小さな音が聞こえた気がして円上香澄は目を覚ました。  
そこは高槻家で香澄が宛てがわれた客間だった。  
華美ではないが実用性が重視された品の良い調度品が置かれ、この屋敷の持ち主の趣味の良さが感じられる。  
香澄がこの屋敷を訪れて既に3日が経過していた。  
退魔師としてそれなりに名を知られた彼女が今回受けたのは地方の大地主である高槻家からのものだった。  
普段家族や住み込みの使用人が使っている屋敷の裏手にある古い建物。  
記録によれば明治時代に建てられたそこに妖魔が現れたため、それを払って欲しいという最もスタンダードなタイプの依頼。  
しかし屋敷に到着した香澄を待っていたのはあまり良くない報せだった。  
高槻家の娘2人の行方がわからなくなっている。  
しかも使用人の1人が、その2人が昼過ぎに屋敷の裏手に向かっているのを見かけていたのだ。  
香澄は最悪の事態を想定しながらすぐにその建物に向かい、辛うじて妹の方だけは救出に成功した。  
その際にとりあえず妖魔の本体は払ったため、今は残っている妖気を完全に払う作業と、立地的に妖気が溜まりやすいその建物で再び同じ事が起きないように結界を張る作業のために高槻家に滞在していた。  
しかしこれらの作業は直接妖魔と対峙するものに比べ直接の危険はないものの、こまかい作業が多く知らぬうちにかなり疲れが溜まっていたようで  
そのせいか今も椅子に座ったままでうつらうつらとしてしまっていたらしい。  
(夢、か……)  
目を覚ます直前まで見ていた悪夢が脳裏によぎる。  
空調のおかげで快適な温度に保たれている部屋の中で、それでも香澄は全身に汗を浮かべていた。  
今においてはそれは確かに夢だった。  
だが過去においては事実として紛れもなく起こったことだ。  
あの後香澄は奇跡的にも命を取り留めた。  
それも真っ先に不可能だと自分で却下したはずの自力での生還だった。  
 
数えきれない絶頂を経験させられ、その度に精気とでも言うべきものを搾り取られ命の灯火が消えようとした最後の一瞬だった。  
空っぽになった体の中に何かが流れ込んでくる感覚――後にそれを狩る者の間では妖魔と呼ばれる存在の  
食事における最終段階、同化現象呼ばれるものだと聞かされた――に対し香澄の体は強烈な拒絶反応を示した。  
流れ込んでくる存在を撥ね除けるように香澄の内部で膨れ上がった力。  
それは香澄の体を物理的に絡め取っていた肉紐すらも一瞬で蒸発させ、彼女は戒めから解放された。  
支えを失い地面に落下した香澄はそのまま意識を失い、次に目覚めた時は既に次の日の夕方だった。  
昨晩の出来事がただの夢でないことはズキズキと痛む下腹部が証明してくれる。  
それでも香澄はもう帰ることができないと思っていた自宅へと、覚束ない足取りではあるが歩き出したのだ。  
なぜほぼ丸1日もの間帰らなかったにもかかわらず誰も捜しにこなかったのかという疑問を思いつくだけの思考力を、その時の香澄は失っていた。  
そして普段の倍以上の時間をかけてようやくたどりついた我が家で彼女を待っていたのは、昨晩の出来事以上の悪夢だった。  
そこにいたのはいかにも屈強そうな見知らぬ男。  
その男が、その家がもはや香澄の帰るべき日常ではないことを告げた。  
香澄の力が発現したとき、妖魔の本体は彼女からは離れていたため決定打にはならなかった。  
手傷を負った妖魔はそれを癒すために新たな獲物を求めた。  
意識を失ってなお彼女の体は力によって保護されていたからだ。  
そしてあの現場から1番近い場所にある民家が香澄の家だった。  
その存在を感じ男が駆けつけたときには、もう既に全員が食われた後だったと聞かされた瞬間、香澄の世界は完全に崩壊していた。  
その後香澄はその男について日本中を回り、退魔師として1人立ちできるようになり別れるまで様々なことを教えられた。  
そして今ここにいる。  
 
(くそっ!)  
心の中で毒づき、香澄は腕を振り上げた。  
彼女の心は苛立ちで満たされていた。  
だがその元凶は夢そのものではない。  
あの出来事を夢で見るのはこれが初めてではなかった。  
時が経ち最近ではその頻度を減らしてきたものの、それでも今回のようにあの時の自分と同じ年頃の少女が被害に遭い、そしてそれを助けることができなかった時は必ずと言っていいほどこの夢に苛まれた。  
何よりも彼女の心を苛立たせるのは、この夢を見て目覚めた時の自身の体の状態だった。  
下腹部に感じる汗とは異なる液体。  
男女問わずその絶頂時にのみ放出される精気を食らう妖魔は、その食事の効率を高めるためにほぼ例外なく媚薬と言うべきものを使う。  
それに冒されればどんな人間でも無理矢理快楽を感じさせられてしまう。  
理屈ではそうわかっていてもあの時その感覚を受け入れてしまった自分と、そして今でもそれを夢に見るたび反応してしまう自分が許せなかった。  
その苛立ちを振り払うように、振り上げていた腕を近くにあったテーブルに力任せに叩きつけた。  
思いのほか大きな音が響く。  
そしてその音に紛れるように廊下から聞こえてきた小さな悲鳴を香澄の耳は捉えていた。  
 
扉を開くと案の定廊下には香澄が助けた少女、あの1件以来部屋にこもっていると聞いていた沙耶が立っていた。  
淡い桃色のパジャマに身を包んだ沙耶は、香澄と目が合うと慌てて顔を伏せてしまう。  
香澄は自分の胸あたりまでしかない小柄な少女の言葉を待ったが、少女は身を強張らせたままで何かを言う気配はない。  
「何か用?」  
やむを得ず香澄の方から用件を尋ねる。  
自分でも無愛想な言葉だとは思ったが、元々人付き合いが得意ではない香澄には他に言葉が思いつかない。  
その言葉に少女の肩がビクリと跳ねる。  
再び訪れたしばらくの静寂の後、ようやく少女が言葉を絞り出した。  
「……あの……お茶……」  
「お茶?」  
まさに蚊の鳴くようなそれの中で、かろうじて聞き取れた単語を聞き返す。  
「あの、お茶、いかがですか……」  
「あ、ああ、じゃあもらおうかな」  
予想していなかった誘いに面食らいながらも、特に断る理由もないので承諾した香澄だったがそこで1つの疑問を持った。  
見たところ少女は手ぶらだ。  
(このまま食堂にでも行くのか?)  
そんなことを香澄が思っていると、  
「わかりました。少しだけ待っていてください」  
少女はそれまで微動だにしなかったことが嘘のような早さで身を翻し走り去ってしまった。  
(持ってきてくれるってことか……)  
少女が消えた廊下の先に視線を送りながら香澄は心の中でそう呟いていた。  
 
部屋に戻ってしばらく待っていると再び外から少女のか細い声が聞こえた。  
「どうぞ」  
あいかわらず言葉の内容までは聞き取れないが、それでも部屋の中からそう応える。  
しかししばらく待っても扉が開く気配がなかった。  
不審に思って廊下に出ると、そこには両手にティーセット一式を乗せたトレーを持った沙耶が困ったように立ち尽くしていた。  
どうやら両手が塞がっていてドアを開けることができなかったらしい。  
とりあえずトレーを置くなり何なり他に手はありそうなものだが、どうやら緊張のあまり頭が回らなくなっているようだ。  
「……どうぞ」  
そんな少女に対し小さな苦笑を浮かべながら入るよう促すと、沙耶はおずおずと入ってきた。  
少女は部屋にあるテーブルの上にトレーを置くと、さっそく紅茶を入れる準備を始める。  
よほど緊張しているのかその動きは体の芯に針金を入れているかのようにぎこちない。  
それでも程なくして香澄の前に置かれたカップに琥珀色の液体が注がれた。  
繊細な装飾を施されたカップに満たされた紅茶からは湯気が立ち上り、その流れに乗って心地良い芳香が周囲を満たしていく。  
胸の片隅にわだかまっていた夢の名残を洗い流してくれるようなその香りを楽しんでいると、  
「もしかして、紅茶、お嫌いでしたか」  
テーブルを挟んで座っていた沙耶が不安そうに問い掛けてきた。  
「いや、良い香りだなと思っていただけだ」  
「そ、そうですか」  
安心したのか沙耶の肩からわずかに力が抜ける。  
だが香澄がカップを手に取ると再び沙耶の体が見るからに強張った。  
その視線は香澄の口元にしっかり注がれている。  
(そんなに見られると正直飲みにくいんだが……)  
そうは思ったが、それを口にすれば少女をまた畏縮させるだけだというのも容易に想像できた香澄はそのままカップに口をつけた。  
 
「どうして、助けてくれたんですか?」  
香澄の紅茶が残り半分くらいになったところで少女が不意にそんな言葉を放った。  
沙耶の顔は再び伏せられていて、香澄からではその表情は窺えない。  
取りようによっては助けたことを非難されているようにも取れるその問いを香澄は不審に思う。  
「それが私の仕事だからだ」  
「でも、わたしには助けてもらう資格なんてないんです」  
「資格?」  
沙耶の言葉の中に現れた不可解な単語を香澄は思わず聞き返していた。  
「……わたしの、せいなんです。あんなことに、なったの」  
しばらくの間の後発せられた少女の言葉は明らかな潤みを帯びていた。  
その瞳には今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜められていることは、その顔を実際に見なくてもわかるほどだ。  
「お父さんから近づいちゃいけないって言われてて、でも1度でいいから中を見てみたくて、お姉ちゃんも止めようって言ったのに、  
でもお姉ちゃんは優しいからわたしが先に入っちゃえば絶対追ってきてくれるって思って、あんなことになるなんて思ってなくて」  
頭に思いつくままに沙耶は言葉を紡ぐ。  
その途中でついに堤防が決壊したのか少女の瞳から雫が落ちた。  
1度流れ始めたそれはもはや止まるところを知らず溢れ出す。  
その中で一呼吸の溜めの後、少女は再び口を開いた。  
「だからわたしが死ねば良かったんです。なのにお姉ちゃんだけが」  
聞いているだけで胸が痛くなりそうなほどの自責に満ちた声音だった。  
(この子は強いな……)  
香澄は目の前の少女にそんな感想を覚えていた。  
かつての自分は、今は師と仰ぐ男を責めたてた。  
どうしてもっと早く助けに来てくれなかったのか、と。  
自分でも八つ当たりだとわかっていても止められなかった。  
誰かに責任を転嫁し気持ちをぶつけなければ、心が砕けてしまいそうだった。  
それに比べて、目の前の見るからに儚く弱々しい少女はその矛先を全て自らに向けていた。  
だがそれは極めて危険な行為だった。  
香澄の内心の感嘆と危惧を知ってか知らずか、まるで自分を呪い殺そうとでもするかのように少女は言葉を続ける。  
 
「きっと、お姉ちゃんはわたしのことを恨んでいます。わたしのせいなのに、わたしだけが助かって」  
「それは、違う」  
それまで黙って少女の言葉に耳を傾けていた香澄が、そこで初めて少女の言葉を否定した。  
「今回の件に関して君が責任を感じるのは勝手だ。私がどうこういう問題ではない。だが、お姉さんが君を恨んでいたという事だけは違うを断言できる」  
感情を読み取れない平坦な声だが、それ故に反論を許さないだけの力に満ちていた。  
「どうして……、どうしてそう言いきれるんですか!?」  
普段の、姉以外に対しては内気で人見知りしていたという少女だったら反論することなど思いつきもしなかっただろう。  
姉が自分を恨んでいない。  
それこそが彼女が最も望むことだろうが、それ故に自責の念に駆られる少女にはそれを信じることができないに違いない。  
「これから話すことを信じるかどうかは君が選べばいい」  
香澄はそう前置きして今にも消えてしまいそうな少女に語り始めた。  
「我々が妖魔と呼んでいる存在。彼等は人を食う。  
その方法に関しては君も知っている通り、人間が牛や豚の肉を食べるのとは全く異なる方法だ。  
そして君のお姉さんに関する食事は、私があの部屋に入ったときには既に終わっていた」  
「なら……」  
「ならどうしてあの妖魔は君を食べ始めなかったのか?  
君と同じくらい、いや君よりはるかに幼い子どもでも妖魔は容赦なく食らいつく」  
妖魔の分泌する微薬はそれほどまでに強力だった。  
一瞬香澄の脳裏に夢の光景がよぎる。  
「そして私の知るかぎり妖魔に満腹という概念はない。  
目の前にエサがあれば、それが全てなくなるまで食べつづける。  
彼等はそういう存在だ」  
そこで香澄は残されていた紅茶を喉に流し込んだ。  
「君はお姉さんに守られていたんだ」  
その言葉に少女の全身に震えが走ったのが見て取れた。  
 
「さっきも言ったように彼らの食事は、我々が牛や豚の肉を食べるのとは決定的に違う。  
言ってみれば彼らは人間の心を食らうんだ。  
そして生きたままの心を食らうことで、特に低級の妖魔は食った人間の心に引きずられることがある。  
そして繰り返しになるが、私があの部屋に入ったとき既にお姉さんは完全に食われていた。  
お姉さんは命を失った後も君を守り続けていたんだ。  
もしお姉さんの心に君への恨みがあればそうはいかない。  
君が今生きている、それがお姉さんが君のことを恨んでいなかった何よりの証拠だ」  
香澄の言葉に嘘はない。  
とはいえ普通はそこまで強く妖魔の行動に干渉できるものではない。  
それを成し遂げたのはよほどの強い想いか、それとも香澄ほどではなくとも沙織に何か力があったのか。  
どちらにしろ沙織が妹のことを恨んではいなかったと香澄は確信していた。  
「だけど、でも……」  
それでもやはり沙耶はすぐには受け入れられないらしい。  
そしてそれは香澄も予想していた。  
「ゆっくりと考えていけばいい。とりあえず今日はもう遅いから自分の部屋に戻りなさい」  
沙耶がゆっくりと立ち上がる。  
顔を俯けられたままだ。  
「あの、おやすみなさい……」  
今は色々な思いが頭の中で渦巻いているのだろう、集中していてようやく聞き取れるほどの小さな声。  
「ああ、おやすみ。紅茶、おいしかったよ」  
あんな事があった以上今まで通りとはいかなくても、それを乗り越えて少女がまた笑える日が来ればいい。  
そんな事を思いながら香澄は部屋を出ていくその小さな背中を見送った。  
 
部屋の外から香澄の名を沙耶が呼ぶ。  
4日前、初めて香澄と沙耶が一緒にお茶を飲んで以来、この夜のお茶会は2人の日課になっていた。  
いつものように扉を開けてやると、そこにはティーセット一式を乗せた沙耶が立っている。  
「どうぞ」  
その言葉に誘われて部屋へと入った沙耶は、いつものように紅茶を淹れる準備を始めた。  
この動きも最初の日とは比べ物にならないほどスムーズになっている。  
まだ完全に乗り越えてはいないだろうが、それでも沙耶の纏う空気は4日前に比べはるかに穏やかなものになっていた。  
その変化を香澄は快く思い、  
(やはりこの子は強いな)  
そう感じていた。  
ただ、前日に比べ沙耶の顔にはわずかな翳りがあることも、短い付き合いながら香澄は感じていた。  
そしてその原因に香澄は心当たりがある。  
2人分の紅茶を淹れ終わり、沙耶も席に着いたところでお茶会が始まった。  
沈黙の中で食器同士が触れ合う音だけが部屋に響く。  
この状態は2人の間ではそれほど珍しくはなった。  
住む世界が違いすぎる2人の間にはそれほど共通の話題がない。  
数少ない共通の話題の中でも大半はあまり気分の良いものではない。  
そして香澄も沙耶もそれほど積極的に喋る方ではない以上、ある意味この流れは自然なものだった。  
それでも香澄はこの沈黙に初日のような居心地の悪さを感じてはいなかった。  
そしてそれは目の前の少女も同じだろうと思っていた。  
 
「沙耶」  
それでも今日はこのままでいるわけにもいかない事情があった。  
たぶん沙耶もその話題を待っているだろうとも思う。  
「今日であの屋敷での作業は一通り終わった。これでもうあんなことは起きないはずだ」  
事実を淡々と告げる。  
少女は応えない。  
ただ手に持ったカップの中で琥珀色の水面が小刻みに揺れていた。  
「私は明日この屋敷を出る。短い間だったが世話になったな」  
その言葉に少女の手の震えは水面を見なくても容易に分かるほどになった。  
震える手で沙耶はカップを置く。  
しばらくの沈黙の後、沙耶はゆっくりと顔を上げた。  
その目は何かを決意したように真っ直ぐ香澄の視線を捉える。  
「わたしも、連れていってください」  
真摯な気持ちの込められた、ただの冗談やその場の思いつきではないことがその声音から感じられる。  
だからこそ、香澄はその視線と言葉を正面から受け、  
「駄目だ」  
きっぱりと拒絶していた。  
 
これ以上ないほどはっきりとした拒絶の言葉を聞いても沙耶の心は折れていなかった。  
そもそもすぐに許してもらえるなどとは思っていない。  
「わたし、ちゃんと戦えるようになります。頑張って、香澄さんの足手まといにならないように」  
「無理だ。沙耶には才能がない」  
才能という言葉に一瞬沙耶の心が怯む。  
沙耶にとって全くの未知の世界である以上、自分では才能の有無など見当もつかない。  
「それでも、一生懸命修行すれば……」  
修行の方法などわからないが、目の前の圧倒的なまでの力を持つ女性だって初めからあれほど強かったわけではないと信じたい。  
「無理だと言っている」  
だが香澄の言葉は沙耶のかすかな希望を断ち切らんばかりのものだった。  
普段はあまり感情を表に出さないその顔ではわずかに目が細められ、声も注意しなければ分からないほどではあるがトーンが下がっている。  
言葉の内容よりも、香澄を怒らせてしまったという思いが沙耶の心を挫こうとする。  
それでも1度放った言葉はもうなかったことにはできない。  
沙耶が新たな言葉を紡ごうと息を吸ったその瞬間、  
「いいか」  
その機先を制すように香澄が言った。  
「確かに訓練すれば誰でもある程度は戦えるようになる。だがこれはあくまである程度は、だ」  
念を押すように強められた語尾が沙耶の心に刺さる。  
ただその言葉に沙耶は希望も見付けていた。  
だがその希望を打ち砕くように香澄は言葉を続ける。  
「そこから先に進めるかどうか、これはもうそいつ自身が持って生まれた才能にかかっている」  
 
「普通の人間が妖魔に接する機会は極めて稀だ。沙耶もこのままでいればもう二度とそういう機会は訪れないだろう」  
「でも、わたしは」  
「いいから聞け。退魔師になるってことは妖魔と常に接しながら生きていくという事だ」  
「だから、わたしはその覚悟を……」  
「黙って聞けといっている」  
香澄の目にさらなる力が込められる。  
瞳の中で炎が燃えているかのように錯覚させるほどの視線に沙耶は圧倒され口を噤んだ。  
声を荒げていないからこそ、その迫力は凄まじい。  
「負けたらどうなるか君にも予想がつくだろう? そして実際はその予想よりも酷い」  
姉の無惨の姿が脳裏に蘇り沙耶は身を震わせた。  
そして香澄の自分に対する呼称が以前のものに戻ってしまっていることも沙耶を絶望させる。  
少しでも近づけていたと思っていたのがただの勘違いだと思えてくる。  
「下手に力を高め耐性をもった退魔師が食われる場合、すぐには終わらない。  
何日も何週間も、場合によっては何年も食われつづける事になる。  
死ぬ事すらできず命を吸われ続けるんだ。  
そして退魔師を食った妖魔はそれまでの比ではない力を手に入れる。  
中途半端な力を持った存在は側にいる人だけでなく全ての退魔師の足手まといになり、全ての人間を危険に晒す事になるんだ」  
矢継ぎ早に言葉を繰り出し、そこでようやく止まる。  
沙耶はもう何も言えなかった。  
部屋に入る前自らに課した、香澄が首を縦に振るまで絶対に退かないという誓いはもはやバラバラに砕け散っていた。  
それでも無理に何かを言おうとすれば、代わりに涙が溢れそうだ。  
そもそも今の状態で涙を抑えていられるのが既に奇跡に近かった。  
それは少女に残された最後の意地だった。  
だがそれも限界は近い。  
沙耶は勢いよく立ち上がると、逃げるように、いや実際逃げるために走り出した。  
別れの挨拶もせずただ走る。  
背中に感じる香澄の視線。  
だが結局部屋を出るまで背後から言葉はかけられることはなかった。  
部屋を出て扉を閉めた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出し頬を伝った。  
 
一方で部屋に残された香澄は、沙耶が消えた扉に視線をやりながら長い息をついた。  
(最後の最後で嫌われたか)  
それでもこれで良かったとは思う。  
力と引き換えに他の全てを失った香澄と違い、沙耶には1人減ってしまったとはいえ家族がいる。  
その欠けた1人はかけがえのない存在ではあったけれど、それでも沙耶なら乗り越えていけると香澄は思っていた。  
 
 
翌日、約1週間振りに自分のバイクに跨った香澄はヘルメットの中で小さなため息をついた。  
覚悟していたとはいえ見送りの中に沙耶の姿がないことに一抹の寂しさを覚えていた。  
(自分で突き放しておいてムシが良すぎるか)  
場所だけは聞いて、結局は1度も足を踏み入れる事がなかった沙耶の部屋のまでに視線を向けると  
そこはまるで彼女の視線を遮るようにカーテンが閉められていて中を窺うことはできない。  
もう1度だけ香澄は小さなため息をつくとバイクを発進させた。  
 

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