音を立てないように襖を開け、安心しきった穏やかな寝顔を見下ろす。  
 そして起こさないように布団を跨ぎ、ひとつ奥の自分の寝床へと足を伸ばす。  
 ここまでは昨夜と同じだ。  
 だが、今日はそのまま布団に潜り込むような事をせず、静かに側に腰を下ろすと、掛け布団に手を掛けた――。  
 
 
* * * * *  
 
 暁人(あきと)二十六歳、会社員。昨年女手一つで育ててくれた母を亡くし、天涯孤独になった。  
 だが、正確には親兄弟が居ないというだけで、暮らしているのは一人ではない。  
 今から三年前、母が自分の兄夫婦の娘だという女の子を連れて来た。  
 父親も母親もどちらも家を空けたまま、何週間も戻らなかったそうだ。月に何度か送金があり、それで  
食べるだけの事は出来ていたようだが、家賃やその他の支払いまでは気が回らず、周囲が異変に気付いて  
やっと発覚したのだ。  
 だが直後に母親が父親ではない余所の男と一緒に住んでいたらしく、出先で事故死したとわかり、  
連絡の取れない父親ではどうにもならず、俺の母に回ってきた。  
 連れられて来たその娘は痩せて顔色もすぐれず、俯いたまま出迎えた俺の顔をほとんど見ずに頭を下げた。  
『大変だったね。もう大丈夫だから、伯父さ……お父さんが見つかるまで居て良いから』  
 本当はそう簡単に戻っては来ないだろうと思っていた。あの人が昔からそんな風だったのは俺も知っていた。  
 だが、数年前の記憶にある幼い可憐な女の子の変わり果てた姿に、気休めだとしてもそう言って手を  
差し伸べずには居られなかったのだ。  
『俺の事覚えてる?』  
『……あきちゃん』  
『そう。よろしくな』  
 学生鞄とバッグに位牌が一つ、制服姿のおさげ髪。  
 涙を堪えて、俺の差し出した手を恐々と握り返して来た八つ年下の従姉妹。  
 
 その日から渚(なぎさ)は俺の妹として今日まで一緒に暮らしてきた。  
 
 
 その妹が最近俺に隠し事をするようになった。前々からあまりあれが欲しい、これが欲しい、という  
事を言わない奴だった。学費や生活費は仕方ないにしても、それ以外の服や雑貨を買うための小遣い  
などどうしているのか、と尋ねた事がある。  
 元々高校生になってからバイトをするようになったのは知っている。週三程度だったのが最近ほぼ  
毎日のように帰りが遅くなった。(お節介な近所のオバさんが教えてくれるのだ)  
 卒業したら働くからと勉強はしていない。とはいえ、俺の稼ぎだけでやってけない程の事は無いと思う。  
 隠れてバイトを増やしたのかと考え、なら欲しい物があれば相談しろと言っても『違う』『何でも無い』  
との一点張りである。だからとりあえず黙って様子を見る事にした。  
 
 そんなある日の事。  
 俺が渚より早く帰宅する事は滅多に無い。大体いつも九時頃になるのだが、その日は体調が悪く、  
七時には帰宅したが渚の姿が無かった。気にはなったが、その時の俺には布団に潜り込み眠る事で頭が一杯だった。  
 
 薬のためか、小一時間程眠っただろうか。目が覚めてもまだ部屋は暗く、外からパラパラと音がする。  
街頭の明かりに映る窓の雫に雨だとわかり、ガンガンする頭を押さえて立ち上がった。  
 ――こんな時間まで。  
 だが、傘はあるのだろうか、と外を眺めて渚の身を案じる俺の目に飛び込んできたのは、一つの傘に  
寄り添って歩いて来る影。  
 小柄な『女』と思われる影がこちらへ走って来るのを見て、窓から離れた。暫くしてアパートの階段を  
昇る足音、玄関の鍵がカチャリと乾いた音を立てると、ちょっとの間があってから  
「……あきちゃん?」  
と小さな戸惑ったような問いかけがあった。  
 在るはずのない靴を見て息を呑んだ『間』だったのだろう。  
 それから渚は俺を心配して看病してくれた。お陰ですぐ良くはなったが、心の気分はいつまでも優れなかった。  
 
 あれは、男だった。顔は見えなかったが多分間違いないだろう。二階からでもあの程度の明かりなら  
それ位の判別は出来る。しかも若くはなさそうだ。  
 
 ――何も言わない渚に何も言わず、聞けず。彼女もまた何も言わなかった。  
 
* * * * *  
 
 それから時々、渚の留守を狙ってこっそりと部屋を物色するようになった。  
 部屋と言っても、二間続きのアパートではそれぞれの部屋を持つ事など出来ないので、せいぜい彼女  
のそれは机の周り位のものであるのだが。  
 乱さないよう引き出しの奥を探るが、出て来るものは普段から俺が目にしている文具や雑貨の類ばかりで、  
怪しいものは見つからない。迷った挙げ句鍵付きの引き出しまで開けた。  
 バイトを始めた頃作ってやった通帳には、毎月給料日に残してある以外に目立った入金は無かった。  
 何度となく頭の隅を掠めた嫌な考えはやはり間違いだったのだ、と胸をなで下ろしたのも束の間、  
何気に開けてみたタンスの奥にそれを見つけてしまった。  
 洋服を入れた引き出しの奥に、隠すように不自然に突っ込まれた紙袋からはみ出ている物を引っ張り出す。  
小さなぬいぐるみや手鏡などの小物、見た事の無い洋服まであった。どれもまだ札が付いたままで、  
どうやら手付かずのまましまい込んであるようだ。  
 一緒にリボンや包装紙が丁寧にしまわれてあった事から、これらは誰かが渚に贈った物であるという  
ことがわかった。  
 しかし一体誰が?  
 
 ――まさか。  
 
 頭の中に、認めたくないものが浮かんではそれをかき消す。その度に心がざわざわと騒いで、心臓を  
掴み取らんばかりに胸を押しつぶす。  
 苦しい。苦しくて堪らない。それを想像して吐き気を催す。  
「――うわあぁぁっ!?」  
 力一杯引き出しを引っ張り出してぶちまける。  
 どう見ても若くは無い男、地味な渚には明らかに趣味では無い派手な若向けの服、何より俺に隠す程の――。  
 床に散乱するそれらを握り潰すように力を込めて掴み、またのろのろと引き出しの中に詰め込む。  
 
 部屋の真ん中で、焦点の合わない視線をさまよわせ、見た目は何も変わらなく見える空間で膝を抱えて  
いると、買い物袋を提げて帰宅した渚が背後で息を呑んでいた。  
「……あきちゃん?」  
 どうしたの、と驚くのも無理は無いのだろうが、俺にはそれを取り繕う余裕が無かったのだ。  
「何でもないよ」  
 そう言いながらも、滲み出る涙は止まらなかった。  
 
* * * * *  
 
 あれから何食わぬ顔で数日を過ごした。  
 中身を見れば、ごちゃごちゃになった服の並びに俺がそれを弄った事は一目瞭然だろう。だが、渚は  
何も訊いては来なかった。訊けなかったのかもしれないが、それを良い事に素知らぬ振りを決め込んだ  
俺は卑怯だろうか?  
 だが、もうそれも限界だった。  
 渚が風呂に入った隙に覗いた引き出しには、この間見たそれらの物が何一つ残って居なかったのだ。  
そうまでして隠したいのか。  
 
 認めたくない黒い疑惑が、俺の中で抑えきれない程に膨らみ、そして――弾けた。  
 
 
 眠る渚のパジャマの胸元に、そっと手を伸ばした。  
 早く、一気に進めなければ。そう焦る気持ちとは裏腹に、震える手先が邪魔をしてうまくボタンが  
外せない。  
 くい、と強く引っ張った生地に反応して、三つ目のボタンがはだけたところで渚が目を開けた。  
「ん……あきちゃ……?」  
 ぼうっと呆けた顔をこちらへ向け、だが、すぐにそれははっきりと驚愕の表情に変わる。  
「……!?な、なにっ……んっ!!」  
 思わず慌てて片手で口を塞いだ。  
「黙れ!」  
 もう片方の手で残りのボタンを外してしまおうとしたが、身を捩る渚の抵抗により、無理やり引っ張った  
せいでビリリと鈍い音がした。  
「んっ……んんんっ!?」  
 怯える目をして俺を見上げる渚の顔を見ないようにした。そうして残りのボタンごとパジャマの上着を  
引きちぎると、露わになったノーブラの胸を夢中で掴んだ。  
 柔らかく弾力のある豊かなそれをじっくり味わう余裕等無く、それでも罪悪感と共に僅かな感動すら覚える。  
「ずっと……ずっとこうしたかったよ。渚」  
 いつからだろう、幼くか弱い守るべき妹から、この腕で泣かせたい女へと変貌を遂げていったのは。  
 抑え込んでいた欲望によって、それは違った意味で果たされようとしている。  
「あ……」  
 拒絶の言葉を聞くのが怖くて、離した手の代わりに唇を押し付けただけのキス。  
 
 そして俺は――同時に自らの耳も心で塞いだ。  
 
 自由になった両手で素肌に触れると、ふるんと揺れる二つの膨らみを確かめるように揉む。  
 この三年の間に服の上から見ても解るくらいに成長したそれに、触れてみたいという気持ちをどれだけ  
隠して来たのだろう。  
 そして、どんなに奪いたいと願っていたのか解らない程焦がれた唇を黙らせる為だけに今は――。  
 震えて固く閉じられた唇を舌で強引にこじ開けるように押し開く、と同時にねじ込み絡ませ合うと、  
んっ、と苦しげに小さく呻いた。それをされるがままに受け入れている所を見ると、案外それ程拒絶  
されてはいないのだろうか?ただ単に慣れてないのか流されかけているのか……。  
 はだけた胸を構わず揉みしだき、小さく尖ってきた先を弄ると、肩に押し返されるように置かれて  
いた渚の腕の力が徐々に弱っていく気がした。  
「……やあっ」  
 一瞬だけ離した唇から、ほんの少しだけ甘い声がもれた。  
「……渚」  
「あきちゃん……や……どうし……」  
 涙目で問い掛けてくるその答えを返す代わりに胸へと唇を下ろした。  
「あっ……!?」  
 初めて目にし触れた膨らみ。その先をためらう事なく口に含み存分に味わった。  
「いやぁっ!あきちゃん……何でっ……!?」  
 弱々しく首を振り、それでも赤く染まった頬は本当に嫌がっているのかどうか判断が付かないほどに  
息が上がって、ため息とも悲しい泣き声とも取れる甘苦しい声が耳に届いてくる。  
「本当に嫌なのか?」  
「う……」  
 蚊の鳴くような声で『嫌』と聞こえたような気がした。だが聞き返す面倒と、それが確定した時の  
怖さから逃げた。  
「……くそっ!」  
 一気にズボンを下着ごとずり下ろす。  
「やっ!やめ……」  
 慌ててそれを止めようとした両手を掴んで頭の上に片手で抑え込み、片手を両脚の中心に這わせると  
滑った音が僅かに響いた。  
 嫌がってるくせに。  
「いやぁ……んぁ……ぁっ」  
 硬い粒を押し当てた指の腹で撫でると、言葉に反した呻きと共にじわりと蜜が溢れ出す。  
 
「――あぁっ!?」  
 ……感じるのか、こんなやり方でも……。  
 つぷ、とゆっくり差し込んでみた指に一瞬眉をひそめた。が、すぐにそれもかき混ぜる動きに沿って  
徐々に弛んでいく。  
 もう限界だ。  
 濡れた指を抜くとわざと目の前にかざした。  
「嘘ばっかりだな……」  
「そんっ……!!」  
 
 嘘ばかり。  
 
 片手を抑えたまま、空いた方の手だけでもたもたと自分のズボンを脱ぎにかかった。  
「!?……あきちゃん……!!いや、やだっ……」  
 背中を反らしてじたばたと捩る身が、余計に俺を焦らせる。くそっ!  
「何でだ?なんで」  
 何でダメなんだ。  
「こわい……やだぁ、今のあきちゃん……何で?どうして!?」  
「それは俺が聞きたいよ」  
 何で俺はダメなんだ?  
「なんのこ……」  
「黙れ!!」  
 びくっと震えた躰を見下ろしながら、掴んだ手を離しても、強張った顔は変わらなかった。  
 両手で一気にズボンを下着ごと膝まで下ろすと、渚が怯む間もなくまたすぐにその上にのしかかる。  
「渚……っ」  
「いや!!」  
 体重を掛けて躰でカラダを抑えると、自分のモノをそこに押し当てた。  
「何で……何がそんなに嫌なんだよ」  
「だって」  
「俺じゃダメなのかよ!?」  
 あの男ならいいのか?  
「そうじゃな……」  
「いくらだ?」  
「え?」  
「いくら払えば股開くんだ?それとも何か、欲しいもんがあるならそっちがいいのか?なあ、渚」  
 俺はどうすりゃいい?  
 どうすればお前の全てを自由にできる?  
「なんのこ……」  
「知らないとは言わせないぜ?」  
 ちらと例の引き出しに目を向けると顔色が変わった。  
「違う……違うのあきちゃん」  
「何が違うんだ?」  
 金じゃなかったのか?  
 だったら――。  
「何が足りない?そんなに、そんなにあの男がいいのかよ、なあっ?」  
「男……?あきちゃん違う!違うの、あれは……」  
「言うなっ……!」  
 もう、もういい。  
「ち……いやあぁぁぁっ!?」  
 
 怒りと興奮に猛りきったそれを、渚の中へとねじ込んだ。  
 
「いた……痛い、痛いっ!……いやっ……」  
 ぎちぎちと引っ掛かる。押し込んだものが渚のそこに拒まれた気がした。  
「何でだ……?」  
 なぜ、俺をそんなに拒絶する?そんなに俺が嫌なのか?  
「あきちゃん……あ……あたしっ、嫌、抜いてっ!」  
「ダメだ」  
 どうせ振り向いて貰えないのなら、せめて。  
「だってむ……り、や、こんな……」  
 ボロボロと涙を流し、ぐしゃぐしゃの顔で哀願する渚の姿にようやく頭が冷えてくる。  
「嘘だろ……?」  
 唇から僅かに覗く歯をカチカチと震えさせ、噛み締めながら首を振る。  
「痛い……」  
 一瞬、すうっと頭の中に凍てつくような後悔の念が走ったような気がした。その感情を起こさずに  
いられなかった愚かさを、過ちを悔やみ、責めた。  
 たが、どうせ手に入れられないのなら、心が俺を拒むならせめて――。  
「……いやあぁぁぁ……っ!!」  
 両手首を押さえ、身動きできない躰に更に強く自らの悔いと杭を打ち込む。  
「いや、ぁ」  
 そんなに俺が嫌か?  
「うぁ……ぁ」  
 俺じゃダメなのか?  
 ならせめて、今だけでも俺の――。  
「こんな……」  
 苦しげに空をばたつく手のひらは、一体何を掴もうとしているのか。ぼんやりと苦しみに悶える汗ばんだ  
裸体を見下ろして腰を揺さぶる。  
「こんなのは……いや……」  
 知るか。こうするしか方法はなかった。  
「あきちゃん……あ、あきっ、うぁぁ……!!」  
 拒絶の言葉とは裏腹にきちきちと締め付けてくるその不思議なぬめりに、もう俺の意識は完全に崩壊しそうだ。  
涙に対する僅かな謝罪心さえ吹っ飛び、夢中で擦りつける。  
「もうイク、イ……」  
「だめ!や……」  
 もちろん避妊などしない。むしろそのほうが都合がいい。  
「お願い、せめ、せめてそ……と……っ」  
「ダメだ」  
 大丈夫。何があっても守るから。これまでだってそうしてきたんだから。  
 肌と肌の擦れ合う乾いた痛みが、激しく高ぶっていく快感を際だたせて、頭が段々ぼやけてくる。  
「そんなにあたしが……嫌いなのぉ……っ!?」  
 
 
 ――そうだったらどんなにいいだろう。  
 
 
 そう思ったさ。  
 何度も、何度も。  
 
 
* * * * *  
 
 疲れた体をより重く感じながらアパートに戻ると、部屋の明かりは消えており、暗い部屋に渚の姿は  
無かった。  
「渚……?」  
 奥の部屋にも居ない。  
 電話は?――繋がらない。  
 嫌な予感がする。  
 バクバクと潰れそうな心臓の音に胸を押さえてそこらを掻き回す。  
 例の引き出しはほぼ空になっており、服がごっそり無くなっていた。僅かな貯金の入った通帳も、  
多分それらを入れたであろう、うちに来るときただ一つ持ってきたあのバッグも、伯母さんの位牌も。  
 部屋の隅には、俺の洗濯物と一緒にシーツが綺麗に畳んで置かれてある。それは夕べの破瓜の証しと  
俺の吐き出した欲望とでどろどろになった筈のもので、俺が自分で洗ったものだ。  
 その上に『あきちゃんへ』と書かれた封筒がぽつんと置かれてあるのが見えた。  
 震える手でそれを拾うと、不安と焦りの入り混じった感情に襲われ、また吐き気を覚える。だが、  
それを必死に堪えて封をきった。  
 
 
『あきちゃんへ。  
 あたしは、あきちゃんに嘘をついていました。だから、それを謝らなければなりません。  
 先々月、ある人があたしの前に現れました。そして一緒に暮らそうと言いました。  
 あたしに“すまない”と言って、その謝罪の気持ちからか、気を引くためなのか、プレゼントをくれる  
 ようになりました。  
 あたしは困り迷いました。でも、あきちゃんには話せませんでした。  
 あたしは未成年です。だからこういう場合はきっと、望む望まないに関わらずそうならざるを得ない  
 だろうと思いました。  
 だから秘密にしました。内緒にして、このまま知らんぷりしてずっと暮らそうと思いました。  
 けど、やっぱりそれはあきちゃんにとっては負担になってしまう。  
 あたしは、あきちゃんに幸せになってほしい。  
 だからやっぱり、そうしようと思います。  
 今まで育ててくれてありがとう。  
 優しいお兄ちゃんができて幸せでした。  
 
                                            渚』  
 
 
 シーツを広げてみると、まだうっすらとうす茶色に変色した染みが残ってしまっていた。  
 それをぐしゃぐしゃと握りしめながら歯軋りをして床に転がると、千切れ飛んだボタンが目に入る。  
「……ぎさ」  
 今朝、風呂場で黙々とシーツを洗う俺の後ろで台所に立ち、いつも通りに朝飯を作ると送り出してくれた。  
 
『いってらっしゃい』  
 
 笑顔こそ無かったが、恨みごと一つ言わずに。  
 俺はそれに応えられず黙って背を向けた。  
 
 昨夜の事、今朝の事全てを悔やみ自分を責めた。  
 こんな事になるなら――渚を失う位なら、自分の中で何もかも溶かしてしまえれば良かったのに。  
 なぜきちんと訊いてしまえなかったのだろう。俺がこんな野郎だから、渚は何も言えずにいたのだろうに。  
 お前どこいっちゃったんだよ、渚。  
 
 ――ある人。  
 
 ぼんやりと頭の中に雨の夜を思い描き、少しずつ古い記憶がそれに重なって流れた。  
 
 未成年だから。だから守るべきだと思いこれまで渚を側に置いた。そうすべき人間がいなかったから  
こそ、それは当たり前に許された。  
 だがもしその必要が無くなれば?  
 本来差し伸べるべき手を差し伸べてくる者が現れたら?  
 その『権利』は――俺が密かに感じたそれは失われてしまうだろう。  
 
 渚はそれを恐れて、それをひた隠しにしたのだ。  
 今『父親』が現れたら、如何なる勝手と言えどもそっちと暮らす方が世間でいう所の当たり前なのだから。  
 ましてや当の渚が望もうとも、もし俺がその手を離してしまう事を良しとしてしまえば、それに従う  
しか術は無いのだから。  
 
『そんなにあたしが……嫌いなのぉ……っ!?』  
 
 従兄妹だから、兄だから。安心して側にいられるハズだった。その為に気持ちを殺した。  
 
『何があっても守るから』  
 
 決意は虚しく、守るどころか傷付けた。  
 
 渚の秘めた哀しい嘘と自分の犯した罪の重さと後悔の波に呑まれ、生々しい跡の残る白い布を引きちぎらん  
ばかりに握り締める。  
 
 渚、俺はお前を――。  
 
 
 パラパラと窓に叩きつけられる雨は、震える手の甲に落ちる雫と共に俺の心を濡らした。  
 
 
「終わり」  
 
 

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