「命を狙われている、と?」  
「……はい、そうなんです」  
 私の問いに、目の前の若い男は弱々しく頷いた。  
 
 会社の最上階、社長室のソファーに探偵として座る。  
 対面するソファーに座る依頼主は、フィットネスクラブを立ち上げ、たった一代で全国規模にチェーン展開したやり手社長……の息子。  
 父親の唐突な病死により、突然の交代を余儀なくされた、まだトップの座について一年も立っていない若社長である。  
 二十代前半という年齢の上に、父親に過保護に育てられたために性格は臆病者。その優しい顔立ちからはカリスマの一片も感じない。  
 重要案件はすべて周りの重役が処理し、本人はそれにハンコを押すだけ、そのことに疑問すら持っていないダメ社長である。  
(前評判はそんな感じだけど、聞いた通りだな)  
 できる限り圧力をかけるように全身を見回せば、すぐに怯えた表情をする。  
 会話途中で両腕を組んで、胸を持ち上げるように見せつければ、顔を赤らめ目をそらす。  
 接近すれば、遠ざかり距離を保とうとする。  
(どんな小動物だ……好物だが)  
 表情はできる限りクールを装いながら、内心で舌なめずりした。  
 
 話を元に戻す。  
「命を狙われている……具体的にどのような状況から、そうお思いに?」  
 下手に刺激すると仕事にならないので、今は探偵業に集中することにする。  
「ええ、とですね」  
 社長はポケットから手帳を取り出し、開いた。  
「……感じたのは十日前からですね、その日は出勤のために車に乗ったのですがブレーキが利かず壁にぶつかりました。幸いかすり傷で済んだのですが。  
 九日前には出勤のために電車に乗ろうとした駅の階段で誰かに押されました、結構長い階段で朝早くもあり人もいなかったのですが運よく五段ほどで止まったのでけがはありません、逃げる男の後ろ姿を見ました。  
 八日前、この日からうちの部下を一人ボディガードとして僕のそばに置くことにしたのです。朝出勤時から家に帰るまでの間に、すると一旦はなりをひそめました。  
 しかし三日前、僕も数日間に何もなかったせいで気が緩んでいたからですが、人もつけずに買い物へと出かけました。  
 朝でもそれなりに人がいたので平気だと思ったのですが、道路に出た瞬間バイクが突っ込んできて、避けはしたのですが足をくじきました。バイクはそのまま過ぎ去って行きました」  
 私は少し沈黙した。  
(狙われているのは確実か)  
「わかりました」  
 私は冷静な口調で、ゆっくりと言う。  
「これから事件について質問をしていきます。質問の意図を考えず、できるだけ簡潔に思ったことをお答えください。答えたくないことは答えなくて結構ですから」  
 最後の一言は安心させるため。こうでも言わないと高圧的過ぎるから。のちのために圧力をかけておかないといけないのだが、萎縮しすぎても困る。  
「は、はい」  
 
「三日前が最後で、その日から今日まで何か起きましたか?」  
「……いえ、特には」  
「バイクの番号は見ましたか? それを警察には?」  
「一瞬のことだったので見ていません。警察には言ってません」  
「なぜ警察に相談を?」  
「僕なんかのために警察が動いたら、会社にダメージが出ますよ。『社長は命を狙われるようなことをした』『物騒なところ』なんて噂がたつ可能性もあります」  
「記憶があるということは、それ以前から命を狙われている可能性もあったのですか?」  
「手帳には、書いてませんから、なかったと思います」  
「命を狙われることに心当たりはありますか?」  
「……ないと思いますが、もしかしたら覚えていないだけで誰かに失礼をしたかもしれません。……それに一応は社長ですから」  
「ボディガードとは部屋の前のガタイの良い黒スーツの人ですよね、今の話から家に入れてないようですが、家の安全は?」  
「ああ、はい。八日前から夜は警備員を雇っています、防犯ブザーもありますのでそう家には侵入されないかと……」  
「探偵を雇ったということは、どれだけの人がご存じですか?」  
「幹部の人たち数人と妻、あとボディガードには伝えています」  
「……どうして私を探偵役として選んだんですか?」  
「探偵を雇うことを二日前、幹部の集まりで言ったのです。そしたら昨日、あなたがいいとお勧めされまして……」  
(事前調査では顔見知りはいなかったから、私の体目的で推薦したのか? 別にいいけど)  
 
 ここまでは答えやすくするための特に意味のない質問。必要なのはこれから。  
「とりあえず質問はここまでにして、調査は明日からということで」  
「……そのことなんですが、探偵さん。できれば事を大きくしたくないので……その…」  
「わかりました、探偵ということは伏せておきます。この会社の社員として装い、マーケティング調査等の理由を付けて調べます。  
 ので、この会社の規則や服装の規定、その他に関する資料を後日にでも渡してください。また調査対象は事前に連絡しますので事前の取り計らいをお願いします。  
 調査結果は、この部屋でそちらの時間の都合がつき次第、できうる限り毎日とさせていただきます。その時は口頭での説明となりますがよろしいでしょうか?」  
「は、はい、それでお願いします」  
 たぶん、どんなリスクがあるのかよくわかってないであろう答え方をする社長。  
 私はさきほどまでの冷徹さ、探偵としての事務的な応答の表情を消し、できる限り柔らかい空気にする。  
 そうすることで社長の緊張をほどき軽くさせる。もちろん、口に。  
「一つよろしいでしょうか?」  
「はい、なんでしょうか探偵さん?」  
「ええ、実はこちらの話なんですが、以前に別の事件を担当した時にですが、その依頼主の奥さんに浮気相手と勘違いされて、情報公開の折に密会現場と勘違いされて踏み込まれた事があるんですよ」  
 くだらない話として、軽い口調で話す私。  
「探偵だということは説明したのですが、なかなか聞き入れてくれなくて。あの時はかなり難儀しました」  
「はあ」  
「ですから、できるならば一度面通しさせて頂けませんか? 写真や資料では信じてもらえない可能性もありますし」  
 軽く笑みを浮かべ、困った様相を私は見せる。  
「話は届いているのですから……できればでいいのですが」  
 社長は笑って、私に言った。  
「実はですね、妻に探偵を雇うなら会ってみたいって言われてまして三十分後に来るんですよ」  
「そうなんですか?」  
「いやあ、本当は先生が駄目だというなら帰らせようと思ったのですが、承諾を取る必要がなくなって良かった」  
「いえ、私もありがたいです」  
 私は談話もどきの質問をする。  
「そういえば聞き忘れていました、休日はどんな御予定で? 場合によっては事後報告も遅れますか?」  
「妻とどこかに出かけるのが日課ですが、こんな状況なのですべてキャンセルです。できる限り家にいますよ」  
 若社長は手帳を見る、私はそれを注視する。  
「……いい手帳ですね」  
「え?」  
「いえ、実はですね。私は職業柄、手帳をよく使うのですが、それが高じて極度の手帳マニアなんですよ」  
「そうなんですか」  
「ええ、家には万を超える冊数を保管してあります」  
「それは……すごいですね」  
「必要ですからね。ですが書いてあることは過去のことばかり、社長ともなれば予定も書かなければならないでしょう」  
「それは、まあ」  
「花に水をやる予定や、挨拶をする予定、買物で何をどこで買うかという予定などを」  
「いやいや、そこまではしませんよ」  
 社長はあわてて手を横に振る。  
「花のことなんていちいち、買物で何を買う予定かは書きますけれど」  
「よくテレビなどで、被害者の手帳から捜査をされていますが、正直、私は殺されたって見られたくない」  
 私は少し、テンション高めに言い続ける。  
「プライバシーの問題もあるので、私は誰にも見せませんが。やはりあなたも誰にも見せたりせず肌身離さず持っていますよね?  
「それは、当然ですよ。肌身離さず持っています」  
(肌身離さず、ね)  
 
「すみません、手帳の話をすると少し、興奮してしまって…」  
 私は落ち込んだ顔で、謝罪する。  
「別に、気にすることでもないと……あ、妻が来たみたいです」  
 立ち上がる社長、私も立ち上がり客を迎えることとする。  
 
(正直、手帳なんて二枚ぐらいしか持ってない。古いの捨てるし)  
 
 
「はじめまして、私がこの人の妻です」  
「こちらこそはじめまして」  
 私は立ち上がり、入ってきた女性に商業スマイルと挨拶をする。  
 見たところはそれなりの美人、社長と釣り合うほどの若さ、対人用の装われた笑み。  
 セレブの若妻を彷彿とさせる。  
「これから数日ほど、いくらか迷惑をかけるかもしれませんが、できうる限りは事前連絡をしますので」  
「ええ、夫の安全を守られるなら迷惑なんて感じません。早く犯人を見つけてくださいね」  
 お互いに社交辞令的な笑顔を見せあう。  
「それより、あなた? このあと、仕事があるんじゃないの?」  
「え? ああ、そうだった。というわけで探偵さん、明日からよろしくお願いします」  
 
 私は外まで付いていき、社長が出入り口まで迎えに来ていた車に乗って出ていくのを見送った。  
「運転手が車についているなら、細工をする暇がないな」  
 出入り口の壁に寄り添い、煙草を口にくわえ火をつける。煙を空へと噴き出した。  
「あら、探偵さん。いらしたのですか?」  
 社長妻が私に気づいて近寄ってくる。  
「もう帰られたのかと……もしよろしければ一緒にどうですか? これから食事なんですが」  
 私は煙草を手に持ち、答える。  
「いえ、今から帰ってやることがありますので」  
「そうですか、それは残念ね。それじゃあ、さようなら」  
 最後まで張り付いた笑顔を見せ、社長妻はすぐ近くの駐車場へと行き、車に乗ってそのまま過ぎ去っていった。  
 
「自分の夫が車にまで細工されて命を狙われているのに、自分はただ止めてある車に当たり前に乗り単独行動か」  
 私はビル内の全館禁煙の文字を忌々しげに見たあと、たばこを吸いながら止めてある自分のバイクへと向かった。  
 
 
 次の日、私は社長に連絡をした後、県内のスポーツジムを見て回る事となる。  
 表上の仕事内容は『宣伝広告であるインターネットに表記するための、スポーツジムに初めて来たときの印象』。  
 それのモニターとして新人社員の私が抜擢されたと。そういうのは普通、一般人から選ばない?  
 あちら側の提案は良いものではなかったが、ただの餌撒きなので断る必要はない。  
 
 正直なところ、スポーツジムとかは初めてではない。  
 男漁りに何度か行っている。そんなことで顔を覚えられるとは思わないけれど。  
「念の為の変装」  
 少し強めの化粧をし、度の無いだて眼鏡をかける。服装も女性用、膝まで長いタイトなスカート。  
「うわあ、人間、化けるものですね。いつもは仕事帰りの男装高級娼婦って感じなのに、今は裏で重役といろいろやってる美人秘書って感じです」  
「あんたの例も理解に苦しむな」  
 常時はそんな風に見えてるのか? 私としては冷徹な空気をまとってる気がしていたのだが。  
「『もう仕事は終わったから声掛けるな』でした」  
 あっそ。   
「でも先生はやっぱり美人ですね。僕は化粧なんて似合わないし、先生なんてほど遠い」  
「主食は男って言えるようになれば、私みたいになれるぞ」  
「一生、たどり着けないみたいです」  
 
   

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