ローデルセラムは気候の温暖な、四方を緑の多い山に囲まれた小さな王国である。  
 その山あいの小さな修道院でアニエスは10の時から静かな暮らしを送って来た。  
 戒律の厳しい生活であったが、世間の汚れに染まる前にここにやってきたアニエスにはそう辛い物では無く、  
日々の勤めの中に小さな喜びを見い出す事が出来た。そうして16の年を迎える頃には、  
信心深く、無垢な、そして美しい娘に育ったのであった。  
 夜明け前に起床し、朝のお祈りを捧げた後、朝食前に修道院のすぐ側にある薬草園で作業をするのが、  
アニエスの毎日の勤めであった。  
礼拝堂から出たアニエスは、洗い晒しの木綿の粗末なドレスに着替え、麦藁の篭をもって、外へでた。  
 外はまだ所々朝霧が晴れず、木々の緑にミルクのようなもやがかかっている。  
日が上りきるまで、まだ少し時間に余裕があるようだが、朝露の乾ききる前に、薬草の新芽を摘み終わらなくてはならないのだ。  
前庭の下生えの露がドレスの淡いローズグレーの木綿地を濃くぬらすのも気にせず、アニエスは足早に庭を横切り、薬草園に向った。  
 薬草園の木戸を抜けて中へ入ると、すでに同じ作業をしている、年上の修道女たちが数名居た。  
 アニエスは軽く会釈をすると、自分もすぐに作業にとりかかった。  
 お勤め中は無言でなくてはならないのだ。  
 薄荷草の、萌える若緑色の新芽だけを摘む。  
 ポキリと折った瞬間、青く、清々しい香りがアニエスの鼻をくすぐった。アニエスの好きな瞬間だ。  
彼女は白いおもてに花のような微笑を浮かべながら、夢中で次々と薄荷を篭に摘んで行った。  
この薄荷草は後で修道女たちが乾燥させて、お茶にしたり、香料として市場等で売られ、修道院の貴重な現金収入となる。  
ここでは基本、自給自足なのだが、どうしても自給できない塩等を買うのに必要なのである。  
 香料に加工するのも、アニエスの勤めの一つである。  
   
 アニエスは修道女ではない。現在は見習いという身分だが、  
元々、地方の貴族の娘で、ここへは花嫁修行、という名目で預けられたのである。  
それゆえ、日が登ってからは、白い肌を損なわないように外での勤めは免除されている。  
 朝の勤めが終わった後は、年上の修道女から一通りの家事を学んだり、  
そしてまた、他の修道女たちに混じって尼僧院長から神学を学んだり、  
本を読んだりするのだ。  
 普通、年頃になった娘には親元から迎えが来て、帰郷すればすぐに結婚させられる。  
だが、アニエスはできれば修道女として一生を神に捧げ、神と共に暮らしたいと思っていた。  
 しかし、幾度故郷の父に手紙をおくっても、はかばかしい返事は戻って来ることはなかった・・・。  
 
 ふと、一心に薄荷草をつむアニエスが、手をとめた。  
 修道院から下働きの女らしき人陰が、1人、こっちへ向って走って来ている。  
しかも自分の名を呼びながら。  
 珍しい事も有るものだ。他の修道女達も手を止めて女の走ってくる方向を見ている。  
アニエスが薬草園の外へ、女を迎えに出てみると、よほど慌てていたのか  
大声を出しては行けないという戒を破って、息を切らしながら告げた。  
「急いで院長さまの所迄お越し下さいませ、アニエス様。  
王宮からお使いの方がきているのです。」  
 
「アニエスです、院長さま。失礼いたします。」  
「お入りなさい。アニエス。」  
 院長室のドアをノックすると、柔らかい院長の返事が聞こえた。  
 部屋の中には尼僧院長と、その墨染めの装いとは対照的な、  
華やかな出で立ちの女性がアニエスを待っていた。  
 肩から掛けているヴェールについた紋章から、彼女が確かに王宮の、  
しかも高位の女官ということがわかる。  
 女官はアニエスが部屋に入ってくると、椅子から立ち上がり、優雅に礼をした。  
一分のすきもなくキッチリ結い上げられた艶やかな黒髪、  
細く釣り上がった眉に冷たい感じがするほど整った目鼻立ちの、  
いかにも有能そうな女官であった。  
 
「お初にお目にかかります。アニエス姫。」  
 アニエスは礼を返しながら苦笑した。  
「・・・私のことは、ただ、アニエスとお呼びください。」  
「アニエス様の母君は現国王の叔母上さま。いわば王族の一員であらせられます。  
私ごときが失礼ながらお名前を呼び捨てにすることはできません。」  
まだ何か言いたげなアニエスを目で制して、女官は続けた。  
話す言葉ではへりくだってはいるが、声も、有無をいわさぬ威厳に満ちていて、  
少々慇懃無礼な感じがした。  
「恐れながら、この度は姫君の出自をあれこれ申す為に参ったのではございません。  
陛下より、そして、姫君のお父上様からの手紙を預かっております。  
王宮への特別な出仕の御要請です。お父上様もご了承でございます。  
詳しくは手紙を御覧くださいませ。」  
 出仕?確かに地方貴族の娘が、女官として王宮で礼儀見習いをすることはあるが・・・  
王が直接采配しているとは聞いた事がない。  
それに礼儀見習いに入るには少し年が過ぎているし。それに特別とは何だろうか。  
「3日後に、迎えの馬車を差し向けます。それまでに御準備ください。  
と、申しましても、お持ちになる物は何もございませんでしょう。  
王宮で必要な物、ドレスも身の回り品も全てこちらでご用意致します。  
その為に国王陛下からも、故郷のお父上様からも支度金をお預かりしております。  
身ひとつでお越しくだされば結構です。」  
(それではまるで・・・お嫁いりのようだわ・・・)  
あまりにも急な話に付いて行けず、戸惑っているアニエスが何も言えないでいると、  
女官はさっさと自分で話を締めくくった。  
「お聞きになりたいことがあれば、王宮にお越しになってからお尋ねになればよろしいかと思います。  
では、わたくしは、修道院に入れない男性の護衛達を外で待たせておりますので、  
失礼いたしますわ。  
院長様、お時間を頂いて有り難うございました。3日後にまた参ります。」  
 一礼すると、さっさとドレスの裾を翻して、女官は出て言った。  
 仮にも王宮の使者だ。院長が珍しく慌てて、修道女達何人かを見送りにやらせていた。  
 アニエスはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてその場で手紙を開封し、  
読み始めた。  
 確かに手紙は、王家の紋章で封蝋されていた。  
 国王陛下からの手紙には、アニエスに王宮に来るように、  
という簡単な命とサインがあるだけであった。もう一方の、  
表のサインが見なれた父のものである手紙をあける。  
読み進む内に、アニエスの顔色が明らかに変わった。  
 『隣国の第2王子が、この国に留学にやってきている。お前は尼僧になりたいと望む程、信心深くまた神学にも造詣が深いようだから、王子のお話し相手兼、聖典の家庭教師として勤めるように。』  
 
 一旦使者を見送りに外に出ていた院長が、何時の間にか部屋に戻って来ていて、  
アニエスにそっと声をかけた。  
「今日、明日のお勤めは免除しましょう。礼拝だけ参加なさい。」  
 アニエスは手紙から顔を上げた。  
「院長さま・・・これは・・・一体どういう・・・」  
「私も、貴方のお父上様から、詳しい事情について書簡を頂きました。  
ここは俗世から分かたれた修行の場ですが、アニエスも、この世の中が、  
おしなべてこの修道院のように平和ではないことは知っていますね?」  
「はい・・・魔界化の事ですね。」  
 忌わしい言葉を口にしたアニエスは、軽く祈るような仕草をした。  
 
 
 もう、それ、が始ってから何十年にもなる。  
 最初は人の踏み分け入らぬ森の奥で、見た事もない怪異を見たとか  
そんなただの怪談話だったらしい。が、身の回りの草花や野の小動物に、  
明らかに見なれぬものが混じり始めたのは、そんなうわさ話が出でから、間もなくのことだった。  
 昔の修道士達が編纂した野の草花の美しい写本には全く見られない、  
夜になると踊る目のある草だの、肉の腐った臭いのする毒毒しい色の花が人里でもはえはじめ、  
野の生き物にも目やシッポが一つ多かったり足りなかったり、  
挙げ句には人語を発するモノ迄出始めた。  
 最初は、見つかり次第殺して埋めたり、焼きはらったり、  
教会の僧侶に魔よけをさせたりとなんとか排除しようと努めていた人々も、  
自分達の家畜にまでに範囲が及ぶに至り、あきらめて共存の道を選ぶようになってしまったのだ。  
「馬に羽がはえりゃ街にいくに楽だし、牛がうちの婆さんの死期を予言してくれりゃ  
棺桶屋に注文をだす手間が省ける。」  
 そして、とうとう人にも魔の印を持った者が産まれるようになった時には、  
もはや慌てるものは殆どいなかったらしい。  
 どこか遠くにある大きな教会に納められた、人が読んではいけないとされる禁書に描かれた  
悪魔たちのごとく、また、聖典で語られる、神がこの地におりたつ前の上つ代の混沌のごとく、  
世も人も変化していく。  
 それを為すすべも無く眺めるしか無かった聖職者達は、魔界化、とそれを呼んだ。  
 人々の心も、その過程で、神の教えからどんどん離れて行った。  
目に見えぬ神の恵みよりも、目に見えて触れられる怪異のほうがより近しいものだから。  
 多くの街では、教会は廃れ、淫猥な音をたてるペンペン草が、  
その廃虚で無気味に震えている有り様であった。  
教会を守る僧侶達自身が魔と化した所も、少なく無かったという。  
 
「なぜこのような世になったのか。そして、神はなぜ、  
この世に私達を遣わしたのか。それは分りません。」  
院長もそっと、祈りの仕草をした。  
「ですが、アニエス、この役目は、あなたにぴったりだと、私も思いますよ。  
俗世に戻れば、隣国の王子殿下の相手を勤めるのに相応しい身分なのですから。」  
「ですが、父親が反対しているとはいえ、私は修道女を志す身。  
男の方の身近に側仕えるなどと、考えることもできません。  
それに、まるでこれは・・・」  
 よくあるお見合いのパターンのようでも有る。  
だがアニエスはそこまで口には出せなかった。  
 院長はアニエスが固く握りしめた手を、やさしく自らの皺深い手で包み込んだ。  
「確かに私達修道女は、貞節の誓いを立てます。  
ですが、結婚は神の教えに反することではないのですよ。  
無闇に男女の事を汚れたものと感じる事は間違っています。  
どんな生活においても、神のみこころに叶う生き方はできるのですから。   
国王陛下も故郷のお父上も、アニエスが神の忠実な僕だとお認めになったからこそ、  
賓客に聖典を説く名誉の役に貴方を選ばれたのですよ。  
 聞けば、隣国は多くの者が魔の印をもち、完全に魔界と化してしまうのも  
時間の問題と言われているとか。  
おそらく神の御教えを学ぶ事が難しくて、王子殿下もわざわざローデルセラムまで  
留学しにこられたのでしょう。  
 ローデルセラムは、四方を山に囲まれ、神の恵みと信心深い国王様のお陰で、  
今迄はずいぶんと魔の影響をまぬかれてきましたが、  
近隣の国の魔界化の影響か、徐々に魔の印を持つものがふえているといいます。  
 私達は外に出る事が叶いませんが、アニエス、貴女は外の世界を  
見聞きしていらっしゃい。貴女ならば、この世を有るべき姿に戻す手がかりを  
掴めるかもしれません。許されるならば、ここへ戻って来て、そして、私達にそれを教えておくれ。今はただ祈りましょう。神の恵みが貴女にありますように・・・」  
 院長に諭され、アニエスは逃れられない自分の運命を理解した。  
全てが神の導きなのだろうと。  
 この時は全く分らなかった。全ては悪魔の操り糸とは。  
 
 王宮の使者の訪れから3日目。  
 アニエスは何年ぶりかに、尼僧のつけるヴェールを脱いで、ゆるやかに波打つ  
蜂蜜色の髪を肩の上に下ろした。昨夜はよく眠れなかったようだが、ブルーグレイ  
の瞳は澄んで、そしてすこし潤んでいた。馬車に乗り込んで、窓に自分の顔がうつり  
こむのを、別人のもののようにアニエスはみつめた。  
 優雅なカーブを描く眉、アーモンド型の目、ほんの少し丸みをおびた形の良い鼻、  
そして小さな唇。その唇には、花から色素をとった紅をすこしだけさして、今日、  
生まれてはじめての化粧をしたのだ。  
 金髪にふちどられた小さな白い顔が、馬車の窓から最後の別れを告げるように、  
上下に動くのが庭に立つ院長からもみえた。迎えの女官が着せた淡い色のドレスは、  
まるで遠目から見ると花嫁衣装のようだった。  
 年若い妹を、涙ながらに修道女達は見送った。木立の間に馬車が見えなくなるまで。  
 
 
 これからの生活を思うと、心が沈むアニエスだったが、一つだけ嬉しい事があった。それは乳母の娘で、幼馴染みのニナと6年ぶりに再会できたことだった。お城での  
勤めの間、アニエスの身の回りの世話をすることになったらしい。  
 ガタゴト、と山道をいく馬車の中で、揺れにお互い膝をぶつけあいながら隣に座った  
女友達と旧交を深めた。  
「アニエスさま、お久しぶりでございます!本当にお綺麗になって、  
亡くなった奥様そっくりで、ニナはもうびっくりいたしました。」  
 多弁を戒められる修道女の暮らしになれたアニエスは、少し面喰らったが、  
すぐに昔を思い出して優しく笑った。  
「ニナはちっとも変わらないわ。王宮に侍女として勤めに出ていたのですって?」  
 ニナは藍色のドレスに、薄いクリーム色のベールをつけた侍女の装いで、  
明るい茶色の巻き毛もしっかりと結い上げて同じくクリーム色のリボンを長くたらして  
結んでいた。  
「はい!アニエスさまがどこに輿入れされても、付いていけるよう勉強の為に  
参りました!! でも王宮にもアニエスさまよりもおきれいな方はおられませんでしたよ!」  
 輿入れ、という言葉を聞いて、アニエスは一瞬怯んだ。  
もう当たり前のように故郷ではそんな準備がなされていたのだろうか。  
「隣国の王子様ですって、どんな方かしら、ニナはお見かけしたことはないんですよ。  
普段は、王宮から少し離れたお城でご滞在中なのですって。」  
 うきうきしたように話を続けるニナに、かえって気が重くなったアニエスは、  
すこし眠る、と言って目をつむった。これ以上話していると、ニナを傷つけてしまう  
ような事を言ってしまうかもしれない。ニナはそんなアニエスにに、そっと肩から  
柔らかい毛織物をかけた。本当に眠るつもりはなかったのだが、昨晩の睡眠不足の  
せいか、アニエスはいつのまにか寝入ってしまった。  
 
「・・・さま、アニエスさま、起きて下さいまし。」  
 はっと目をさましたアニエスは、一瞬自分がどこにいるのか分らなかった。  
もうとっくに日が暮れていた。馬車の窓越しに外をみても護衛のもつ松明だけが  
御者席あたりでともっているだけだで、少し離れた所は全くの暗闇でしかなかった。  
「お城に着いたようでございます。」  
 ここが?暗闇に目がなれてみると、確かにそこには大きな建物らしきものがあった。しかし、灯火らしきものは全く見えず、月明かりで申し訳程度に窓や尖塔が見える  
くらいであった。  
「申し訳有りませんが、灯りの為の油が不足していて、王宮でさえも夜は本当に  
灯りがすくないんですの。松明を持っては中にはいれませんから、入り口迄、  
衛士に送ってもらって、その後は蝋燭をどこかでなんとか借りてまいります。」  
 ニナが申し訳無さそうに言った。  
「到着が夜になるなんて。実は、灯りに使う油や蝋燭をつくる村が、最近魔界化  
してしまって、ものすごく品不足なんです。完全に魔界化すると、いきなり、  
全く連絡ができなくなるそうで、王宮でも他の手配が間に合わなかったのですわ。」  
 二人が城の玄関らしき所に到着すると、1人だけ侍女が迎えに出ていた。  
「アニエス様、ようこそおこしくださいました。この城の侍女頭を勤めるアリシアと  
申します。最近は灯りもないものですから、皆早くやすむようになっておりまして。  
夜おそうございますので、お出迎えも少なく申し訳有りません。」  
 アリシアは深々と頭を下げた。  
「お部屋のほうに御案内いたします。こちらへ・・・」  
 灯りも無いのにすたすたと歩むアリシア。  
一瞬、アニエスはその目が猫のそれのごとく光ったように見えた。  
 秋口の涼しい夜の空気が、急にとても冷たく、おもく感じられたような気がした。  
 やがて城の奥まった一室に案内されたアニエスはほっとした。  
取りあえず今日は休んでしまおう。  
「アリシアさま、蝋燭か何かございませんか?」  
 不安そうにニナがアリシアに尋ねた。  
「あいにく・・・持っておりましたら御案内の際に点しましたものを・・・  
もうしわけありません。そうだわ、暖炉をつけるには少し早うございますが、  
灯り代わりに火を入れましょう。すぐ下働きの者に薪を運ばせますわ。  
準備を致しますので、その間アニエス様は湯あみされてはいかがですか。」  
 
 そういって、アリシアに案内されたのは、アニエスが想像していたのとは違い、  
大きな白大理石の浴槽のある非常に立派な湯殿だった。浴そうには湯が既に張って  
あり、良い香りのする湯気があたりに満ちていた。もちろん灯りはないが、大きな  
窓が高い所にいくつもとってあって、月の光が青く差し込んでいた。目が慣れると、  
そう暗くは無い。  
 ニナはアニエスのドレスを脱がせるのを手伝った後、すぐにもう一度参りますから、  
と言いおいて、暖炉の支度を手伝いに一度湯殿を出て行った。  
 山の上の修道院では、湯をふんだんに使って湯あみをする事など無かったので、  
アニエスには非常に贅沢に感じられた。さすがに一国の王子が滞在するにふさわしい  
立派な城のようである。  
(明日、日が登ったら外にでて見てみないと。お庭はどんなかしら?ここにも  
薬草園はあるのかしら。ニナと一緒に薄荷のお茶を作ってみるのもいいな・・・)  
 ゆったりと湯舟に漬かって息を吸い込むと、修道院での生活でもなじみのある、  
まんねんろうとラベンダー、それにつる薔薇の馥郁たる香りが鼻孔をくすぐった。  
それらのかおり高い薬草の入った木綿の袋が、湯のふき出し口に掛けてあるのだ。  
この城にきた理由も、不安も一時忘れて、アニエスはしごくゆったりとした気分になった。  
 アニエスが薬草の入った袋を優しく揉んで、香りをたのしんでいると、入り口の  
ほうから物音が聞こえた。  
「ニナ?・・・ニナなの?」  
 もう暖炉の用意が終わったのだろうか。  
 しかし入り口から現れたのは、ニナとはにてもにつかぬ・・・背の高い、  
裸の若い男性だったのだ。  
 アニエスの頭が一瞬にして真っ白になる。  
 月明かりがほんのり照らす、その顔だちや体躯は父親や小さい頃に見知った  
男の子のものとは全く異なっていた。  
 肩程までのびている黒い髪の間から、先が鹿のそれのようにとがった異形の耳が  
見える。それだけではない。肘から先の腕と膝からしたの脚には獣のような濃い毛が  
密集してはえていた。そして下腹にも。  
 まさしく聖典に描かれる悪魔の姿だった。  
(ひ・・・・あ・・・・・)  
 アニエスは悲鳴をあげようとしたが、喉が凍り付いたように全く声がでなかった。  
 
「んー、なんだお前は。 何故ここに居る」  
 悪魔が人語を発した事と、その声が意外にも美しい柔らかな声であったので、  
さらにアニエスの頭は混乱を極めた。  
 男は無遠慮に、一糸纏わぬ姿のアニエスに近寄ってくる。  
 高窓の下をちょうど通り抜けた時、一瞬、月の青白い光が、全身をハッキリと  
照らし出した。  
 強い意志を表すような目、高く整った鼻梁、頑固そうな口元。古代の王の肖像画の  
ような、高貴な顔だちだった。だが、酷薄に見える程薄い色合いの青い目が、闇の  
中で、普通では有り得ない光をはなっている。  
(悪魔・・・!)  
 神に祈ろうにも声が出ない、身を守るものは何一つとして身につけてはいない。  
 男はさらに近付き、容赦無くアニエスの腕を引っ張って、湯の中に閉じ込めていた  
裸身を外に引き出した。  
「ほう、これは・・・」  
 月明かりの下、水面のうえにくっきりと白い肌が描き出された。どんなに暗くとも、  
そのしみひとつない裸体の、際立った美しさは隠しようがなかった。  
なだらかなデコルテの下には手のひら程の小さめの形良いふくらみがあり、その頂きは  
薔薇のつぼみのように淡く色付いている。腰回りもまだ非常に細く、少女然としていた。  
 アニエスは片腕で胸を押さえ、必死にもがいたが、全くたちうちできない。  
「こんな夜遅くに男のところに忍び込んでくるとは、どこぞの遊び女か。だれぞ  
護衛が気をきかしたか、新しい侍女が我が情けを頂戴しに参ったというところか。」  
 アニエスが、激しく頭を振って否定する。  
「見ればまだ、魔の印を受けていない様子。我が姿をみておそれをなしたか。  
怖がらずとも良い・・・俺は紳士だ。お前の望みを叶えてやろう。」  
 男はそのまま自分も湯舟につかり、アニエスを抱き寄せる。  
 乱暴に髪を捕まれ、顔を仰向けにさせられたアニエスは、16年間、神への祈りの  
言葉しか紡いだ事のない汚れなき唇に、なすすべもなく男の口付けを受け入れ  
させられたのだった。  
 
 

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