雨が降る夜は嫌いだ。
とうの昔に失くした筈の、いろんな感覚が蘇る。
瞳を失った眼窩で分厚い雲で覆われた夜空を睨み、私……脳味噌も風化した為、自身の名前さえも忘れたスケルトンは、ためいきの代わりに歯をカチカチと打ち鳴らした。
それは、私が死にたてだったあの頃。
青白い皮膚と冷たい死肉、腐りかけの臓腑が体内で揺れ、固まりかけた血が死斑を浮き上がらせていた頃の話……。
「う゛〜、あ゛〜」
死後七日目、私は棺桶から這いずり出た。
その時点でも、相当にあやふやな記憶力しかなかったけれども、自身の死は悟っていた。
死んだのになぜ動けるのだろう? とも思ったが、動けるし曖昧ながらも思考する事ができる以上、いつまでも狭っ苦しい棺桶に横たわっているのはゴメンだ。
どうにか蓋を壊し、土を掻き分けて地表に出たときの爽快感は、正しく生き返るような気分だった(死体が何を言うかと思うだろうが)を骨だけになった今でも覚えている。
目の前にいたのは、マスターだった。
……いや、何と言えばいいのだろうか? 卵から孵った雛が最初に見た物を親鳥と思うように、棺桶から還った私はその人物こそが自らに今一度この腐った命を与えた者だと理解したのである。
とにもかくにも、月のない夜中の墓場、私はマスターに出会ったのだ。
さて、マスターの事を詳しく記しておこう。
幾つかの名前と容姿を持ち、さまざまな状況でそれらを使い分けていた為、詳しい素性は知らない。
ただ、優れた魔術師である事と、人間を辞めるための方法を探していた……と、思うが、なにぶん脳味噌が風化して久しいもので、正確に何を目標としていたのかは解らない。
まぁ、私のようなゾンビやらスケルトンではなく、ヴァンパイアとかリッチといったハイレベルなアンデットを目指したんじゃないだろうか、多分。
あぁ、ひとつ……思い出した。
最初に会った時や、研究室に閉じこもっている時、マスターは年端も行かぬ少女の姿をとっていた。
死んだ身では特に思う所も無かったが、世間一般の基準から言えば怖気がするほどの美しさだ……ものすごく陰気だったけれども。
ホロホロと、彼女(本当に女性かどうかは解らないが、便宜上こう呼ぶ)や色んなアンデットと過ごした日々の思い出が蘇ってくる。
「ゾン次郎、昨日のアンプル持ってきて」
腐りかけた死体を使役する者に相応しい、素晴らしく陰気な声で主は私の先輩ゾンビに指示を出した。
ゾン次郎と呼ばれたゾンビは、マスターの実験助手を務める為に、様々なカスタマイズが加えられた特別な個体だった。
具体的には触手とか、触手とか、触手とか……あぁ、あと触手が付いていた。
というよりも、もはや触手の塊だった。
イメージとしては、現在進行形でウナギに体を啄ばまれている水死体とか、そんな感じだ。
そんなゾン次郎先輩がにょろーんと触手を伸ばして持ってきたのは、粉の入った小瓶だ。
キッチンにあれば塩胡椒と間違いそうな色合いだが、死体を死体とも思わない腐れ外道のマスターが胡椒なんぞを実験に使う訳もない。
胡椒っぽい粉の入ったビンを受け取り、マスターは此方へと向き直る。
「さぁ、○○○、こっちにおいで」
手招きしながら名を呼ばれた。
死体ながらに嫌だなぁ、とも思ったけれど、所詮はゾンビである……主人の命令に逆らう事などできはしない。
歩み寄った私に、マスターは小瓶の中身をパパッと振りかける。
何と言うか……腐った私が言うのもなんだが、キノコと納豆の臭いを足して2で割ったような感じの発酵臭だ。
「さて、○○○……トウチュウカソウと言う物は知っている?」
トーチューカソー? 腐った頭ながらも主人の問いに答えようと必死で考える自分がいじらしい。
そんな私を馬鹿にするように鼻を鳴らし、主人は小瓶を眺めながら続けた。
「東方に伝わる物で虫と植物の特性を持った存在らしくてね、知人から種を譲り受けたのだよ」
あぁ、なるほど。
それを振りかけたと言うわけですか、この死体めに。
「とりあえずそのまま育ててはみたのだが……思ったよりつまらなくてな、私なりに手を加えてキミに振りかけてみた」
へぇ、それはそれは。
どう言ったリアクションが正しいんだろうか? 感謝するのも何だしなぁ。
ボンヤリとそんなことを考えていたとき、背中で何かが蠢く様な感覚が。
「む、早くも効果が現れたね……ゾン次郎、被験体を連れて来て……昨日、攫って来たイキの良い奴」
をぉお? 何だか、ブチブチと。
マスター、私どうなってるんでしょうか?
なんだか、背中が痒いんですが……カユ、ウマ? なんです、それ。
「トリフィドと精通直前の少年から採取した精巣を合成してみたわけだけど、いや、なかなかどうして……我ながら素晴らしい出来だよ」
あ、かゆいかゆい。
しかも、死んだっきりなかった性欲が、こう……ムラムラと。
性欲を持て余します、マスター。
「うん、もう少し待ちなさい……いま、ゾン次郎が良い物を持ってきて……あ、来た来た」
ニョロニョログチュグチュ、と急いでる時にゾン次郎先輩がだす効果音を伴って、触手の塊がマスターのラボへとと現れた。
マスターの言う良い物とは、生きた人間の女の子だった。
猿轡を咬まされているので口を開くことはできないが、先輩の触手に絡めとられて、物凄く嫌そうな顔をしている。
「さぁ、○○○! このオナゴに思う存分『種』を撒き散らしなさい」
た、種ぇ……。
曖昧な頭でマスターの命を受け、理解するよりも早く身体が動いた。