―――宗教は蛍のようなもので、光るためには暗闇を必要とする―――  
                  ショウペンハウエル  
 
 
西暦290年 地中海 ローマ  
パクス=ロマーナの栄華を誇るこのローマの港  
見渡せば大小様々な船、荷物を運ぶ奴隷たち  
次々と交されてゆく名品、珍品の数々  
流石ローマ、といったところか  
その中で奴隷たちに混ざり荷物を運ぶ16の少女  
名をナリアという  
彼女はこの貿易船の水夫の娘で別に奴隷というわけではない  
現に奴隷の証拠となる首輪がついてない  
ただ単にじっとしているのが嫌いなだけだ  
近い時で数週間、遠い時は数年船の上で生活する水夫の娘としてその性分はどうかと思うが物心ついたときからそうなのだから仕方がない  
肩からばっさりと切られた金髪、透き通った瞳  
それが全体的に幼い印象を与えながらもどこか力強い印象を与える  
荷物を運ぶ奴隷達もこんなヤツいたか? と不審な顔を隠せない  
 
しかし彼女はそれらを無視するように荷物を運んでゆく  
「ナリア!! ナリアどこにいる!!!」  
船上から彼女を呼ぶ豪快なバリトンボイス  
ナリアはその声を聞いた途端、持っていた荷物を放り出して貨物室へと逃げこむ  
「おいおまえたち!! ナリアを知ってるか!!?」  
さっきの豪快なバリトンボイスの主である水夫が奴隷達に聞く  
奴隷達は少し話し合うような仕草を見せた後、ある一点に目を向ける  
水夫は奴隷達の視線を追い、舌打ちをして貨物室のドアを開ける  
いない  
既に積荷なら奴隷達があらかた運び出している  
あと隠れるところは……  
水夫は開けたドアの裏側を覗きこんだ  
案の定というか何というか  
ナリアが壁に張り付き、ドアで見えないようにしてそこにいた  
ナリアは水夫と目が合い、ぎこちなく笑いかける  
水夫はそれに対し満面の笑みを浮かべる  
 
「離せ!! ちょっと聞いてんの!!? 離せ離せは〜な〜せ〜〜〜っ!!!!」  
水夫はナリアをまるで猫のように摘み、貨物室から放り出す  
「離してやったぞ」  
「それが可愛い娘に対してすること!!?」  
「るせぇ、船に乗りたいだけで奴隷みたいな服着て紛れこむ女のどこが可愛い娘だ!!」  
「ちっ、やっぱり首輪も用意しておけばよかった」  
「そーいうー問題じゃねぇよバカ野郎」  
ナリアの父親らしき水夫は自分の娘に容赦なくゲンコツを落とす  
「前は厨房の棚に入りこんでその前は船底にもぐりこんで  
だいたいなんで船にそんなに乗りたがる」  
「いいじゃんよ別に理由なんて  
貨物室で寝泊まりするために食料なら自分で買ってきたから減るもんないでしょ」  
「毎度毎度ご苦労なこった」  
この六年間で既にパターン化したやりとりを繰り返す  
「お願い!!!! 連れて……」  
「ダメだ」  
「まだ全部言ってないじゃん!!」  
「何年一緒に暮らしてっと思ってんだこのアホンダラ」  
「そのうち半分はお婆ちゃんに預けっぱなしだったクセに」  
「わかったからい〜加減ダダこねるのもやめろ!!」  
「ヤダ」  
「…ったく」  
らちがあかない  
そう感じたのか父親は頭をボリボリとかく  
「好きにしろ」  
とうとう折れたか  
ナリアが希望に目を輝かせる  
「ただし!!  
条件がある」  
 
 
地中海 海上  
貿易船としては当時最大級の大きさを誇る船の厨房  
ナリアが船に乗る条件、それは急病で死んでしまった奴隷の代わりに雑用をこなせ。というものだった  
少し前まで体の不自由な婆さんの代わりに家事をこなしていたナリアにとって、雑用は特に苦というわけでもない  
だが今回は桁が違う。  
何せ奴隷含め数十人がこの船に乗り込んでいるのだ。たった三人だけで暮らしていた時とは比べようもない程の仕事量  
現に簡単な麦粥を作る程度で数人の人手が必要な有り様だ  
その中に混じり、釜戸に空気を送っているナリアの疲労も並大抵ではない。既に全身の感覚など無いに等しい状況だ  
疲労と炎の熱で視界がぐにゃぐにゃとねじれ、歪み、揺れる。自分が何をやっているのか全くわからない  
不意に目の前に感じる黒い影。何かが彼女の顔をたたく  
人の声が聞こえる  
何を言っているのかさっぱりわからない  
黒いものが彼女の目の前で揺れる  
意識が  
 
 
 
 
 
落ちてゆく  
 
 
 
ナリアが次に目を開いた時は水のなかだった。透明で、向こう側に木材のような物が見える  
何が起こったのか全くわからない。一つあるとすればものすごく息苦しいことくらいだ  
「も゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!!!!」  
もがく、息苦しくてもがく、状況が理解出来ずもがく、鼻に水が入ってもがく  
とにかく水から顔を出すためもがき、ようやく顔をだす  
「ぶはっ!! かっ、けほっ、けほっ」  
どうやら海水を汲んだ樽に顔を突っ込んでいたらしい、口の中がしょっぱい  
誰かが背中をさすってくれている。見ればさっき厨房にいた奴隷の一人だ  
ナリアは思い出す、あのぐにゃぐにゃとした視界を  
「大丈夫か?」  
どうやら心配してくれたらしい  
だったらもうちょっと穏便に起こしてもよかったのに  
「ど〜もおかげ様で」  
 
 
 

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