自分が自分でなくなる
姿も心も人間でなくなる
どんな気分だろうか。
かつて人間として扱われる事無かった人間も山ほどいるし、
姿が醜い者や精神が荒れ果てた者もいる。
が、あくまでも人間だ。
俺はもう違う
突然の出来事だった。昨日の夜の事は、全身の激痛に悶えながら受話器を手に取ったことしか覚えていない。
気がついた時には病院のベッドだった。
気分は悪くない、が、どこか感覚がおかしい。
布団をめくろうと端を掴もうとした俺の手は人間の物ではなかった。
黒い毛に覆われ、指先の爪は細く鋭いものに変わっている。
一瞬思考が停滞する。慌てて布団を押しのけ自分の体を見ると、やはり人間の物ではなかった。
ほぼ全身が同じく黒い毛に覆われている。特に体の末端が濃い。
足先を見ると全体的に厚くなり、指も太くなっている。
恐る恐る足を地面に付け、立ち上がる。やはり足の裏の質感が違う。
そして腰のあたりに重みを感じる。尻尾だ。俺は犬や狼にでもなってしまったのだろうか。
慣れない足で鏡の前に立ち、顔を映すと、頭には特徴的な耳が生えていた。
「遺伝子変質ウィルス性身体変異症候群…?」
「はい。あなたの場合、獣化に該当し…」
医者の説明が淡々と頭の中に入ってくる。
俺の場合、まだ軽いほうだそうだ。
「…しばらくは検査入院ということになります。獣化が安定するといいのですが。」
病気についてよく分かっていない事が多い、そう言っていた。
もしかしたら俺を調べたいという面があるのかも知れない。
正直、健康状態で悪い所は無いと思っていたし、容姿が変わっただけで果たしてこれは病気なのかとすら思うほどだ。
もっとも、人間の顔が残っていなければそんな事言えないのかもしれないし、医師から聞いた話もそんな楽観できるものではなかったが。
そんな事を考えながら病室へ戻る。やはりこの姿は人目を引く。
確かにこの体では何かと不便だろう。既に下着を2枚ほど引き裂いてしまった。
医師は、この病気には精神状態に深く関わる部分があるとも言っていた。
動物好きのせいか、いや、逆で、だから今の状態をすんなり受け止めていられるのか。
そのうち慣れるだろう。そうしたら家に帰れる。
しかし数日後の夜、異変は起きた。
激痛で目が覚める。体中が発熱しているようだった。
ナースコールのボタンを必死に押す。力を入れすぎて壊してしまったかもしれない。
状態は酷くなるばかりだ。我慢できず衣服を切り裂く。
ベッドから倒れるように床に落ち、そのまま身もだえする。意識が薄くなり―――
ここは―――ベッドの上
あの時と同じだ。
だが今回は体に変化があったとすぐに気づく。
視覚は以前より若干色あせた気もするが、部屋が薄暗いにもかかわらず、
乱視であったはずの右目にも鮮明に部屋の像が映る。
敏感になった嗅覚は本来無臭であるはずのこの部屋からも何らかの臭いを捉えていた。
再び布団からそっと腕を出す。手からは硬さ鋭さ共に増した爪が、何かを切り裂くがためにあるが如く伸びている。
足を床につけ立ってみると、長さを増した黒い剛毛のせいか体が重い。
その上、自分の体だというのにまったくその感覚がつかめない。リハビリをする気分が分かる気がする。
その足で再び向かうのは同じく鏡の前だ。
そして、ゆっくりと鏡を覗き込み、そこに映った顔を見て、ここにきてようやく驚きという感情が迫ってきた。
そこにあったのはまさしく狼の頭だったからだ。
それでも俺は口を開くこともなく、ベッドに戻るとそこに腰掛けた。
おそらく今は深夜だと思うが、目は冴えて寝る気にはとてもならない。
結局、手に取ったのは携帯電話だった。この手になってから扱っていないため、電源を入れるのもしばらくぶりだ。
今思うと外との接触は、家族や職場へなど必要最低限の連絡しかしていない。自分もどこかで人間を避けているのだと思う。
人間とは別の動物の本能が関係しているのかは定かではないが、少なくともこの姿で他人と対峙する勇気は無いのかもしれないと思った。
特に家族と会った時の顔など想像もしたくない。そのためにも心配させない言い方をした。
とりあえず気がかりだったのは、元々忙しい仕事で特に最近は連絡も乏しい彼女だ。
もしこの姿を見たらどう思うだろうか。自分のことは忘れてもらった方がいいかも知れない。
何より、彼女に迷惑をかけたくない。
しかし俺には現実をありのままに言いつけるほどの勇気は持ち合わせていないし、かといって黙っているのも気が引けるのだ。
結局、自分の後姿を写し、嫌ならもう連絡をよこさなくていいと添えて送ることしかできなかった。
とうとうやる事のなくなった俺はベッドの上にうつ伏せになり、目が閉じるのを待った。
「急性でも、ここまで変化が急激なのはあまり前例がありません…既に骨格にも変化が見られます。」
身体はほとんど人間では無いらしいが、そう言われてもこの外見では既に人間ではない。
今の状態についてあれこれ言われた後、検査は既に終わったからとあっさり帰してくれた。
だが、俺の感じ取った限り、相手側の本音は 手に負いたくない だろう。これ以上獣化が進む事はないとは言われたが。
あらかじめ買ってきてもらった相当大きなパーカーで上半身と頭を隠し、ようやく外に出る気になった。
このような意味では他人より小心者だと自分でも思う。
外に出るとあらゆる臭いと音に取り囲まれる感覚に陥る。気づく事すらできない人間を恨めしく思う。
世の中どうなってしまうだろうか―――町を歩く人の中にも人とは少し違った外見を持つ人も少なからず見かけるが、
人間が彼らを避けている感は否めない。大概そんなものだろうと思った。自分が前の人間でもそうしたかもしれない。
身を隠すように歩くのも嫌になってきたので携帯電話を取り出した。所詮この姿を記憶に留める者は誰もいないと思いつつ…
見ると一通、新着メールが入っていた―――彼女からだ。内容が予想できない。
内容は「今すぐ会えるか」というものだった。一体何なのだろうか?
幸い、近くまで来ていたので返信もせず、直進しようとした十字路を左に曲がった。
彼女の部屋の扉の前まで来ている。呼び鈴はもう押してた。中からゆっくりと足音が近づいてきたのが分かった。
近くまで来た事を見計らって、俺だ、と言ってみるが、声で判別するのは難しいだろう。
鍵が開けられる。だが向こうから開ける気配が無いので、そっとドアノブに手をかけた。
暗いことを除けば、一見彼女の様子はなんら変わりはなかった。暗いと言うよりはどこか悲しげなその表情で見られながら中に入る。
もし他の家に入ったら、どんな臭いが鼻に入っても気にならないだろう。どうやら、そうらしかった。
服装は夏だというのにジーンズ、長袖の上着、ニット帽。冷え性とは聞いていない。
さらに一歩近づく。彼女はまったく様子を変えない。
俺が腕を彼女の頭へと伸ばすと、彼女は一歩後ずさりした。だが俺は彼女の似合わないニット帽の淵を掴むとゆっくりと外した。
その下には、黒色の毛で覆われた二つの耳が立っていた。