わたしは古びた館の前に立っていた。  
見た目は昨日見た時から変わっていない。  
けれどその建物が纏う雰囲気とでもいうべきものはたった1日で驚くほど様変わりしていた。  
世界には目に見えないエネルギーの流れのようなものがあるらしい。  
それは常に循環して世界そのものを支えている。  
だけどごく稀にその流れが滞るところが生まれ、そこで澱んだ力は水が腐るように変質し逆に世界とそこに住む全ての生命に対して牙を剥く。  
それが、妖魔と呼ばれるもの。  
6年という時間をかけて、わたしはその、それまで自分が住んでいた世界とは異なる世界について学んだ。  
もちろん先生がついて懇切丁寧に教えてくれたわけではないし、まだ二十歳にもなっていないわたしが調べられる範囲には限りがあったのだけど。  
それでもわたしは自分にできる範囲で調べつづけた。  
その中で見つけた希望、それがこの館だった。  
わたし――高槻沙耶が住む屋敷の裏手にある古びた洋館。  
周囲の地形の関係なのか力の流れが滞るポイント、そんな物騒極まりない場所に立てられたこの館こそが今のわたしにとっては地獄に垂らされた1本の蜘蛛の糸。  
昨日までは重ねた年月の長さから来る威圧感のようなものこそあったものの普通の建物だった。  
それはある人が結界を張り力の澱みを散らしていたから。  
でもその結界はもう存在しない。  
破ったのは他ならぬわたしなのだから、こうなることは十分に予想できていた。  
建物全体から放たれる生臭さを伴った冷気のような何か。  
昨日の、まだ正常だった館を前にしてさえ震えを抑えきれなかったわたしにとっては、今ここに立っているだけでも気力を振り絞っていなければならなかった。  
今すぐこの館に背を向けて逃げ出したい。  
その思いが振り払っても振り払っても頭の奥から沸いてくる。  
だけど逃げるわけにはいかなかった。  
わたしはこれからこの館の中へ入らないといけないんだから。  
 
この中に入る。  
そう思っただけで胃が締め付けられる。  
それでも意を決してわたしは1歩踏み出した。  
たった1歩。  
わずか数十センチの距離にもかかわらず、体に叩き付けられる妖気とでもいうべきものが何倍にも膨れ上がったような気がした。  
「ひっ……!」  
胃に感じていた圧迫感が強くなり、わたしは思わず屈みこんだ。  
地面に手をついて、体の中にあるもの全てを絞り出すようにえずく。  
これから自分がする事を考えると食欲なんて起きるはずもなく、朝から何も口にしていないのが不幸中の幸いだった。  
最初の何回かは少量の胃液と唾液の混ざったものが乾いた地面に染みを作ったけれど、それ以降は何も出てこない。  
それでも吐き気自体が消えてなくなるわけでもなく、何度も何度も空えずきを繰り返した。  
「……!?」  
不意に、誰かが優しく背中をさすってくれたように感じた。  
一瞬だけ気持ちが軽くなった気がする。  
でもそれは錯覚。  
ここにはわたししかいないのだからそれも当然だった。  
ずっと昔、まだわたしが小学校に上がったばかりの頃の事を思い出す。  
あの時、酷い風邪を引いて猛烈な吐き気に襲われたわたしの側にはお姉ちゃんがいて、わたしが落ちつくまでずっと背中をさすってくれていた。  
だけどそのお姉ちゃんはもういない。  
今わたしの前にある館の中で帰らぬ人となった。  
最期の瞬間までわたしを、文字通り命がけで守って。  
目元に込み上げる熱を感じた直後、それまであったものとは別の染みが地面に幾つか生まれた。  
その雫の原因はえずきによる肉体的な刺激や館に感じる恐怖だけじゃない。  
まだ中に入ってすらいないのに、こんな状態になっていること悔しかった。  
手も足も、体全体が滑稽なほど震えている。  
「こんなんじゃ……駄目」  
地面についていた手の平を握り締める。  
手の中に感じるザラザラとしたした砂の感触。  
震える膝を押さえ付けるようにして立ち上がり、今度こそわたしは館に向けて歩き出した。  
 
6年間固く閉ざされていた扉を開き、玄関ホールを抜ける。  
階段を上がり1番手前にある部屋がわたしの目的の場所だった。  
お姉ちゃんを失い、そしてあの人に出会った場所。  
わたしの家が一地方のものとはいえ、それなりの土地やお金、権力を持つ事ができた理由の中枢とも言える場所。  
高槻の家に生まれた女は特別な力を持っていた。  
本来妖魔と人間の関係は、一方的な狩る者と狩られるものの関係だった。  
だけど6年前わたしを助けてくれたあの人のように、人間の中にも稀に妖魔を撃退できるだけの力を持った人もいて退魔師として力を持たない人々のために戦っている。  
わたし自身6年前の出来事の後で初めて知ったのだけど、高槻の家もかつては退魔を生業とする家だったらしい。  
ただ高槻の女が持つのは直接戦うためのものではなかった。  
妖魔と身体を重ね、本来ならば一方的に取り込まれるはずのところを逆転させ人の側が妖魔を取り込む。  
そして正しく毒をもって毒を制すの言葉通り、自らの内に取り込んだ妖魔の力を制御して戦いにあたるというものだった。  
高槻という名も、かつて一族の者が取り込んだ妖魔の力を使い、鷹のように自由に空を舞い、鷹のような激しさをもって妖魔を追い詰めていた姿からきた鷹憑きが由来していると屋敷にある古い書物にはあった。  
ずっと昔から、この洋館が建てられる前はまた別の建物の一室として存在し、高槻の家に生まれた女が成人の儀と呼ばれる儀式を行った部屋。  
それに成功した者だけが1人前として一族に迎えられたのだ。  
だけど高槻が現在退魔から手を引いているのは、長い年月の中で血が薄れたのか成人の儀に失敗することが多くなったからだった。  
だからわたしにその力が受け継がれているのかはわからない。  
それでもわたしは今、この部屋の前に立っていた。  
扉から感じる威圧感は玄関の比ではない。  
けれど逆にあまりにも強すぎる刺激に感覚が麻痺してしまったのか、いつしか震えは治まっていた。  
この部屋の中で起きたことは昨日のように鮮明に思い出せるのに、それがどこか他人の記憶を覗いているかのように現実味がない。  
 
部屋に足を踏み入れ厚く積もった埃を拭うと、床には薄い凹みがあった。  
その溝は部屋中に張り巡らされ、2重の円とその内部に複雑な模様を描き出している。  
それが屋敷で見つけた古びた書物にあったものと同じものであることを確認して、わたしは大きく息を吐いた。  
服を1枚ずつ脱ぎ脇に置く。  
誰も見ていないとはいえ、お風呂や自分の部屋以外で裸になることに気恥ずかしさを感じると同時に、もう1度この服に袖を通せるのかという不安が込み上げてきた。  
「……だいじょうぶ、きっと」  
成功する確率が決して高くないことは自分が1番よく知っている。  
それでも自分に言い聞かせるようにそう呟いた。  
「次は血を……」  
何度も確認した手順を思い返す。  
必要なのは高槻の女の血液。  
「……っ!」  
屋敷から持ってきたカッターを指に当てて一息にスライドさせる。  
指先に生まれた一筋の切り傷。  
自分では思い切り引いたつもりだったのに、その傷口は傷と呼ぶには随分と小さくて自分でも少しだけおかしくなるのと同時に、もう1度繰り返さなければいけないのかと不安になる。  
それでも少し待つと傷口の上に紅い珠が生まれ、一応は目的は果たせそうでほっとした。  
傷口を押し付けるように床にある溝に指を当てると、まるで急な傾斜でもあるかのように血液が溝に沿って滑り出した。  
それが全体に行き渡るのを見届けてから立ち上がる。  
「最後は……」  
1つ深呼吸をして、これもまた古びた書物にあった呪文を唱える。  
そらで言えるように何度も何度も練習したその言葉は流れるように喉を通り抜けていった。  
呪文の効果はすぐに発揮され、館中の妖気が目の前に凝縮されていくのが肌で感じられる。  
その妖気はほどなくして目に見える形に実体化した。  
 
それは一見したところチューリップの蕾のような外見をしていた。  
葉も茎もなく直接床の上に置かれているそれは、蕾の部分だけで1メートルほどの高さがある。  
色は赤黒く、腐った肉のようなその色にふさわしい異臭が漂ってきた。  
「ひぁっ!?」  
魅入られたようにその蕾を見つめていたわたしの目の前で突然何かが弾けた。  
濡れた雑巾を床に叩きつけたような湿った音が部屋に響き渡る。  
一拍遅れて何が起きたのかがわかった。  
蕾と床の隙間から肉色の蔓がわたしに向けて一直線に伸びている。  
それがわたしの2メートルほど前で見えない壁にぶつかったように先端が弾けていたのだ。  
床に描かれた模様には幾つかの役目があると本に書いてあった。  
内側の円とその中の複雑な模様は屋敷の妖気を集め、それをエサに妖魔を実体化させるためのもの。  
そして外側の円は実体化した妖魔が外へと出てこれないように不可視の壁を作り出すためのものらしい。  
どうやらその機能はどちらも完全に発揮されているようだった。  
理性では円の外が安全であることを認識しながら、それでも妖魔が自分に対してその手を伸ばしたという事実に一瞬頭の中が真っ白になる。  
不意に見えているもの全てが上にスライドした。  
お尻を打ちつけた痛みに自分が座り込んでいることをようやく自覚する。  
「ぁ……はっ……」  
妖魔は何度も何度もこちらに向けて蔓を伸ばし、その度に湿った破裂音だけを残して弾かれていく。  
どれくらいそのままでいたのか、ようやく我に返り立ち上がろうとした。  
けれど完全に腰が抜けてしまっているのか、少しだけ腰を浮かせたところでまた崩れ落ちてしまう。  
パシャリという水音とお尻全体に広がる生温かさ、そして部屋中に立ち込める腐敗臭の中にかすかに混ざるアンモニア臭。  
「……ぇ? あ……ぁ……」  
いつのまにか床には恥ずかしい水溜りができていた。  
「や、やだ……」  
慌てて立ち上がろうとしても水面にチャプチャプと波を立てるだけで一向に腰は上がってくれない。  
仕方なくわたしは赤ちゃんのように四つん這いで前に進み出した。  
遅々とした進みと、自分が通った後にできる濡れた跡が、まるで自分が巨大なナメクジになったように錯覚させる。  
 
それでも、そんな遅々とした進みでもやがて見えない壁に手を伸ばせば届く場所まで辿り着いた。  
今も妖魔は諦めることなく蔓を伸ばしては弾かれている。  
この壁こそが、わたしがわたしの意思で越えなくてはならない最後の壁だった。  
これを越えればあとはもう後戻りできず、全てが上手くいって人のままでいられるか、それとも妖魔に取り込まれて命を失うかのどちらかへ強制的に送られてしまう。  
逆に言えばここさえ越えなければまだ後戻りはできる。  
このまま待っていれば、この外側の円がもう1つの機能を発揮する。  
妖魔を逃がさないためのこの外側の円は、成人の儀に失敗して妖魔に取り込まれた場合の後始末もその役目として持たされていた。  
起動してからちょうど24時間後、この不可視の障壁はその機能を保ったままで中心に向けて収束していく。  
もしその時、中にいるのが妖魔を取り込んだ人ではなく、人を取り込んだ妖魔であったならば檻に閉じ込められたままプレス機にかけられたように押し潰され殺されるはずだった。  
だからこのままこの壁さえ越えなければ日常に、今までずっとその中で生きてきた世界に留まれる。  
日常。  
あの人のいない、日常。  
「そんなのは……いや!」  
恐怖を振り払うようにそう言って腕を振り上げる。  
もう迷わないように固く拳を握り締め、見えない壁を殴りつけるように突き出した。  
妖魔の蔓を一切通さなかったその壁も人間には効果がない。  
わたしの拳は何の抵抗も受けずにその壁を越え――、  
「あぐっ!」  
拳全体を包み込むが湿った何かを感じた直後、肩に激痛が走った。  
腕を引っ張られていると認識する余裕もないまま、エレベーターに乗った時の感じを何十倍もしたような加速感に一瞬意識が遠くなる。  
我に返ったときには、わたしの身体は宙吊りになっていた。  
いつのまにかもう片方の手も蔓に絡め取られ、万歳をするような姿勢で蕾の真上に吊られている。  
 
上から見るとその妖魔は本当に花の蕾のようだった。  
その固く閉じた花弁がビデオの早送り映像のように見る見るうちに開いていく。  
中では粘液が分泌されているのか、お互いに離れていく花弁の間に透明な橋が幾筋もかかっているのが見て取れた。  
完全に花弁が開ききり、その内側が1枚1枚はっきり見えたところでわたしは息を呑んだ。  
その花弁の内側には数え切れないほどの瘤が並んでいる。  
小さいものは私の指先ほどで、大きいものはわたしの握り拳より大きいくらい。  
そんな不揃いの瘤が花弁の内側一面にびっしりと並び、風もないのにざわざわと蠢いてた。  
「あ……や……」  
さっき全部出してしまったと思っていた液体が意思に反してまた溢れだし、内股を流れ足の先から滴り落ちた。  
それが肉花の中心に落ちると瘤のざわめきが目に見えて大きくなる。  
それどころかその土台である花弁までもが震えているように見えた。  
次の瞬間、さっきまで何度も部屋に響いていたものと似た音に鼓膜が震え、宙吊りにされている身体がブランコのように揺れた。  
その異変の後を追うようにお尻のあたりがジンジンと熱を持ち疼きはじめる。  
「な、なに……?」  
首を捻ると、いつのまにか背後には手に絡みついている物とは別の蔓が伸びてきていた。  
その蔓は1度わたしの身体から離れていったかと思うと、反動をつけてこちらに向けて振り下ろされる。  
再び響く湿った破裂音。  
「いたっ! や、やめ……」  
その行為を目で見ていたせいか今度はすぐに痛みを感じた。  
肌が裂けるような痛みと、そこから少し間を置いて身体の奥から滲み出してくるような熱と疼き。  
粗相をしてしまったわたしに罰を与えるように、蔓は繰り返しわたしを打ちつける。  
「やめ、て……ごめ、ごめんなさい……もう、しませんからぁ」  
避ける事はおろか、手が使えずまともに防御もできない。  
わたしはなすがままにその鞭打ちを受けて、空中で身悶えすることしかできなかった。  
最初はお尻に集中していたそれは徐々にその目標範囲を広くしていく。  
太股やふくらはぎ、お腹や背中にも数え切れないほど振り下ろされる妖魔の蔓。  
最初はまだら模様だった打たれた跡の赤みが、見る見るうちに面積を広げていった。  
 
しばらくしてようやく怒りが治まったのか、鞭打ちは突然終わりを告げる。  
その頃にはもう下半身で打たれていない場所を探す方が困難になっていた。  
下腹部にある女の部分だけは唯一鞭打ちを免れていたものの、それはこれからこの妖魔がそこを使うために傷付けないようにしているだけだと思うと到底喜べることではない。  
そして今度こそそこを使う気になったのか、宙吊りにされたわたしの身体がゆっくりと下がり始めた。  
指先までジンジンと痺れる足の先が肉花の中心に届くまでにそう長くはかからなかった。  
指先が揺れた瞬間、虎ばさみのように全ての花弁が一斉に閉じる。  
肉の弾力と温かさ、そしてぬめりを持った花弁に一瞬で胸の下あたりまでを完全に包み込まれていた。  
「や、きもち、わるい……」  
閉じた花弁は咀嚼するように全体が波打ち、その中では瘤の1つ1つが細かく振動している。  
「はっ……や……なんで、これ」  
下半身の筋肉全てを揉み解すマッサージのような刺激を受けて、私はさっきの鞭打ちが粗相をしたことへの罰ではなかったことを知った。  
ぬめりを纏い細かく振動する瘤を押し付けられると、皮膚の表面まで上がってきていた熱と疼きが掻き混ぜられ不思議な感覚へと作り変えられる。  
特に念入りに打たれたお尻のあたりから生まれるその感覚は強力だった。  
「はっ……ふぅ……こ、こんな……」  
鼻から抜けていくような声が自然と漏れてしまう。  
6年前、ゼリーに飲み込まれたお姉ちゃんが漏らしていたものと酷似した声音。  
一方で鞭打ちから免れていた場所からの感覚も、他のどの場所と比較しても負けないほど鮮烈なものだった。  
じわりと染み込んでくるような他の場所とは違い、一定の間隔で電気を流されているようなピリピリとした刺激。  
くすぐったさに似て、それでいてそれとは全く異なる感覚は、自分でも認めたくないことだけど性感と呼ばれるものだということが自分でもわかってしまう。  
自分でする時とは比べ物にならないほどの快感をむりやり送り込まれて、頭の中が白く塗りつぶされていった。  
不意に、もう自分の下半身は溶解液のようなものでドロドロに溶かされてなくなっているのではないかという不安が押し寄せてくる。  
 
そんな不安に背筋が寒くなった直後、下半身の感覚を取り戻させる刺激が生まれた。  
それはこれから潜り込む場所の狭さを知っていて、その練習とでも言うように全方向から圧迫されピッタリと閉じ合わされた足の隙間を割り開くようにして上がってくる。  
鉄のような硬さと燃えるような熱を併せ持つそれがこの肉花にとってのおしべなのだろう。  
ふくらはぎ、膝、太股と順にその熱さを感じていく。  
「おね、がい……わたしのはじめてをあげる。だから、だから……ちからをかして……」  
ずっと閉じ合わされていた肉の壁が無理矢理引き剥がされる痛み。  
零れた涙はその痛みのせいだけじゃない。  
できることならあの人に捧げたかった宝物を失うことこそが本当に辛かった。  
妖魔の一部を挿入され、頭の中に何かが流れ込んでくる。  
それは意思というにはあまりにも曖昧な、感情と呼ぶべきものだった。  
それが高槻の力によるものなのか、それとも妖魔に食べられる人間全てが感じるものなのかはわからない。  
閉じ込められていることへの怒りと、それを遥かに凌駕する歓喜。  
単純な分あまりにも強烈なその感情は津波のようにわたしの頭の中身全てさらっていく。  
いつしかその喜びが妖魔が感じているものなのか、それともわたし自身が感じているものなのかもわからなくなっていた。  
揉みしだかれるお尻からは、熟し切った果実のようにとめどなく快感という甘い汁が滲み出す。  
割り開かれた秘洞のすぐそばからは身体中が痺れるような電撃が絶えず生み出される。  
そして何より、熱く硬い肉の棒で身体を内側から擦りあげられることが、今まで経験したどんなことよりも気持ち良い。  
「は……あ、だめぇ……わた、わたしは……」  
嵐の海に投げ出された小船のように翻弄され、今までは確かに存在したはずの自分というものが消えていきそうになる。  
 
「か、かすみ……さん……」  
うわ言のように呟いた自分の言葉にわずかに理性が揺り戻された。  
負けるわけにはいかなかった。  
あの人の側にいるためにこんな他の人から見たら無謀としか思えないようなことに挑戦したんだから。  
わたしが今まで生きてきた日常とは別の世界に生きる人。  
あの人は決してこちらには来てくれない。  
だから、わたしの方から行くしかなかった。  
自分の中にある1番強い思い。  
それですら妖魔の作り出す嵐の前で頼りなく浮かぶ1枚の板切れかもしれない。  
それでもわたしは全身全霊を込めて、その想いにしがみついた。  
わたしのその抵抗を打ち崩すように、妖魔の動きが加速する。  
「ま、まけなぃ……ぜったい、ぜったいに、わたしはぁ!」  
身体の奥から今までにないほど大きな波が押し寄せてくるのが本能的に感じられる。  
立ち向かうにはあまりにも絶望的なその大波。  
それでも逆にそれさえ乗り越えられたならその後何があっても耐えられると、そう思えた。  
追い詰められた思考が勝手に作り出した希望的観測なのかもしれない。  
それでも、わたしは――  
 

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