「うそぉ〜〜!!!」  
 うぎゃー!! 信じられません。  
 紀一郎先生(と呼ばないと、どつかれる)改め、神と呼ぼう!  
 5月にスタートした英数強化月間。  
 私は生まれて初めて定期テストを捨て、ひたすら勉強しまくった。  
 紀一郎の指導は「なんだか効果あんのか?」というやり方だったが、蓋を開けたら定期テストは  
あまりにも簡単で拍子抜け。  
 しかも、夏休み前の先日受けた模試ではとうとう英数国は偏差値60越えと言う快挙を成し遂げた  
のだ。  
 万歳、ブラボー!  
 念願の予備校特待にもう少しと思われたので、紀一郎先生には丁寧にお礼を言ってこの場を辞そう  
と考えていた。  
 どうにかなるのかもしれない。  
 紀一郎が言う東大は考えられないけど、地元駅弁だったら。  
 そんな希望が沸いてきた2ヶ月だった。  
 うーん、小説のような展開だわ。いや、ギャグ漫画?  
 
「おお〜すげー! ホントに上がってる」  
 ってアンタ。もしもし?  
 そう言う紀一郎は今回は残念、15位。  
 つか、勝ち負けじゃないだろ。模試なんだぞ、模試。  
「紀一郎は志望どこなの?」  
「うーん、利にか離散で迷ってる」  
 意味不明。  
 
 しかし、紀一郎の話を聞くようになって、ホントに上位層は別世界なんだなとつくづく思った。  
 中学のうちに高3までの数学を独学で終了させていたり、私立中高に飽きたらず銀翠会だとかいう  
中高一貫向けの塾に通っていたり、数学や物理や化学等の国際オリンピックに出てみたり。  
 凄い、凄すぎる。  
 私なんて、同じタイトルなのに色が4色もあって種類が違う数学の参考書に、何でこんなに種類が  
あるの?と目を白黒させている、そんなレベル。  
 ビンボーって哀しいな。戦う前から勝負が決まっているのかな。  
 ちょっと落ち込んでしまう。いかんいかん。  
「そういや、お前に条件があるとは言ったが、内容を言わなかったな。後出しだがいいか?」  
 ぐ。そんなこと言っていたな。  
 しかし、今更撤回も不可能なので、私は渋々頷いた。  
 にやーん。また悪魔のような笑み。  
 メフィストフェレスってこんな顔してるんだろか?  
「まず予備校。特待取れたとしても授業は要らねーよ。自習室は使ってもいいけど。あそこは情報を  
得るところ」  
「ふーん、そんなもん? アンタだからそれが可能なんじゃないの?」  
「二つ目。夏の間、バイト入れるな。俺がこのまましごいてやる」  
 願ったりかなったりだが怖すぎる。  
「三つ目は秋になったら話す」  
「判った」  
 このまま紀一郎に礼を言ってあとは独学って道はなくなったが、まあ、紀一郎と勉強するのは嫌じゃない。現に成績も上がったし、不満はないのだ。  
 
 紀一郎との軽口も結構楽しい。  
 小学生時代の毎日が帰ってきたみたいだ。  
 あの頃は毎日ひたすら遊んでいたけど、今はそれが勉強ってだけなのかな。  
 もっとも、そんな楽しいもんじゃないけど。(紀一郎は嬉々として問題解いているけど。信じられ  
ない)  
 最近はいつも一緒にいるように思う。登校まで一緒。でかい紀一郎を見上げることが多くて、首が  
痛い。  
 夏休み。紀一郎と一緒って久しぶりだな。  
 アイツ、夏期講習行かないのかな。  
 いや、その合間に私に会うのかな?  
 よく分からないけど、楽しそうかも。  
 
 
 最近、電車の時間を変えた。  
 少し早く行けば、愛美(まなみ)と一緒になると知ったからだ。  
 何気ない風を装って、朝一緒に駅へ行く。  
 この時間は学生も多く、色んな学校の制服で溢れている。  
 うちは学ラン。(今は夏服で、Yシャツの下は黒の学生パンツだ)因みに愛美のとこも男子は同じ  
で、俺たちは同じ学校の生徒と思われたりするのかもしれない。  
 だが、実際は違う。  
 女子と一緒の楽しい共学ではなく、俺は野郎ばかりの男子校。  
 学校はとても楽しいんだが、愛美が学校で何をしているのかが気になる。  
 他の男子に下駄箱に手紙を入れられ、放課後裏庭で告白なんてあったらどうしよう? などと、端  
から見たら呆れるようなアホらしい想念に苛まれる。  
 吊革に掴まる白い腕の柔らかそうなところも煩悩を刺激する。  
 満員電車の中だというのに、暗記ペンで塗られた参考書を必死に見つめる愛美を周囲から守る。  
 本人は夢中で気付いていないが、無茶苦茶混んでるんだよ。  
 ちっこい身体が、電車の揺れに合わせて左右に傾く。  
 吹っ飛ばされないかとハラハラするが、本人は慣れているのか意外としっかり立っている。  
 本当なら、俺に掴まれと言いたい。言ってもいいはずだ。  
 だが、この小さくていい匂いのする躰に触れて正気を保てる自信がない。  
 女に免疫がないせいか、愛美が見せるちょっとの仕草に激しく動揺する。  
 男子校生の悲しい性だ。  
 こんなことなら、塾で誘われた女子と付き合っとけばよかったのだろうか?  
 
 いつも生意気なのに、たまに見せる笑顔が可愛い。  
 戯れで先生と呼ばせてみたら、当初片仮名で『センセ』と呼んでいた、そのひねくれっぷりも堪ら  
ない。  
 俺を見上げるその瞳も。可愛らしいピンクの唇も。  
 その唇に触れてみたい──己のそれと重ね、その柔らかさを堪能したい。  
 舌を絡め合ったらどんな感じなんだ?  
 制服を押し上げている柔らかそうな双丘に触れてみたい──  
 俺は煩悩に苛まれている。  
 また、学校で盛んなエロ話が拍車を掛ける。今までは単なるネタとして笑っていられた話が、今は  
全てリアルな妄想として毎夜俺を苛む。  
 だから、せめて夏休みに、この『お隣さん』ポジションから脱却したい。  
 まずは友達でもいい。アイツに俺を必要だと思って欲しい。  
 俺のことを男と認識してもらえたらもっと嬉しい。  
 恋人同士になんてなれたら──俺、生きてられるんだろうか?  
 
☆  
 
 夜1時頃、愛美は部屋に戻っていく。  
 同じ部屋にはパーティションに区切られて弟もいるのだが、野球部で部活漬けの正司は9時半には  
寝てしまう。  
 屋根づたいに戻っていく愛美を見つめるのは身が切れるような思いがする。  
 自分の身が半分に千切られて去っていく気分だ。  
 愛美は俺がそんな葛藤を抱えているとは夢にも思っていないだろう。  
 こんなに近いのに──こんなに遠い。  
 俺の気持ちを判って欲しい──だが、知られるのが怖い。  
 自分が臆病だと、俺は生まれて始めて知った。  
 
 
 久しぶりに正面玄関からだ。  
 間延びしたチャイムの後に出た声は叔母さんのものだった。  
「お久しぶりです。隣の斉木です」  
 軽いデジャビュ。あ、2ヶ月前の話か。  
「まあ! 愛美ちゃん?」  
 嬉しそうな叔母さんの声がしたと思ったら、パタパタとスリッパの音がした。  
「愛美ちゃん!」  
 紀一郎んちの叔母さんが顔を出す。  
「おはようございます」  
 挨拶する私をニコニコ見つめる。  
 うちのお母さんと年はあまり変わらないはずだが、いつも綺麗だ。マダムって言い方がよく似合う。  
 この奥様からどのようにしたらあの『俺様悪魔』が生まれたのか謎。  
「すみません、紀一郎くん、いらっしゃいますか?」  
「あら。今日は図書館で勉強するって言っていたけど──愛美ちゃんと一緒?」  
 パアッと頬を染めて、少女のようにはしゃぐ。  
 え? 何か勘違いなさっていませんか?  
 私と紀一郎がって発想に無理があるし。それに私なんかが相手でもええんかい?  
「おふくろ、何はしゃいでるんだよ」  
 リビングの扉からのそり、と紀一郎が顔を出す。  
「紀一郎、あなた何も言わなかったけど、愛美ちゃんと一緒なの?」  
「──どうでもいいだろ」  
「もしかして、照れてる?」  
 いや、叔母さん。それはないから。  
 そんな私のツッコミに反して、紀一郎はなんと目を疑う反応をした。  
 微かに赤くなってる?  
 オイ! お前!  
「どうでもいいだろ」  
 そそくさ叔母さんを押し退け、下駄箱からスニーカーを取り出す。  
「帰りは多分夕方」  
「あまり遅くならないようにね。愛美ちゃん、お母さんの代わりに家事も頑張ってるんだから」  
「判ってるよ」  
 苦虫を潰したような表情で靴を履き終え、紀一郎は足を踏み出す。  
「行ってきます」  
「はい、行ってらっしゃい」  
 ぽかんとその表情を見つめる私を避けるように、紀一郎は先に行く。  
「ちょっと、待ってよ!」  
 あれは──何だったんだ?  
 
 
 ヤバかった。愛美は気付いたのか?  
 気が付かないで欲しい。いや、気付いてくれた方がいいのか──俺には判らない。  
 それにしてもカッコ悪い。親にからかわれて赤くなるなんて!  
 おふくろ、ホントいい加減にしてくれよ。悪ふざけが過ぎる。  
 今日は、二人で図書館。外出に伴う出費を気にする愛美も気楽だし、本も借りられるし、自習室も  
あるし、涼しいし。  
 何と言っても楽しみなのは愛美の手作り弁当だ。  
 例えファーストフードであっても外食に難色を示した愛美は、弁当を作ると言った。  
 じゃ材料費は俺が持つから二人分作ってくれと頼んだら、快く了承してくれた。  
 愛美の弁当。それだけで気分が浮き立つ。  
 
 自習室でそれぞれ勉強。たまに休憩で本を見に行く。  
 愛美はミステリーが好きらしく、軽めのもの中心に見る。  
 俺は歴史小説とか、科学と数学に関する本を見る。  
 うーん、うちの学校の方が品揃えがいい。  
 仕方がないから、カウンターで予約手続きをする。  
 本を借り終えた愛美を引っ張っていって、洋書のコーナーに行く。  
「何冊借りた?」  
「5冊」  
 まだ5冊借りられる。  
 愛美は今まで教科書でしか英語を読んでいない。  
 だから語彙が不足しているし、前後の文脈で判らない単語も類推して読むという技術を身に付けら  
れていない。  
 それを打破するため、問題集に平行して多読と言う方法を用いた。  
 即効性はないはずなのだが、意外と早く効果が出た。  
 何だか、ゲームみたいだなと思う。若しくは、ポ●モン・ブリーダー。  
 経験値を上げ、強くする。こういうのは結構面白かったりする。  
 
☆  
 
「美味い!」  
 普段、絶対に褒めたりしないのだが──だって、照れ臭いだろ?──愛美の手料理は素直に感嘆さ  
せるだけの威力を持っていた。  
 見た目はむしろ地味だった。  
 飾り切りやレタス等の彩りもない。  
 質実剛健。  
 だが、その味は俺の胃袋をわしづかみにした。  
 すげぇ美味い。  
 夢中でがっついていたら、気付いた時には二人分のはずが空っぽになっていた。  
「ご、ごめん!」  
 愛美、ほとんど食べていないんじゃないのか?  
「あーびっくりした。紀一郎、ガツガツ音を立てて食べていくんだもん。私もちゃんと食べたから心  
配しないで。明日から倍作ってくるから」  
「美味かったから」  
 あ、ヤバい。  
 普段やりつけないこと──人を褒めるなんてするから、顔が赤くなる。  
「紀一郎、今日は何だか違うね。私服だから?」  
「お前こそ、違うじゃん。いつも俺の部屋ではジャージだし。朝は制服だし」  
「お互い様だよ。紀一郎もジャージじゃない」  
「たしかにそうだ」  
 俺達は笑い合った。  
 何だか、柔らかいこの空気感は心地よい。  
 いつものように喧嘩半分でやり合うのも楽しいが、こうして穏やかに笑うのもいい。  
 ふと気付いた。  
 ベンチで座る俺達の距離。  
 周りには誰もいない。  
 そっとキスしたら、怒るだろうか?  
 
「いつも紀一郎怖いから、今日みたいに赤くなったり優しく笑ったり。そっちの方がいい」  
「そうか?」  
 自覚は──まあ、していたんだが、やっぱり遊びすぎていたらしい。  
 好きな子相手にどうしたらいいのか、判らないんだよ。  
 手も握れないのに、近くで怒ったり笑ったりしているし。  
 夜、俺の妄想の中では抱かれてヒーヒーよがって、むせび啼いているというのに。  
 目を細めて愛美を見つめる。  
 小花柄の半袖のカットソーにデニム。  
 ラフだし、愛美に似合っているが──ちょっと勿体ない。  
 このひっつめお下げを解いて肩に垂らしたらどうなんだろ?  
 野暮ったい眼鏡をコンタクト──せめてもう少し洒落たものに変えたらどうなんだろ?  
 夏なんだし、一緒にプールに行きたい。愛美の水着姿も見たい。  
 とめどもなく妄想が広がりだした頃、愛美は言った。  
「そういえば、紀一郎って彼女いないの?」  
「なんで?」  
「アンタ、性格はともかく(おいっ!)外見はいいし、頭もいいし。もてそう」  
「そういうお前は?」  
 訊いてから後悔したが、愛美の応えを聞いてもっと激しく後悔した。  
「うん──この前、うちの学校の男子に告白された」  
 な、なんだとおーーー!!!  
 
 
 目の前の紀一郎は、なんだかぎょっとしたような表情を見せた。  
 まあ、意外だよね。私も意外だった。  
 つか、私なんかが異性の目に止まるなんて信じらんない。  
 最初、質のわるい冗談だと思ったぐらいだ。  
 
☆  
 
 夏休み直前。期末も終わって、周りは長期休みへの期待にざわついている──そんなある日、帰り  
支度をしていた私は、今までクラスメイトの一人としか思っていなかった男子から「明日の持ち物っ  
てなんだっけ?」みたいな口調で、「斉木さん。僕と付き合わない?」と言われた。  
 周りにはまだ何人か残っていた。  
 誰も私達を見る人はいないとはいえ、私は慌てた。  
「鈴村くん(彼の名を呼んだのも初めてだっ!)ちょっと──取りあえず、教室出ない?」  
「何で」  
 ああもう。紀一郎といい、私に関わる男子ってどうしてこうなの?  
「恥ずかしいから!」  
「あー僕は気にならないから」  
「あのね。私が気にする。つか、周りも気にするよ。このクラスの雰囲気、目に入らない?」  
「目には入らない。今んとこ、僕の最優先課題は君に返事貰うことだけだし」  
 ぐはっ。鈴村くん、初めて話したけど、ここまで個性的な人だったとは。  
「でも、私は気になるから、お願いだからちょっと屋上にでも行かない?」  
 私が強引に彼の手を引っ張って連れ出すと、クラスにまだ残っていてこの成り行きを見守っていた  
人たちから歓声を浴びた。  
 ああもう。人のことだと思って。しかもっ!ずっと友達だと思っていた奈美!真紀!あんたらもか  
いっ!  
 後で覚えとけ!!  
 
「鈴村くん。一つ確認する。付き合うって、その──彼氏、彼女の関係で?」  
 屋上はちょっと風が強かった。  
 ちと、肌寒い。  
「もちろん」  
「ドッキリとかなしで?」  
「本気ってこと? もちろんだよ」  
 鈴村くんをまじまじと見つめる。  
 中肉中背。いや、男子としてはやや小柄なのかな?  
 文武両道を旨とするうちの学校だけど、彼は典型的な文化部タイプだった。  
 たしか、化学部だったか物理部だったか。  
 顔立ちが可愛くて、結構ファンも多い。  
 ただ、浮いた話をあまり聞かないのは──多分この性格のせいと私は勝手に予想する。  
「私、鈴村くんと今まで話もしたことないんだよ。私のどこがいいの?」  
「うーん、直感? 君を一目見た時からずっと気になっていたんだよね」  
 一目惚れとな?  
 自慢じゃないが、地味な外見、チビな身体で、そういうのは無縁で生きてきたんですが。  
 この人、もしや物凄く変人?  
「返事、急ぐ?」  
「もうすぐ夏休みだから、その前に貰えると嬉しいな。生殺しのまま夏を過ごしたくないし」  
 鈴村くんはにっこり笑った。  
 
☆  
 
「で──なんて答えたんだよ?」  
 気のせいか、紀一郎の声が低い。怖い。  
「紀一郎には関係ないじゃん」  
「ここまで話しといて、それはないだろ」  
「まあそりゃそうだね」  
 軽く肩をすくめ、そしてそっと紀一郎を見上げる。  
「紀一郎──私って、男の人から見て、どうなの?」  
 
 ぶっ!っと紀一郎はお茶を吹き出した。  
 汚いなあ。  
「もう、何やってんのよ。で、どうなの?」  
「何でそんなこと聞く」  
「いやさ。男子に好きだって言われたのも初めてだけど、一目惚れしたって言われて、あまりにもび  
っくりしたんだよ」  
「驚くことか?」  
「私、チビだし、地味だし、性格ガサツだし」  
「よくわかってんじゃん」  
「未だに信じられないんだよね。まあ、その相手がちょっと変わってる人だってこともあるけどさ」  
「お前、自覚無さすぎ」  
「ええ──?」  
 意外な言葉に思わず紀一郎の顔を覗き込んだ。  
 言いたいことが判らない。  
 しかも、紀一郎はなんだか哀しげだった。  
 何か悪いことしたんだろうか、私?  
 いつもはメフィストフェレスな紀一郎だが、今日はなんだか違った。  
 朝から変だったけど、こんな顔するなんて──  
 なんだか、本当に、怖い。  
 しばらく紀一郎は私を見つめていて──それからようやく、視線を反らして言った。  
「お前、男と遊んでいる暇、ない筈だろ?」  
「うん──だから断った」  
「そいつ、何だって?」  
「諦めないって言われた」  
「そうか──」  
「今までさ、私そういうのって全く無かったから、まともに話した男子って紀一郎ぐらいだし。何か  
よく判らないんだ」  
「お前、今まで好きになった男、いないの?」  
「いないよ──興味なかったし。紀一郎は?」  
「お、俺?」  
 紀一郎は物凄く動揺した。こんな紀一郎、初めて見る。  
 また、紀一郎は私から視線を反らし、足元の草花を見つめる。  
「いるよ──」  
 呟くようにして言ったその意外な言葉に、何故か胸の奥が鈍く痛んだ──。  
 
 
 脳味噌が沸騰し、目の前が真っ赤に染まったかのように思った。  
 ふざけんな!!  
 まだ見ぬ敵──というのも妙な話なのだが──に謂われもない嫉妬を覚えた。  
 俺がどんな思いをして今までコイツの傍にいたと思っている。  
 そう心の中は荒れ狂っていたが、それは全くの的外れな怒りであり、相手は俺  
の存在すら知らず、そして愛美にとって俺は単なる幼馴染みでしかない立場なの  
であって、何の文句も言えないのだと──自覚もしていた。  
 愛美のことが好きだ。自分だけのものにしたい。  
 だが、今俺が愛美に自分の気持ちを明かしたとして、それを受け入れて貰える  
可能性は低いと判断している。  
 異性として意識されていないことに加え、昔からの関係がそれを阻んでいる。  
 愛美に俺を好ましい異性として認識してもらうにはどうすればいいのだろう?  
 人の心は難しい。難問テストの何倍も。  
 今ここで土下座すれば手に入るならそうする。無理矢理奪えばいいなら襲う。  
 しかしそれでは心は手に入らない。  
 近いのに遠い俺達の距離。  
 荒れ狂う気持ちを必死に抑える俺の顔を見つめる愛美を一瞬睨むように見つめ  
、苦労して視線を反らした。  
 
☆  
 
 その晩、愛美は部屋に来なかった。  
 俺は結局何も手につかず、ただただ隣の家の灯りを見つめる。  
 外に向かって叫び出したくなる衝動と葛藤し、粗い息を吐く。  
 その時俺は気が付いた。  
 愛美がもしも違う大学に行ったら、俺はまた今と同じ気持ちを味わうことにな  
るのだと。  
 何がなんでも愛美も連れていく。  
 今までのような冗談半分ではなく。  
 ではどうすれば?  
 愛美の夢とやらの問題もあるし。  
 目を閉じる。すると脳裏には愛美の笑顔。  
 つい3ヶ月ほど前までは、その記憶と窓越しの息づかいだけで俺は満足してい  
たんだなと思い、哀しくなった。  
 好きな子には素直になれないわ、優しくできないわ、何も言えないくせに独占  
欲は人一倍だわ。  
 自分の情けなさが悔しい。  
 会えば会うほど惹かれた。笑顔だけじゃ物足りなくて、その全てを欲しいと思  
った。  
 身勝手な欲望だ。  
 そこまで冷静に己を分析しているくせに、やっぱり好きだと言えやしない。今  
言って離れてしまうことが怖い。  
 弱い──俺は。  
 胸が一杯になって、苦しさのあまりに嘆息する。  
 今日はもう寝ようとベッドに転がるが──眠れないのは判りきっていた。  
 
 
 翌日は夜半に、いつも通りに顔を見せた愛美だったが、なんだかぎこちなかった。  
 俺が嫉妬して、みっともない真似をしたことが気にさわったのか。  
 こんなことになるのなら、俺の気持ちを封じ込めるか、もしくはいっそのこと正直に打ち明けてお  
けば良かったのか。  
 机で勉強する愛美の隣で暗記物をやってる俺が、たまに手がぶつかるだけで、びくりと身を震わせ  
る。  
 ふと気が付くと視線を感じるのだが、顔を上げると慌てて反らす。  
 風呂上がりらしいシャンプーの甘い香りが項から漂う。  
 その白さに見とれていると──顔を上げた愛美の視線と合うのだが、気まずく反らす。  
 消しゴムを落としてしまって座ったまま横着しながら取ろうとする愛美を横目で見て、代わりに取  
ってやったら受け渡すときに一瞬指先が触れた。  
 白い繊手の意外な冷たさに身体の奥が痛む。  
 呼吸が苦しい。  
 その指先に口づけして、舌でねぶりたいと、エロ親父のような想いが込み上げる。  
 いよいよもって、性犯罪者の発想だ。  
 苦しくなって、わざと愛美に意地悪なことを言う。  
「お前、この問題にそんな時間掛けていたら、受からないぞ」  
 間違いではないのだが、我ながらそんな言い方しなくてもいいと思う。  
 愛美は今急成長中なんだ。あまりの背伸びは却って危険だ。  
 わかっているのに。  
 俺を見上げる愛美の瞳には涙が光っていた。  
 泣かせた! 好きな子を!  
 自己嫌悪で頭がぐるぐるする。  
 こんなことなら、今までのまま窓越しに見つめるだけの方がまだよかった。  
 最悪だ、俺は。  
「泣くなよ」  
 途方に暮れて愛美の肩を抱く。  
 潤んだ瞳が俺を見つめる。  
 頭が真っ白になってフリーズした俺は、何を思ったのか、愛美に口付けしていた。  
 最悪すぎる。  
 
「なんで?」  
 全く、なんてツラしてやがる。  
 何でって訊きたいのはこっちの方だ。  
 ここでの俺が取るだろう行動パターンは3つ。  
 
 1、素直に告白  
 2、誤魔化す  
 3、押し倒す  
 
 素早くそれぞれの結果をシミュレートしてみて、どれも最悪だと頭を抱えた。  
 結局俺はどれも選べず愛美を見つめる。  
 大きな瞳が更に大きくなって、涙の跡で潤んでいる。  
 可愛くって仕方がない。  
「愛美……」  
 名前を呼ぶだけで苦しい。  
「あのね、紀一郎」  
 何かを言おうと、愛美は口を開いたが、しばしの逡巡の後、その言葉を飲み込んだ。  
 そしていつもの顔になって、ぷうと頬を膨らます。  
「ふざけるにも程がある!」  
 へ?  
 俺は今、とんでもないアホヅラを晒していたに違いない。  
「あのね。偶然ぶつかった事故なのかもしれないけど、あれは私のファーストキスなんだよ?」  
 あ? ぶつかった? 事故?  
 こいつ、何情報を自分勝手に編集してるんだ?  
 あれはどう考えても『意図的に行ったキス』だ。  
 お前、そんなに俺のこと“幼馴染みのお隣の紀一郎”にしたいのかよ?  
 俺はそこまで男として見て貰えないわけ?  
 なんか哀しくなってきた。情けねえよ。  
「あのなあ」  
 俺は強い口調で愛美に言った。が──  
 愛美は小さく震えていた。  
 その顔を見たら、何も言えなくなる。  
 愛美、頼む。俺を見て。俺のこと男として見て。  
 祈るような気持ちで見つめる。  
 だがヘタレな俺は愛美の哀しい設定を飲み、『偶然』『事故で』『唇が触れただけ』を装った。  
「わりぃ。でも、役得?」  
 空々しい道化染みた軽薄な口調に吐き気がする。  
 哀しい道化を前に、愛美はようやくいつもの調子を取り戻した。  
「私、何度も言ってるけど、紀一郎と一緒の志望校じゃないんだから。ハードル上げないでよ」  
 可愛い顔でぷんすかしている。  
「ああそうだったな。まあ、地帝だろうが駅弁だろうが、もうちょいチャチャッと解け!」  
「イエス!マム!」  
「誰がかーちゃんだ」  
 ああもう、どんどんドツボ。  
 俺、ホント限界かも。  
 
 
 
 

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