幼稚園で一緒だったその子は、とろくて泣き虫で、いつも自分の後をついてきていた。
その子は、俺にとって、他の誰とも違っていた。
既に字も読め計算もできた自分にとって、他の連中はどこかつまらなかった。
でもその子だけは自分と同じで字が読めて本が好きで、いろんなことを知っていた。
花や虫の生態。星座の由来。宇宙の誕生。歴史の話。二人で話していると、とても楽しかった。
たった一人、特別な子だった。
昔の夢は、少しほろ苦い。
起きてから家を出るまでは同じ手順。朝飯はいつも同じメニュー。
少し神経質といわれるが構わない。手順を変える方がめんどくさい。
鏡の中の自分の一部分……いやまあ髪なんだが……から目をそらし、今日も日課の自己暗示。
まあ要するに『前向きな言葉』ってやつだ。内容についてはプライバシーにつき黙秘。
忘れ物はなし。時間も完璧にいつも通り。ドアノブに手をかけて、少し重い気分になった。
今日も俺は優子と駅まで歩くのだろう。今日は部活のない日で、逃げ損ねた。
俺の家の方が駅に近いから、優子が俺の家の前で待っている。
暑いのに俺が来るまで待っている。昔と同じ、俺の後ろについてくる。
でも、優子はもう、昔のとろくてかわいい幼馴染みじゃない。
相変わらず整った顔立ちはそのまま崩れずにかわいらしく成長。
身長167センチ、モデル並みの8頭身。少し胸が寂しいが、すらりとした体つきはバランスが取れて美しい。
長い黒髪。私服高校の悩みの私服は、金はそんなにかかっていないがさりげなくセンスがいい。
家事も万能。掃除、というか片付けだけは苦手か。性格も……まあ、悪くない、と言ってやっていいだろう。
そして、その可愛い顔の上に乗っている頭脳は、全国トップレベル。
……俺より、上だ。
まさしく、完璧超人だ。……いやになるほど。
いつも俺の後ろをついてきていた幼馴染みは、いつの間にか俺の前を歩くようになっていた。
手を伸ばしても追いつかない。何一つ勝てない。そんな苦い位置に。
「あのね、秀くん……お弁当なんだけど、明日から作れないの、ごめんね」
「そうか」
珍しく口ごもりながらすまなさそうに言う優子に、俺はそっけなく答えた。
いろいろ文句もあるが、優子の弁当はそれを上回って美味であったため、実はかなり残念だったが仕方ない。
優子の好意でなされていた習慣なのだから、優子が止めると言うのなら文句を言う筋合いなどない。
しかし優子は、そのそっけなさが不安になったのか、急にそわそわし出した。
言い訳をするように言葉を繋ぐ。
「ほら、二学期に入ったし、来年は三年生だし、忙しくなるしね」
「そうだな」
「それから、ちょっと早く学校に行くことが多くなるかもしれないの」
駅まで一緒に行かなくていいのは、こちらとしても大歓迎だ。
「そうか」
「勉強もちゃんとしなきゃいけないし」
「お前十分成績いいじゃないか」
俺よりも、という言葉を飲み込む。
しかしイヤミのつもりだった俺の言葉を聴いて、何故かまるで褒められたかのように優子は笑った。
「まあね。日本の大学ならどこでも行けるよ。ちょっと頑張れば外国の大学でも大丈夫」
「……そうだろうな」
はっきり言ってくれやがる。俺ですら模試ではB判定をとる時もあるというのに、こいつには全く気負いがない。
事実だからだろう。
「秀くんさ、どこの学部に行くの?」
「……迷ってる」
ずっと数学が好きだったが、俺程度の人間はどこにでもいる。
その証拠に、俺は数学オリンピックで日本代表にはなれなかった。
今年の数学オリンピックに出たのは同じ学校の一つ下のやつで、金メダルをとった。
小さい頃は信じていたが、もう俺は知っている。自分が天才ではないことを。
数学科に行ったところで、研究者として残れるのか。不安の方が大きい。
……それならば同じ理系でも、就職に有利な工学部とかの方がいいかもしれない。
「そっか。決まったら教えてね」
とん、とん、と弾むように地面を蹴って、優子は俺の隣りに並んだ。
俺の顔を照れたような表情で覗き込む。
「一緒のところに行けたらいいなあ」
そう言うと、本当に綺麗な表情でにこりと笑った。
瞬間、俺の中で、有り得るであろう未来が像を結んだ。
何の研究をしようとも、俺は優子に負けるのだろう。
優子はきっと、周りの人間も驚くような成果をあげて、それでもそんなことには何の価値もないというように笑うのだ。
そうだろう。優子にとっては、当たり前のことで……。
それがどんなに俺にとって望んでも得られないことでも、当たり前のように、あいつは……。
「それは……やめとけよ」
「……え……?」
優子は信じられないという表情で立ち止まった。
俺も立ち止まり、優子に向き合う。はっきりと言っておかねばならない。そう思った。
「お前は別のとこいけよ。なんだったら、文系とか。
成績いいんだから、医学部とか。理系なら昔、宇宙が好きだっただろ?天文学科とかさ。
……とにかく俺とは違うところへ行け。
お前さ、なんでも俺の真似しようとするの、やめろよ。そういうの、よくないぞ」
聞き分けの悪い子に言い含めるように、ゆっくりと言う。俺の嫌悪が顔に出なければいい。無表情を装う。
優子は泣きそうな顔になった。
「真似とかじゃなくて、秀くんと一緒に何かすると楽しいの!秀くんがいると頑張れるの!だから……!」
「なんだよそれ……俺は、お前の肥やしか踏み台か、何かかよ!」
瞬間、優子は目を見開き、硬直した。カチカチと歯が震える音がして、全身が震えだした。
言い過ぎた、そう思った。思わず謝罪の言葉を口に乗せかけて……やめた。
だってそれは、きっと俺の本心だったから。
そう、いつもいつも、俺が最初に始めたことを、後ろからついてきた優子が追い越していく。
俺一人なら結構すごいと思えるのに、優子と比べるといつだって見劣りしてしまう。
優子の存在そのものが、いつだってあいつの後ろにいる自分を意識させる。
……一緒にいると、また、同じことになってしまう。
一生、優子の背中を見て生きるのは、嫌だ。
「優子、お前はすごい奴だから、一人で大丈夫だし、自分で将来のことくらい決められるだろ。
……お前にとってもそっちの方が絶対いい」
優子は俯いた。
俺は、優子に背を向ける。深呼吸する。目を閉じた。
「弁当、ありがとな。美味かった」
「秀くん……」
「迎えにも、もう来なくていい。いや、来ないでくれ」
「秀くん……?」
「優子、もう、俺に構うのはやめろ。俺は……俺は、お前に何もしてやれない」
「秀くん……?!」
「じゃあな」
言うと、駅に向かって足を踏み出す。
優子が声にならない声をあげて、俺の右手をつかんだ。
一瞬迷い――振り返らずにその手を振りほどいた。
そのまま歩く。
カバンか何かが落ちる音が聞こえた。
優子が俺の名前を叫んでいる。
それでも、俺は、振り返らなかった。
泣きたかったけど、泣かなかった。俺にはその資格はないと思ったから。
小学校で自分はスターだった。
足は学年で一番速かったし、野球はいつも4番。サッカーは得点王。体操も得意でバック転もお手の物。
俺の初恋の子は、いつも自分の後ろで声援をくれた。
そして成績は学年一番。
その子も頭がよかったから二人で一番だったけど、それはそれでよかったんだ。
小学校のテストは、100点をとるのが当たり前で、それより上はなかったから。
喧嘩は好きじゃなかったけど、負けるのも嫌いだったから逃げたりはしなかった。
年上の学年のやつが運動場の使用権をめぐってその子のいる女の子グループに因縁をつけたときは、
必死に立ち向かった。
俺一人じゃなくて友人と一緒だったが、ボコボコにされても立ち向かったのは。
そう――だって、好きな子にはいいところを見せたいじゃないか――
「俺って、最悪にかっこわりぃ……」
あれから8年経った今の俺は。
好きな子に、何一つかっこいいところを見せられない男になってしまった。