど、これから借りを返す機会は山ほどあるだろう。
それに、僕は……
決意を新たに、少年は少女のほうへと歩みはじめた。
―――
彼女が目をさました時、周囲はもう闇に落ちていた。
丸太小屋の窓からのぞく森景色は淡い月光にてらされ、鈴虫の旋律が微かにきき取れる。
「…………くすっ」
自然ともれたほほ笑みに、リベカは自分でおかしく感じた。
そこは悔しがらなきゃいけないところ……と諫めようとするも、どうにもそうしきれない。
おそらく彼のせい……いや、彼が‘原因’で自分の中の炎が鎮まってしまっているのだろう。
なんとはなしに首を振り、長い黒髪をゆらめかせる。
自分らしくない。もっと血をたぎらせるべきだ。
心の中で何度そう唱えても、芯からそれを望むことはできなくなっていた。
だが不思議と、そんな自分が悪いものとは思わなくなっているのも事実かもしれない。
リベカは寝床から出て、隣の部屋にあるき出した。
ここでようやく(カインに蹴られた)額の痛みに気づいたのだが、胸の傷の方が大きかったのでどうでもいいくらいだった。
「……?」
なにやら、ちょっと騒々しい。
アベルとラケルが揉めているみたいなのだ。
となりの部屋の境には扉がもうけられていない為、リベカは入り口付近の壁にくっついて耳を傾けた。
「……ですから! さすがにそんなに短いのは……」
「いいじゃないか、大きさもぴったりだし。あの子はこういうの着たがらないし、むしろあんたの方が似合いそうだ」
「冗談言わないでください。いや、似合ったとしてもこれでは隠し通せる自信はありません」
……なんの話だろうか?
起きていることが女には割れているのだろうが、少女はこっそりと、隣の部屋をのぞいてみることにした。
――少女の凛々しいおもてが、喜色を満面にしていた。
堪えようとしたが、到底無理な話だった。
彼女がこれほどに破顔したのは何年前か知れないほどである。
「いやいや、あんた素質あるよ。この肌に顔、それに身体といい、創造神ときたら余計なもんつけて肝心なもんつけ忘れたとしか思えないねぇ」
「僕は男であることが隠せればそれでいいんですから! もっと控え目なのをください!」
アベルの顔はだいぶ紅潮していた。
身体は……女物の服、それもかなり色めいたものを着ている。
それがさまになっているとあって、リベカは彼が忌まわしい‘魔物’であることさえ忘却しそうなほどだった。
「まあそう言わないで……おいリベカ、こっち来なって。お前だって似合うと思うだろ?」
ご指名を受けたなら仕方ないと、少女は笑みを消そうと努めつつおずおずと部屋に入っていった。
少年が思わず紅葉が散った美顔をそむけたおかげで、微かににやけたリベカを見ずに済んだ。が。
「……ほら、リベカもわらってるじゃないか。この服、かなり彼女……じゃなかった、彼に似合ってるだろ?」
無理矢理に女装させた少年に浴びせる言葉としては、神経を逆なでするにもほどがある発言であるはずだ。
女ふたりに背を向け、むきだしの両肩をいからせているのをうかがうと、傍目にはいつ爆発するかとひやひやする場面のはずなのだ。
実際、リベカは少し案じていたが、杞憂であった。
「……で、どうなんだいリベカ? 僕の女装は、‘魔物’であることを隠し通せるものなのかな?」
言下に、少女に扮した少年は、黒髪黒瞳の純然たる少女に向きなおった。
――似合うなんてものじゃない。
もともとが少女と見紛うてもおかしくない顔だちだが、いまのアベルは完全に美少女としか判断できない。
最初から質の良い肌を、おしろいを施していることでさらに強調している。
ぬけるような紫の髪が両頬に垂れて首もとにかかり、細面を際立たせている。
大きなすみれ色のひとみと小さく高い鼻梁はそのままだが、形の良い唇には薄紅が塗られて、少女特有の艶めきを感じる。
上半身は、緑と白もようのそで無し胴衣いちまいと、アベルが元から身に付けていたあわい赤色の長外套。
胸が寂しい気もするが、さらしている両肩がそれをおぎなっている。
下半身は……これまた非常に短い、しかも純白の脚筒きれをまとっていた。
すらりとむき出している大腿部がまぶしく、男のものとは思えないほどあどけない色っぽさがかもされている。
手には白い長手袋、足には緑の長靴下が着けられているものの、確かに女装としてはやりすぎな格好ではないか?
少女はそういった意向をラケルに伝えると、
「む、あんたはそう思うのかい? いいと思うけどねえ。かわいくて」
単に楽しんでいるだけなのか、実際にそう思っているのか、まさか心から心配しているのか、はたまた…………
この女性は本当になにを考えているか分かったものじゃないから困る。
「…………承知しました。これでいきましょう」
「へえ、気に入ってくれたかい。よかったよかった」
少年の様子はといえば、とても涼しい表情で頷いていたものであった。
やけになったわけでも、ふっきれたわけでも無さそうだ。
気のせいだと思うのだが、少女の目には彼が本気で女装を気に入ったようにしかうかがえなかった。
「さて、ひと段落ついたことだし、そろそろ話しちゃどうだい?」
銀狼髪の女は、美少女の格好をしたアベルに耳打ちし、彼もまたこくんと頷いてリベカに向きなおった。
心なしか、その仕草も少女のようにしとやかだったのは思い過ごしではないだろう。
「…………リベカ。僕は、きみと共に旅をしたいんだ」
少女の顔がいきなりシャキっと引き締まり、いかにも真面目そうな無表情になる。
さっきまで微かに顔を綻ばせていたのがうそのようだが、これが彼女の本来の姿なのだ。
久方ぶりに相好をくずしたためか、表情の作り方を失してしまったのかもしれなかった。
ラケルは吹き出しそうになるのを堪えたが、アベルは気にせずに話し続ける。
「僕が勝手に兄に……カインに引導を渡しちゃったのは、本当にすまなかったと思ってる。でも、それの償いをしようというわけじゃない。
わかると思うけど、この地に訪れたのにはわけがあるんだ。この地にしかないものを、僕はつかみにきた。
一人でも手に入れてやるって気概を持ってたけど、なんのめぐりあわせか、きみらに会うことができた。
ラケルさんは快く協力してくれるって仰ってくれたんだけど…………リベカ、できれば僕にはきみを随行させたいんだって」
一息につむいだ口上を言い終え、アベルはふっと息をついた。
あらためて少年の容貌をながめ、見事なまでの美少女ぶりにリベカは息をのんだ。
そんな場合ではないし、少女はそっちの趣味はないが、それだけアベルの女装は完璧すぎるのだ。
ラケルの言うとおり、神様は本当につけるものを違えてしまったのではないかと勘ぐりたくなってくる。
「…………リベカ?」
「あ……えと、わたしは、一緒にいきたい」
一切の迷いもない、彼女にとっては当然の返答だった。
この少年と一緒にいたいという純粋な気持ちと、もう一つ、リベカが抱く野望にも似た望みが、心を突き動かしていた。
もう彼を‘魔物’と認識しなくなっていた自分に、全く違和感を覚えなくなっていたことに気づいていないリベカである。
言葉を受けいれた少年は、嬌笑をたたえた整ったおもてを表した。
胸に迫る認めがたい情を感じた少女は、なんとかそれを表に出すのをこらえた。
「よかった……リベカ、本当にありがとう」
頭の中が真っ白になりそうだった。
普通に考えれば別にたいしたことじゃない。はず、なのだが……
少年のか細い手で両手をにぎられながら、リベカは頑なな無表情を崩さないでいるのが精一杯だった。
もっとも、その頬もわずかに紅く染まっているが。
……と、少女がふと気づくと、アベルがまじまじと自分の掌に食い入り、触っているではないか。
恥ずかしさと、何やらもやもやした気持ちが込み上がってきて、思わず双眸を閉ざして顔をそらした。
「……すごいね……何したらこんな手になるの?」
考える間もなくラケルが後を継ぐ。
「すごいだろ? この子さ、あたしの知らない範囲で修行してるから、やりすぎで怪我することもあるんだよ。悪いとは言わないけどねえ」
「いや、これはすごいよ。すごいけど……」
すごいすごい言われて、ちょっとした高揚感を覚えていたリベカだった。
「やりすぎなような……かわいそう、って思っちゃうくらい、固い」
「………………」
「でも、これはむしろリベカにとって嬉しいことなんだよね? だったら……」
だったら? 次ぐ台詞をわくわくと待ち受ける少女。
「がんばって。僕はがんばる人が大好きだから」
少女は一瞬、全身に電流を通されたかのごとく棒立ちになった。
それから、何か言いたげに口をパクパクさせ、意味もなくあたりをキョロキョロと見回す。
みごとな挙動不審ぶりである。
リベカの様子を目にして笑いながらも、大柄な女はアベルに強く感心していた。
「あんた……大したやつだね」
「? 僕がですか?」
「そんなセリフ、二人っきりでも中々言えるもんじゃないだろ。ましてや保護者であるあたしがいるのに。度胸あるよ、あんた」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。ま、そういった経験値はこれからリベカとゆっくり育んでいくんだね」
最後の口上は密かにつげたラケルである。
どこまで事実かはおいておくとして、過去の話を聞かせてもらったため彼に女経験がないことはわかっている。
それに…………と考えていると、今度はアベルが耳打ちしてきた。
「いちおう言っておきますけど……僕は彼女と、その……本能的にはあれですけど、理性的に考えればしたくはありません」
「…………うん??」
微妙に心情が読み込めない。
「ですから……僕は虚言を弄するのは嫌なんですよ。だから……」
「あー、わかってるよ……そばに本人がいるんだ、また後でな」
ひどく残念そうに女をみつめた少年だった。
リベカはといえば、変にもじもじしながらも訝しげにこちらの様子をうかがっている。
「ふー……」
ラケルは長狼髪をゆらしながら涼しげに途息すると、未だ紅潮している少女に口をひらいた。
「リベカ、本来の今日の目的を忘れちゃいないかい?」
びくっと反応し、女に向き直る少女。
それから頭を回転させてみるが……何なのかさっぱり思い出せない。
リベカがよく物忘れするのはいつものことなので、別に堪えることもなく教えてやる。
「『子産の母』だよ」
「あー…………」
「今日はもう遅いから、明日行ってきな」
そしていつもの様に、心の中では「あー、じゃないよ」と突っ込んでいたラケルであった。
「けっこうな夜更けですしね。僕も眠くなってきました」
「そうだね、寝る準備するか。言うまでもなく、あんたは一人だからね」
「おかまいなく」
「………………」
無表情に戻っているリベカが何か言いたげだったが、大体の察しはつくので放っておいた。
―――
スズメのさえずりが聞こえる暁旦の頃。
旭日に照らされた森はそよぐ風も心地よく、ここナルシルの地の周辺はよき散歩日和であった。
時候は春、それも始まったばかりとあって、今なお肌寒さを感じることもある。
今日はまさにそういう日なのもあって、少年は寝床から出るのが億劫で仕方がなかった。
が、そんなアベルに容赦なく襲い掛かってくる……大きな女性。
「あら、まだ寝てるのかい? ほら、起きた起きた。もうメシは出来あがってんだよ」
「…………あと五分……」
「あんた……いつもこんな時間まで寝てんのかい? 先が思いやられるねえ……」
そんなに早く起きる必要もないだろうにどこがこんな時間なのか、と訊きたくなった少年だった。
そもそも、この森には時計がないから不便でしょうがない。
現在時刻はおおよそ六時ごろだろうか?
アベルが今まで起床していたのが七時すぎのため、早いんじゃないかと思うのもやむなしだった。
しかし、どうやらこれが彼女らの普通らしい。
……尋常じゃない。
「ま、でもちょうど良いかもしれないね。リベカはあんたを気に入ったみたいだし、ちょっと頭は弱いけど世話焼くのは好きそうだ」
「いま、彼女は何を?」
「朝まだき頃から走ってるよ。もうそろそろ戻ってくるはずだ」
……呆然としてしまった。
夜も明けきらない薄暗い時間からということは、二時間以上は前を指すのだろう。
四時まえから…………
一体どういう生活をすればそんなに起きていられるのか?
いや、びっくりする箇所が違うのかもしれないが……
確かに前途多難であると予感したアベルだった。
「あとあとの為にも、今起きといたほうがいいよ。あいつには、あんたに早起きを強要するなっていっとくけどね」
「……そうします」
美しい少女――を装っている少年は、素直に首肯した。
女装に不備がないよう、鏡と十分に向き合ってから食卓にむかう。
朝食にはあまり期待を抱いていなかったが、料理を拝見して間違いであると判明した。
一体どこで獲れるのか、ほど良く脂がついた白身魚はとろけそうな甘露煮にしてある。
なんの肉かアベルには分からなかったが、香草焼きをほどこした肉料理からは涎を垂らしたくなる匂いが漂ってくる。
…………だが。
文句など言える立場ではないが、本来主食であるはずのあれが抜けているのはどうだろう?
粗相なきよう訊ねてみることにした。
「……すいません。いつも主食を召し上がってないんですか?」
「主食? なんだいそりゃあ?」
「小麦焼き……ですけど」
何か、やはり訊いてはいけない事を訊いてしまったのかもしれない、と案じたアベル。
返ってきたのは意外な答えだった。
「あれか……あたしはあった方がいいんだけど、リベカが大嫌いだからね」
「え…………」
「あの子は毎日朝から晩まで狩りやら修行ばっかりだから、精神的に余裕がないのさ。かわいそうだろ? せめて食事くらいは好きなものを食べさせてあげたいじゃないか」
「………………」
さまざまな疑問が沸いてきて、複雑な感情をもてあました少年だった。
なぜ彼女はそこまでして自分を追い込むのだろうか。
なんの見返りもない……わけではないが、ただ日々の暮らしを全うするためだけにそんなに修行しているとは思えない。
この女性にしても、どうしてリベカに厳しい修行を課すのだろう……
――アベルが思惟にふけっている間に、赤羽織をまとった少女が汗だくで帰ってきた。
「お、速いね。ごくろうさん」
「はぁ……はぁ…………」
流麗な馬尾髪――後頭部の高い位置で一つにまとめて垂らしている黒髪が、汗によって微かに光っている。
しかし困ったことに、少年がつぎに目を付けてしまったのは胸だった。
羽織と布さらしを被せているが、ふたつの膨らみははっきりとわかる、ほど良い大きさである。
凛々しく、またかわいいと形容してもおかしくないがやや険の帯びた顔つきといい、十五より二、三うえにおもえる。
「こら、そんな露骨に見るんじゃないよ。警戒しちまうだろ」
「す、すいません」
隣に立っているラケルに後頭部をはたかれ、謝る。
旅をする際は、こっちの方も注意が必要そうだ。
「さ、二人とも早く食べよう。冷めちまうからね」
―――
美味しい朝食こそゆっくりありついていた少女だが、旅支度は半端無い速さだった。
持つべきものを異様におおきい麻袋にぱっぱとつめこみ終えると、
「仕度、できた」
と少年の目のまえに来て言われたのである。
半ば唖然とする少年に、大柄な女が気持ちよく笑いかけた。
「あははは。リベカはせっかちだからね。でもそれ以上に、この旅が楽しみなんだろうね」
一切の邪念を感じられないラケルの言葉だった。
少年は邪推していた。
養女とはいえ、仮にも自分の娘を他人に託すのに不安はないのだろうか? 寂しくないのだろうか?
アベルの仏頂面からなにかを察したのか、笑顔を微苦笑にかえて女は喋りだした。
「なにを心配することがあるんだい? あたしはこれでも人を見る目はあるつもりだよ」
「……仮に僕が親だったら不安でしょうがないですよ。会って間もない他人に子供を預けるなんて、少なくとも自分にはできません」
「そりゃ、あたしだって不安じゃないこたぁないさ。あんたが絶対信用できるなんて、これっぽっちも思ってないし」
「………………」
随分あっさりと吐露してくれるものである。
「けどね、いつまでも巣に入ったまま、目の届く範囲に置いといたって成長しないんだよ。時には放り出すことも必要なんだ」
「…………そう、ですね……」
なんとはなしに同意する。
確かにそうだと思う。思うが、しかし……
「……あんた自身があの子に手をかけない限り、あたしは何もするつもりはないよ。あんたにとっちゃ頼もしい味方だろう?」
「はい……」
「これから色んな苦労をすると思うけど、あきらめずに頑張りなよ」
「…………はい」
もうこの女性に対して余計な詮索をするのはやめることにした。
何か企てていようがいまいが、表向きには好意的だし今は最大限に協力してくれているのだ。
それで十分ではないか……
「……アベル、早く」
少女が服をひっぱりながら無表情でせかしてくる。
「……知ってると思うけど、ナルシルの村落はここから真東九十三に在る。気をつけていきな」
「ラケルさん……」
やっぱり。
ラケルは顔色こそ変わらないが、その淋しそうな雰囲気は少年にははっきりとわかった。
だからといってそれを面にだす様なことはしない。
神妙な表情をむけて、深々と頭をさげた。
「短い間でしたが、今まで本当にありがとうございました」
「あたしは当然のことをしたまでさ。気に病む事はないよ」
「当然のこと」と聞いてまた何か思考を重ねたくなったが、やめた。
その瞬間、リベカがまた服を引っ張ってきたのもあるが……
「……ほらリベカ、ラケルさんにちゃんと挨拶しなきゃ駄目だろ」
彼女の手をひっつかんで、さみしげな微笑をうかべる養母の前につき出した。
なんとなく、自分が飼い主でリベカが動物のような感じがして、妙な気分になったアベルだった。
「…………今まで、ありがとう……」
ぶすっとした少女の口上は、少年のものをそのまま拝借していた。
瞬間、アベルは微かに驚いた。
その光景を見ていたラケルがふいに吹き出したのである。
「ふふ、すっかり姉妹だねぇ。結構絵になってるじゃないか」
少年はそんな彼女を見てすこし安堵し、口元を綻ばせた。
「リベカ、ちゃんと「子産の母」の所へ行くの、忘れるんじゃないよ」
「うん…………行こ、アベル」
さっきからそればっかりな少女である。
リベカの気持ちはなんとなくわかるけど、礼節は尽くすべきだろう。
照れくさくとも、恥ずかしくとも、長い間育ての親と離別するのだからもう少し素直に別れを惜しんでほしい。
……自分も人のことは言えないが。
「では、行きます」
「ああ」
「その……お身体に無理なことは控えてくださいね」
「そりゃこっちの台詞だよ。さ、気が変わんないうちにいきな」
核心を突いた口上のつもりだったが、難なくかわされた。
やはりまだまだ青いいうことか、自分は……
アベルはラケルと微笑を交わし合い、すみれ色の長い髪をなびかせながら背を向けた。
リベカも、時折後ろを振り返りながらひょこひょこついて来る。
少年はもう、‘雌銀狼’を振り返ることはなかった。
可愛い容姿に不似合いな仏頂面を虚空をむけながら、少年は少女を伴ってひとつめの目的地へと足を運び出したのである。
それは、黎明を告げる朝日が、女剣士[ヴァリオキュレ]の森を照らし出している時の事であった…… 三話・おわり