――奴隷市場。
メイドや下働きの小僧を買いにきたことはあった。
初めて足を踏み入れたのは、まだ俺が親父について勉強し始めた頃だ。
まさか内側から通りを眺めることになるとは想像もつかなかった。
そう。
こんなことになるとは思わなかった。
そんなに危険な商売ではなかったはずだ。
曽祖父も祖父も商才豊かではなく、堅実に商売をしていただけだった。
それでも経営は安全だったし仕入れも問題なく。
三年前は風が強く冷夏、疫病が瞬く間に向こうの大陸で広がり、沈静するまでに時間がかかった。
一昨年の冬は海が荒れ、その次は打って変わって猛暑。
親父は首をくくり、お袋は逃げ、残された俺が全てを手放しても、失った財産は取り戻せなかった。
それでも諦めなかったのだから偉いと思う。
あらゆる力仕事を繰り返し働き尽くめたがそれでも足りず――俺は売られた。
そして目の前には初恋の幼馴染みがいた。
相変わらず利発そうな少しきつめの顔をして、男勝りの頭のよさで下僕を従え、奴隷市場の一部を仕切っていた。
俺を意地悪そうに見つめては通りの向こうから手を振っていた彼女が、
帳簿を見ながら俺を商品として扱おうとしていた。
俺に気づかないで欲しかったのに、見た瞬間、彼女は目を見開いた。
肩の辺りでゆるく結ばれた黒い髪は相変わらずつややかで、量が多い。
あんまりだ。
毎日祈ってるが、神様ってのは、実はいないんじゃないか。
……頑張ったじゃないか。
俺は、あんなに頑張ったじゃないか何がいけなかったんだ。
報われたっていいじゃあないか。
親父が諦めても俺は諦めなかった。
母さんが逃げても俺は諦めなかったじゃないか。何がいけなかったってんだ!
後ろ手を鎖につながれたまま俯く。
俯いた頭上に、聞きたくなかったあの子の、穏やかな声がする。
「……ここに来るなんてびっくり。
ひ弱で軟弱で細っこくて、揚げた骨肉食べただけで気持ち悪がってたあなたが。
肉体労働者の筋肉男専門の倉庫に送られてくるなんて、どうしちゃったの?」
「知ってるくせに」
「そうね。ごめんなさい。お店のお金を動かす権限は、まだ私にはなかったから」
聞き取れないくらいの呟きもしっかりと耳にいれ、さらりと返す。
『商品』である俺には言い返す権限もないのだから、鞭打つことも出来るのに、お優しいことだ。
店主の娘だからこそのお慈悲というやつか。
鎖につながれた状態で、身体をぺたぺたと触られる。こんなときだというのに手が柔らかい。
「身体が出来てるといっても、やっぱりにわか仕込みね。
頭は悪くないけど正直マッチョ男にそんなの求められてないし。
けど完全に機転が聞かないよりはいいでしょうね。顔は…まあ普通。微妙。
これといった売りがないわ。Bマイナス」
彼女はそれからしばらく沈黙し、次の『商品』の検分に移動した。
その後俺は、他のやつらと十把一絡げに臭い部屋に放り込まれ、
あくまで売り物として、数日間、大事に保管された。
たまに窓越しに見に来る商人たちを見て、昔自分もあそこにいたのだと思うたびに心が折れていった。
そんなある日、俺は指名されて買われた。
引きずり出されて身体を拭かれ、買い主の指定した小屋に顔合わせに連れて行かれた。
扉を開けて驚いた。
目の前には彼女だけがいて、今日は帳簿を持っていなかった。
わけも分からず見つめる俺に向かって、
「私が買ったの」
と困ったように笑おうとして、笑えない顔で幼馴染みの女性は言った。
「あなたのお店を救うほどのお金はなかったけど、あなたを買えるくらいのお金なら貯めてた。
……これで全財産ほとんどなくなっちゃったんだけど」
今度は、ちゃんと笑った。
そして笑ったかと思うとすぐ、ごめんね。もっともっと前に助けてあげられなくてごめんね。とつぶやき、
顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
強気そうな笑顔にも泣き顔にも、まだ少し、小さかった頃の面影が残っていて、それが変に可愛かった。
ああ、なんだ。
神様はいたじゃないか。
初恋の女の子が、真面目な彼女なりに頑張って俺を助けてくれようとしていたのなら、
男としては、こんなところで諦めるわけにはいかないというものだ。