小さい頃、倉多 亜倫は、背丈が低く、一人でお人形で遊ぶのが好きな少女だった。  
その頃から身体の大きく二つも年上だった須田 礼人に、大声で怒鳴られてばかりいた。  
反撃など思いつかず、いつもしくしく、めそめそ、泣いていた。  
藪で作った秘密基地で人形遊びをしていたら、泣いて逃げ出すまで泥の塊を投げ込まれたこともある。  
(それには理由があったのだけれど。)  
でも、やはり理由もなく大きな声は少女の身を竦ませたし、年上の少年の大きな体は恐怖だった。  
 
思えば小さな頃から、礼人の行動基準は明快だった。  
一家が地方でも力の強い、古い軍人の家系だったからだろう。  
女は守ってやるべきだから後ろにいろ。  
国のためにやるべきことはやるべきだが、あくまで国家繁栄のために子を作れ。  
基本的には俺の指示に従うべきだ。  
危険なところにいる場合、助けてやるから理由を聞くなともかく俺に従え。  
その他の場合、俺に従え。  
初めて文字を覚え、庭に出るのを覚えた頃から細胞レベルでしみこんでいたとしか思えない。  
常に亜倫に対して高圧的だった一方で、深刻な危険からは絶対に守ってくれもした。  
(例えば泥を投げられた藪付近では、危険な毒蛇が目撃されていた。)  
だから、幼女時代の亜倫は件の幼馴染を確かに恐れていたが、  
さりとて嫌いにもなりきれず、びくびくと背中あたりをうろついていた。  
あれはまだ、現職の議員先生が選挙戦を初めて闘った頃で、下の弟が死ぬ前の小さかった頃だった。  
 
亜倫は以後それなりに精神面も強くなり、成長するにつれ社交性も身につけた。  
幸いにして学者筋の両親の血を引いたのか明晰であり、学問も優秀で弁舌も能くした。  
だがそれは礼人と離れて以後の彼女の姿だ。  
義務教育は男女が別なので礼人とは当然6歳で別れ、直接話すことはなくなった。  
だが、成人になっても、不思議と連絡が途絶えなかった。  
実際に会うことはほとんどなかったのに、儀礼的なものだが、手紙を年に数回は交わしていた。  
同じ地方から進学し、違う方面であれ国の中枢に上ろうとしていたのだから、その親近感からだろうか。  
当時女性がまだまだ少なかった政治将校の道に進むときも、  
強くは勧めなかったが、彼女の意思を認めてくれた。  
同じ地域を愛するものとしての同士のような感情だったのだろう。  
 
孤立無援の遠い都市で、同郷の励ましがどんなに力になっただろう。  
 
 
「久しぶりだなアリン。ところで私は今度出馬することにしたんだが」  
 
雄雄しく成長した幼馴染みが軍服を着て尋ねてきて、開口一番にそう言ったときには本当に驚いた。  
国家への理想の高さは手紙のやり取りの中で何度か窺い知ることができたが、  
まだ早すぎるとしか思えなかった。  
 
「分かっているだろ、お前」  
 
礼人はそれしか言わなかった。  
亜倫が彼とともに選挙を戦うと信じて疑っていなかったのだ。  
その日は秋の暮れで、街外れにある下宿の外は木々も枯れ始め、隙間風は厚着をしても冷たかった。  
薪をくべる頻度は日に日に増え、日が落ちるのも早く、  
油の減りが今年も激しくなったなあなどと彼女がぼんやりと考えていた頃だった。  
彼女は手の中の茶碗を卓に置き、馴染んだ部屋を見渡した。  
応接室の後ろのドアはすぐに寝室で、2部屋しかなかった。  
女性故にあまり古く狭い部屋はあてがわれなかったが、けして広いとはいえない。  
暖炉の上で湯が沸いていた。  
迷いは不思議なほどなかった。  
 
「そうですね。分かっています」  
 
そう答えた瞬間の、幼馴染の表情を見て、自分が道を認めてもらったときと同じ気持ちなのだとよく分かった。  
余計に迷うことはなくなった。  
新しい薪の手配も油の手配も止めさせ、一人だけいた使用人に暇を出した。  
 
一週間とたたないうちに、汽車の乗車券を渡しにまた礼人が自らやってきた。  
夕暮れ時で、既に明かりが必要となる時間だった。  
日に日に重くなる曇りの空は冬支度が必要なことを教えてくる。  
国の冬は長い。  
軋む戸を形式だけ叩き、軍靴が古い床を踏む。  
「明日だ。準備をしろ」  
準備はできているかとは聞かない。  
さすがだとは思いつつも言われたとおりの態勢を既に整えている自分には驚いた。  
小さい頃のまま、なんだかんだと将校様の言いなりである。  
「明日は何時に……?」  
「私が決めて連れて行く。気にすることではない」  
 
口答えするなといわんばかりだ。  
つまらなそうに腰を下ろし、深々と背を椅子に預けている。  
狭い部屋には明かりが入っていた。  
沈黙が長い。  
「アリン」  
「なんでしょうか」  
「お前、男の相手はどの程度できる?」  
亜倫はお茶を吹いた。  
当然のようにむせる。  
「それは」  
ハンケチを取ってきて口元を拭いた。  
お茶は温かったが、指先も濡れたので拭く。  
混乱して考えがまとまらない。  
「あの、帰ったら、私にその役をしろということでしょうか」  
そうして地方の重鎮派をこちらに取り込めとでもいうのだろうか。  
古典的だが効果的なのだろうか。  
女性の自分は、あまり効果がないと思うが男性はそういうものではないのだろうか。  
「ああ!?そんなことがしたいとでも言うのか!」  
考えにふけるまもなく礼人が怒鳴った。  
思わず身が竦む。  
身に染込んだものなのか、上官に怒鳴られてもまったく平気なのに  
この怒鳴り声には条件反射で身体中が怯えた。  
「したいというのなら止めんが、勝手にしろ!そんなことを期待してはいない!」  
「……したいとは言っていないじゃないですか」  
蚊の鳴くような声で反論する。  
実はこれだけでも一生分の勇気を振り絞った。  
「ということはだ。お前は頭が足りないのか。頭を頼りにしていたのだがな!こら!」  
「れ、…れ、れーじが何を言おうとしているのかぜんぜん分かりま…分かりません!」  
「ああぁ?ええい。そこまで馬鹿なのか!」  
勇気を振り絞って反論したのに一喝で封じられた。  
最早、ソファに座っている生徒が教官に一方的に叱責される図だった。  
怒鳴られるたびに亜倫の薄い肩がびくりとする。  
そのあと、彼女にとっては一晩とも取れる恐ろしい沈黙が過ぎた。  
無言が長すぎて風が窓を揺らすだけでも叱られているようで、亜倫は死にそうになった。  
早く夜が明ければいいのにとそれだけを願いながら身を竦めることしかできない。  
やがて、カンと音が響き、軍靴が伏せた視界に移りこんだ。  
思わず息を呑む。  
そして、否も応もない、彼女が逆らえるはずのない、『命令』が降ってきた。  
「『上を向け』。そして、私の質問に答えろ」  
 
幼児期の肉体の記憶で逆らえない。  
がくがくと震えながらゆっくりとあごの位置を上げていく。  
詰めた髪から出てくる後れ毛が、頬にかかってむずがゆい。  
目を開けろとは言われなかったので瞑っていた。  
そしたら額を指ではじかれたので抗議するために目を開けてしまった。  
「痛い、ですってば」  
「そうか。それはアリンが悪いな」  
もう一度弾かれた。  
「いいか。私は暇だったのでお前が、床の相手をできないかと聞いたのだ」  
「…………」  
彼女は、今の言葉を十回ほど耳の奥で反芻した。  
「『暇だったので』?」  
「悪いのか?お前、私のものになったんじゃあないのか。着いてくるんだろう」  
 
堂々としていた。  
心臓が落ち着かず、亜倫は急激に首の後ろが汗ばむのを感じた。  
 
「え、あ、あの」  
眼で続きを促されたが、何もいえない。  
「……わた。わたしは。不勉強といいますか。あの。れーじと違って実践はその」  
あれおかしいそんなことを言うつもりでは。  
「フザケテイルノカ」  
「ふざけていませんよ!!」  
なんだ大声も出せるんじゃないか、と幼馴染の将校様は顔を綻ばせた。  
意味不明すぎて、亜倫は絶句した。  
「お前、男のひとりとも付き合ったことがないのか?それでよく渡っていけたな。  
 能力のみであそこまで昇っていたのなら私としては助かるが」  
「余計なお世話余計なお世話、余計なお世話余計なお世話…」  
一生懸命言い返すがなぜだか声が大きくならない。  
事実、下宿の建物が軋む音の方が大きい。  
 
「――それで。相手はするのか、しないのか。教練してやるぞ。実践で。  
 そういうのも、そうだな。悪くはないな。どうだ」  
 
相変わらず当然のように呟く陸軍将校様に対し、彼女の方はまだ混乱していた。  
――使用人。暇を出した。荷物。はまとめた。仕事。とっくに辞職した。辞職してしまった。全てを捨てて。  
――夕食は食べたしあとは何をしていないんだっけ、そうだ眠らなければ。何もない何もない。  
   他にすることなんて、何もないですね。そうだね。  
下を向いてなにやらぶつぶつと呟いている。  
噂の切れものキャリア官僚も形無しであった。  
灯りの油が尽きた。  
埒が明かないという眼をして、礼人が嘆息する。  
「アリン。聞け」  
「……え、あ、はい」  
相変わらずこういう言い方に逆らえない年下の幼馴染を眺め、礼人は命令した。  
心の底からと言う重い息をはきだし、額を押さえる。  
「 も う い い 。 今 日 は 寝 ろ 。」  
 

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