俺が最初に秀と会ったのは、受験の最終日だった。
緊張していたのか、リュックのチャックを閉め忘れた俺が中身を床にバラまいてしまったとき、手伝ってくれたのが
秀だった。
次に秀と会ったのは入学式の日の教室で、あいつが『伊藤秀』で俺が『宇野賢』だったから隣りだった。
それからずっと同じクラスで4年半。俺たちの年代では、結構長い付き合いに入ると思う。
最近、秀は絶好調だ。
うちの学校は赤門大合格率全国一位という名に恥じず猛者ぞろいである。
特に理系のテストなんかは他校が目をひん剥くほどの難易度なのだが、その物理で満点をとりやがった。
もうクラス中フィーバーである。『禿秀しんじまえーっ!』『禿のくせに生意気な!』などの祝福の声をバックに、
教壇に立った秀は、寂しい前髪をファサリと……いや、ハラリとかきあげて叫んだ。
「お前ら!満点とりたきゃ禿げてみろ!」
自虐ネタは関西人の必修科目である。
『俺は満点より毛根を選ぶ!』『エロいんじゃハゲ!』という意味不明な声援が飛び交う中。
秀は右手をあげてオバマ大統領のように「Yes! We can!」と叫んだ。
最近、秀は変だ。
いきなり弁当がパンに変わったと思ったら、しばらくしてまた弁当を持ってきた。
男子高生御用達のドカ弁の中は、真っ黒だった。
俺は見た瞬間、冗談ではなく思わずうわぁっ!と叫んで椅子から落ちかけた。
正体はぎゅうぎゅうに詰められたご飯の上に敷き詰められた海苔で、
要するに、弁当の中身はご飯と梅干と海苔だけだった。
俺たちがツッコミも入れられず固まっている中、秀は一人で「結構時間がかかるもんなんだよな」と言いながら
弁当を食っていた。
蛇足ながら飲み物は牛乳だった。
俺はそんな食い合わせの昼飯食いたくない。
男の友情は暑苦しいとどこかで聞くが、世の中別にそんな友情ばかりではない。
プライドとコンプレックスがせめぎ合い。表向きと本音でかわし合い。笑顔と冗談のバリアは踏み込みを許さず。
結局秀の奇矯な行動の理由を俺は解明できないまま、しばらく時が過ぎた。
てゆーか慣れた。元々変な奴だったし。
理由を知ったのは、思いもかけない別のルートからであった。
智恵姉ぇから『すぐ来い』とメールが入ったその日は運悪く、塾も部活もなかった。
いや、ないのわかってるからメールが入ったんだろう。智恵姉ぇはそういうの抜かりない人である。
智恵姉ぇの家は俺の家から5駅向こう。駅すぐのマンションである。
勝手知ったる他人の家とばかり油断しまくって部屋の扉を開けたら、客がいた。
それがもー、びっくりするほどの美少女である。これはびびった。
何しろ俺は学校帰り。髪はボサボサ、シャツはだらしなくボタンが外れ、おまけに汗臭く靴下はもっと臭い。
美少女に紹介されるような格好ではなかったのだ。
「あの、智恵姉ぇ、こちらは……」
もしかしたら俺に一目ぼれした美少女を智恵姉ぇがご紹介、なんて心浮き立つしちゅえーしょんなんだろーか、
などと……いや、本気で思っちゃいないがちょっと期待するのが男のサガってやつ。
愛想笑いを浮かべながら、もう遅いけどボタンを留めて髪の毛を適当に撫で付ける。ファブリーズが欲しい。
挙動不審な俺に、智恵姉ぇは呆れるような視線を投げかけて、言った。
「阿川優子ちゃんよ。あんたも名前は知ってるでしょ?」
「ぃえ?!」
まずは意味なく驚いたが、こういうサプライズは嫌いではない。
男だってゴシップは大好きだ。お前らだってそうだろ?
なんだか話がわかったような気がして、うきうきあぐらをかいて座る。
特上に友好的な笑みを浮かべて手を前に差し出した。
「はじめまして。宇野賢です。秀とは5年間同じクラスで友人」
そんでもって俺は特上の地雷をいきなり踏んだらしい。
目の前の美少女は、おそらく秀の名前を聞いた途端。
その綺麗な目を開いたまま、前を向いたまま表情を変えず、涙腺が壊れたのかと思う勢いで泣き出したのだ。
自己紹介で泣かれたのははじめての経験であった。最後にしたいものである。ていうか、普通はない。
女の涙は男のハートに対する最強の武器というが、つまり俺はいきなり出会い頭にいきなり攻撃されたようなもんである。
阿川さんとのつきあいはこれ以降も続いたのだが、何度も吉本に行けと言われたコメディアン体質の俺が、
なんとなく阿川さんと二人で話すのは苦手だなあという思いがいつまでたっても抜けないのは、
絶対この出会いのせいだと思うのだ。
閑話休題。
なんでいきなり智恵姉ぇの部屋に阿川さんが出現したのかというと、こういうわけだ。
最近ぼーっとしてるなあと思ってたところ、放課後、茶道部の部室前で真っ青な顔でうずくまっている阿川さんを
見つけたらしい。
保健室に連れて行こうかとも思ったが、阿川さんはとにかく帰りたいと言う。
そのわりに家には帰りたくないと言う。
これは何か事情があるのだろうとピンときた智恵姉ぇは、自分の家に阿川さんをお持ち帰りした、ということらしい。
「とりあえず、要するに智恵姉ぇがいらんこと言ったせいで話がこじれたと」
俺の非常に的を射たまとめに対し、何故か智恵姉ぇは至近距離で枕をぶつけてきた。暴力反対。
「え、いや、その、江藤先輩のせいじゃないです。引いてみたのには……秀くんは完全に無反応でしたので……
怒ったのは、一緒の学部に行きたいって……言ったときで……」
阿川さんはおろおろと智恵姉ぇをフォローした後、自分の言葉にダメージを受けたのか、黙ってしまった。
まあ、確かに智恵姉ぇのアドバイスは当たり前のことで、特に間違ってはいないのだろう。
それを受けての阿川さんの実践も、距離をとる、という意味で間違ってはいない。
――そう、問題はもっと根本的なことにあるのだ。
阿川さんの頑張りに対して応えないという意味では秀はひどいやつだと思う。でも、秀の気持ちだってよくわかる。
こんなこと言ったら笑われるかもしれないが、男だってナイーブで傷つきやすい繊細なココロを持っているのだ。
特に俺たち進学校の連中は、日々プライドとコンプレックスの狭間で揺れ動いている。
いや、俺たちだけじゃない。男にも限らないかもしれない。
誰だって、プライドは守りたいし、コンプレックスは刺激されたくない。そんなものだろう。
秀のかたくなさと、阿川さんの鈍感さ。これが大元の原因なのだと俺は思う。
多分、どっちも悪くないし、どっちも問題があった。
秀は被害妄想で後ろ向きな馬鹿で、阿川さんは本当の秀を理解しようとしなかったのだ。
今回のことは、阿川さんの努力の方向が、秀を傷つける結果になってしまった相性の悪さが根底にあって。
少しずつ切り傷をつけられていた秀の心から、とうとう血が噴き出してしまったということなのだろう。
それに、秀の対応はまだ誠実じゃないか?やっぱり友人だから俺が秀びいきなだけかもしれないが。
だって阿川さんの恋愛は盲目的で献身的だ。つけこもうと思えばいくらでもつけこめる。
日常的な意味でも性的な意味でも尽くさせるだけ尽くさせて、その上でいくらでも他で遊ぶ事だってできそうだ。
阿川さんならちょっと優しくするだけで耐えてしまうだろう。
もしくは、阿川さんが自分より優秀なのがイヤなら、『勉強するな、俺の三歩後ろを歩け』と言えばいい。
精神的に抑圧してしまえば、阿川さんを自分のプライドを傷つけない都合のいい女にすることだって可能だ。
もっと言えば、もうかかわりたくなかったなら、ヒドイ言葉で傷つけて、精神的に追い詰めればいい。
上手くすれば傷ついて成績が落ちて、競争相手として脱落してくれるかもしれない。
でも、あいつは真面目で頭が固くてプライドが高くて……いい奴だから、そんなことはしない。
……まあ、もしかしたら、鈍さも完備してるから、自分の存在が阿川さんにとって絶対的なものであると
気付いてないだけかもしれないが。
というか智恵姉ぇはなんで俺を呼んだんだろうね?俺まったく関係なくね?秀の話ったって、恋愛のことなんて
俺全くわかんねーよ?
「私、どうしたらいいかわからなくなっちゃったんです。とりあえず何も考えられなくて、学校に行って部活行って
塾に行って家に帰って。朝起きたらもうお弁当作らなくていいんだなって思って悲しくなって。
秀くんを駅で見かけても話しかけられなくて、秀くんが目も合わせてくれなくて。
……どうしたらまた秀くんと一緒にいられるんだろうって考えて、考えてもわからなくて。
私……私、空っぽになっちゃったんです」
阿川さんは俯いて、膝の上でそろえた両手の拳を握り締めた。
それを見て、ばつが悪そうに智恵姉ぇは頭をバリバリと掻く。
「私の責任もあるわよね……」
「というか、智恵姉ぇがトドメをさしたな」
「うるさいっ!」
俺に向かってまたしても枕を投げつけると、何かを決意したようにため息をついた。
「ちょっときついこと、言ってもいい?」
「……なんでも、言ってください」
阿川さんは、すがるような目で智恵姉ぇを見た。
「阿川さんの話を聞いたとき、すごく可愛い恋愛だなって思ったの。報われて欲しいと思った。
でも、もし秀くんに振られた時、ストーカーにならなきゃいいな……とも思ったのよ」
勢い込んで何か言いかけた阿川さんを、智恵姉ぇは右手をあげて制した。
「うん、私が間違ってた。阿川さんはちゃんと常識もあるしそんなことはしないわよね。
自分が傷ついても、ひいて……相手を傷つけないように努力する。そんな優しい子だった。
変な邪推をして、私が恥ずかしい」
智恵姉ぇは何を言いたいんだろうか、と俺は不思議に思った。別に懺悔が目的ではないだろうに。
「私ね……すごく気になったのよ。
阿川さんの話って、秀くんがいたから頑張ったし、秀くんに褒めて欲しいから頑張ったし
秀くんと一緒にいたいから頑張ったって話ばかり。『秀くんが』『秀くんが』って、そこに……
阿川さんがいないのよ。
わかる?」
阿川さんは不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「秀くんが行くから塾に行った。秀くんに認めて欲しいから勉強を頑張った。ついでに受験して受かった。
秀くんと一緒にいたいから迎えに行った。秀くんに喜んで欲しいからお弁当を頑張った。
秀くんと一緒に研究したいから同じ大学に行きたい……。
阿川さんの人生の決断の根本から、『秀くん』をとった時、阿川さんは自分がわかる?
阿川さんが望むものは何?阿川さんがなりたい自分は何?
さっき、言ったわね。空っぽになったって……その通りよ阿川さん」
呆然と智恵姉ぇを見つめる阿川さんを真っ向から見て、智恵姉ぇははっきりと言った。
「あなたの中身は、空っぽだわ」
いやまあ、予告したとおり、キツい一言である。
まだ脳みその回路に意味が行き渡ってないのだろうか、阿川さんは呆然としたままだ。
「阿川さん、誰かのためにって言葉は美しいわ。それの全てが間違っているとも思わない。
でもね、自分の人生の全部の理由を『誰かのために』にしてしまうことは、自分の人生の決断も責任も
全部その人に押し付けてしまうことでしかないわ。……相手にその手を振り払われたら生きていけなくなる。
最後にはその人を恨むことになる。そんなの間違ってると思うでしょ」
阿川さんは、少しためらって、頷いた。
「誰だって、一人分の荷物しか持てないのよ。
お互いに分け合って持つことはできるけど、全部押し付けちゃダメ。
人間は、二人分の荷物を持つようにはできてないの。いつか相手を押し潰すわ。
阿川さん、あなたはこれから、自分の人生の責任を自分でとらなきゃいけない。
自分の人生よ。自分で理由を見つけないと……自分で立って、一人でも生きられるように。
自分を支えられない人間は、誰のことも支えられないわ」
阿川さんの前の絨毯に、ポツ、ポツとしみが出来た。
「秀くんが……言ったんです。自分の将来のことくらい自分で決めろ、お前にとってもそっちの方が絶対いいって」
手の甲で涙を拭う。
「私、その時、目の前が真っ暗になりました。何も思いつかなかったんです。
先輩……空っぽな私はどうしたらいいんでしょうか。どうやったら……理由が見つかるんでしょうか」
智恵姉ぇは苦笑して、頬を掻いた。
「……それは私にはわからないわ。阿川さんが探すものよ。
とりあえずは、いつも通りに生活するのがいいんじゃないかな。
青い鳥の例もあるけど、案外近いところに答えがあるかもよ。
それが見つかった時にすぐ動けるように……私たちは学生だから、今のまま勉強を頑張るのが一番いいでしょうね」
俺にはわかる。智恵姉ぇは今、思いつかなかったので適当にそれっぽいことを言って誤魔化した。
半眼で智恵姉ぇに視線をやると、誤魔化し笑いを浮かべながら椅子から立ち上がり、
目の前のベッドに座っている阿川さんの横に座った。
ゆっくりと肩を抱く。
「つらかったら、いつでも話してくれていいのよ。メールだってしてもいい。電話も出るわ。
私は、阿川さんに出来るだけのことをしたい。……だから一人で悩まないでね」
阿川さんはゆっくりと頷くと、智恵姉ぇの肩に顔を埋めた。
「秀くんがどうしてるか知りたかったら、賢に聞けばいいわ。男子校だから大丈夫だと思うけど、秀くんが
合コンとかに行かないよう、賢に抑えてもらうし。ねえ賢、いいわよね?」
俺は頷いて、ビシッとサムズアップした。どうも俺はこのためだけに呼ばれたのらしい。
「今日は泊まっていってもいいわよ。どうする?」
土曜日なので明日は休みである。
阿川さんは頷いた。
制服で一日を過ごすのもめんどくさいだろうということで、智恵姉ぇの服を借りた阿川さんは、洗面所に行った。
美少女の生着替えである。そそるね。
「……ちょっと偉そうなこと言っちゃったな」
ぼそり、と智恵姉ぇが暗い声で言う。落ち込むくらいなら言うな、という追い討ちはやめておく。
「すっごく偉そうだった。適当もあそこまでいくと詐欺だな」
智恵姉ぇがまた枕を投げた。
ちなみに、智恵姉ぇは毎回枕を回収しているわけではない、3つ枕を持っているのだ。
テンピュールにそば殻に抱き枕。つまり4つ目の弾はない。俺はもう安全なのだ。
「まあねえ……まあ、ちょっとヒートアップしちゃった。智恵ってオ・チャ・メ」
「オチャメで他人の人生ひっかきまわすなよな」
後頭部に衝撃。俺はひっくり返って布団に沈んだ。枕がなくなったら拳にクラスチェンジするとはぬかったぜ。
しばらくの沈黙の後、ぽつりと智恵姉ぇが呟いた。
「でも、『誰かのために』って言葉、なんかあんまり好きじゃないのよね」
智恵姉ぇの母親、つまり俺の伯母さんだが、なんだかいろいろあるらしい。
あの言葉はもしかしたら、阿川さんへの忠告ではなく、伯母さんへの文句だったのかもしれない。
つまりウサ晴らしか、と言おうと思って、やめた。
阿川さんにとっては有益な言葉かもしれないし、理由もなく人を傷つけるのは好きじゃない。
そう、多少頭がよくても、現実の問題を全て無理なく解けるほど、俺たちはデキた人間ではないのだから――