調度品のほとんど置かれていない西洋風の造りの部屋。  
1つだけある窓からカーテン越しに差し込む夕日が1人の少女を映し出していた。  
年の頃はせいぜい10を過ぎたくらいだろうその少女は、一糸纏わぬ姿で壁に大の字で張り付けられている。  
とはいえ彼女は壁に直接磔になっているわけではない。  
壁から1メートル程の空間をゼリー状の物質が満たし、少女――高槻沙耶――は首から下をその琥珀色のゼリーに埋め込まれているのだった。  
頭だけは外に出ているために呼吸ができなくなることはない。  
だがそれは沙耶にとっては必ずしも幸福なことではなかった。  
実際、このゼリーに囚われて以来何度も死んだほうがマシだと沙耶は思っていた。  
その原因は自分の意思では全く動かせなくなった自身の体ではなく、力なく正面に向けられた沙耶の視線の先にある。  
「ふぁ……あ、もっとぉ……もっとうごいてぇ……」  
部屋の反対側の壁にもゼリーがあり――というより、この部屋の天上、床、壁面全てをゼリーが覆っているのだが――  
そこに沙耶とよく似た、ただし沙耶より数歳は年上だろうと思われる少女が囚われていた。  
沙耶は呆然と、物心付いたときからずっと憧れていた姉――沙織――の初めて見る、そしてできるなら一生見たくはなかった姿を見つめていた。  
 
沙耶と同じように一糸纏わぬ姿で大の字にゼリーに囚われている沙織。  
しかし意思があるのかどうか定かではないそのゼリーは沙織に対し、ただ動けないようにしているだけの沙耶とは明らかに違う態度で接していた。  
琥珀色のゼリーの中で、まだ成長途中ではあるが沙耶とは比べ物にならないほどに女としての柔らかみを帯びた乳房が絶えず形を変える。  
そして無理矢理開かされた足の付け根にある慎ましやかな茂みの下では、本来閉ざされていなくてはならない割れ目が無惨にも押し広げられていた。  
得体の知れない怪物に姉が乳房を捏ねられ、あろうことか神聖な胎内への侵入まで許している。  
それだけでも十分過ぎるほど悪夢のような光景ではあったが、沙耶にとっての最大の悪夢は自分同様唯一ゼリーの外に出ている沙織の顔だった。  
勉強ができる上に誰もが見とれるほどの美貌、そしてなによりいつも優しかった姉。  
天はニ物を与えずという言葉が嘘であることを体現するかのように完璧だったはずの姉。  
しかし今目の前にいる姉の顔にはそのころの面影など全く残っていなかった。  
もちろん顔のパーツそれ自体が変わってしまったわけではない。  
ただ、緩みきった目元には知性の欠片もなく、だらしなく半開きになったままの口からは絶えず泡混じりの唾液と湿った声が漏れ出ていた。  
「だめ、また……きちゃう……もう、おかしく……」  
沙織の体が痙攣し、弛緩する。  
もう何度目かわからないその光景を見た瞬間、沙耶の瞳からは枯れ果てたと思っていた涙が一滴だけ零れ、床のゼリーの上で弾けた。  
 
当然、最初からそんな状態だったわけではない。  
このゼリーに絡めとられ、部屋の両側に離れ離れに磔にされた直後は沙織は沙耶と同じ反応をしていた。  
最初は何が起こったか理解できず呆然とし、だが服が徐々に溶かされつつあることに気付いてからは、本能的な恐怖にとらわれ泣いて許しを乞うた。  
その後、沙織だけが全身をゼリーに蹂躙されることになった。  
この時点では沙耶は怪物の目的を食事だと思っていた。  
この沙耶の勘は不幸にも的中した。  
ただ1つ沙耶の想像と違ったのは、怪物にとっての食事の方法だったが  
その違いはともかく、大好きだった姉が怪物に食べられる、そんな姿を見ていられるはずがなかった。  
そして自らの体で一足先に怪物の食事の方法に察しがついた姉も、涙ながらに見ないでと言った。  
だから沙耶は瞼を閉じ顔を背けた。  
暗闇に閉ざされた視界の中で、姉の恐怖に塗りつぶされた声だけを聞きながらただひたすら神様に祈った。  
姉を助けて欲しいと。  
それさえ叶えられれば自分がどうなってもいいとさえ思った。  
自分にとって理想の存在である姉が汚されるということは、自分自身がどうにかなってしまうよりも辛いことだったのだ。  
 
それから何分、何十分たったかはわからない。  
暗闇の中でただ祈りつづけていた沙耶は、聞こえてくる姉の声にわずかな変化があることを聞き取っていた。  
姉の声としては初めて聞く類の声ではあったが、それが何を意味するのかに沙耶は見当がついてしまった。  
まだ外見的には女性としての成長をほとんどしていない沙耶ではあったが、それでもときおりではあるが夜中ベッドの中で体の疼きを覚えることがあった。  
ほんのわずかな、簡単に見落としてしまいそうな感覚。  
しかし一度意識してしまうとどうしても振り払うことができないそれは沙耶を悩ませた。  
そんな時、パジャマの上から胸や股間をそっと撫でるとそれを鎮めることができることを知った。  
その行為の最中、体の中心を痺れるような感覚が掛け抜けていく瞬間にひとりでに漏れてしまう声。  
沙耶は今聞こえてきている姉の声の中に、それに似たものが混ざりつつあることに気付いてしまった。  
だが、なぜ姉がこの状況でそんな声を出すのかがわからない。  
沙耶の体を拘束しているゼリーは確かに服を溶かされてしまったせいで胸や股間にも直接触れている。  
そしてそのゼリーではときおり流れが生まれ肌の上をゼリーが滑っていく感触があった。  
しかしそこからはおぞましさと恐怖しか生まれない。  
少なくとも沙耶にとってはそれは間違いなかった。  
暗闇の中で不安だけが大きくなっていく。  
そしてその間にも姉の声はどんどん色を変えていく。  
結局不安に耐えきれなくなり恐る恐る目を開けた沙耶の前に、もはや数時間前までの姉は存在していなかった。  
 
神様などという存在が本当にいるのかはわからない。  
そして仮にいたとしても沙耶の願いを叶えてくれたのかはわからない。  
だが、もし神様などというものが本当にいて、沙耶の望みを叶えてくれたのだとしたらそれは最悪の形でだった。  
姉の顔にも声にも、既に恐怖や苦痛の色はなかった。  
そこにはただ与えられる快楽を貪ろうとするだけの1匹の牝がいるだけだった。  
がむしゃらに振りまわされる頭を追いかけるように広がる長く艶やかな黒髪。  
それは沙耶にとって憧れの象徴であり、沙耶も真似をして髪を伸ばしていた。  
その黒髪が鞭のように周囲のゼリーを打ちつける。  
それは本人もその髪を誇りにし、毎日長い時間をかけて大事に手入れをしていた姿からは想像もできない姿だった。  
変わり果てた姉の姿を呆然と見ているうちに沙耶は再び姉の声が変化しつつあるのに気付いた。  
甘い、粘るような声音からスタッカートを効かせた短く弾むような声へ。  
追い詰められていくかのようなその声はやがて最高潮を迎えた。  
 
薄暗い部屋、周囲を琥珀色のゼリーに埋め尽くされた中で、天上を見上げるように反らされた白い喉が沙耶の目に焼き付いた。  
一瞬の後に沙織の体から全ての力が抜ける。  
性の知識が乏しく、ままごとめいた幼稚な自慰しか知らない沙耶はそれが果てるというものだとは知らなかった。  
それ故沙耶は姉が死んでしまったのだと思った。  
現実味を伴わない喪失感の中で沙耶はこれからのことを考える。  
ここまでくれば怪物が何を望んでいるのか子どもでもわかる。  
沙耶はこれまで放置されていた。  
それは沙織という沙耶とは比べ物にならないほど上質なエサ――怪物がどうやってそれを見分けているかはわからないが――があったからだ。  
目の前に熟した果実と、まだ見るからに未熟で固そうな果実があったらどちらを食べるかなど悩むまでもない。  
だが、熟した果実の方を食べ終えてしまったらどうだろう。  
一度甘くて美味しいものを食べてしまったら、もう固くて酸味が強すぎるものになど見向きもしないかもしれない。  
それとも、甘くて美味しいものがなくなってしまったのだから、仕方なくでも未熟な果実に食いつくのだろうか。  
どちらにしろ、自分には始めから選択権など持たされていない。  
この部屋に入ってしまった時点で全ては自分の手から離れてしまっているという諦めの気持ちだけが込みあがってきた。  
だが、その考えは再び姉の口から漏れ始めた嬌声で打ち消される。  
耳を塞ぎたくても手は動かない。  
目を閉じることはできるが、そうやって目からの情報を断ってもその分耳からの情報が強調されて頭の中で響き渡る。  
姉の生存を知らせるその声は、まだ悪夢が終わっていなかったことを沙耶に改めて思い知らせることとなった。  
 
 
いつしか窓から差し込む夕日も力を失い、ほのかな月明りだけが部屋の中を照らし出していた。  
しばらく前から沙織は全く反応を返さなくなっていた。  
沙織の体に対するゼリーの責めは変わることなく続いているが、頭は力なく俯けたままで動きを見せなくなっていた。  
ときおり漏れていたかすかな声も聞こえなくなり、見た目だけでは生きているかどうか定かではない。  
一方で沙耶はいまだに拘束されたままで肉体的な責めには晒されていないものの、目の前で終わることなく続けられる惨劇は少女の精神を確実に削り取っていた。  
その瞳から意思の光が失われて久しく、今はただその視線こそ姉のほうに向けてはいるが、そこに映る光景を認識しているかどうか甚だ疑問な状態である。  
 
と、そこに新たな音が生まれた。  
焼けた鉄板に生肉を押しつけたときのような音。  
沙耶がのろのろと音のした方へと顔を向ける。  
それは何かの考えての行動ではなく、ただ条件反射で行われたものだった。  
虚ろな沙耶の視線の先、そこには視覚的な変化も起こっていた。  
姉妹が半日ほど前に、その後待ちうける運命も知らずに通り抜けたドア。  
気付いた時には既にゼリーによって覆われていたはずのそれと、その周囲から綺麗にゼリーが消えていた。  
部屋の中でわずかに生じた変化によって、沙耶に紙一枚ほどのものではあるが理性が戻ってくる。  
もう2度と開かないだろうと思われていたドアが、ゆっくりと開きつつあった。  
 
ドアの先には1人の女性がいた。  
女性としてはかなり長身の部類に入るだろうその背丈と、短く切りそろえられた髪から沙耶は最初その人物を男性だと思った。  
加えて、薄闇の中でもはっきりとわかるほどの力強さを持った視線がその人物の性別をわかりにくくしていた。  
だが視線を少し下ろしてみれば、そこにある立派過ぎるほどの隆起がその人物の性別をこれ以上ないほど強く主張していた。  
その女性は一度部屋の両側に磔にされている姉妹の間で視線を往復させると、沙耶の方へ無造作に1歩足を踏み出した。  
沙耶の耳がさきほども聞いた音を捉える。  
それと同時に、女性の前にあったゼリーが道を開けるように1歩分だけ消滅していた。  
よく見ればゼリーが消えた部分からはわずかに白い煙が生まれ、部屋の中にかすかに酸味のある匂いが漂い始めていた。  
女性は床一面を覆い尽くすゼリーなど見えていないかのように歩きつづける。  
それに合わせて女性の周囲数十センチの空間にあるゼリーが一瞬で蒸発していく。  
怪物も不意の侵入者を敵とみなしたのか、天上や壁のゼリーの1部が盛り上がり歩みを止めない女性に向かって一斉にその手を伸ばした。  
四方八方から降り注ぐそれに対し女性は一切反応をしない。  
実際、目にも止まらぬ速度で打ち出された琥珀色の槍の内、その穂先を目標にまで到達させることができたものは皆無だった。  
太陽に向け飛び立ったイカロスの翼の如く、一定距離まで近づくとその全てが蒸発してしまう。  
沙耶はその圧倒的なまでの姿に死神を連想していた。  
黒で統一された服装がそのイメージを加速させる。  
程なくして女性はあと一歩踏み出せば沙耶に手が届くほどの距離に到達していた。  
女性が足を止める様子はない。  
 
沙耶は反射的に目を閉じていた。  
恐怖からではない。  
それはただの反射。  
次の瞬間には自分も気体となって部屋に漂うことになるのだろう。  
それでもこの地獄から開放されるなら死神の手だって喜んで取った。  
すぐ側でもう聞きなれた音が生まれ、直後に全身を包む解放感。  
肉体から解き放たれるというのはこんな感じなのかと頭の片隅で妙に冷静に受け止めていた。  
「大丈夫か」  
頭のすぐ上からかけられた声で我に返った。  
少し低めの、感情を読み取れない平坦な声。  
それでも沙耶の意識を引き戻すには十分だった。  
気がついてみれば、足の先には2度と感じることはできないと思っていた堅い床の感触。  
脇の下から背中にまで回された腕が力強く支えてくれている。  
ゆっくりと目を開けた沙耶の目の前に息を呑むほどの美貌があった。  
姉の全てを包み込むような柔らかさを持った美しさとは違う、いかなるものを前にしても屈することはないだろう意志の力に満ちた美。  
その美しさに見とれているうちに沙耶は床に横たえられていた。  
そこでようやく助けてもらったということに考えが至る。  
「……ぁ……」  
言葉を紡ごうとして、だがまるで何年も声を出していなかったように喉が貼りついて上手く声が出ない。  
「無理に喋ろうとするな。少し寝ているといい」  
目の前に手をかざされると意識が急速に遠のいていく。  
その中で沙耶は無理矢理言葉を紡ぐ。  
「おね……ちゃんを……けて」  
きちんと伝わったかはわからない。  
それでも全身の力をかきあつめてなんとかその言葉だけを絞り出した。  
わずかな間の後、  
「あの子は……もう無理だ」  
かろうじて意識を繋いでいた最後の糸が切れる直前、あいかわらず平坦な、だがどこか沈んだ声が聞こえた。  
 

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